天孫降臨
古事記より
天の幾重にもたなびく雲を押し分けて、威勢よく道をかき分けかき分けて、天浮橋を宇岐士麻理蘇理多多斯弖(うきじまりそりたたして)、竺紫日向の高千穂の久士布流多気に天降った。 中略このようなわけで、「この地は韓国に向かい、笠沙の岬に真来通て、朝日のまっすぐ射す国、夕日の日が照る国である。なので、この地はとても良い地だ」と言って、底津石根(そこついはね)に宮柱布斗斯理(みやばしらふとしり)、高天原に氷椽多迦斯理(ひろくたかしり)て居住した。
根の国(祖先神が眠っている国で祖先に挨拶します)を通り、途中で猿田彦の出迎えを受けます(猿田彦は天の八衢の国つ神)。
「天の八衢」とは何でしょうか。
それこそ、四方八方に道が伸びている交通の要衝のことだと思われます。
雲(出雲の地)をかきわけながら、先に父のオシホミミ命が天下った、高千穂の稲の青々と茂る穂波地方の襲(添=添田)の霊峰英彦山に登って天子の就位式をあげます。
次に道を真北に向け、真木(添田の真木)、糸田(伊都)、岩石山(オシホミミ命が天下ったという伝説がある、磐余とも書く)をとおり、葦原の中つ国に入り、高羽(田川 ヤマトタケルの宮)で今度は真西に向きを変えます。
達が東征を協議した宮でもあります。
最終到着地は「岡田宮」
岡田宮の周辺の地形は西高東低で、東側が湖(古遠賀湾は洞海湾を含めて大きな湖になっていた)で西側が山ですから、「韓国に向かいて笠沙の御前(岬)に真北とおり、朝日のただ刺す国、夕日の火照る国」という形容にぴったりです。
西側が六ヶ岳で、東側は古代、湖になっていて「淡海」または「近海」とも呼ばれていました。六ヶ岳にはニニギ命の亡骸が埋められていると言われています。
「朝日のただ刺す国、夕日の火照る国」という形容は東が開けて低地あるいは海または湖、西は山があって夕日が火照る場所でなければなりません。
また、この辺りは「正勝吾勝」の吾勝をとって「吾勝野」と呼ばれていました。「赤」や「勝」「葛野」「津野」といった地名が多いのはこれに由来します。
高千穂の宮の位置は日田(ひたお=頓丘)から高千穂宮、宗像大社の上を通って草崎(笠沙岬)または鐘が崎を通り、韓国へ一直線です。また宗像は書紀にいう「空国または胸さし国」が元の国名ですから「空国の上を通って韓国に一直線」という書紀の記述に一致します。
高祖山
原田大六氏は、平原遺跡の被葬女性に纏わり、「竺紫日向之高千穂之久士布流多気」は高祖山系の峰であるとし、「高祖」は「高千穂」同意であろうとした。
山麓に「高祖(たかす、たかそ)神社」が在る。鬱蒼とした森の中、神さびた長い参道の奥に、瀟洒な社が鎮座する。境内は広大で、古くは大社であったことを思わせる。
この宮の主祭神は、彦火火出見尊とされる。が、平安期に編纂された「三代実録」には「元慶元年(877年)、高祖神社の高磯比売神に従五位下を授ける。」と記され、この「高磯(たかす、たかそ)比売神」が本来の祭神であろうと思わせる。
「高祖」とは「高磯(たかす、たかそ)」であったのだろうか。 高磯比神は忌避された比売神。赤留比売命や、丹生都比売命とする説などがあるが、殊に謎の女神。
筑紫で「たかす」や「高、鷹(たか)」といえば英彦山に由来する。開山説話に鷹の伝承を残し、「鷹ノ巣山」があり。豊日別神を祀る「高住神社」がある。神紋を「鷹羽」として、所在の「田川」の地名由来も鷹羽(たかは)であるとする。
英彦山は古代より神霊の山として信仰され、英彦山神宮は天忍穂耳尊を主祭神とする。
邇邇芸の前は、高木神
高良山に興味深い伝承がある。高良山の麓に「高樹神社」が鎮座する。高良山の地主神とされ、高御産巣日神を祀る。ここの縁起では、この神はもとは山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が結界を築いたため山上に戻れず、麓に鎮座しているとされる。高良山を「高牟礼」と称するのも、この神の名に由来するという。
北部九州の信仰において、「天孫」、「狗呉神」や「韓半島の神」以前に、「高御産巣日神(たかみむすび、高皇産霊神)」の存在が在った。神話にいう天孫以前の神の痕跡。が、この神は、のちに忌避されたともみえる。
高祖神社の境内社には、高御産巣日神の子神、「思兼神」が祀られている。「高祖山(たかすやま)」とは鷹巣山。天孫以前の神、高御産巣日神に由来する名であるのか。
日本書紀より
さて日向の高千穂の峰に降り立った瓊瓊杵尊の一行は,「日向の襲の高千穂峯」に天下ります。そこから「クシ日の二上の天浮橋」から「浮渚在平処」に立たして,「膂宍(そしし)の空国(むなくに)を頓丘(ひたお)から国まぎ」とおって,・・・以下略
このように高千穂宮も岡田宮も記紀の記述の通りの場所にあります。
笠沙岬は草崎または鐘が崎
ニニギノミコトと結婚するコノハナサクヤヒメは別名が、かやつ姫またはあたつ姫で、笠沙の岬で出会い求婚されるのですが、かやつ(葦津)は勝浦(かやつうら=伽耶津浦)、あたつは吾田津ではないでしょうか。笠沙岬と想定する草崎のすぐ傍に勝浦、吾田津があります。古事記から抜粋します。
天津日高日子番能邇邇芸能命は笠沙の岬で麗しい美人と出逢った。そこで、「誰の娘か」と尋ねると、「大山津見神の娘で、名は神阿多都比売。またの名は木花之佐久夜毘売と言います」と答えた。また、「あなたに兄弟はいますか」と尋ねると、「私の姉に石長比売がいます」と答えた。
名児山、奴山という地名がありますがこの地域は古代は下図のように海が内陸まで入込んでいたので内湾になっていて長屋(名護屋)と呼ばれていたのではないか。長屋(ながや)から名児山、奴山へ変化したか。むな国(空国)もさし国も長屋のある国です。もしそうだとすれば「さしの空国の吾田の長屋の笠沙岬」に合致するか
姉のいわなが姫ですが、後で岡田の宮と思われる場所を、ここから程近い鞍手に想定しますが、その対岸が岩瀬、長津(斉明天皇、天智天皇の宮のあった場所)ですからいわなが姫はこちらの出身だとおもわれます。
「草崎」は元は笠沙の岬と言っていたのをかさ崎(→くさ崎)とさつき松原に分解されたかあるいは「勝崎の御前(みさき)」のことかも知れません。何故なら、この辺りは「勝」のつく地名が多く勝浦、勝浦浜、勝島、神(勝)の湊、赤間(吾勝馬)、勝馬があります。
特に宗像周辺の海域は「勝」名が多くついています。宗像3女神がスサノオの直系であることを、スサノオの発した言葉「正勝吾勝」の「勝」で強調しているのかも
書紀にいう笠沙岬にいた「事勝国勝長狭」も勝が2つはいっています。
勝のつく地名
宗像3女神は天孫降臨に先立って宗像に降りてきますが、その目的として、天孫降臨の地ならしをするということがありました。
万葉集からも推定できます。
草崎の東隣にある鐘ヶ崎は万葉集に
ちはやぶる 鐘(かね)岬(みさき)を 過ぎぬとも
我れは忘れじ 志賀(しか)の皇神(すめかみ)
千磐破 金之三埼乎 過鞆 吾者不忘 壮鹿之須賣神
と歌われる岬です。鐘ヶ崎を過ぎて見えなくなるのは笠沙岬です。笠沙の岬を眺めながら来て、もう見えなくなっても笠沙岬と縁の深い倭国のことを胸にしっかりととどめておきますという歌だと思います。
ところで歌の中の「志賀の皇神」とは誰のことでしょうか。候補としては金印の発見された志賀島の神です
魏志倭人伝一行が上陸した地が、鐘ヶ崎だということです(第16章43項参照)。
魏志倭人伝の記述通り壱岐から千里(約70km)の距離にあります。そして海女の発祥の地です。ここで倭人伝は海女を見たことをはっきり記述しています。
近くにはさらに「さし国」にあって国宝の多く出土した宮地嶽神社(神功皇后が新羅征討の時にここから出発したとされる)があります。
日田と猿田彦について
古事記に「天の八ちまた」という地名がでてきます。
これにぴったりの土地が日田です。
日田の会所山を中心にして回りを「日隈」「月隈」「星隈」が取り囲んでいます。日隈の方角には日向・日出・英彦山(日子山)、月隈の方角には筑紫(月支=つきし)、星隈の方角には星野といった地名があります。
天の八ちまたというとさらに猿田彦が思い浮かべられます
猿田彦は天の八ちまたを出発して途中高千穂の峰(日子山=英彦山)に寄って儀式を執り行ってから「韓国に向かいて笠沙の御前(岬)に真北とおり」の地点に向かって一行を先導してすすんだわけです。
日本書紀
さて日向の高千穂の峰に降り立った瓊瓊杵尊の一行は,「日向の襲の高千穂峯」に天下ります。そこから「クシ日の二上の天浮橋」から「浮渚在平処」に立たして,「膂宍(そしし)の空国(むなくに)を頓丘(ひたお)から国まぎ」とおって,「吾田の長屋の笠狭碕(かささのみさき)」に至ります。その地に1人の人、事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)がいました。
日本書紀一書は天孫降臨の地を「頓(ひた)丘から国覓ぎとおって笠狭碕に到る」としています。
これは「日臺(日田)からわが国の上を通って、笠沙岬(草岬)に到る」と書いていると解釈できます。
頓(ひた)丘を日田と解釈すれば記述とぴったり当てはまります。
高千穂のクシフル嶽を英彦山と想定する理由について
高千穂とは稲穂が高く幾重にも青々と茂っている様を言うのでしょう。
ところで筑豊地区の筑穂、穂波、嘉穂、稲築という地区は一塊になって稲や穂という地名がついていますがこの地名の由来は神功皇后が三韓征伐から凱旋して大分宮へ帰られたとき稲穂が青青としている様をみて「美しき穂波かな」と言ったことからつけられたとされています。
しかし、この辺りは元々穂や稲の名がつく大穀倉地帯だったのです。
この筑豊盆地一帯は四方を山で囲まれ多くの池や湖が点在し水が豊富で古代から稲作の盛んな高千穂の茂る地帯です。伊と那の地名の多い伊那(稲)の土地なのです。神功皇后の地名伝説は後から取ってつけたものだと思われます。
とすれば「高千穂のクシフル岳」とは「先祖代々が眠る」英彦山のことではありませんか。
英彦山は平安時代までは「日子山」と呼ばれていました。オシホミミ命の天子降臨伝説も残っています。
日本書紀はまた天孫降臨の地を、「日向の襲(そ)の高千穂の添山峯」であるとも記しています。英彦山はまさに高千穂の茂る穂波地方の「添田(そえだ)」にそびえています。
猿田彦が先導して「韓国に向かいて笠沙の御前(岬)に真北とおり」の地点に案内し高千穂の地方を麓にもつクシフル岳(=日子山)で天孫降臨の儀式を執り行ったと思われます。
。その後の天子の名前は「穂」のつく人が多いことです。
英彦山の南岳にはヒコホホデミ(日遠理命=やまさち彦)を祀ってあると言われています。
古事記には
日子穂穂手見(ヒコホホデミ)命は高千穂宮(たかちほのみや)で五百八十年を過ごした。御陵はその高千穂山の西にある。南岳はまさに英彦山のなかの西にあります。日子穂穂手見命は穂が二つもついています。まさに記述通りです。
ちなみに北岳は天忍穂耳命(元は大国主)、中岳は伊邪那美命がそれぞれの嶺の御神体であるといわれています。中岳上宮は伊邪那岐命、中宮は宗像3女神の市杵島姫命、下宮は大国主、大南神社は天火明命(ニニギ命の兄)、高住神社は豊日別命が祀られています。標高1000m付近にある産霊神社は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神が鎮座すると言われています。
ニニギが天降った「筑紫の日向の高千穂のクジフル岳」が、古事記の「肥国は建日向日豊久士比泥(クジヒネ)別」の記載などから、九州最高峰の久住山(九重山)の説がある。
久住山(くじゅうさん)は、大分県竹田市(旧久住町)にあり九重山(九重連山)を形成する 火山。
南薩摩の説
古事記のようにニニギが九州山地を南下したのなら、薩摩半島の西南端にたどり着いて、「ここから真北に向かえば韓国に行ける」と聞いて、「よき地」と言ったのは、非常にリアルな、感動のこもった表現である。このような表現は、8世紀の、現地を知らない古事記作者が創作することは難しい。
さらに、日本書紀では、「吾田の長屋に到ります」、「竹刀を持って、その児の臍を切る。その棄てし竹刀、竹林になる。その地を名づけて竹屋という。」(一書第三)、「吾田の笠狭の御碕(みさき)に到ります。ついに、長屋の竹嶋に登ります」(一書第六)などの表現が見られる。これらの吾田、長屋(南さつま市加世田町)、笠沙、竹屋(同加世田町)の地名は、なんと、全てこの地に現在まで残っているのである。竹嶋の地名はない。
迩々芸能命『笠沙』で阿多都比売に会う
『古事記』
『迩々芸能命於笠紗御前遇麗美人。爾問誰女、答白之、大山津見神之女、名神阿多都比売、亦名謂木花之佐久夜毘売』(記 135頁)
瓊瓊杵尊は、 吾田の長屋の笠狹の御碕 にて事勝國勝長狹に会う
『日本書紀』にも、
『神代上 第9段』に「九つもの異伝」の、その「第4の一書」には、
『膂宍(そじし)の空國(そらくに)を、頓丘(ひたを)から國覓(くにまぎ)ぎ行去(とほ)りて、吾田の長屋の笠狹の御碕に到ります。
時に彼處(そこ)に一(ひとり)の神有り。名は事勝國勝長狹と日ふ。
故、天孫、其の神に問ひて曰(のたま)はく、「國在りや」とのたまふ。
對(こた)へて日さく、「在り」とまうす。因りて日さく、「勅(みことのり)の随(まま)に奉らむ」とまうす。故、天孫、彼処に留住(とどま)りたまふ。
其の事勝國勝神は、是伊奘諾(いざなぎ)尊の子なり。亦の名は塩土老翁(しほつつのをぢ)』(紀上 156頁
つまり、『国初の書籍「古事記」』には載せられていない『事勝國勝長狭』なる『国主』が我が郷土『吾田の長屋の笠狹の御碕』に居たとあって、『伊奘諾尊(伊邪那岐命)の子』と記録されるのであるが、
『事勝國勝長狭』を「祭神」とする『神社』が『3社』もある県は『鹿児島県』だけで、『薩摩半島南岸部の指宿・坊・笠沙』にある
「薩摩国」の朱印が押されている『736年の薩摩国正税帳』に、『元日朝拝刀禰国司以下少毅以上惣陸拾八人』(大日本古文書一 13頁)と載せられる『少毅』からも、『薩摩国』に『軍団』があったことは明らかなのである。
町名の「笠沙」は、大正12年(1923)に西加世田村を笠砂村と改称したときに採用された名称が、昭和15年(1940)の町制施行時に「笠砂」を「笠沙」と変え、「カササ」としてそのまま継承されたものである。町村名に初めて用いられた「笠砂」・「笠沙」は、『古事記』『日本書紀』の神話に基づくもので、本来この地方に残存していた地名ではない》(笠沙町郷土誌 上巻 292~3頁)
とある。更に、『阿多の神奈備山』と思しき『金峰山』を「神体山」とするかに見える『田布施神社』に、亦の名『勝手神社』の名が伝わる。『弓』を持つ『左手』に対して、『弓』を引くほうの『右手』が『勝手』と称され、その由縁は『(右手)勝手』は、とりわけ「馬上」にあって『長い弓に拘束されないで自由勝手に使える右手
古事記の「笠沙」
天孫降臨時のニニギノ命の詔
原文
「此地者、向韓国、真来通笠沙之御前而、朝日之直刺国、夕日之日照国也。故、此地、甚吉地」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou97/kai09702.html
どこに立って見るのか。山系の一角の占拠は頂上付近も勢力圏となり周囲を見通せる場所、例えば高祖山(標高四一五m)の山頂を考える。
第二に、そこから見える東は博多湾であり、「朝日が直接照りつけてくる」、西を見ると糸島平野と唐津湾であり「夕日が照り映える」となる。この地の東西の状況に合致する。
第三に、北に見えるのは今宿(笠沙?)であり、韓国は遠い。今宿の今津は『筑前国続風土記』に「昔は此津に唐船来り着しかば、今の長崎湊のごとし。(略)八幡古記等には、本朝上古より唐船の来りし所と有。」また、唐泊も「今津より一里半西に在、海邊也。万葉集十五巻に、志摩郡韓亭とかけり」とある。今宿には今津という港がある。
これまでは、この地は韓国に向い、韓国からの真直ぐな道が来ていると理解されてきた。
しかし、この地は山頂であるから、韓国からの道はない。韓国から道(海路)が来ているのは今津(笠沙)である。
句の意味は「この地は韓国から真直ぐな海路が来ている笠沙に向かい、その直前にある。」となる。
南は背振山地がそびえる。高祖山(四一五m)に対して、西から浮嶽(八0五m)、金山(九六七m)、背振山(一0五五m)、九千部山(八四七m)が連なる山系である。東南にも油山(五九七m)の丘陵地がある。ニニギノ命の詔には、この壮大な山への言及がない。南は述べてはいないのである。
つまり、ニニギノ命は南の山を背に、北に向かい正面と東西を見て述べたのである。全文は次のように訳すことができる。
笠沙が今宿となると素直な内容となる。
「この地は、韓国から真直ぐな海路が来ている笠沙に向かい、笠沙の直前にあって、朝日が直接照りつける国、夕日が照り映える国である。この地はすばらしい位置にある。」
この地がすばらしい位置にあるのは、東の博多、西の糸島の両面を睨み、笠沙の直前にあるからである。(正木裕氏のご注意による)
日本書紀の「笠狭の岬」
『日本書紀』の天孫降臨の記事を検討する。これまでは、ニニギノ命は山頂に降臨して山頂から地上に降り立ち「笠狭の岬」へと移動したと解説されたが、次のことが前提とされていたのではないだろうか。
その一、ニニギノ命は途中の経過地もなく、クシフル岳に降り立った。
その二、ニニギノ命は降臨後、その地を放棄し「笠狭の岬」に移動した。
今宿には二つの岬がある。長浜海岸の先端である今津と長垂山からの砂嘴の先端の今山である。そこで、「笠狭の岬」=「今宿の岬」として『日本書紀』を読める
ニニギノ命の行動
二番目の文面はこれまで難解とされてきた、降臨後のニニギノ命の行動である。「既にして皇孫の遊行す状は、?日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、膂宍の空國を頓丘より覓國ぎ行去り吾田の長屋の笠狹の碕に到ります。」
宗像から来たニニギノ命
二番目の文面の残りの部分、「而膂宍之空國自頓丘覓國行去、到於吾田長屋笠狹之碕矣。」
(1).「膂宍之空國」、空国を古田先生は「宗像」とされた。
(2).「而膂宍之空國自頓丘覓國行去」は「膂宍之空國をめざして」ではなく、「膂宍之空國から」である。つまり「うまし国の宗像から丘続きに良い国を求めて通り」となる
同じ読み方に小学館の口語訳があり、「やせて不毛の国から」と訳している。
(3).「宗像から来る」に補足すると、天孫降臨以前の誓約の記事に、『乃ち日神の生せる三の女神を以て、筑紫洲に降りまさしむ。因りて教へて曰はく、「汝三の神、道の中に降り居して、天孫を助け奉りて、天孫の為に祭られよ」とのたまう』(書紀、神代第六段の一書第一)とある。この三の女神は第六段の本文で「筑紫の胸肩君等が祭る神、是なり」とも書かれ、天孫が宗像から降臨した事実を前提に記述されたことが伺える。
(4).「吾田長屋笠狹之碕」の「吾田長屋」は、今宿には井田、有田、宇田など「田」の地名が多く、また、長浜、長垂山などの「長」の地名もあり、「吾田長屋」は今宿の地名と思われる。
まとめると、二番目
「既而皇孫遊行之状也者、則自?日二上天浮橋立於浮渚在平處、而膂宍之空國自頓丘覓國行去、到於吾田長屋笠狹之碕矣。」
「さて、皇孫がすすんできた状況は、まず、クシフル岳の天製の浮き板を平らな処にある浮き島に立てさせて、そして、うまし国の宗像から丘続きに良い国を求めて通り、吾田の長屋にある笠狭の岬についた。」
最後の第三番目の文面となった。クシフル岳の先住者への了解である
『其の地に一の人有り。自ら事勝國勝長狹と号する。皇孫問ひて曰はく、「國在りや以不や」對えて曰さく、「此に國有り。請はくは任意に遊せ」とまうす。故、皇孫就きて留住ります。』
この文面はこのままに理解できる。宗像からニニギノ命が笠狭の岬(今宿)に着いたとき、笠狭には国主の事勝國勝長狹が居り、ニニギノ命が住むことを了解する。同じ内容が一書の第二、第四、第六にあり、了解を得たことが強調されている。そこで、「故、皇孫就きて留住ります。」と、ニニギノ命は笠沙に留まり住んだのである。
その後、ニニギノ命は「久しくして、天津彦彦火瓊瓊杵尊崩ります。因りて筑紫の日向の可愛の山陵に葬りまつる。」(神代下第九段本文の末尾)と、クシフル岳の周辺に葬られている。
ニニギノ命は笠狭に侵入し、そこに住み、その地の山に葬られた。「笠沙」は今宿にあった。大胆にも、ニニギノ命は先住勢力の中心拠点の裏山を占拠したのである。
天孫降臨地を糸島の日向とされた論から、記紀の説話を読み解いたものである
(1)九段一書第二
「故天津彦火瓊瓊杵尊降到於日向[木患]日高千穂之峰。而膂宍胸副国自頓丘覓国行去、立於浮渚在平地、乃召国主事勝国勝長狭而訪之。」
「それで、アマツヒコホホニニギの尊は、日向のクシヒの高千穂の峯に到着した。すなわち、うまし国の宗像から丘続きに良い国を求めて通り、平らな処にある浮き島に立ち、国主の事勝国勝長狭をお招きして、質問した。」
(2)九段一書第四
「于時大伴連遠祖天忍日命、帥来目部遠祖天[木患]津大来目、背負天磐靫、臂著稜威高鞆、手捉天梔弓・天羽羽矢、及副持八目鳴鏑、又帯頭槌剣、而立天孫之前。遊行降来、到於日向襲之高千穂[木患]日二上峰、天浮橋而立於浮渚在之平地。膂宍空国自頓丘覓国行去、到於吾田長屋笠狭之御碕。時彼処有一神名曰事勝国勝長狭。」
「そのとき、(略)部下は天孫の前に立ち、行く先をすすんで行き、日向の襲の高千穂のクシヒの二上の峯に到着し、天製の浮き板を平らな処にある浮き島にたてた。(皇孫は)うまし国の宗像から丘続きに良い国を求めて通り、吾田の長屋の笠狭の岬に到着した。そのとき、そこに主がいた。事勝国勝長狭と名乗った。」
(3)九段一書第六
「故称此神曰天国饒石彦火瓊瓊杵尊。于時降到之処者、呼曰日向襲之高千穂添山峰矣。及其遊行之時也、云云。到于吾田笠狭之御碕、遂登長屋之竹嶋。乃巡覧其地者、彼有人焉。名曰事勝国勝長狭。」「そこで、この神を褒めて、天国饒石彦火瓊瓊杵尊という。その時、降臨して到着された所を日向の襲の高千穂の添山峰という。その有様は云々。吾田の笠沙の岬に着かれ、ついに長屋の竹島に登られた。すると、そこに人がいるのを見つけた。その人は、事勝国勝長狭と名乗られた。」