宮地嶽神社、古墳

宮地嶽古墳と宝物

宮地嶽中腹の不動神社を祀る日本最大級の巨石古墳が発見された(260年以上まえ)。この石室は、御物から推察すると六世紀末から七世紀始めのものです。全長23mという大規模な石室は、高さ幅とも5mを超す大きな石を積み重ね作られたようです。
古墳からは、馬具、刀装具、緑に輝く瑠璃玉やガラス板など、およそ300点が発見され、どれも第一級のすばらしいものであり、そのうち十数点は国宝に指定されています。

左右に遺体が置かれていたというのが神社側の見解。
被葬者については、
「決して宗像徳善ではない。現在でもここでは磐井の末裔を祭祀している」
「宮地嶽神社の御祭神の藤氏が磐井氏の孫です。」
ようです。

古墳は日本で1、2位の大きさを誇る古墳です。奥行きが入口から23メートルほどあります。
奈良の石舞台に次ぐ大きさです。
磐井氏の関係の墓と言われています。

この岩は近くの恋の浦海岸から運ばれた事が分かっています。昔は、神社のすぐ下まで、海でした。

「馬具は九州で超一級で、所有者は皇太子のレベル以上のものです。
国宝になった主なものとして、金銅の冠(銅に金メッキ)馬具は鞍、壺鐙(つぼあぶみ)轡(くつわ)など、どれも銅に分厚い金メッキが施されていました。
銅の鎖。壺鐙のデザインはササン朝ペルシャのものです。
金のイヤリング、緑のガラス球、銅のお碗、銅のお皿、土師器のお碗長方形の鉛系のガラス板など。これは正倉院と同じタイプ。」
頭椎(かぶつち)太刀は3,2メートル。

宮地嶽神社は1882年に宗像神社境外五摂社の一つに加えられているが、鎌倉時代の記録では宗像三所大菩薩と勝村大菩薩を祀っていたという。また、その記録から宮地嶽の山霊が勝村大明神だったことがわかるという。山頂には古宮跡がある。なお、勝村氏は磐井の乱の磐井の君の末裔であった。磐井の乱の後、磐井の息子は、屯倉をヤマト朝廷に寄進している。それが福津の近くにあったと言われている。

三階松の紋
高良大社、宮地嶽神社、壱岐神社ともに、三階松の紋が見られます。

宗像宮社記に書いてある。
「宮地嶽明神内の二社は宗像三女神と勝村大明神だ。」と。

社説(宮地嶽神社由緒)には中殿に阿部函相(宮地嶽大明神)、
左に藤高麿(勝村大明神)
右に藤助麿(勝頼大明神)
三座であるという。
この三神は神功皇后の韓国を討った時の功績があった神だという。

宮地嶽神社

由緒
ご創建は、約1600年前。当社のご祭神「息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)」別名「神功皇后(じんぐうこうごう)」は第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君にあたられます。
古事記、日本書紀等では渡韓の折、この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇(てんしんちぎ)を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとあります。その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)」としてお祀りしました。
以来、宮地嶽三柱大神のご加護のもとで事に当たれば、どのような願いもかなうとして「何事にも打ち勝つ開運の神」として多くの方に信仰されるようになりました。
当社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮です。

昭和48年に発行された津屋崎町教育委員会の「つやざき」に『神社帳』。

祭神
タキリビメの命、サヨリビメの命、勝頼神
タキツヒメの命、オキナガタラシヒメの命、勝村

当社の縁起ではこう言っている。
宮地嶽大明神、勝村大明神、勝頼大明神、
それぞれの名前は、阿部相函、藤高麿、藤助麿云々。

 古文書や古い縁起によるとこの宮地嶽神社の祭神は、「阿部丞相(宮地嶽大明神)、藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)」となっている。
 筑前國續風土記拾遺によると「中殿に阿部亟相、左右は藤高麿、藤助麿。此三神は神功皇后の韓国言伏給ひし時、功有し神也といふ。勝村、勝頼両神は三韓征伐で常に先頭を承はり、勝鬨を挙げられたりと祀る。」とある。

 藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)とは神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の「安倍高丸」「安倍助丸」であるという。
 「塵輪」とは軍術にたけた悪鬼が異国より攻めてきたとき、第14代天皇「仲哀天皇」が安倍高丸、安倍助丸を従えて、神変不測の弓矢をもって退治するという物語である
 塵輪には翼があり、天空を自在に駆けめぐることができたという。羽白熊鷲のこととも。

 津屋崎の北部に「勝浦」がある。「勝部氏」が在したと伝わる。勝部氏は秦氏の一族で宇佐の辛嶋勝氏に繋がる。
 阿部の勝村、勝頼の両神とはこの勝部氏に拘わるという。

 神功皇后が新羅より凱旋して大嘗会を行なった時、阿部氏の祖先が「吉志舞」を奏したという。吉志舞の吉志は「吉師」で、阿部氏は吉師部を統率したという。
 大彦命の子に「波多武日子命」があり、その子孫が「難波吉師三宅」を名乗る。「吉師」は外交を職務とした渡来人。

この辺りには古代より「阿部氏」の存在がある。「宮地嶽神社」の神官の阿部氏、在自村の庄屋役の安部氏一族や、神社群の燈籠などに刻まれた氏子名に、阿部姓は多い。
 津屋崎の少彦名命はこの阿部氏が祀るという。

仲哀天皇の7年(198年)のとき、新羅国の凶酋塵輪(じんりん:真ん中に大きな鬼の顔、その回りにやや小さな鬼の顔が7つあり全部で8つの鬼の顔からなる)が熊襲を扇動して、豊浦宮(仲哀天皇が設けた仮皇居)に攻め寄せて来ました。これに対し、皇軍は大いに奮戦しましたが、黒雲に乗って海を渡ってきた塵輪が空から射かけるために苦戦し、宮門を守護する阿部高麿・弟助麿も相次いで討死しました。そこで天皇は「空から射かける者、尋常の者にあらず」と大いに憤たせ給い、ついに御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射落とされました。そして賊軍は退散し、皇軍歓喜のあまり矛をかざし、旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊り狂ったと言われています。また、塵輪の首を切ってその場に大きな石で覆ったが、塵輪の顔が鬼のようであったことから、その石を鬼石と言い伝えられています。

●石見神楽台本より
八幡宮縁起(那賀軍雲城村八幡宮蔵、元禄己巳貝原好古の著)。
同書巻之一、仲哀天皇紀九年の條に、「今按ずるに誉田ノ宮ノ縁起、石清水ノ宮ノ縁起、八幡愚蒙訓などにしるし侍るは、仲哀天皇の御宇に当りて、新羅国より数万の軍兵せめ来りて、日本を討とらんとす。
是により天皇みづから五万余人の官軍を相したがえ、長門ノ国豊浦ノ宮にして異国の凶賊を禦がしめ玉う。この時異国より塵輪というふしぎのもの、色はあかく、頭八ありてかたち鬼神のごとくなるが、黒雲に乗て日本に来り、人民をとりころすこと数を知らず。天皇、安倍高丸、同助丸に仰て、惣門をかためさせ、塵輪来らば、いそぎ奏すべし。人民の身にてたやすく打事あるべからず。我十善の身を以て彼ものを誅伏せしめんと命じ玉う。則かの二人弓剣を帯して、門の左右を守護しけるに、第六日にあたりて、塵輪黒雲に乗じて出来る。高丸、武内大臣を以て此よしを奉しけるに、天皇御弓を取、矢をはげて、塵輪を射させ給えば、塵輪が頭たちまちに射きられて、頭と身と二つになりて落ぬ。かかる処に何にかしたりけん、流矢来りて玉体につつがあり。(中略)此事日本紀の本説にたがい、ことに頭八ある人黒雲に乗じて来るなどいえる事ほ、妄誕不経論ずるに足らず。」 とある。

百済援軍
660年に朝鮮半島の百済より援軍要請があり、比羅夫も軍船を率いて朝鮮半島に出兵した。3年後の天智2年(663)、白村江の戦いで、陸戦では唐・新羅の軍に、倭国・百済の軍は破れ、海戦では、白村江に集結した1,000隻余りの倭船の中で400隻余りが炎上するという大敗北に遭う。この戦だけで兵士1万余りが半島で消失している。その損失は大きく、また唐・新羅の軍の侵攻も予想され、慎粛討伐どころではなくなっていた