吉志、吉志部

吉志部神社
大阪府吹田市にある神社である。JR岸辺駅から北に徒歩20分の紫金山公園内にある。
社伝では、応神天皇の時代に大和国の瑞籬(しきみずがき)より奉遷して祀ったとされている。おそらくは平安時代にはあったと思われる。応仁の乱以降の戦国の時に壊滅的に焼失したが、朝鮮から渡来してきた吉志一族の末裔によって江戸時代に再建された

吉志氏の本拠は摂津国鴨下郡吉志部村(吹田市岸部)で、そこに吉志部神社がある。壬生氏が推古朝に置かれた壬生部に始まるとすれば、吉志氏はずっと早くから一族を成していた。
吉志は吉士・吉師・岸にも作り、高麗系の渡来氏族である。新羅の官位十七等の第十四位に吉士があることから新羅系とも解されるが、高麗をはじめ安倍氏とともに吉志一族が吉志舞を奉したと『北山抄』にある。
『記紀』は天之日矛を新羅の皇子、彼と同一人物とされる都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)命については大加羅国の王子としているが、『筑前国風土記逸文』に、伊都県主の五十迹手(イトテ)は「高麗の国の意呂山(オロヤマ=尉山(ウルサン))に天から降ってきた日桙の末裔」と名乗ったと記載されており、安倍氏族は高麗(高句麗)からの渡来だと思われる。

『吉志舞』
吉志舞(キシマイ)は、神功皇后が新羅を征して凱旋し、大嘗会を行なった時、安倍氏の祖先が奏したという舞。舞人は闕腋(ケツテキ)の打懸(ウチカケ)を着、甲冑をつけ、鉾を持って舞ったというが、後に継承が途絶えた。別名「楯節舞(タタフシノマイ)」ともいい、久米舞のような、勇壮な舞だったのだろうと想像される。
また、吉志というのは、大和朝廷で外交・記録などを職務とした渡来人に対する敬称で、後にセイ(カバネ)の一となったことから、安倍氏は吉志部を統括する伴部だとも思われる

吉志部神社の創建時期は明らかではありませんが、社伝によると崇神天皇の時代に大和国の瑞籬から奉遷して祀られ「大神宮」と称したとありますが、淳和天皇の時代である天長元(824)年に天照御神と改称したこともあるようです。
ちなみに正式に吉志部神社となったのは、明治3(1870)年、神仏分離の発令を機に改められてからです。
古くから極めて壮麗な社殿であったと伝えられていますが、応仁の乱の兵火でことごとく焼け落ちてしまいます。焼け跡には奇跡的に神鏡のみが残されていたことから、それを村人たちの手によって再び奉祀して文明元(1469)年に再建、さらに天文3(1534)年に中興されました。
吉志部遺跡からは先土器時代の土器が50点、縄文時代の石器78点が出土している。吉志部神社境内にある吉志部古墳は古墳時代の遺跡で、須恵器窯跡が10ヶ所程存在し、七尾瓦窯跡は難波宮の官瓦窯と断定され、国史跡に指定されている。
慶長10年(1605)の摂津国絵図では、中世以来の吉志部村の小村と見られる寺内・吉志部小路村・東村・南吉志部村などがあったことが判る。
元和初年(1615)の摂津一国高御改帳でも小路村・東村・岸部村・南村などの小村が連記されている。
吉志部南村は享保20年(1770)の摂河泉石高調では明和7年(1770)に家数41・人数201。吉志部小路村は嘉永2年(1849)の小路村宗門改帳によると家数124・人数515。
吉志部東村は享保3年(1718)の村明細帳控によると家数118・人数553。
吉志部七尾村は明和7年(1770)家数26・人数113。

遣唐使には、新漢人等と、吉士集団がセットになって派遣されている例が多く、7世紀初頭~中葉にかけての当時、彼等の関係がどういうことになっていたかも記になります。

膳(タカハシ)氏、阿部(アエ)氏との同族関係は注目すべきですね。膳氏は継体とかかわって、新漢人とのかかわってくる巫女祭祀関連の氏族です。

そうすると新漢系、つまり朝鮮各国に流れ込んだ北燕遺民と、吉士集団とのかかわりを論じる必要がありそうですが、吉士については、いまいち自身把握しきれてない感じです。

東漢・秦・吉士は、渡来系のセットで、後に天武のときに忌寸を賜るわけですが、新漢系と百済亡命渡来人は賜らないんですね。

 韓半島渡来の氏族とされる「吉志(きし)氏」が在る。本来、「吉志、吉士、吉師(きし)」は古代朝鮮の首長を意味する称号とも、新羅の官名に基づくともされ、古代の姓(かばね)の一つとされた。吉志を姓とする氏族には、難波吉志、三宅吉志などが在り、対外交渉の任に就いた者を多く出したとされる。
 吉師部を統率したという「阿部氏族」が高句麗からの渡来ともされる。阿部氏の祖は大嘗祭で、甲冑をつけ、鉾を持って「吉志舞(きしまい)」を奏した。阿部氏族は九州北部沿岸において、安曇氏と拘わり、新宮、津屋崎あたりに存在する。
 そして、新宮、奈多の氏神が「志式(ししき)神社」であった。この社に祀られる志々伎(しじき)明神は、長崎県平戸島南端、志々伎山に祀られる山アテ、「志々伎神」ともされる謎の航海神であった。
 平戸、松浦など北西部沿岸においても、半島渡来の吉志(きし)と松浦の岸、鬼子(きし)の海人が重なっている。

 門司にも吉志(きし)が在る。ここは周防灘に面して、吉志を流れる櫛毛川の櫛(くし)も吉志(きし)の転化か。筑紫の櫛(くし)も気になる。
 現在、この吉志(きし)の港を出港したフェリーは瀬戸内海を航行して住之江の大阪南港に接岸する。

 摂津、吹田の岸部(きし)は難波吉志氏の本拠。この地の氏神、「吉志部神社」は、社伝によると、大和の磯城瑞籬宮(しきみずがき)から神を分霊して祀った祠を始まりとし、吉志(きし)と「磯城(しき)」の拘わりをみせる。奈多の「志式(ししき)」も吉志(きし)の転化であろうか。

 摂津の吉志(きし)に拘わるとされる磯城瑞籬宮は、崇神天皇の宮であった。崇神天皇は「御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)」。3世紀から4世紀初めにかけて実在したとされる初めての天皇であるとも(Wikipedia)。四道将軍の派遣や、任那からの朝貢など、最初の統一王朝を思わせる事績をみる。

武蔵国の屯倉
 大和朝廷に屯倉に献上した横渟、橘花、多氷、倉樔の地は横渟屯倉を除いて武蔵国府(東京都府中市)に近い南武蔵にあり、なぜ横渟屯倉が現在の埼玉県吉見町にあるのか重要な問題となっている。金井塚良一はそれを解く方法として吉見百穴を持ち出し、渡来系氏族難波吉志氏の管掌者としての集団移住を導き、これをもって横渟屯倉の存在根拠とする論理展開を行っている。

摂津国には横穴式墓群も高井田横穴墓群(大阪府高井田)をはじめ集中している地域でもある。「壬生吉志氏は、おそらく横渟屯倉の設置ののちに、屯倉の管掌を任として、吉見丘陵周辺に移住した渡来系氏族であろう。吉志(吉士)はもともと『コニキシ』『コキシ』(百済や高句麗の王)と同語であって、新羅の官位の仲でも『吉士』の官号があるが、『もと韓国より帰化居る者をこの品になしと見ゆ』(『古事記』)とあるように、早くわが国に渡来した渡来系氏族であった。もと難波吉志として一族をなしていたが、やがて各地に分住し、居住地や職名を冠して、三宅吉志、飛鳥部吉志、日下部吉志など、さまざまの吉志姓を名乗るようになっている。」
 金井塚良一は「吉見の百穴」でつぎのように述べる。「難波吉志は、また屯倉の管掌にも長い経験をもっていた。難波屯倉を中心にして、屯倉の税を主掌していた吉志氏の実務的な能力は、屯倉設置に積極的な姿勢を示した推古朝にとって、きわめて有用な氏族となったことだろう。おそらく推古期(西暦600年前後)に盛んに設置された屯倉の管掌者として、吉志集団は各地に派遣されて活躍したにちがいない。前述した摂津国や河内国で、また武蔵国でも、郡司クラスの職掌についた吉志一族が多かったのは、吉志集団が、このような『新しいミヤケの経営に参加することを通じて、複雑な在地の豪族との交渉にきたえられ』、さらに『土着の豪族としての地盤をきづいていった』からであろう。」

宅蘇吉志
 皇學館大學名誉教授の真弓常忠先生は名著『古代の鉄と神々』で、五十猛神を韓鍛冶ととらえておられる。倭鍛冶よりは進歩的な技術を持った鍛冶グループの祀る神との認識であろう。この件については『日本の神々1』(白水社)高祖神社:奥野正男氏)によると、筑前国志摩郡の郡大領を肥君猪手(いで)と言い、二代にわたって宅蘇吉志と婚姻関係を結んでいる。この宅蘇とは『応神記』に見える韓鍛宅素のこと、猪手の宅蘇となれば伊太祁曽。また志摩郡には五十猛神を祀る神社は多い。

妙見菩薩と五十猛神を祀る白木神社とが深い関係にある

吉志氏の本拠は摂津国鴨下郡吉志部村(吹田市岸部)で、そこに上記の吉志部神社がある。壬生氏が推古朝に置かれた壬生部に始まるとすれば、吉志氏はずっと早くから一族を成していた。
吉志は吉士・吉師・岸にも作り、高麗系の渡来氏族である。新羅の官位十七等の第十四位に吉士があることから新羅系とも解されるが、高麗をはじめ安倍氏とともに吉志一族が吉志舞を奉したと『北山抄』にある。
『記紀』は天之日矛を新羅の皇子、彼と同一人物とされる都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)命については大加羅国の王子としているが、『筑前国風土記逸文』に、伊都県主の五十迹手(イトテ)は「高麗の国の意呂山(オロヤマ=尉山(ウルサン))に天から降ってきた日桙の末裔」と名乗ったと記載されており、安倍氏族は高麗(高句麗)からの渡来だと思われる。

『吉志舞』
吉志舞(キシマイ)は、神功皇后が新羅を征して凱旋し、大嘗会を行なった時、安倍氏の祖先が奏したという舞。舞人は闕腋(ケツテキ)の打懸(ウチカケ)を着、甲冑をつけ、鉾を持って舞ったというが、後に継承が途絶えた。別名「楯節舞(タタフシノマイ)」ともいい、久米舞のような、勇壮な舞だったのだろうと想像される。
また、吉志というのは、大和朝廷で外交・記録などを職務とした渡来人に対する敬称で、後に姓(カバネ)の一となったことから、安倍氏は吉志部を統括する伴部だとも思われるが、吉志は岸でもあり、海人族と関係の深い舞だったのだろう。