応神天皇、百済 辰斯王、阿花王、直支王

倭王旨とは?
貴国は何処?
七枝刀の謎

日本書紀によれば

神功52年
秋九月の…に、久氐クテイら、千熊長彦に従ひて詣り。すなわち七枝刀一口・七子鏡一面、および種々(くさぐさ)の重宝を献る。すなわち(百済肖古王の)孫枕流トムル王(在位384−385年)に謂ひて曰く、「いま我が通う所の海の東の貴国は、これ天の啓きたまふ所なり。ここを以って天恩を垂れて、海の西を割きて我に賜へり。これに由りて、国の基、永に固し。(後略)

神功55 百濟の肖古王薨(百済本紀375年)
神功56 百濟の王子貴須、立ちて王と爲る(百済本紀376年)

神功62 新羅が朝貢しなかった。即年、襲津彦を遣して新羅を撃たせた。

○(神功皇后)六十二年〔382〕、新羅不朝。即年、遣襲津彦擊新羅。【百濟記云、壬午年、新羅不奉貴國。々々遣沙至比跪令討之。新羅人莊飾美女二人、迎誘於津。沙至比跪、受其美女、反伐加羅國、々々々王己本旱岐、及兒百久至・阿首至・國沙利・伊羅麻酒・爾汶至等、將其人民、來奔百濟。百濟厚遇之。加羅國王妹既殿至、向大倭啓云、天皇遣沙至比跪、以討新羅。而納新羅美女、捨而不討。反滅我國。兄弟人民、皆爲流沈。不任憂思。故、以來啓。天皇大怒、即遣木羅斤資、領兵衆來集加羅、復其社稷。】一云、沙至比跪、知天皇怒、不敢公還。乃自竄伏。其妹有幸於皇宮者。比跪密遣使人、問天皇怒解不。妹乃託夢言、今夜夢見沙至比跪。天皇大怒云、比跪何敢來。妹以皇言報之。比跪知不免、入石穴而死也。

応神3年
百済辰斯王即位
紀角宿禰辰斯王を攻め、殺害、阿花を立てて王となす。

応神8年 百済人来朝。皇子直支を遣わす。
応神14年
王が真毛津という女を奉った。
弓月君百済から倭へ渡ろうとしたが新羅が邪魔をした。襲津彦を派遣したが帰ってこなかった。

応神15年 百済王阿直支を遣わす。

応神16年 王仁がやってきた。
木菟宿禰新羅を打つ
阿花王死去。百済に戻って直支王即位

日本書紀』巻十応神天皇十六年(乙巳二八五)八月◆八月。遣平群木菟宿禰。的戸田宿禰於加羅。仍授精兵詔之曰。襲津彦久之不還。必由新羅人拒而滞之。汝等急往之撃新羅披其道路。於是木菟宿禰等進精兵莅于新羅之境。新羅王愕之服其罪。乃率弓月之人夫。與襲津彦共來焉。
応神紀十六年 平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣わす。(中略)      乃ち弓月の人夫を率て、襲津彦と共に来り。

応神25 直支王没、久爾辛即位

応神27年 倭人が金城を包囲(新羅本紀)

応神39年 直支王妹を遣わす

……..
百済本記などによれば

【新羅本紀】 369年 高句麗王斯由(故国原王)が歩兵・騎馬3万人を率いて雉壌(黄海道延白郡か)に結集略奪。百済急襲・応戦。

370年ころ:斯盧の奈勿ナモツ王は即位15年ほどであったが、辰韓諸国を統一して国名を「新羅」とした。

371年 高句麗軍大挙して来襲、バイ河(臨津江か)にて応戦。百済王近肖古王以下3万で高句麗平壌を攻撃、高句麗故国原王は流れ矢に当たり戦死

371年:百済は王都を慰礼城より漢山城に遷した。同じ年百済肖古王は高句麗の平壌城を攻め、高句麗の故国原王を戦死させた。高句麗では、小獣林王が立った。

375 年 百済・高句麗の戦い(三国史記)
375年:百済肖古王が亡くなり、王子の近仇首王(在位375−384年)が立った

385年 高句麗遼東を奪取(高句麗本紀)
百済辰斯王即位(百済本紀)

391年 倭が百済新羅加羅を破る(好太王碑文)

393 年 倭人が金城を包囲(新羅本紀)
402年 倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質とした。(新羅本紀

405年 倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した(百済本紀)
百済腆支王即位(百済本紀)
夏4月、倭兵が明活城を攻めたが、これを打ち破った。(新羅本紀)

年代の比較
(1) 応神天皇3年の記事「紀角宿禰辰斯王を攻め、殺害、阿花を立てて王となす。」とあるが、阿花王が即位したのは392年である。応神天皇3年のこの記事は392年の記事を示している。日本書紀では神功皇后が389年に亡くなっており、392年はその3年目にあたる。神功皇后の死後に応神天皇が即位したとして挿入されたものと思われる。

(2) 応神天皇7年(373年)の記事「高麗・百済・任那・新羅人来朝、池を作らせる」とあるが、高麗(高句麗)と倭が和解したのは海外記事から判断してほんの一瞬の時期である。それは、402年~404年までの期間しかない。これは403年の記事ではあるまいか。373年と403年は半年一年暦で同じ干支(前半辛丑、後半壬寅)である。

(3) 応神天皇8年(374年)「皇子直支を遣わす。」とある。直支は阿花王の王子なので、(1)の継続で397年の記事と思われる。

(4) 応神天皇14年(380年)「弓月君百済から倭へ渡ろうとしたが新羅が邪魔をした。襲津彦を派遣したが3年間帰ってこなかった。」の襲津彦は神功皇后62年の記事と重なる。襲津彦が帰ってきたのは応神天皇16年(382年)木菟宿禰が新羅を討ってからである。

(5) 応神天皇16年の「阿花王死去。百済に戻って直支王即位」は百済本紀の記録より405年のことと判断される。この年は神功皇后死去後16年である。

(6) 応神天皇25年「直支王没、久爾辛即位」は百済本紀によると420年のことである。この記事は420年の記事と考えられる。

(7) 応神天皇28年「高麗王朝貢。菟道稚郎子は無礼な表書きを怒った。」。菟道稚郎子は応神天皇崩御(394年)後に亡くなっている。この記事は394年の応神天皇崩御前の記事となる。

(4) 応神天皇14年(380年)「弓月君百済から倭へ渡ろうとしたが新羅が邪魔をした。襲津彦を派遣したが3年間帰ってこなかった。」の襲津彦は神功皇后62年の記事と重なる。襲津彦が帰ってきたのは応神天皇16年(382年)木菟宿禰が新羅を討ってからである。

日本書紀の百済記の引用文では
貴国が遣わした沙至比跪(サチヒコ=襲津彦)は新羅人に欺かれ加羅を討った。天皇は怒り加羅を回復した。沙至比跪は天皇から許されないことを知り自害して果てたという。

これは、貴国であり沙至比跪とあるので
葛城襲津彦ではないと思います。

職麻那那加比跪(ちくまなながひこ)と
沙至比跪(さちひこ)は
百済記に登場する倭国人である。

沙至比跪は葛城襲津彦と同一人物?

沙至比跪は百済記では朝貢を怠った戒めで新羅国を攻撃に向うが、港で新羅の美女に出迎えを受けて惑わされて、攻撃先を加羅に変えてしまう。そのことに関して天皇の怒りが消えないのを知って自害してしまう。
ところが葛城襲津彦としては応神十四年にも登場し、ここでも新羅に妨害されて来朝できない弓月君の一団を迎えに派遣されるが、3年経っても戻ってこない無能な使者の役回りで描かれている。

襲津彦の記事は下記の5箇所
1.神功摂政五年春三月条
新羅の人質・微叱旱岐の返還に同行するが逃げられ、草羅城を陥落させて帰国した。

2.神功摂政六十二年条
新羅が朝見しなかったので、新羅討伐に派遣される。
百済記から”沙至比跪”記事の引用。

3.応神十四年是歳条
弓月君から弓月の人民が新羅の妨害により来日できないとの報告を受け、新羅へ派遣されるが、3年間帰国しなかった。

4.応神十六年八月条
襲津彦が帰国しないので、平群木菟宿禰らが新羅に派遣される。これにより新羅が怖じ気づき、ようやく弓月の人民とともに襲津彦が帰国した。

5.仁徳四十一年春三月条
百済王族の酒君が無礼だったので、紀角宿禰が百済王に抗議し、酒君を襲津彦が倭国へ連行した。

日本書紀は職麻那那加比跪を千熊長彦ではないかとする。
武蔵国出身で額田部槻本首の祖先らしい。千熊長彦は華々しい活躍をしている。
倭国から朝鮮半島にわたり新羅を攻撃し七国四邑を平定し、百済肖古王と辟支山の上で同盟を結んでいる。
百済記の職麻那那加比跪の事跡として書かれていたものを基にして日本書紀が述作したのだろう。
職麻那那加比跪=千熊長彦は倭国と百済の親密な関係を作った英雄である。
将軍として登場するが、肖古王と同盟を結んでいる姿は倭国王のようでもある。

弓月君

応神紀には、 14 年に弓月君が百済から、 16 年に 120 県の弓月の民が渡来したとあります。

帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した

弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波陁姓を賜ったとする。)その後の子孫は氏姓に登呂志公、秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。