屯倉は「御宅(みやけ)」「宮家(みやけ)」の意で、もともとは倭王権の建造物をさし、また耕作地を含めて広く称する名称である。倭王権が多様な目的を果たすためにおいた、政治的・軍事的な支配拠点である。(穀倉(米)、製塩、鉱山、漁労、武装)初出の屯倉は、「垂仁紀(垂仁27年)」である。
屯倉の初見は『日本書紀』(以下、『紀』と表記)に大和王権初期の垂仁(すいにん)27年条に「屯倉を来目邑(くめむら)に興つ」とあり、また、景行(けいこう)57年条に「諸国に命じて、田部の屯倉を興つ」とあります。しかし、これらの記述はその起源を古くみせる創作と考えられ、一説には、大王の権力が強くなる5世紀以後の仁徳のころから屯倉が設置されたといわれています。
犬養部は、屯倉を守る犬を飼った。
屯倉が置かれていない国の謎
:讃岐、伊予、出雲など
「仁徳紀」十三年条に〈初メテ、茨田屯倉ヲ置ク〉とあるが、これは枚方市から寝屋川市に至る淀川の治水のために設けられた茨田堤造営に伴うものである。「仁徳記」に、〈秦人ヲ役シテ茨田堤及ビ茨田三宅ヲ作ル〉とある。新しく開拓された河内平野には依網(よさみ)屯倉(「履中紀」)を初め新家・志紀・大戸・桜井・竹村・子代・難波などの屯倉が設けられていった
「継体紀」に、〈筑紫君葛子、父ニ坐リテ誅セラルコトヲ恐レテ、糟屋屯倉ヲ献リテ、死罪贖ワンコトヲ求ム〉とあるのは、磐井の乱の贖罪である。また大和政権が地方豪族から屯倉を献上させる場合、交通上・軍事上にも拠点となるような土地を選んでいる
現在の博多付近におかれた那官家(なのみやけ)は那ノ大津を控え、大陸・交通の要衝地である。「宣化紀」に〈夫レ筑紫国ハ、遐ク邇ク朝デ届ル所、去来ノ関門ニスル所ナリ〉と述べられ、河内国の茨田屯倉・尾張国の屯倉・伊勢の新家屯倉・伊賀国の屯倉などの穀を那ノ官家に集めている。吉備の児島屯倉も瀬戸内海のほぼ中央に位置する港をもつ屯倉として重視されている。
当時の大豪族の毛野氏(けぬし)・吉備氏・筑紫氏などの領域下に集中的に屯倉が置かれていることは注目される。「安閑紀」に列挙される屯倉のうち、穂波・鎌・桑原・肝等・大抜・我鹿・春日部などの屯倉はすべて北九州の筑紫君・火君の領域である。
後月・多祢・来履・葉稚・河音・婀娜・胆殖・胆年部などは吉備氏の地領である。
緑野(みどの)屯倉は横渟(よこぬ)屯倉とともに毛野氏の領域下にあった地域である。
やがて蘇我氏が中央政局で実権を握ると、屯倉の経営にも積極的に乗り出し、王辰爾の甥、膽津を派遣して、白猪の田部の戸籍を検定している。膽津はその功で白猪史(しらいのふひと)を賜姓され、田令(たつかい)に任ぜられ、葛城山田直瑞子(かつらぎやまだのあたいみずこ)の副とされた。これより先、葛城山田直瑞子は蘇我大臣稲目に命ぜられて、吉備・児島屯倉の田令に任ぜられた。屯倉は後の国郡制による地方支配の基礎となっている。
河辺屯倉・経湍屯倉 大阪平野から和泉山脈を雄の山峠越で紀伊に入り、南下すると川 辺その対岸が布施屋。布施屋の東の吐前は、紀ノ川を上下する乗下船地点で陸路と紀ノ 川水運の転換点。 河辺屯倉・経湍屯倉は紀伊―和泉の交通路、紀ノ川水運などの水陸交通の要衝に設置。 西を高積山、東を貴志川によって挟まれ河南条理の東端にあたる。
縮見屯倉
兵庫県三木市志染町付近にあったミヤケ(屯倉)。この地は《播磨国風土記》美囊(みなぎ)郡志深里,《和名抄》同郡志深郷の故地にあたる。《日本書紀》の清寧2年条によると,播磨国の司(みこともち)の山部連の先祖,伊予来目部小楯が,縮見屯倉首忍海部造細目のもとに身をよせていた市辺押磐皇子の子,億計(おけ)・弘計(おけ)両皇子(仁賢・顕宗天皇)を新室(にいむろ)の宴で見つけだしたとある。《古事記》では,山部連小楯が播磨国宰(みこともち)として赴任したとき,志自牟なる人物の新室の宴席で2皇子を見いだしたとある
岩波文庫 日本書紀(三) P326
欽明十七年(556年)秋七月、
蘇我大臣稲目宿禰等を備前児嶋郡に派遣して、屯倉を置いた。
葛城山田直瑞子を田令(屯倉の監督者)に任命した。
冬十月、蘇我大臣稲目宿禰を倭国高市郡に遣わして
韓人大身狭屯倉(おおむさのみやけ)言ふこころは韓人は百済なり、
高麗人小身狭屯倉(をむさのみやけ)を置いた。
紀国に海部屯倉を置く。
一本に云はく、処々の韓人を以て大身狭屯倉の田部にす。
高麗人を小身狭屯倉の田部にす。
是は韓人、高麗人を以て田部にす。
因りて屯倉の号(な)とすといふ。
垂仁:倭・来目邑屯倉、
景行:諸国・田部屯倉、倭屯家、 播磨・御宅(印南郡益毛里)
仲哀:淡路・屯家、
応神:播磨・三家(神前郡田駝里)、宅、墾田(飾磨郡漢部里)
仁徳:倭・屯田乃屯倉、河内・茨田屯倉、依網屯倉、播磨・筑紫田部(損保郡)、飾磨御宅(飾磨郡)、
履中:倭・村合屯倉、蒋代屯倉、
清寧:播磨・縮見屯倉、針間山門領御宅(美嚢郡志深里)
継体:倭・匝布屯倉、筑紫・糟屋屯倉、
継体天皇二十二年条
筑紫国:1個所<糟屋>
安閑天皇元年条
武蔵国:4個所<横渟・橘花・多氷・倉樔>
上総国:1個所<伊甚>
安芸国:1個所<廬城部>
安閑天皇二年五月条
筑紫国:2個所<穂波・鎌>
豊 国:5個所<みさき・桑原・肝等(かと)・大抜・我鹿(あか)>
火 国:1個所<春日部>
播磨国:2個所<越部・牛鹿>
備後国:8個所<後城・多禰・来履・葉稚・河音・婀娜胆殖・婀娜胆年部>
阿波国:3個所<春日部>
紀 国:2個所<経湍(ふせ)・河辺>
丹波国:1個所<蘇斯岐(そしき)>
近江国:1個所<葦浦>
尾張国:2個所<間敷・入鹿>
上毛野国:1個所<緑野>
駿河国:1個所<稚贄>
欽明年代、吉備国には北部・吉備5郡に『白井屯倉(しらいのみやけ)』【欽明16年(555年)】、南部・備前に『児島屯倉(こじまのみやけ)』【欽明17年(556年)】が設置
蘇我稲目・穂積磐弓を遣わして吉備の五郡に白猪の屯倉を置く
欽明17年 蘇我稲目らを倭国の高市郡に遣わして、韓人大身狭(カラヒトノオオムサ)の屯倉・高麗人小身狭(コマギトノコムサ)の屯倉を置かせた。 紀国に海部の屯倉を置いた。
宣化天皇即位の年(西暦536年か)の五月条の書紀の記述にて、那津官家の成立を示しています。那津官家の設置理由として、筑紫・肥・豊の三国の屯倉が遠く運搬に不便な場所にあり、穀物を一箇所にまとめて貯蔵する必要があることを挙げています。
皇極天皇2年(643)11月 蘇我入鹿が、政敵である聖徳太子の御子・山背大兄王を亡きものにせんと斑鳩に攻めた時、王の従臣たちは、深草屯倉に逃れられるようすすめた。その運営については、在地の豪族、深草屯倉の場合は秦氏族の勢力に期待するところが大きかったのであろうと考えられる。
敏達:吉備・白猪屯倉、田部、備前・児島屯倉
蘇我馬子を吉備国に派遣 白猪屯倉と4郡を増益して名籍(令制の戸籍・計帳に近いもの)を白猪および膾津に授く
推古:倭・高市池、藤原池-屯倉、山背・栗隈大溝-屯倉、河内・戸苅池、依網池-屯倉
大阪平野の屯倉
日本書紀によると、仁徳のころに茨田(まつた)屯倉(寝屋川市付近)や依網(よさみ)屯倉(松原市北部から大阪市住吉区)が見られます。また、6世紀前半の安閑(あんかん)大王の時代には摂津三嶋の竹村(たかふ)屯倉(茨木市)・河内桜井の桜井屯倉(東大阪市か富田林市)・難波屯倉(大阪市)・和泉の芽渟山屯倉(和泉市付近)が記されています。