天武天皇は記紀編纂を開始
天武天皇はその治世十年(西暦681年)に「帝紀および上古の諸事の記録・校定を命じた」とあり、これが『紀』の編纂開始と解釈されています。しかし『日本紀』(『日本書紀』ではありません)として撰上されたのは、39年後の720年で、天武天皇の孫娘になる元正天皇の代になっていました。『紀』の最終段階で重要な役割が果たしたのは、天智天皇の娘だった持統天皇と元明天皇、そして天智天皇の腹心だった藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の子の不比等(ふひと)。
皇妃と御子
中大兄皇子は采女との間には男子をもうけましたが、皇族の娘との間には皇女しか生まれませんでした。これがのちの政局の大問題になる。
天武天皇の皇子
『紀』に記される天武天皇の皇子は十名。
妃で采女と思われるのは、胸形(宗像君)徳善の女の尼子娘(あまこのいらつめ)と、穴人大麻呂の(かじひめのいらつめ。かじは木へんに殻)の二人です。 天武天皇には他にも数名の皇子がいました。
穴人(完人)は安倍氏と同祖で、山人族系だったと考えられています。
采女以外の妃
初婚の額田姫王、天智大王の娘四人、藤原鎌足の娘二人、蘇我赤兄の娘が一人。額田姫王と采女以外は、政略結婚か
大海人皇子が皇子たちの中では、采女たちから生まれた
第一皇子の高市と第二皇子の忍壁、そして第三皇子の大津を、特にかわいがったこと。
『続紀』に、「文武紀」から「聖武紀」の後半まで、天武天皇の皇子たちが薨じた。それを順番に記すと、第六皇子の弓削(ゆげ)皇子、第九皇子の忍壁(おさかべ)親王、第四皇子の長(なが)親王、第五皇子の穂積(ほづみ)親王、第七皇子の新田部(にいたべ)親王、そして第三皇子の舎人(とねり)親王の順になります。第九皇子の磯城皇子(しき。施基や志貴とも記される)だけが薨年不明です。
「持統紀」における「大津皇子は天武天皇の第三子である」との記述に反して舎人親王が第三皇子としている。
『続紀』
697年の文武天皇の即位
758年の勅命によって、689年に急逝した「草壁皇子に対して岡宮御宇(おかのみやにあめのしたしろしめしし)天皇」の称号を贈った」との文があります。文武即位のおよそ60年後の追諡。言いたいのは、文武天皇が祖母の持統天皇から譲位されたことではなく、草壁皇子は天皇だった、だから文武天皇は天皇の子だったという、「文武天皇の血統と王位継承の正当性の主張と強調」です。持統天皇に協力したのが、藤原不比等です。
東大寺正倉院に残されている『東大寺献物帳』に、「黒作懸佩刀(くろつくりかきはきのたち)一口」の名があり、これに「草壁皇子の佩刀(はいとう)だったのを不比等に賜った。不比等は文武天皇即位の時にそれを献上し、天皇崩御の際にまた不比等に下賜された。不比等が薨じる日にのちの太上天皇(聖武天皇、時の首(おびと)皇子)に献上された」との説明があります。
この史料も、持統・元明という二人の女帝が異例の孫への譲位を実現させるために、不比等が深く関与していたことを示すものです
天智大王がもうけた皇女十人の内、天武天皇は四人を娶っています。
大田皇女と鸕野讃良皇女=母は共に蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智媛、新田部皇女=母は阿倍倉梯麻呂の娘の橘娘(たちばなのいらつめ)、それと大江皇女=母は忍海小龍(おしぬみのおたつ)の娘の色夫古娘(しこぶこのいらつめ)です。色夫古娘は天智天皇の後宮に仕えた采女か。
石川麻呂
これを聞いた葛城皇子の妃の遠智娘(おちのいらつめ)は、三児までもうけた夫に父を殺され、悲しみのあまり亡くなってしまいました。
ところが、石川麻呂の血筋は、遠智娘の娘の鸕遠讃良(うのさらら)皇女に受け継がれ、やがて、彼女が天武天皇の皇后となり、持統天皇となって、天皇家系図に生き続けます。
忍海は、東漢の一族で、蘇我氏に仕えてきた。
倉梯麻呂(内摩呂)は、阿倍氏分家出身の一族の長老で、舒明大王が王位に就く前に蘇我蝦夷の館での会議においては、倉梯麻呂が蝦夷の意向を受けた司会役を務めています。蝦夷がいる限り上には立てませんでしたが、一方で長女の小足媛(おたらしひめ)を軽皇子(孝徳大王)の妃に入れていました。 だから蝦夷を捨てて、軽皇子に従う道を選んだのです。「乙巳の変」(645年)が成功すると、孝徳大王の左大臣に任命されました。大化五年(650年)に没。
蘇我倉山田(石川)麻呂は、蘇我の分家出身
馬子の子の倉麻呂の長男で、宗家蝦夷の異母兄か。
宗家滅亡後の蘇我氏一門の頂点に立ちました。そしてほどなく盟友の阿倍大臣が亡くなったの。自分の異母弟の日向(ひむか)に、中大兄皇子に対して謀反を企んでいると「讒言」(ざんげん)されて、兵を送られて自殺に追い込まれた上に遺体を切り刻まれるという、辱(はずかし)めを受けた
。
蘇我日向
644年(皇極天皇3年)中大兄皇子(後の天智天皇)と日向の異母兄蘇我倉山田石川麻呂の娘が婚約した夜にその娘と密通した。649年(大化5年)日向は「石川麻呂が中大兄皇子を殺害しようとした」と讒言、軍を率いて石川麻呂を追討し、石川麻呂は自害して果てた。その後石川麻呂の無実が明らかとなり、中大兄皇子は日向を筑紫国の筑紫宰としたが、世間ではこれを隠流し(かくしながし、あるいはしのびながし)と評したという。
日向は身狭臣(むさしのおみ)、武蔵臣とも呼ばれました。身狭は飛鳥内の地名です。日向はその後中央に呼び戻され、「壬申の乱」時には近江朝廷側に属して、興兵使(こうへいし。徴兵の役人)として飛鳥に赴きましたが、大海人皇子側に捕えられました。その時に記される名前は、「物部首(もののべのおびと)日向」です。
蘇我氏の有力者が「物部」を名乗ったことに疑問があるかもしれませんが、この時の物部首は、馬子の代に蘇我氏が滅ぼした物部氏の財産管理に当る一族の者に、蝦夷が与えた姓です。従って、それが蘇我日向だった。
持統天皇(じとうてんのう)
皇女名は讃良媛。大化元年(西暦645年)~大宝2年(西暦702年)。父は中大兄皇子(のちの天智天皇)、母は遠智媛(おちひめ/中大兄皇子に殺された石川麻呂の娘)。讃良媛は大海人皇子(のちの天武天皇)の妃となり草壁皇子を産む。
以下は、歴史小説的人間探訪
大化の改新の年(西暦645年)、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と遠智媛(おちひめ)の間に二人目の皇女(ひめみこ)、讃良媛が産まれた。
讃良媛は母である越智媛と一緒に、祖父石川麻呂(いしかわのまろ)の別宅がある讃良郡(さららのこおり)で何不自由なく皇女として育っていった。
姉の大田媛(おおたひめ)は物静かで大人びているが、讃良媛は男勝りの活発な少女である。一日中野うさぎを追ったり馬に乗ったりしている。そして時折訪れる祖父の石川麻呂が誰よりも好きであった。
そんな穏やかな讃良の里に、祖父石川麻呂一族の滅亡が伝えられてきた。讃良媛の父であり、遠智媛の夫である中大兄皇子の謀略によるものであった。
父の死が夫である中大兄の仕業と知った遠智媛は、第三子を身ごもっていたがその日より狂人となった。
越智媛はその秋に狂気の中で男子を出産するや、その場に居合わせた讃良媛に「いつの日かそなたの父を討て!この子が育たぬ場合はそなたが覇王になれ!」との言葉と生まれたばかりの赤ん坊を残し、小刀を首に突き立てて壮絶な自殺を遂げた。
讃良媛が五歳のときであった。血の海の中で讃良媛の心の中に、その母の言葉が炎の如く刻みついた。