天津彦根命の十四世孫。成務天皇の時、石城國造となった。
また、建許呂命の六人の子も各国の国造となった。
意富鷲意彌命(師長國造)、大布日意彌命(須惠國造)、深河意彌命(馬来田國造)、 屋主刀禰(道奥菊多國造)、宇佐比刀禰(道口岐閉國造)、建彌依米命(石背國造)。
また『先代旧事本紀』では「茨城國造の祖」とあり、筑紫刀禰(茨城國造)の父、あるいは祖と思われる。
諸書を通じてみると、石城国造の系譜については、大きな混乱が見られます。
代表的な「国造本紀」には、「石城国造 志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に建許侶命を国造に定めた」と記されますから、天照大神の子の天津彦根命の後裔で茨城国造の祖でもある建許侶命が国造初代となります。
これに対して、『古事記』神武段では、神武天皇の子の神八井耳命について、意冨臣・道奥石城国造等の祖と記されており、石城国造は皇別で多臣の一族という系譜を持つことになります。
この二つの石城国造をどう考えたらよいのでしょうか。二つが別流で、別の国造(地域ないし存続時期が別)と考えれば、単純明解であり、こうした立場で太田亮博士は合計三流の磐城(石城)氏を考えています(『姓氏家系大辞典』)。すなわち、①最初、天孫族なる石城氏が常陸多珂(高)より入って石城国造の地位を占め、②次に、多臣(於保)氏が海道諸国を総管し、鹿島神を奉じて勢あり、③その後、奥羽第一の強族阿倍氏の一族が勢力を占めて郡領の地位を獲得したもの、と想像されると記しています。
鈴木真年翁は、石城国造を一つと考え、その系統を多臣一族とみており、神八井耳命六世孫武男組命の子の建借間命、その弟の建黒坂命という系譜を考えています(『日本事物原始』)。阿蘇家蔵の『阿蘇家略系譜』には、多臣一族の建借間命の兄弟の武稲背命の子に建許呂阪命をあげて、「志賀高穴穂大宮朝定賜石城国造」と譜註が付けられております。また、『続日本紀』では、神護景雲三年(769)三月条に、磐城郡人外正六位上丈部山際に於保磐城臣が賜姓されたことが記されます。そうすると、「国造本紀」の建許侶命は建許呂阪命の脱字とも考えられ、石城国造は多臣一族に収束されることになります。私もかなり長い間そのように考えてきました。
ところが、仔細に考えていくと疑問な点が多々出てきました。それは、『常陸国風土記』茨城郡条に黒坂命が見えて、茨城国造の祖・多祁許呂命(建許侶命)と同じ人物と考えられるからです。同条によると、大臣族の黒坂命が茨城郡の佐伯という原住民を茨蕀をもって滅ぼしたので、この地の地名としたと記し、その下に「茨城国造初祖多祁許呂命……に子八人あり。中の男、筑波使主は茨城郡の湯坐連等の初祖なり」と割註があります。ここで見える「大臣族」が多臣一族を意味するとみることには疑問がありますし、「於保磐城臣」という表現も、「大磐城臣」で磐城臣の宗族を意味するものではなかろうかと思われます。
こう考えると、石城国造は一系で、茨城国造と同族であって、天津彦根命の後裔である建許呂命の流れであるとみることが割合自然ではないかとも思われます
志賀高穴穂宮天皇(成務)の御世
出雲臣と同族の建御狭日命が多珂国造として任ぜられて、郡の境界を定め、南(道前)は久慈郡の境の助川(日立市内を流れる宮田川か)、北(道後)は陸奥国石城郡苦麻村(福島県双葉郡大熊町熊)までとしたとあり、領域はいま多珂・石城という地域であると記されます。
孝徳天皇の御世
それが、のち難波長柄豊前宮の天皇(孝徳)の御世の癸丑年(653)に、多珂国造の石城直美夜部、石城評造部(ママ)志許赤らが、東国惣領の高向大夫に申請して、この郡(領域)が広すぎて往来に不便なので、多珂と石城の二つの郡(評)に分割されたが、石城郡は今は陸奥国に属すると記されます。
この『風土記』の記事を「国造本紀」等や系譜資料に照らして意味するところを列挙してみると、次のようなものと考えられます
- 。
(1)成務朝に初めて国造が置かれたとき、常陸の多珂郡から陸奥の菊多・磐城郡までを含む広い地域であった。→ 石城(多珂)国造の初代は建御狭日命と考えられるが、建許呂阪命(黒坂命)という名でも伝えられ、茨城国造の祖・建許呂命と混同されてた。
(2) 当初の多珂国造が応神朝に分割されて、高(多珂)・道尻岐閉・菊多・石城の四国造となったとみるのは疑問が大きい。吉田東伍博士などの言う石城国造大国造説のほうが妥当性が大きいようでもあり、高と菊多に同質性も感じるので、おそらく二国造となったものか。
(3) 多珂国造が石城直という姓氏を持っていたことからみて、これら四国造は同一であった(同一国造の管掌下にあった)とみられる。→ 「国造本紀」では、高国造は志賀高穴穂朝(成務朝)に彌都呂岐命の孫の彌佐比命が、道尻岐閉国造は軽島豊明朝(応神朝)に建許呂命の子の宇佐比乃禰が、菊多国造は軽島豊明朝に建許呂命の子の屋主乃禰(ともに「乃」は「刀」の誤記か)が、各々国造に定められたと記されるが、みな一系とみられる。
宇佐比乃禰と屋主乃禰とはおそらく兄弟であって、両者の後裔が孝徳朝の石城直美夜部及び石城評造志許赤(その姓氏は、後の磐城郡領の姓氏からみて、おそらく丈部で、『風土記』は「丈」が脱落か)につながるものか。
(4) 承和十一年正月紀に陸奥国磐城郡大領の磐城臣(=大磐城臣か)雄公が一族とともに阿倍磐城臣の賜姓を受けたのは、阿倍臣一族に因るものではなく(太田亮博士説に反対)、その旧姓が丈部で、阿倍臣の配下にあるなど阿倍氏と深い縁由にあったことに起因すると考えられる。
(5) 石城国造の実質的な初祖は、『陸奥国風土記』逸文の八槻郷(福島県東白川郡棚倉町八槻)条に見える国造磐城彦とみられるが、磐城彦は、「那須直系図」(『諸系譜』第15冊所収)には天津彦根命・天目比止都祢命(天目一箇命)の後で崇神前代の人として記載される。那須国造の同族として、磐城国造、磐瀬国造が同系図に見える。磐城彦の存在を認めたとき、石城国造は茨城国造の祖・建許呂命の後としては考えられなくなる。
(6) 「国造本紀」に成務朝に建許侶命の子の建彌依米命が定められたと記す石背国造も、石城国造の同族として考えて問題ないとみられる(その系譜には疑問が残るが)。その姓氏は吉弥侯部で、後に陸奥磐瀬臣、磐瀬朝臣を賜った。石城・石背・那須の三国造の領域には、共通する神社(石城・那須の式内社たる温泉神社、岩瀬郡の温泉八幡神社)や地名(高久、仁井田、塩田など)が見られる。