諏訪神社のことが文献に見える初見は『日本書紀』で、持統天皇の五年(691)八月、降雨の多い災難のとき、使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとある。
諏訪神のそもそもの始まりは『古事記』のなかの伝承にみえている。すなわち、出雲の大国主命が大和朝廷系の建御雷命に国譲りを迫られたとき、大国主命の子建御名方命はこれに反抗したが、敗れて「科野国之州羽海」に逃れ、この地以外の地に行かないことを約束し、命を助けられた。
大国主の子供 たち
古事記では
大和の葛城の祀られる阿遅鋤高日子根神と下照姫、事代主の三神である
此大國主神、娶坐胸形奥津宮神、多紀理比賣命、
生子、阿遅鋤高日子根神。
次妹高比賣命。亦名、下光比賣命。
此之阿遅鋤高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。
大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、事代主命。
旧事本紀では、
事代主とその妹高照姫、味鋤高彦根神、御井神(木俣神)、建御名方神の五神である。
先娶 坐宗像奥都嶋神田心姫命、生一男一女
兒味鋤高彦根神 坐倭国葛上郡高鴨社 云
妹下照姫命 坐倭国葛上郡雲櫛社次娶 坐邊都宮高降姫神、生一男一女
兒都味齒八重事代主神 坐倭国高市郡高市社 亦云甘奈備飛鳥社
妹高照姫大神 坐倭国葛上郡御歳神社次娶 坐稲羽八上姫 生一兒
兒御井神 亦云木俣神次娶 高志沼河姫 生一男
兒建御名方神 坐信濃国諏方郡諏方神社
宗像の田心姫:味鋤高彦根…..葛城の神
稲羽の八上姫:御井神…….木俣の神
高志の沼河姫:建御名方…….諏訪神
何故 古事記は木俣神と諏訪神、イナバと建御名方を書いていないのか?
高照姫と下照姫は同じか?
宗像の三女神は奥津島に田心姫(多紀理姫)、中津島に市杵島姫、辺津宮に田寸津姫。
何故、九州の宗像の娘が、葛城までやってきたか・。(鴨大神 阿遅鋤高日子根神)
葛上郡 にいる大国主の子供たち
1、味鋤高彦根神…………..大和の国、葛上郡の高鴨社。
2、下照姫命………………大和の国、葛上郡の雲櫛社。
3、都弥波八重事代主神……..大和の国、高市郡の高市社。かなみの飛鳥の社。
4、高照姫の大神……………大和の国の葛上郡の御歳神社。
5、事代主神………………..出雲美保神社に、妻の美保津姫(三穗津姫命)と一緒に祀る。
出雲神族の伝承
諏訪に出雲第二王朝を築く
タテミナカタは服従を好まず、越へ後退。
母方(高志のヌナカタ姫)の勢力をバックに信州へ入り、第二王朝を築いた。
ミナカタは科野(しなの)に乗り込み、テナガ、アシナガ族や守矢(洩矢)の神などを征服する勝利者として描かれている「日本第一大軍神」とされたのはこうした理由からでしょう。
ミナカタを出雲系ではないとする人がいるが、この神の正式名はタテミナカタノトミノ命である。
諏訪の神社名はミナカタトミ神社。
蛇神として崇められ御神(おみ)渡り神事では氷が裂けるのを「竜が走る」という。
御神体は鎌で、これは神魂神社や出雲大社の御神体の釜に出雲の鉄器を象徴するミナカタを祀る上の社は、拝殿と幣殿だけで本殿を持たない。
彼方の神聖林が本殿に相当する。
この形は、オオモノヌシを祀る、大和の大神神社と同じであり。
出雲系以外のなにものでもな
建御名方神
『古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神の御子神として登場する。『延喜式神名帳』などには南方刀美神の表記も見られる。長野県諏訪市の諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する。
神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に残る。妃神は八坂刀売神とされている
桜井茶臼山古墳のそばの宗像神社
本古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、自然丘陵を利用して築造されたものである。
墳丘長207メートル、前方部が細長く、全体が柄鏡(えかがみ)形を呈する柄鏡式古墳である。
箸墓古墳に後続する時期に造営された巨大な前方後円墳である。
この古墳の存在が知られるようになったのは、戦後しばらくたってからであり、雑木林に覆われて、単なる丘陵の観を呈していた。後円部の頂に高さ2メートル弱、一辺9.75×12.5メートルの貼石のある矩形壇があり、また方形に巡る有孔の壺形土器(二重口縁壺形土器)が壇の裾周りに巡らされているのを別にすると、墳丘に埴輪を使用した痕跡がない。段築面には葺石が施されている
また、陪墳群がみられない。
この古墳の後円部の空濠の外に、宗像神社がある。筑前国宗像郡の宗像神社と同神である。宗像神社は、全国に散在していて、この大和にある神社は、いつ頃からの鎮座か、さらに社殿が建てられた年代はいつなのか、詳細は不明である。しかし、北部九州系の神社が大和にあることは注目に値する。
大和の出雲神族の痕跡は式内社高鴨阿治須岐詫彦根社に比定されている高鴨神社、下照姫命を祭神にしている名柄神社・積羽八重事代主命・下照姫命・建御名方命を祭神とする鴨都波神社など、出雲神族の神を祭神とする葛城山・金剛山の麓に点在する諸社にみられる
鴨都波神社 奈良県御所市宮前町
御祭神:積羽八重事代主命
配神 :建御名方命
祭神. 積羽八重事代主命(事代主)と下照姫命を主祭神とし、建御名方命を祀る
葛城賀茂神社ともいう。
祭神積羽八重事代主命下照比売命建御名方命大物主櫛瓱玉命
事代主命は、大国主命の御子、朝廷では八神の一柱として鎮魂の祭りに預られる。崇神天皇の御代大賀茂祇命に勅して初めて葛城邑賀茂の地に社をたてて祭らしめられ、加茂君の氏を賜った。
下照姫命は、高照姫命ともあるが、異名同神で、
古事記に「大巳貴神娶辺津姫生一男一女、児都味歯八重事代主神・妹高照姫命云々、次娶高志沼川姫生一男児建御名方命」とある。
高照姫神(タカテルヒメノカミ)
別称:加夜奈留美命、賀夜奈流美命(かやなるみのみこと)
大国主命の御子のうちのひとりです。一説には高照姫命は下照姫命(拠-古事記に高比売命=高照姫、別名下照姫命とある)、加夜奈留美命(拠-五郡神社記)、阿加流姫命と同一神とも云われています
古事記に「大巳貴神娶辺津姫生一男一女、児都味歯八重事代主神・妹高照姫命云々、次娶高志沼川姫生一男児建御名方命」とあります。
播磨風土記
宗形大神奥津島比売命が伊和大神(大国主かその後継者と考えられる)の子を託賀郡の袁布(をふ)山で産んだ。
加夜奈留美命は、飛鳥の神奈備に坐して、皇孫の守護をした神で(「延喜式」出雲国造神賀詞)「五郡神社記」や「大神分身類社鈔」に高照姫命のこととする。「延喜式交替式」「類聚三代格」には「賀屋鳴比女」とも記し、天太玉・櫛玉・臼滝神とともに飛鳥神の裔神とみえる。「三代実録」貞観元年(859)正月二七日の条に大和国従五位下賀夜奈流美神に正四位下を授けたとあり、四裔神のなかでは最も神位が高い。
【和州五郡神社神名帳大略注解】(皇典研究所「神祇全書」所収)
式内・牟佐坐神社(奈良県橿原市見瀬町字庄屋垣内)の禰宜であった宮道君述之が著
本社の後南方にある磐石神窟はいわゆる飛鳥山前神奈備で、社家の者の説では、 高照姫命をを祀る茅鳴身(カヤナルミ)神社である。
本社の東北方にある滝瀬神窟はいわゆる飛鳥川辺神奈備で、社家の者の説では、臼滝姫命(高照姫命とも)、あるいは建御名方富命を祀るとしている。境内のこの2神が加えられた結果、「飛鳥坐六箇處神社」とされているのである。飛鳥坐神社(四座)には、主神4神の他に、後裔神である加夜奈留美命と宇須多伎比売命を含め、合計6神が祀られていたのではないか
諏訪大社は、諏訪湖の南側に上社、本宮・前宮、北側に下社、春宮・秋宮の、計四つの宮から成る。
祭神は、
上社 建御名方命 八坂刀売命
下社 建御名方命 八坂刀売命
八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)
本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるとされる。
平安時代 – 江戸時代を通じて
上社では諏訪氏が、下社では金刺氏が大祝を務め、末社は2万5000社に及ぶ。 (諏訪大社 下社 春宮)
下社の神主家は金刺舎人を祖とし、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造家から分かれたものと伝えられる。
上社の神主家は本姓が明かではなく、一般に神家といっている。
下社の御舟祭は、神体を舟(柴舟)に乗せて春宮から秋宮へ遷座する祭。
南北朝時代に書かれた『諏訪大明神絵詞』には「鉾山」と書いてある。
舟には翁、媼とみられる人形が乗せられる
欽明に仕えた金刺舎人は諏訪国の人ではない。建南方神を担いだ のが征服者であるなら、そのとき現れた金刺舎人氏は諏訪の外から攻めてきた のであり、諏訪の人であるわけがない。彼らは何処から来たのか。
『古事記』に神武の長子の神八井耳命の子孫二十氏の中に意富(多)臣といっし ょに科野国造が含まれており、さらに火君や阿蘇君といった遠隔地の氏族も同 族とされています。同じ内容が『先代旧事本紀』国造本紀の阿蘇国造条にもあ ります。
ところが、『阿蘇家略系図』というのが発見され、これに金刺舎人氏は阿蘇氏 の分かれであるとあります。それ以前の阿蘇氏は山城国にいたという説もあり ますが、確証がない。とはいえ阿蘇氏は景行の九州征伐の際、帰順したと景行 紀や『肥後国風土記』にありますから、ある時期から肥国にいたことは疑いな い。少なくとも阿蘇氏から分かれた一族が諏訪に来て、信濃国造や金刺舎人を 出し、後に諏訪神社の大祝や諏訪評督などに就いたという経緯が系図からうか がえます。(218)
八坂刀売命
建御名方命の后神として、諏訪神社下社(春宮、秋宮)に祀られる神。
建御名方命との間に二十二柱の御子神をもうけた。
安曇の女神とする説がある。
『先代旧事本紀』天神紀に「八坂彦命、伊勢神麻績連等の祖」とある八坂彦命の後裔とする説がある。
諏訪湖の南に鎮座する建御名方命が、諏訪湖の北に鎮座する八坂刀賣命の元へ、 凍った諏訪湖の氷を盛り上げながら渡る御神渡りが有名。
本居宣長は、『古事記伝』で「伊勢津彦と云は建御名方ノ神の亦の名にて、右の故事は、即建御雷ノ神の建御名方ノ神を攻追ひたまへる此の段の事なるを、神武天皇の御世の事とせるは、伝の誤なるべし」と記しています。
一方、伴信友は、『倭姫命世記考』で、伊勢津彦は出雲神で伊勢を領し、建御名方神は一旦伊勢津彦を頼って伊勢に逃れ、その後に信濃に去ったという事情があったので、伊勢津彦はその後に信濃に逃げられた、と述べています。
諏訪大明神画詞
建御名方に関する次のような言い伝えが残されている。
「当社明神ノ化現ハ仁皇十五代神巧皇后元年ナリ」、「筑紫ノ蚊田ニテ応神天皇降誕シ給フ。八幡大井是也。八幡大井、諏訪、住吉同体ノ由来アリト申」
つまり、筑紫の博多で誕生した応神天皇の別名は八幡大井だったとし、神巧皇后の生んだ応神天皇(八幡大井)は、諏訪大明神(建御名方神)と同一人物だったとする。
…
諏訪大社の名称については、南方刀美神社(みなかたとみじんじゃ)、建御名方寓命神社(たけみなかたとみのみことじんじゃ)、諏方南宮上下社、諏訪神社、諏訪上下社とも呼ばれる。
神主家は金刺舎人
一般的には神武天皇の子神八井耳命の子孫で信濃(科野)国造を賜ったという武五百建命の後裔金刺舎人直金弓の子孫とされている。伝わる系図によれば、金弓の孫にあたる倉足は科野評督に、倉足の弟の乙頴は諏訪大神の大祝
健磐龍命ーー健稲背命──健甕富命──諸日子命─┬健莒止理命──伊努古君──世襲彦君─┴金弓(金刺氏へ)
敏達(びだつ)天皇に仕えた一族は、やはり天皇の名前 (おさだのみやにいますすめらみこと)から他田(おさだ)氏と名乗った。
飛鳥時代から奈良時代の木簡を出土したことで有名な 屋代遺跡群出土木簡にやはり「他田舎人」や「金刺舎人」の名が見られる。また 雨宮坐日吉(あめのみやにいますひよし)神社は、『長野県町村誌』が伝える里俗によると『大領金刺』の館跡という。河童も拾ったのだが、雨宮坐神社には古代瓦(布目瓦)が落ちていて、考古学的には 『雨宮廃寺』ともいわれているそうだ。
科野國鎮護総社
科野大宮社由緒略記
大宮社沿革概要
第十代崇神天皇建五百建命を信濃国造に任命して国府を上田に置き天神地祇を敬ひ神地神戸を定めて国土開発をおこなはしめた。この頃国魂の神科野大宮社を創祀して住民の安全を祈り官民ともに開発につとめて国府のある開拓地となった。
天武天皇13年遷都の候補地としてこの地方を調査の時神部神戸を大宮社に寄進した。又天平年中宮祭が執行された。
宮内庁にある異本阿蘇氏系図には健磐龍命は武五百健命の別名で、崇神天皇の代に科野(しなの)国の国造に任命され、肥後国の阿蘇神社に祀られているとあるそうだ
その子の、弟の健稲背命は科野国造に任命され、諏訪神社を祭る金刺(かねさし)、神(みわ)氏へつながる。
一説によると、長野県小郡部に安宗(阿蘇)という郷名がある
….
阿波國名方郡 多祁御奈刀弥神社
御祭神
建御名方命 配祀 八坂刀賣命
江戸時代までは、建御名方命一柱だった。
阿府志によると、高志国造の阿閇氏が、この附近に住み、
この地に産まれたという建御名方命を祀ったもの。
社傳によると、信濃諏訪郡南方刀美神社は、
宝亀10年(779)、当社から移遷されたものという。
つまり、当社が諏訪神社のオリジナルだということらしい。
、
阿波の名方郡名方郷に由来するとある。
また、安曇郡式内川会神社の社伝には、
「建御名方命の后は海神の女なり、太古海水国中に氾濫、
建御名方とその后は治水のために水内山を破って水を流し
越海へ注ぎ、始めて平地を得た。」とある
阿波国に名方郡名方奈加多郷あり。神名帳に。其郡に多祁御奈刀弥神社あり。 こは奈の下に方字ダルたるにはあらぬにや。又同郡に大御和神社。同国勝浦郡に事代主神社。阿波郡に建布都神社事代主神社などもあり。建御と連ける例は。建御雷神。又書紀に武三熊之大人などあり。
八坂刀売命 ヤサカトメノミコト 女神. 建御名方神の妻神
由緒
当社は石井町浦庄字諏訪に鎮座し、建御名方命・八坂刀売命をお祀りしている。
延喜式内小社。歴代藩主蜂須賀候の尊崇極めて篤く、毎年当社の御例祭には参拝又は代参せられし趣にて、殊に寛永年中第四世蜂須賀光隆君疱瘡にかかられし際当社に御祈願あり奇瑞著し。又参拝道中鮎喰川の出水に遮られる事のあるため、現在の佐古町諏訪神社に分霊せしものと伝えられる。現在の社殿は享保五年(1720)の建築と言われる。 -境内案内-
…..
胸形と文身
「魏志・倭人伝」に、「倭の水人の男子は、大人も子供も顔や身体に文身していた」とあるが、「胸形」とは、胸に文身(入墨)をしている意だともいう。
阿曇氏や久米氏は目の周りだったが、部族によって、入墨の場所が違うのかもしれない。また、「ムナカタ」は「ミナカタ」、つまり「水辺」の意味とも言われる。そうなると、出雲の国譲りで諏訪に追われた建御名方神(たけみなかたのかみ)は、宗像氏ということになるかもしれない。実際、宗像氏の祖神である大国主命は、建御名方神の父であり、通説では建御名方神の母は、越の沼河比売命と言われるが、宗像三女神の一人、多紀理毘売命なのかもしれない。
宗像大神が天降り、青い玉を奥津宮に、紫の玉を中津宮に、八咫の鏡を辺津宮に、それぞれ御神体として納め祀ったという。
宗像大社(福岡県宗像郡玄海町)
祭神 宗像三女神(市杵島姫神、湍津姫神、田心姫神)
祖神 大国主命、事代主命(三輪氏、賀茂氏と同系)
宗像大社は、沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、九州本土の辺津宮に分かれ、古来、朝鮮半島と日本を結ぶ最短ルート、「海北道中(うみきたのみちなか)」を守る神として崇められて来た。沖ノ島の祭祀場跡からは、国宝「子持勾玉」や「金指輪」を始め、数々の大陸との交流を示す財宝が発掘され、「海の正倉院」と称されている。また、秋季大祭「みあれ祭」は、古くは「放生会」と呼ばれ、宗像七浦の漁船総出による、沖津宮・中津宮への勇壮な神迎えが行われる。
宗像(宗形・胸形)神社
長崎県北松浦郡、北九州市小倉、福井県小浜(若狭)、岡山県赤磐郡、岡山市大窪(吉備)、鳥取県米子市宗像(事代主命を祀る美保神社の真北)、京都市上京区京都御苑内、栃木県小山市、他、全国6000余社を数える。
海北道中(福岡県宗像郡から沖ノ島一帯)、大和での本拠は高市。
多紀理毘売命(たぎりひめのみこと・田心姫神・奥津島比売命)
天照大神と素戔嗚尊が、天の安河原で誓約をした時に、素戔嗚尊が佩いていた十挙剣(とつかのつるぎ)を、天照大神が天真名井の聖水で噛んで吹き棄てた息から成った、三女神の一人。現在でも女人禁制の沖ノ島、沖津宮に祀られる。大国主命の妃で、賀茂大神の阿治志貴高日子根命(あじしきたかひこねのみこと)と、高比売命(たかひめのみこと・下照比売)を産んでいる。
「播磨国風土記」に、袁布(おふ)山で、大国主命と同神とされる伊和大神の子・阿治志貴高日子根神(賀茂建角身命神・賀茂大神)を産んだという、
因みに出雲にも意宇(おう)郡があり、葛城加茂社の神戸があることから、出雲族と海人族の婚姻関係が窺える。尚、宗像氏の祖神に阿治志貴高日子根神の兄弟である事代主命(鴨都波八重言代主命)が入っているので、この神の母でもあるかもしれない。
市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)
狭依毘売命(さよりひめのみこと)
上記の誓約で産まれた、三女神の一人。九州本土の辺津(へつ)宮に祀られる。
市杵島とは厳島(いつくしま)、神霊を斎き祀る島の意。軍神であり、神功皇后を彷彿とさせる。
本地垂迹説で、弁財天(もとインドの河神で、のち学問・芸術の守護神) に置き換えら、古来、安芸の宮島の厳島神社(社家佐伯氏)、近江の竹生島の都久夫島神社、相模の江ノ島神社、他に大和の天の川、陸前の金華山に祀られている。
また、安芸の厳島神社は、代々、空海を出した佐伯氏が奉斎している。
多岐津比売命(たぎつひめのみこと)
誓約で産まれた三女神の一人。早い潮流の神で、大島の中津宮に祀られる。
吾田片隅命(あたのかたすみのみこと)
大国主命の6世孫。
「新撰姓氏録(右京神別下)」に「宗形君、大国主命六世孫、吾田片隅命之後也」とあり、「同(大和国神別)に「和仁古、大国主命六世孫、阿太賀田須命之後也」とある。つまり、宗像氏と和邇氏は同族あるいは主従関係ということになる。吾田(あた)とは大隅隼人の「吾田の笠沙」の吾田であり、久米氏との関連も想像できる。吾田片隅ではなく「吾田大隅」の誤記ではないかと思ったりしている。だとすれば、鹿児島神宮の三之社に祀られる「大隅命」はこの人か?
阿田賀田須(和邇君等祖)
健飯賀田須
①父:大御気主 母:大倭国 民磯姫
②兄弟:阿田賀田須(和邇君等祖)この流から宗像氏が発生
胸形徳善娘尼子娘は40天武天皇の妃となり高市皇子を産んだ。
大田田根子
①父:健飯賀田須(旧事紀)建甕槌(記)大物主神(紀) 母:鴨部美良姫(旧事紀))
② 旧事紀では、母は、鴨部の出身となっている。
これは葛城鴨氏で恐らく非常に古い時代からの鴨族の流れを引くものではないかと想像されている。
すなわち事代主神を祀った鴨族の出身?
これにより大田田根子が古い葛城の賀茂族の名跡をも継いだと考えられる。
これが賀茂君、三輪君の祖といわれる理由であろう。
潜水業法と海人
古代日本の文献では、海人(あま)、海部(あまべ)、蜑(あま)、白水郎(あま)などと表記された。
古代資料にあらわれるかれらを大別すると、安曇氏(住吉の神を奉じている)と宗像氏(宗像の神を奉じている)とにわけられ、両者は生活や生産、信仰などにおいて多少のちがいはあったらしい。
安曇氏は、中国の遼東半島、山東半島、それに朝鮮西海岸と多島海、済州島の海人たちと一つのグループだったと思われる。潜水だけでなく航海のも長じていた。
これに対し、宗像氏は航海よりも潜水漁法を専一にしていた印象で、よくいわれるようにいまの福岡県である筑前宗像郡鐘ヶ崎に本拠を置いていた。かれらは主として日本海岸を進み、岩礁のある入江に”植民地(コロニー)〟をつくってひろがっていた。
『魏志』「倭人伝」を見ると、末盧(まつら)国(松浦半島のあたりであろう。壱岐島のもっとも近い陸地)の民俗として「魚鰒(魚やあわび)ヲ捕フルヲ好ミ、水深浅ト無ク皆沈没シテ之ヲ取ル」とある。外来者が末盧国を見たとき、きわめてめだったのは潜水漁法だったのである。
また、「倭ノ水人」と規定して「好ミテ沈没シテ魚蛤ヲ捕フ」とも出ている。
倭の水人ということを熟視すると、ひたすらもぐり漁法だったことがわかる。
鐘ヶ崎漁民は対馬近海をはじめ、朝鮮半島にまで足をのばして活躍していたと思われる。これらの仲間はその故郷にあることは少なく、1年のほんの少々を故郷ですごすと、また旅に出て行ったものらしく、その出先にもそれぞれ根拠地をもうけて、あたかもそこに久しく住みついているようにみえるけれども、じつはその親村をもっていた。
鐘ヶ崎の漁民はまた壱岐にも定住した。これが小崎の海人である。一方、この仲間は日本海岸を東に向かって漁場をひらいている。
701年、秦忌寸都理、 筑紫胸形大神(宗像)を日埼岑より松尾に移す
松尾大社の祭神を、筑紫胸形に坐す中部の大神と記されているが、この神は今の福岡の宗像三神の市杵嶋姫命を指す。大山昨神と一緒に祀られていたのが日吉大社の鴨玉依姫ではなく、宗像三神の市杵嶋姫命であることは大変興味深い
英賀神社 姫路市飾磨区英賀町
祭神 英賀彦神、英賀姫神 配 誉田別神、菅原道真
摂社 恵美須社「事代主神」
由緒
式外であるが、古社。『三代実録』にその名が見える。すなわち「元慶五年五月五日、播磨国正六位上英賀彦神、英賀姫神並授、従五位下」とある。 何故この古社が延喜式神名帳記載社でないのかが不思議である。寺院化していたのかも知れない。
兵庫県の宝と言える『播磨国風土記』餝磨郡・英賀の里(しかま あが)の条に「伊和大神のみ子の阿賀比古・阿賀比売の二はしらの神がその処に鎮座しておいでになる。」と記されているのがこの神々である。
『播磨国風土記』には伊和大神の御子神の坐す所がいくつか記載されている。要するに支配した土地であろう。
揖保郡・林田の里・伊勢野 姫路市林田町
山の峰においでになる神は伊和大神のみ子の伊勢都比古命、伊勢都比売命である。
『伊勢国風土記』に「伊勢と云うは、伊賀の安志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。」 と出てくる神であり、「この神は昔、石を持って城を造りここに住んだ。阿部志彦神が来襲したが勝てずに還り去った。」伊勢から信濃へ追われた風の神である。式内社では伊賀国阿拝郡の穴石神社[あないし]「出雲建子命 またの名を伊勢津彦」、信濃國水内郡の風間神社[かざま]「伊勢津彦命」の祭神とされる。
揖保郡・出水の里・美奈志川(龍野市揖西町)
伊和大神のみ子石龍比古命と妻の妹石龍比売命と二人の神が、水争いをしている。祝田神社「石龍比古命、石龍比売命」
讃容の郡・雲濃の里(佐用郡南光町)
(伊和)大神のみ子玉足日子。玉足比売のお生みになった子、大石命。
穴禾の郡・石作の里・阿和賀山(あわかやま)(但馬国朝来郡栗賀山)
伊和大神の妹の阿和加比売命がこの山においでになる。粟鹿神社 但馬一ノ宮
天日槍が但馬国に落ち着いたのであるが、山東町辺りには天日槍の支配が及ばなかったということだろうか。
神前の郡(神崎郡福崎町)
伊和大神のみ子の建石敷命は山使の村の神前においでになる。
託賀の郡・黒田の里(多可郡黒田庄町)
宗形の大神奥津島比売命が伊和大神のみ子をお孕みになり、この山まで来て仰せられた。古奈為神社「木花開耶姫命、稚産靈神」
英賀城の土塀が残っている。故司馬遼太郎氏は氏の先祖が英賀城に籠城していたそうで、『播磨灘物語』は、その伝承が刺激になったと言う。
本殿
この二神御鎮座の起源は、奈良時代の地誌、播磨風土器に「英賀里(土 中の上)右 英賀と称えるは、伊和大神の子、阿賀比古・阿賀比売二柱、此処に在しき、故れ神の 名によりて里の名と為す」とあり、その創建は実に遠く神代にあります。彦姫二神は 御祖神大国主神(伊和大神)の播磨御経営に当り、英賀の地を根拠として、播磨灘沿 岸地域を開拓創始し、英賀国を修り固め成して庶民安堵の楽土を建設せられたのであ りますから、かくも古くより、朝廷の尊崇極めて篤く、国司の崇敬すこぶる深く、衆 岸地域を開拓創始し、英賀国を修り固め成して庶民安堵の楽土を建設せられたのであ ります
以下 略
当社は国史見在社にして、播磨国風土記によれば、713年に伊和大神の御子英賀彦神.英賀姫神は、祖神の命により当地を本拠として播磨灘沿岸地域を開拓創始し、庶民安堵の国土を修理固め成された総産土大神であります。