葦北国造(肥)
葦北(葦分)国造とは葦北国(現・熊本県水俣市、八代市、葦北郡周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると景行天皇(12代)の時代、吉備津彦命(きびつひこのみこと)の子である三井根子命(みいねこのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。国造本紀には葦分と名が記され、また記紀では火葦北国造とも表されているので、火国造の支流とも見られている。
三井根子命後、日奉(ひまつり)部・日奉直・日奉宿禰等を賜姓され、後裔としては達率日羅(にちら)、万葉歌人・日奉部与曽布などが著名である。三井根子命の子・刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)は大伴金村によって朝鮮に使わされた国造で、その子・日羅は日本では刑部靱負の職(軍隊の長)、百済では達率(高官の1つ)となり、武人・賢人として知られる。葦北郡津奈木町にある将軍神社は日羅(将軍)を祀っており、逸話も多い。宇土半島にある鴨籠古墳の被葬者は、その棺の大きさから葦北国造の息子と考えられている。
百濟本記『太歳辛亥[531]三月、軍進至于安羅、營乞[宅-ウ]城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。』
《太歳辛亥[531]の三月、軍進み安羅に至り、乞[宅-ウ]城を營す。是月、高麗、其王安を弑す。又聞く、日本の天皇及び太子の皇子、倶に崩薨す。》
(a)『廿三年春三月、百濟王、謂下[口多][口利]國守穂積押山臣曰「夫朝貢使者、恆避嶋曲【謂、海中嶋曲崎岸也。俗云、美佐祁。】毎苦風波。因茲、濕所齎、全壊无色。請、以加羅多沙津、爲臣朝貢津路。」是以、押山臣爲請聞奏。』
《廿三年春三月、百濟王、下[口多][口利]國守穂積押山臣に謂いて曰く「それ朝貢する使者、恆に嶋曲【海中の嶋の曲の崎岸を謂うなり。俗に美佐祁と云う。】を避ける毎に風波に苦しむ。茲に因り、所齎を濕し、全に壊い色无し。加羅の多沙津を以て、臣の朝貢の津路と爲すを請う。是を以て押山臣、請を爲し聞奏す。》
(b)『是月、遣物部伊勢連父根・吉士老等、以津賜百濟王。於是、加羅王謂勅使云「此津、從置官家以來、爲臣朝貢津渉。安得輙改賜隣國。違元所封限地。」勅使父根等、因斯、難以面賜、却還大嶋。別遣録史、果賜扶余。由是、加羅結儻新羅、生怨日本。』
《是の月、物部伊勢連父根・吉士老等を遣し、津を以て百濟王に賜う。是に加羅王、勅使に謂いて云う「此の津は官家を置いて從り以來、臣の朝貢の津渉と爲す。安んぞ輙く改めて賜隣國に賜い、元の封ずる所の限の地に違うを得る。」勅使父根等、斯に因り、面に賜うを以て難く、大嶋に却り還る。別に録史を遣わし、果して扶余に賜う。是に由り加羅、新羅と儻を結び、日本に怨を生ず。》
(c)『加羅王、娶新羅王女、遂有兒息。新羅初送女時、并遣百人、爲女從。受而散置諸縣、令着新羅衣冠。』
《加羅王、新羅の王女を娶り、遂に兒息あり。新羅初て女を送る時、并せて百人を遣わし、女の從と爲す。受けて諸縣に散置し、新羅の衣冠を着せしむ。》
(d)『阿利斯等、嗔其變服、遣使徴還。新羅大羞、飜欲還女曰「前承汝聘、吾便許婚。今既若斯、請、還王女。」加羅己富利知伽【未詳。】報云「配合夫婦、安得更離。亦有息兒、棄之何往。」』
《阿利斯等、其の服を變ずるを嗔り、使を遣わし徴し還す。新羅、大いに羞じ、飜りて女を還さんと欲し曰く「前に汝の聘を承け、吾れ便ち婚を許す。今既に若斯の若し。王女を還えさんと請う。」加羅の己富利知伽【未だ詳かならず。】報えて云う「夫婦に配り合せ、安んぞ更に離れるを得る。亦た息兒あり、之を棄てて何にか往かん。」》
(e)『遂於所經、抜刀伽・古跛・布那牟羅、三城。亦抜北境五城。』
《遂に經る所に、刀伽・古跛・布那牟羅、三城を抜く。亦た北境の五城を抜く。》
(a)は百濟本記によったとされる継体七年夏六月条と同じ事実に関する所伝でり、513年のことであることは明らかです。
(b)はやはり百濟本記によったとされる継体九年春二月条以降と同じ事実に関する所伝であり、515年のことです。
(c)は三国史記新羅本紀法興王九年春三月条と同じ事実に関する所伝であり、522年のことです。
(e)は継体二十五年条所引百濟本記にみえる辛亥年三月条の軍事行動に伴うものであることが、(d)にもみえる「阿利斯等」が登場する継体紀二十四年秋九月条から推定でき、531年頃のことと考えられます。
つまり、(a)(b)(c)(e)は国外文献から年代が確認できるわけです。そして、この記事には二十年近い期間にわたる事実が書込まれています。この記事は、継体天皇の御代のこととして伝承されていたのではありましょう。しかし、その記事の中身がこのように長期間のことを含んでいるとすれば、すべてが継体天皇の時代のことであるかどうかは疑う余地があるというものでしょう。
(d)は(c)の「遂有兒息」の後、(e)までの間ですから、520年代半ばから後半頃のことと考えられます。つまりは「阿利斯等」が任那で活動しているのが、ほぼ520年代後半であることがわかるわけです。
敏達紀十二年是歳条には、
『於桧隈宮御寓天皇之世、我君大伴金村大連、奉爲國家、使於海表、火葦北國造刑部靫部・阿利斯登之子、臣達率日羅、聞天皇召、恐畏來朝。』
《桧隈宮に御寓す天皇(宣化天皇)の世、我君大伴金村大連、國家の爲を奉りて、海表に使せしむ火葦北國造刑部靫部・阿利斯登の子、臣達率日羅、天皇召すを聞き、恐れ畏みて來朝す。》
宣化天皇の時代に「阿利斯登」という人物が朝鮮半島に派遣されていることがわかります。つまり、これによって520年代後半が宣化天皇の治世であることが確認できる。
宣化紀四年『冬十一月庚戌朔丙寅、葬天皇于大倭國身狹桃花鳥坂上陵。以皇后橘皇女及其孺子、合葬于是陵。【皇后崩年、傳記無載。孺子者、蓋未成人而薨歟。】』
《冬十一月庚戌朔丙寅、天皇を大倭國身狹桃花鳥坂上陵に葬る。皇后橘皇女及び其孺子を以て、是の陵に合葬す。【皇后の崩年、傳える記に載せることなし。孺子は、蓋し未だ人と成らずして薨ずるか。】》
日本書紀の宣化天皇の崩年が531年であるとすれば、合葬された皇后所生の孺子こそ百濟本記のいう太子皇子であると考えられます。合葬されたということは必ずしも天皇と同時に薨じたことを意味しませんが、倶に崩薨したという百濟本記の記事に対する有力な傍証であろう。
古事記によれば
宣化記『天皇、娶意祁天皇之御子、橘之中比賣命、生御子、石比賣。【訓石如石。下效此。】次小石比賣。次倉之若江王。』
《天皇、意祁天皇之御子、橘之中比賣命を娶り、生める御子、石比賣。【石を訓むこと石の如し。下、此に效え。】次に小石比賣。次に倉之若江王。》
この古事記の所伝に見える倉之若江王は、後継氏族などの伝承のない点では書紀が孺子としていることと合い、皇后所生の唯一の男子である点で、百濟本記が太子皇子としていることと合います。たぶん、彼こそ日本書紀に名を記されず宣化天皇と合葬された孺子であり、百濟本記のいう太子皇子なのでしょう。彼を日本書紀の倉稚綾姫皇女に当てる説もありますが、古事記では、欽明に嫁したのを石比賣・小石比賣としており、所生の子どもに関する記述等によっても、書紀の倉稚綾姫皇女は小石比賣の別名と見た方が良さそうです。小石比賣と倉之若江王は同母の姉弟なのですから、よく似た名前を分け合っていても不思議ではないでしょう。
百済の達卒 日羅
■ 事件は西暦583年、今から1427年前の十二月の晦日の夕暮れに起きた。場所は大阪の市内を流れる現在の大川に面した外交使節の難波館(なにわのむつろぎ)。
■ 暗殺されたのは、当時の百済王国の政府要人・日羅。百済の冠位の第二位にあたる達率(たつそつ)という極めて高い位まで昇った倭系の人物である。倭国の敏達天皇の要請に応じて来朝し、帰国のため難波に滞在中の出来事だった。暗殺を決行したのは、日羅を倭国に伴ってきた百済使節団の団員たちだった。
敏達天皇が百済高官・日羅を招聘
■ 敏達天皇が百済の倭系官人・日羅を招聘した背景には、父・欽明天皇から託された「任那復興」の遺言があった。当時我が国が権益を行使し「任那」(みまな)と呼んでいた朝鮮半島南岸の伽揶諸国は、562年に新羅(しらぎ)に併合されてしまった。そのことは、欽明天皇にとって痛恨の極みであり、なんとしてもその地の権益を回復することを死出の床で息子に託した。息子だった敏達天皇は先の帝の遺言を実現すべく、任那復興を図るため、同盟国百済で高級官僚としてその名も高い倭系官人の日羅を呼んで、計略を練りたいと考えた。倭系官人とは、倭人と百済の女性の間に生まれた混血児であり、百済で登用された役人のことである。
■ 彼が火(肥)の葦北(現在の熊本県芦北地方)の国造(くにのみやつこ)・阿利斯登(ありしと)の子であること、百済の達率(たつそつ)という位にある倭系高官であること、そして賢明で勇気ある武官としてその名は敏達天皇の耳に届いいていた
■ 彼の父・阿利斯登は、在地では忍坂部を管理してその生産物を天皇家に届け、中央で宮廷の警護などをする大伴氏(おおともうじ)に仕えた葦北の豪族である。537年、新羅が任那を侵略したため、大和朝廷は任那救援軍を派遣した。そのときの将軍が、時の大連(おおむらじ)・大伴金村(かなむら)の息子の大伴狭手彦(さでひこ)だった。狭手彦は兵を率いて半島に渡り、任那の地を鎮め、さらに百済を高句麗からの侵略から救った。
■ その狭手彦出兵の際、阿利斯登は本家筋にあたる大伴氏から招集をかけられ、手勢を率いて参戦した。そして、任那から百済へと転戦しながら百済の女性と知り合い、現地で生まれたのが日羅だったと推測されている。ちなみに、出征前に狭手彦が停泊した松浦の長者の娘・佐用姫(さよひめ)との恋物語は、”松浦佐用姫伝説”として今も佐賀県の唐津地方で語り伝えられている
■ 狭手彦将軍が帰国するとき、阿利斯登は一緒には葦北に戻らなかったようだようだ。
■ 583年7月、敏達天皇はその百済の高官の来朝を促すべく、使者を派遣した。使者として百済に赴いたのは、紀国造押勝(きのくにのみやつこ・おしかつ)と吉備海部直羽嶋(きびのあまのあたい・はじま)である。当時の百済王は威徳王(いとくおう)と言った。すでに在位30年に及んでいる。 だが、大和朝廷からの要請にもかかわらず、威徳王は日羅の派遣を拒否した。後にわかることだが、百済王としては二つ返事で簡単に日羅の倭国行きを認めるわけにはいかなかった。
■ その年の10月、紀国造押勝らは百済から帰国すると、
「威徳王は日羅を惜しみ、我が国に行くことを承知しませんでした」
と、奏上した。そこで、羽嶋をもう一度派遣して、日羅の来朝を促すことにした。百済の泗ヒ城に戻ると、日羅に密かに会うべく門前で邸の様子をうかがった。
■ その様子を現地人の家政婦が家の中から見ていて、門の所に出てきて羽嶋に言った言葉。
「あなたの根を、私の根の中にいれなさい」
言い終わると、彼女は家に入ってしまったそうだ。判じ物のような彼女の言葉の意味は、未だに小生には解けないが、羽嶋はその意味をさとって彼女の後について家に入った。すると、日羅が迎え出て、手をとって羽嶋を席に着かせ、次のように語った。
「百済王は、私を倭国に派遣するとそのまま留まって戻ってこないのでは、と危惧しておられる。それ故、詔勅を述べるときは厳しい態度を示し、すぐにでも私を派遣するよう命じてください」
■ 翌日、羽嶋は威徳王との謁見を申し出、廷臣たちが居並ぶ中で敏達天皇の詔勅を読み上げ、日羅の計略に従って強い調子で百済が前回の倭国王の勅に背いた非を糾弾した。彼の糾弾は効を奏したようだ。威徳王は渋々日羅の派遣に同意した。しかし、恩卒(おんそつ)、徳爾(とくに)、余怒(よぬ)、奇奴知(かぬち)、参官(さんかん)などで日羅監視団を構成し、遣倭使節として送り込むことを決めた。
■ なぜ百済の威徳王は日羅の派遣を渋ったのか。威徳王の父・聖王(=聖明王)は百済中興の王と評された名君だった。532年に任那(金官国)が新羅に滅ぼされたとき、伽揶諸国や倭国に呼びかけて「任那復興会議」を前後2回主催している。554年には、大伽揶の兵と連合して新羅の管山城(今の沃川)を攻撃までしている。しかしながら、新羅の伏兵の奇襲にあい聖王は殺害されてしまった。威徳王にとっては、新羅はいわば”父の仇”だったはずである。
■ その新羅が、561年には大伽揶連合諸国を併合してしまう。威徳王はその年の7月、兵を派遣して新羅の辺境を略奪したが、新羅軍に反撃され一千余名の死者を出した。577年10月にも、威徳王は新羅の西変の州や郡を侵略させた。このときも新羅軍に撃退されている。以後、武王が602年8月に兵を派遣して新羅の阿莫山城を包囲するまで、『三国史記』には百済と新羅の交戦記録はない。
■ 当時の倭国は、大伽揶諸国から新羅を排除してかっての権益を取り戻すのを国是としていた。しかし、百済の威徳王は新羅と事を構える意志はなかったようだ。王はどうやら別のことを画策していたようだ。そのため、日羅の倭国行きを渋ったものと思われる。
■ 554年に百済の聖王が亡くなると新羅軍は勢いづき、8年後の562年(欽明23年)には、当時任那と呼ばれていた朝鮮半島南部の伽揶諸国を完全に併合してしまった。この年、欽明天皇は新羅を討伐するため軍を派遣するが、敵の罠にかかって退却してしまう。それから9年後の571年、欽明天皇は最後まで任那復興を夢見ながら亡くなる。父に任那復興を遺言された敏達天皇は翌572年4月に即位する。しかしながら、敏達天皇が本格的に任那復興を画策するのは、即位から12年も経ってからである。そのための助言を得るため、百済の倭系官人・日羅を招聘することにした。
■ 日羅が来朝したとき、敏達天皇は最高の礼節を持って彼を歓迎した。日羅を乗せた遣使船が吉備の児島屯倉(こじまのみやけ)に到着するころ、わざわざ大伴連糠手子を派遣して、慰労している。大伴糠手子は、日羅の父・阿利斯登(ありしと)がかって従軍した任那救援軍の将軍・大伴狭手彦(さでひこ)の子とされている。つまり、父が仕えた上官の子息だった。
■ 日羅が難波に到着すると、難波館(なにわのむつろぎ)に迎えられた。難波館は当時外国使臣を接待するために建てられていた施設である。敏達天皇はまた大伴連糠手子や物部連贄子(にえこ)、阿倍臣目(め)らの大夫(まえつぎみ)を遣わして、現在の迎賓館にあたる難波小郡(なにわのおごうり)に日羅一行を招き、労をねぎらわせた。
源八橋の西詰
源八橋の西詰
■ その日、日羅は甲(よろい)を着け、馬に乗って迎賓館に向かった。迎賓館の門前まで来ると馬を下りて、庁舎の前まで進んだ。彼を出迎えた大夫たちの前で跪いて、こう言った。
「宣化天皇の御世に我が君・大伴金村が天皇のおんために海表(わたのほか、朝鮮)に遣わされた火葦北の国造・刑部靫部(おさかべのゆけい)阿利斯登(ありしと)の子・達率日羅、天皇が召されると聞き、つつしんで来朝いたしました」
■ 日羅は、軍事氏族・大伴氏の族長・金村を”わが君”と呼んだ。父の阿利斯登は大伴氏の枝氏の長として、大和に出仕して親衛隊の一員として務めたことがあったのであろう。その父が朝鮮半島に出征し、帰国を果たすことができずに彼の地で没した。父が着用していた甲を朝廷に返すことで、父の帰国をようやく天皇に復命することができた。
■ まもなく日羅とその妻子は、百済の使節団とは別に、阿斗桑市(あとのくわいち)の館に移された。河内国渋川郡(現在の大阪府八尾市)に、日羅のために特別に造営した館だった。朝廷はその館に大夫たちをしばしば派遣して、早急に百済と連合して、任那地域から新羅を追い出す戦略を諮問した。ところが、日羅は倭軍の早急な派兵の非を指摘し、富国強兵策を説いた。彼は言う。
■ 「天皇が行なう政(まつりごと)は、人民を護り養うことが肝要であり、早急に軍民を徴発し民を失うのは得策とは言えない。それ故、これからの3年間は、国を富まし物資が豊かに民に行き渡るような政策を押し進めるべきでしょう。そして、食料や武器を十分に用意すれば、民も喜んで国に奉仕し、国難を救おうとするでしょう」
■ 「その後に多くの船舶を造って港に並べて百済人に見せ、使者を派遣して百済王を召すのが良いでしょう。王自ら来朝しないときは、最高の執政官である大佐平か王子を要求すれば、自ずから百済も天皇の命令に服従するでしょう」
つまり、富国強兵策で武力を増強して、任那復興に協力的でない百済を脅すことで、任那の旧地を新羅から奪回するのに協力させることができるというのだ。
■ 日羅は実に意外なことを口にした。任那復興よりも先に、百済の筑紫占領計画に備えなさいと進言したのだ。
「表面上は忠順に見える百済は決して油断ならない。倭国に対して筑紫を領土として要求することを密かに計画している。百済が新しく国を造ろうとするときは、女や子供をまず送り込む。そのために、現在船300を建造中である。この計画を阻止するには、壱岐や対馬に多くの伏兵を配置して待ち構え、百済の船が子女を乗せてやってきたら、彼らの巧妙な言い分に欺かれることなく全員を殺してしまいなさい。さらに要害の地には必ず堅固な防御施設を築きなさい、云々」
■ 長年同盟関係にあった友好国が、我が国の領土をかすめ取ろうと密かに計画していようとは、彼らの想定外だったに違いない。驚かされたのは筆者も同じだ。
■ 日羅は当時百済において達率(たつそつ)の位を拝受していた政府高官だった。百済の十六官位制で一品官の「左平」を現代の大臣クラスに比定した場合、二品官の「達率」は事務次官に相当したであろう。いわば各省庁のトップである。まして百済が本気で筑紫侵攻を計画を立案していたなら、その最高責任者は倭国のことをよく知る日系二世の日羅だったはずだ。
■ この無謀な計画を中止させるには、倭国からの来朝要請を好機として、倭の国政担当者に事実を打ち明ける以外にない。彼がそう決心したとしたら・・・。それ故に、威徳王は日羅の監視役を動向させ、国益を損なう言動に出たなら日羅を抹殺するよう指示したのかもしれない。日羅もそのことは覚悟した。二度と百済に戻ることはできない。それ故、妻子を伴って来朝していた。
■ 日羅が百済の秘密の計画を暴露したことは、すぐに監視団の知るところとなった。団長格の恩率は、日羅暗殺を直ちに他の団員たちに指示した。部下たちが無事に任務を遂行すれば、王に高い位を賜るよう進言してやるとまで約束した。そして日羅の反逆をいち早く威徳王に報告すべく、参官を伴って帰国した。後日談によれば、恩率の船は途中で嵐にあって海に沈み、参官の船は対馬に漂着したのち、やっと帰ることができたとのことだ。
■ 日羅暗殺を任された徳爾たちは、日羅を襲う機会を狙っていたが、なかなかそのチャンスはなかった。日羅が妻子を伴って阿斗桑市(あとのくわいち)の館から難波館に戻ってきて、年の瀬を迎えた大晦日の夕方、ようやくそのチャンスを得た。日羅が倭の護衛から離れたわずかの隙を狙って、徳爾たちは日羅を襲い、短剣で刺し殺した。この時、『日本書紀』は不思議な話を載せている。殺害された日羅が蘇生して、「これは自分の召使いどもがやったことで、新羅のやったことではない」 と、護衛の兵たちに告げたという。
■ 日羅が大晦日に暗殺されたとの報を受けて、敏達天皇は大いに驚き悲しんだ。直ちに物部連贄子(にえこ)と大伴連糠手子(あらてこ)の二人を難波に派遣して日羅の妻子に哀悼の意を伝えさせた。
■ 事件の真相を究明するために、二人の大夫は、恩卒と参官が抜けた百済使節団の身柄を拘束を命じた。さらに、贄子は日羅の妻子と水手(かこ)たちを河内国の石川に住まわせるよう手配した。しかし、糠手子は、「妻子と水手たちを同じ場所に住ませると変事が起こる恐れがあるとして、別々に住ませることにした。すなわち、妻子は石川百済村に、水手らは石川大伴村に住まわせることにした。
■ 拘束された百済使節団は下百済河田村(現在の大阪府富田林の地?)の獄舎に移して、厳しい詮議が行われた。その結果、真相が明らかになった。恩卒と参官は、日羅の監視役としてじきじきに威徳王の密命を受けていたという。その密命は、万が一にも日羅が百済の筑紫侵攻計画を倭国側に漏らすような気配があったら、ただちに抹殺しろというものだった。
■ 事件の顛末は朝廷に報告され、また葦北にも使者を派遣して葦北君(あしきたのきみ)ら日羅の同族に伝えられた。葦北君らは、徳爾らを譲り受けて思いのまま処罰させて欲しいと願い出た。そこで、徳爾らの身柄を引き渡すと、皆殺しにして、淀川の河口にあった弥売島(みめしま、姫島)に死体を捨てた
■ 日羅の遺骸は、大和朝廷の迎賓館だった難波小郡(なにわのおごおり)の西に岡の先端に埋葬された。後に葦北に移葬されたが、最初に埋葬された場所の近くに「日羅公之碑」が建っていると聞いた。場所はJR環状線の「桜ノ宮」駅近くにある源八橋西詰の河岸である(大阪市北区同心1丁目)
■ 昭和30年(1955)に日羅公薫績顕彰記念会が建てた「日羅公之碑」である。碑文は当時の大阪市長中井光次氏の書になるそうだ。
その横にもう一つ石碑が置かれていた。日羅を慕う有志らによって、昭和13年(1938)に碑を建てたものだそうだ。この碑はもともとこの場所にあったものではない。大正時代の中ごろまでは、北区同心1丁目に「日羅塚」と称する土饅頭(まんじゅう)があり、埋葬跡と伝えられていたが、整地のため取り壊されてしまった。そこで、吉房末吉ら日羅を慕う有志らは、昭和13年(1938)にその場所に碑を建てた。その碑が近年現在地に移されたとのことだ。そこから数メートル離れたところに、「源八渡し跡」と掘られた小さな碑があった。
■ 日羅の遺骨はその後、父阿利斯登の出身地の葦北に移葬された。現在の熊本県八代市坂本町百済来(くだらぎ)に彼は眠っているという。その場所には百済来地蔵堂が建立され、木造座像の本尊の延命地蔵菩薩は、敏達天皇元年(572)、日羅が百済から父に贈ったものと伝えられているとのことだ。