大国主神と大物主神
『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。
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大神神社
桜井市三輪 交通案内
JR三輪駅東、近鉄桜井駅北口からバス三輪明神参道口
JR・近鉄の桜井駅からの山辺の道の途中に当たる。
祭神 大物主大神 配祀 大己貴神、少彦名神
主な境内摂社
狭井神社 「大神荒魂神」 三輪山への登り口
檜原神社 「天照若御魂神、伊弉諾尊、伊弉册尊」
高宮神社「日向御子神」三輪山の頂上に坐す。
磐座神社「少彦名神」
神坐日向神社 「櫛御方命、飯肩巣見命、武甕槌命」
その他の摂社、末社、雑社も多数鎮座。
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大穴牟遅神/大名持神/大汝神:おおなむちのかみ
大国主神:おおくにぬしのかみ
大物主命:おおものぬしのみこと
八千矛神/八千戈神:やちほこのかみ
葦原色許男神/葦原醜男神:あしわらしこをのかみ
顕国玉神/宇都志国玉神:うつしくにたまのかみ
国作大己貴命:くにつくりのおおあなむちのみこと
所造天下大神:あめのしたつくらししおおかみ
所造天下大穴持命:あめのしたつくらししおおなもちのみこと
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大国主とは、大国を治める帝王の意味。大黒様としても知られる神。
大穴牟遅とは、大名持で、功績多く著名なという意味であり、また大地持(地をナと訓む例には地主(なぬし)・地寄(なよせ)などがある)。
葦原色許男とは、葦原は葦原之中国(日本本土)のこと、色許は醜で、威力を称えた言葉であり、日本本土を治める強い偉い人の意。
八千矛とは、多くの矛を持つ神、即ち武威の神名。宇都志国玉は現国御魂の義で、現在の国の守護神。
大物主とは、大国主(荒魂)に対する和魂、幸魂、奇魂。 大物のモノは精霊を指す語で、もろもろの精霊の首領。 もともとは三輪山、すなわち御諸の山にいた蛇体の神。
大物主神を祀る大神氏の祖である大田田根子の出自の話は、活玉依毘売のもとに通った苧環(おだまき)系統-蛇など異類が男性となり姫のもとに通い、 ある時不審に思った母娘が、男の袖などに糸を通した針をさして、男が去ったあとを糸に添ってたどって行くと、 婿は蛇等であったという神話で、そのもとになるのが三輪山神話。
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勢夜陀多良比売との出逢い
勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。勢夜陀多良比売に何とか声をかけようと、大物主は赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。こうして生れた子が比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)で、後に神武天皇の后となった。
倭迹迹日百襲姫の悲劇
箸墓古墳と関連があるとされる伝承である。倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)は、夜ごと訪ねてくる男性に「ぜひ顔をみたい」と頼む。男は最初拒否するが、断りきれず、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝小物入れをのぞくよう話した。朝になって百襲姫が小物入れをのぞくと、小さな黒蛇の姿があった。驚いた百襲姫が尻もちをついたところ、置いてあった箸が陰部に刺さり、この世を去ってしまったという。
活玉依比売の懐胎
活玉依比売(イクタマヨリビメ)の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。しかし活玉依比売はそれからすぐに身篭ってしまった。不審に思った父母が問いつめた所、活玉依比売は、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという。
意富多多泥古の祭祀
崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れ、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(太田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依比売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である。なお、『古事記』では、三輪大神は意富美和之大神とされる。
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出雲神話の始祖。須佐之男神の御子、あるいは六世の孫、七世の孫などとされている。日本神語の中心となる神で特に出雲神話の主役。
『古事記』によると、須佐之男神と櫛名田比売の子が、八島士奴美神。
八島士奴美神と木花知流比売の子が、布波能母遅久奴須奴神。
布波能母遅久奴須奴神と日河比売命の子が、深淵之水夜礼花神。
深淵之水夜礼花神と天之都度閇知泥神の子が、淤美豆奴神。
淤美豆奴神と布帝耳神の子が、天之冬衣神。
天之冬衣神と刺国若比売の子が、大国主神となっている。
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住吉大社は元来「津守連」が奉仕している神社であり、『新撰姓氏録』
和泉国神別に、
「火明命の男天香山命の後裔」
とある
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そして、綏靖・安寧・懿徳天皇らの皇后は、「磯城県主」の娘で共通しています。『欠史八代皇后一覧表』にみる「書記一書の1」に限れば、綏靖の皇后が「磯城県主」の娘、そして安寧・懿徳・孝昭・孝安天皇の連続した四代の皇后が、「磯城県主葉江」の娘(懿徳は葉江の弟猪手の娘)なのです。
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鳥見の白庭
饒速日は三炊屋媛の夢の中で「天羽弓矢、羽羽矢、神衣帯手貫の三つのものを鳥見の白庭邑に埋葬し墓とするように」と言っている。饒速日は白庭山に移り定住し、白庭邑には墓をつくらせた。このことから、饒速日の拠点は白庭という地であったことがわかる。それではこの鳥見の白庭とは一体どこにあったのだろうか。
通説では、この鳥見は桜井市のJR桜井駅の東にある外山(とび)のあたりと言われている。鳥見の範囲はわからないが、北北東数キロのところに三輪山があり、この三輪山を饒速日がまったく気に留めなかったということは考えられない。外山は三輪山の裾野にあるといってもよい。
その三輪山の山頂には奥津磐座(いわくら)、中腹付近には中津磐座、山麓付近には辺津(へつ)磐座がある。饒速日が「鳥見の白庭邑に埋葬し墓とするように」と言った、「天羽弓矢、羽羽矢、神衣帯手貫」は奥津磐座、中津磐座、辺津磐座にそれぞれ埋葬されているのではないか
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『神奈備・大神・三輪明神』に水野正好さん(奈良大学学長)が書いているところによりますと、大和の聖なる山、三輪山の西麓や南麓には出雲の名が残っており、三輪山を御神体とし大物主(おおものぬし)神を祀る大神(おおみわ)神社の周辺は、もともと出雲出身の氏族が住むところであった、ということです。 大神神社は、もともと出雲氏の氏神的な神社だったようです。
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大物主神は饒速日尊か
神武天皇と饒速日
長髄彦はこの三輪の大神を祀っており、饒速日命は石上大神を祀っており、両者が手を組んでいる間は、神武東征も成功しなかった。饒速日命を取り込み長髄彦と戦わせたことが東征の成就であると記紀は語っている
原田常治氏の調べでは、神名に「大物主」が入っている神を祭っている神社は大神神社(三輪神社)、金刀比羅宮、来待神社であるが、『特選神名牒』には金刀比羅宮はなく、来待神社の祭神は「大国主神」となっている。来待神社の「大国主神」は『日本書紀』の「大国主=大物主」によったものと思われる。また桜井市三輪の大神神社の祭神は、『特選神名牒』では「倭大物主櫛[瓦長]玉命」と、「櫛[瓦長]玉(くしみかたま)」がついている。
これらのことから、大物主神は正式には「大物主櫛瓶玉命」と呼ばれていたことがわかってくる。
次に饒速日尊であるが、『特選神名牒』に「饒速日」を含んだ神名のある神社は国津比古命神社だけで「櫛玉饒速日命」である。ところが原田常治氏の調べでは、その祭神は「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」とある。「天照国照彦火明」が付いている。当時の神社にはそう書かれていた
ところがこの「天照国照彦火明」と「櫛玉饒速日」が同一人物(神)であることを証明する史書がある。『先代旧事本紀』である。はじめに紹介した「天神本紀」に、饒速日は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」であるとはっきりと書いている。
『先代旧事本紀』は偽書ではないかと言われているが、安本美典氏は「古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎」で、多くの史料をもとに、『先代旧事本紀』は820年代に編纂されたもので、偽書とは言えない、としている。
饒速日は最高の名として「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」と呼ばれていたのである。
原田氏はまた、『古代日本正史』で次のように言っている。
素佐之男は速玉という玉を熊野山に埋めて、「速玉」とか「速玉男」とか、「武速素佐之男尊」などといわれた。この饒速日は奇玉、幸玉を三室山へ埋めた。そのため、奇(櫛)甕玉という諡号になっている。(中略)
当時は、「神」という言葉は素佐之男の別称で、「大神」という言葉は、この饒速日の別称だった。それで神社名も十代の崇神天皇がそのまま「大神神社」という名で祀った。現在はこれをオオミワ神社と読ませている。
さらに原田氏は、出雲の須我神社の境内摂社の琴平神社の祭神が大歳であり、琴平は大物主櫛玉饒速日尊であるから(金刀比羅宮の祭神が大物主神であり、大物主神は饒速日尊であるという原田氏の見方による)、大歳は饒速日であることがはっきりしたという
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志貴御県坐神社
式内社調査報告(1982)によれば、
「現在、大己貴神を祀る(志貴御県坐神社明細帳)」とあるが、境内に案内表示が見えず、真偽不明。
一方、大和岩雄氏(日本の神々4・収録・志貴御県坐神社-2000)は、饒速日・弟磯城の2説を挙げている。
饒速日命(ニギハヤヒ)
新撰姓氏禄(815)に「大和国神別(天神) 志貴連(シキノムラジ) 神饒速日命孫日子湯支(ヒコユキ)命之後也」
また先代旧事本紀(9世紀後半・物部氏系史書)にも、「ニギハヤヒ七世の孫・建新川命(タケニイカワ)および八世の孫・物部印岐美石連公(モノノベノイキミノムラジキミ)は、志貴県主(シキアガタヌシ)の祖である」とあることから、物部氏系の志貴連(県主)が、その遠祖・ニギハヤヒを祀った(志貴県主は、天武朝の御代、連の姓を賜っている)。
・弟磯城(オトシキ)
日本書紀・神武紀に「弟磯城(オトシキ)-名は黒速(クロハヤ)を、(橿原宮で即位したとき)磯城(志貴)の県主とされた」
また先代旧事本紀には、「志貴県主の兄磯城を誅(ツミナ)ふ。弟磯城を以て志貴県主と為す」とあり、神武天皇の大和侵攻に際して、抵抗して誅殺された志貴の豪族・兄磯城(エシキ)に代えて、帰順したオトシキを志貴県主としたとあることから、オトシキの後裔が、その遠祖・オトシキを祀った。
※創建由緒
社名にいう“御県”(ミアガタ)とは、古く、天皇の御饌に供える蔬菜を栽培するために設けられた御料地(直轄領)で、祈年祭祝詞によれば、大和国には志貴(志紀)御県ほかに五つの御県(高市・葛木・十市・山辺・曽布)があり、祈年祭(トシゴイノマツリ)では
「この六つの御県に生育する甘菜辛菜の蔬菜類を持ち来って、皇御孫命(スメミマ)の長久の召し上がりものとして、召し上がられます故、皇神等のその恩頼に対するお礼として、皇御孫命の立派な幣帛を捧げ奉る」(延喜式祝詞教本)
との祝詞が奏上されたという。
社名からみれば、当社は“志貴の御県に坐す神”を祀る神社となるが、その祭祀に係わったのは、この辺りを本貫とした古代豪族・志貴県主であろう。
志貴県主が何時の頃の氏族かははっきりしないが、日本書紀に見える第2代・綏靖天皇から第7代・孝霊天皇までの皇妃は、すべて磯城県主の子女とある。ただ、初代・神武から第9代・開化までの実在は疑問視されているから、その皇妃の実在もまた疑問といえるが、このような伝承があることは、古く、ヤマト朝廷の大王に妃をだすだけの実力を持った豪族・ヤマト朝廷が無視できない豪族が当地にいたことを示唆しており、それがオトシキを祖神とする氏族であり、ニギハヤヒを遠祖とする物部系の氏族であろう(両者の関係は不明だが、オトシキ系が先ではないかという)。ただ、その実体ははっきりしない。
古史書における当社の初見は、天平2年(730)の大倭国正税帳の「志貴御県神戸・・・」であり、遅くとも8世紀初頭には存在していたのは確からしい。また貞観元年(806)には、従五位下より従五位上に昇授している。
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大物主、大己貴を祀る神社
大神神社 奈良県桜井市三輪1422
漢国神社 奈良県奈良市漢国町6
村屋坐弥冨都比売神社 奈良県磯城郡田原本町大字蔵堂字大宮426
狹井坐大神荒魂神社 奈良県桜井市大字三輪狭井
志貴御縣坐神社 奈良県桜井市金屋896
和爾下神社 奈良県天理市櫟本町櫟本字宮山2490
和爾下神社 奈良県大和郡山市横田町字治道23
事比良神社 奈良県桜井市大字三輪字天王山
御杖神社 境内 金刀毘羅神社 道主貴神社 奈良県宇陀郡御杖村神末1020
大直禰子神社 境内 琴平社 奈良県桜井市大字三輪字若宮
八阪神社 境内 金比羅社 奈良県桜井市大字三輪字南天王山
夜都岐神社 境内 琴平神社 奈良県天理市乙木町字宮山765
金刀比羅宮 香川県仲多度郡琴平町892-1
金刀比羅神社 長崎県壱岐市芦辺町箱崎大左右触609
美和神社 岡山県瀬戸内市長船町東須恵字広高山1064
美和神社 岡山県瀬戸内市長船町福里341
美和神社 山梨県笛吹市御坂町二之宮1450
『丹後風土記残欠』に記事がある。
二石崎。
二石崎は古老伝えて曰く、往昔、天下平治の時に当たり、大己貴命と少彦名命斯地に致り坐して、二神相議り坐します、白と黒の繊砂を把り、更に天火明命を召し、詔して曰く、此石は是れ吾分霊也、汝命は宜しく斯地に奉祭れ、然れば則ち天地之共、波浪鴻荒たりと雖も、ツユ邦内を犯すことなくる。天火明命は詔に随い、其霊石を崇きたまう。則ち左右黒白に分れて神験有り。今にたがへず。故に其地を名つげて二石崎と曰う。後世土俗言瀬崎は誤りなり。(以下四行虫食)(原漢文)
大己貴神は大穴持とも呼ばれる、大きな鉱山を持つ者という意味ともいわれるし、少彦名は砂鉄の象徴とも言われる。鉄砂ならば鉄鉱山にかかわる伝承かもしれないのである。『播磨風土記』によれば、大汝命の子・火明命は強情で行状も非常にたけだけしかった、父親は思い悩んで、棄てて逃れようとした。火明命は風波を起こして、逃げる父親の舟を打ち壊したとある。火明命は大己貴神の子であり、海神として描かれている。父親がそうであれば、火明命も一面では鉄と関係のある神であったと思われる。
欠史8代の皇后 志貴県主