渡来文化その美と造形に、気になる一文がある。
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_08_24.htm
「実はある疑問が常に脳裏から離れなかった。それは弥勒半跏像とされている飛鳥仏が本当に弥勒菩薩の像なのか、という疑問」である。
「釈迦菩薩半跏思惟像(ガンダーラ)
日本では半跏思惟像といえば「弥勒菩薩」だと思われている。しかし、これは朝鮮半島と日本だけの特異な現象のようだ。西域から中国でも半跏思惟像は作られたが、弥勒と銘刻のある作品はない。仏教発祥の地ガンダーラでは、2世紀から3世紀にかけて砂岩で半跏思惟像が作られている。だが、それは釈迦が悟りを開く以前の釈迦菩薩(シッダールタ太子)像や観音菩薩像であるとされている。
中国で彫られた半跏思惟像には「太子」の銘がある作品がある。だが、弥勒菩薩像と断定できる半跏思惟像はない。「太子」とはシッダールタ太子すなわち出家する以前の釈迦の姿で、老病生死の四苦を脱するために思索する姿を表している。」
広隆寺の弥勒菩薩
宝冠弥勒が広隆寺に安置される経緯については、『日本書紀』の次の記載がよく引用される。
”推古11年(603)11月1日、聖徳太子は群臣を集めて「私は尊い仏像を持っている。誰かこの仏を祀るものはいないか」と訊かれた。このとき、秦河勝(はたのかわかつ)が進んで申し出て「臣(やつがれ)がお祀りしましょう」と言って仏像を貰い受け、蜂岡寺を造った、云々”。
このとき秦河勝が貰い受けたのが、像高2尺8寸の宝冠弥勒木造であるとされている。なお、蜂岡寺は広隆寺の前身である。
『日本書紀』によれば敏達13年(584)、百済から帰国した鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩の石像一体をもたらした。蘇我馬子(そがのうまこ)はその仏像を貰いうけ、家の東方に仏殿を造って安置し、渡来系氏族の娘三人を出家させて尼として奉仕させた。その一人は、法名を善信尼(ぜんしんに)といい、後に百済に留学した我が国最初の海外留学僧である。
我が国に百済から仏教が公伝したのは、『日本書紀』は、欽明天皇13年(552年、壬申)10月としている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』においては、欽明天皇の「戊午年」(538年)としており、こちらの説の方が仏教伝来年として有力だ。その時、百済の聖明王から太子像、潅仏器、仏説起巻一篋を贈ってきたと伝えられている。この太子像は、一般にはシッダールタ太子像だったと解されているが、弥勒半跏思惟像ではなかったかとする説もある。