大伴武日
景行天皇40年7月16日条によれば、日本武尊の東征に際して、吉備武彦とともに従者に任じられている。東征では、甲斐の酒折宮(山梨県甲府市酒折に比定)において日本武尊から靭部(ゆげいのとものお)を賜ったという。
『日本三代実録』貞観3年(861年)11月11日条では、伴善男の奏言のうちで、大伴健日(武日)は景行天皇の時に倭武命(日本武尊)に従って東国を平定し、その功で讃岐国を賜ったと見える。またその奏言では、子の大伴健持(武以/武持)を始めとして子孫の名が記載されるが、その中で允恭天皇朝には倭胡連公が讃岐国造に任じられたとある。
『日本書紀』垂仁天皇25年2月8日条では、武渟川別(阿倍臣祖)・彦国葺(和珥臣祖)・大鹿島(中臣連祖)・十千根(物部連祖)らとともに「大夫(まえつきみ)」の1人に数えられており、天皇から神祇祭祀のことを命じられている
古語拾遺や大伴氏系図では高皇産霊(たかみむすび)尊の子としている。神武東征に従って活躍した道臣命(みちのおみ)は天忍日命の曾孫とする。
天忍日命を御祭神として祀る神社は稀であり、降幡(ふるはた)神社(大坂府南河内郡河南町、明治末年に一須賀神社に合祀された)、油日(あぶらひ)神社(滋賀県甲賀市)、野保佐(やほさ)神社(長崎県壱岐市)など数社に過ぎない。壱岐の野保佐神社には大久米命も祀られている。
陸奥国に金を出だす詔書を寿ぐ歌一首の大久米主
大伴の遠つ神祖の その名をば 大久米主と負い持ちて(呼ばれて) 仕へし官(ツカサ、職柄) 海行かば水漬く屍(水びたしの屍) 山行かば草生す屍(草むした屍) 大君の辺(ヘ・お側)にこそ死なめ 顧みはせじ(後悔はしない) と言立て(誓って)・・・
との歌を挙げ、大伴氏の遠い祖先の名が大久米主と呼ばれている。
久米氏の系図(古代豪族系図収覧・1993)では
高皇産霊神--○--○--天津久米命--○--大久米命--○--○--味耳--
とあり、天津久米命(天槵津大来目命)は大久米命の祖父となっている。
来目(久米・クメ)に関わる伝承
神武東征の伝説に、八咫烏(ヤタガラス)の導きで大和入りする時に活躍し、その功により、『大来目をして畝傍山の西の川辺に居らしめたまふ。今、来目邑(クメムラ)と号(ナヅ)く』との記載がある。
書紀・垂仁27年紀に『是歳、屯倉(ミヤケ)を来目邑に興す』とみえ、久米村の地に王家の米倉がもうけられており、久米氏の祖神として奉斎されたこの神社は、かなり古い時期にまでたどることができる」とある。
天孫降臨の段(古事記)--そのとき天忍日命(アメノオシヒ)・天津久米命(アマツクメ)の二人は、立派な靫(ユキ・矢を入れて背に負う武具)を負ひ、頭椎(クブツチ)の太刀を腰に着け、櫨弓(ハジユミ、強力な霊力が潜む弓)を手に取り、真鹿児矢(マカコヤ・同じく矢)を手鋏みに持って、天孫の先に立ってお仕え申し上げた。アメノオシヒ命は大伴連等の祖、アマツクメ命は久米直等の祖である。
書紀(一書4)大伴連の遠祖である天忍日命が、来目部の遠祖・天槵津大来目(アメクシツノオオクメ)を率いて、・・・(記と同じ武装の様を列記)・・・天孫の前に立って降って行き・・・
神武東征の段(古事記)--(宇陀の兄宇迦斯-エウカシ-が屋敷に罠を設けて神武を迎えようとしていると聞いて)大伴連の祖先・道臣命(ミチノオミ)と久米直の祖・大久米命の二人が、エウカシに向かって「おまえが造った御殿の中に、おまえがまず入って、仕えようとする有様をはっきり見せろ」とエウカシを屋敷の中に追い込んだところ、エウカシは自分が仕掛けた押罠(オシワナ)に打たれて死んでしまった(書紀ではミチノオミのみでオオクメの名はない)。
神武即位後(古事記)--天皇が皇后とする乙女を探し求められたとき、大久米命が「神の御子とされる乙女、オオクニヌシの娘・比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)がおられます」といった(書紀には“ある人が・・・”とある)。
書紀(神武即位前期)--(熊野で道に迷った神武を八咫烏が先導した時)大伴氏の先祖・日臣命(ヒノオミ=道臣命)は、大来目を率いて、大軍の統率者として、山を越え路を踏み分けて、烏の導きのままに仰ぎながら追いかけ、ついに宇陀の下道(ツモツコホリ)に着いた(古事記にはみえない)。
書紀(神武即位前期)--(八十哮師の残党の勢いが強かったので、神武は)密かに道臣命を呼んで、「お前は大来目部を率いて、大室を忍坂邑(オサカノムラ、桜井市忍坂付近)に造って、盛んに酒宴を催し、敵をだまして討ち取れ」と命じられた。そこでミチノオミは忍坂に室を造り、敵を招いて盛大な酒宴を催し、敵が酒に酔ったところをみみはからって、道臣命の「忍坂の大室屋に 人多(サワ)に来入り居りとも みつみつし来目の子等が 頭椎(クブツツ)い石椎(イシツツ)い持ち 撃ちてし止まむ」との歌を合図に、料理人に化けていた米目の兵士たちが隠し持った武器をもって立ち敵兵を皆殺しにした(大意、古事記では、合図の歌の中に「勢い盛んな久米の子ら・・・」とある)。
神武即位後書紀(神武元年)--天皇が国政を始められる日に、大伴氏の先祖・道臣命が大来目部を率いて密命を受け、諷歌(ソエウタ、他のものになぞらえた諷刺歌)・倒語(サカシマゴト、味方だけに通じる隠語)をもって災いを払い除いた(古事記には見えない)。
神武即位後書紀(神武2年2月)--天皇は論功行賞をおこなわれた。道臣命は宅地を賜り築坂邑(ツキサカムラ、橿原市鳥屋町付近)に居らしめて特に目をかけられた。また大久米を畝傍山以西の川辺の地に居らしめた。今、来目邑と呼ぶのはこの縁である(古事記にはみえない)。
垂仁天皇紀
・5年条--冬10月1日、天皇は来目にお越しになり、高宮におられた。
・27年条--この年、屯倉(ミヤケ・朝廷直轄の田畑および収穫物を収納する倉庫)を来目邑に興(タ)てた。
(古事記は久米、書紀は来目と表記が異なるが、以下、久米と記す)
記紀にみる久米氏のほとんどが、戦闘にかかわる場面で登場するように、久米氏は大伴氏とともに古代ヤマト朝廷において軍事に携わった氏族という(親衛隊的氏族)。しかし、その記述内容は、古事記では大伴氏と久米氏は同格として並記されているが、書紀のそれは大伴氏に従うものとして記されており、格において違いがみえる。
古事記注釈(1975、西郷信綱)は
・大伴という名は、多くの伴(伴造-トモノミヤツコ、職能集団)を有しそれを率いているのにもとずく名で、久米氏もそれら伴のひとつであったらしい。
・大伴氏の姓(カバネ)は、古代氏姓制度での最高位である“臣”(オミ)とともに朝政に関与する“連”(ムラジ)であったが(雄略朝で大伴室屋が大連となって朝政を主導した)、久米氏のそれは格下の“直”(アタイ、国造級に与えられる姓)でしかなかった。
として、久米氏は古くから大伴氏に属する格下の氏族ではなかったかとして、その傍証として、万葉集にある大伴家持の
陸奥国に金を出だす詔書を寿ぐ歌一首に
大伴の遠つ神祖の その名をば 大久米主と負い持ちて(呼ばれて) 仕へし官(ツカサ、職柄) 海行かば水漬く屍(水びたしの屍) 山行かば草生す屍(草むした屍) 大君の辺(ヘ・お側)にこそ死なめ 顧みはせじ(後悔はしない) と言立て(誓って)・・・
との歌を挙げ、その中で、大伴氏の遠い祖先の名が大久米主と呼ばれていることから、
「家持ちが自家の祖先の名を取り違えたとは思われず、かかる名が大伴の遠い神祖の名でありえたのは、そもそも最初から久米氏が大伴氏に属していた消息を物語ってはいないだろうか」という(大意)。
大伴氏
道臣命(別名 日臣命:ひのおみのみこと)は、大伴連の祖。天忍日命の後裔である
『古語拾遺』では、高皇産霊神の娘・栲幡千千姫の子で、大伴宿禰の祖。
また、太玉命、瓊瓊杵尊と同母兄弟とある。
- 神武天皇東征の時、大久米命と共に、兄宇迦斯を討った。『日本書紀』では、大伴氏の遠祖・日臣命が、導きの功によって道臣の姓を賜ったとある。
- また『日本書紀』では、道臣命は大来目を率いて、八咫烏の導きで莵田の下県に達する話。 兄猾を討つ話。天皇が顕斎(うつしいわい)をしようとした時、斎主として厳媛の名を授けた話。 大来目部を率いて歌を合図に八十梟師の残党を討つ話。 天皇即位の日に諷歌倒語を以って妖気を祓った話。論功賞で宅地を賜った話などが記されている。
天忍日命━天津彦日中咋命━日臣命━味日命━雅日臣命━大日命━角日命━豊日命━大伴武日 |
談 | ━ | 金村 | ━ | 狭手彦 | ━ | 糠手 |
天忍日命(?-?)
父:天石門別命(別説:安国玉主命など色々)母:不明
大伴氏の始祖。
④記記事:天孫降臨の際、天久米命と共に天孫に仕えた。
日臣命(?-?)
父:刺田比古(別説:天津日など色々)母:不明
天忍日の曾孫。別名「道臣命」
神武東征に際し、大久米命を率い熊野から宇陀までの道を通した。この功により「道臣」の名を賜った、とされる。
色々活躍し、神武即位の翌年、築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜る。
武日命(?-?)
父:豊日 母:不明
道臣の7世孫。
記紀記事:11垂仁朝に阿倍臣遠祖「武渟川別」和邇臣遠祖「彦国葺」中臣連遠祖「大鹿嶋」物部連遠祖「十千根」と共に、厚く神祇を祭祀せよとの詔を賜る。景行朝に、日本武尊の東征に吉備武彦と共に従い、その功により、靫負部を賜る。
・大伴連武持(?-?)
父:武日 母:不明
子供:室屋、諸説ある。室屋までに佐彦、山前などが入っている系図もある。
14仲哀朝の四大夫。伴氏系図では「初賜大伴宿禰姓」とある。「大連」となったとの記事もある。
大伴連室屋(???-???5世紀)
父;大伴武持 母;不明
新撰姓氏録では、天忍日の11世孫、道臣の7世孫。となっている。子供:談、御物(異説あり)
19允恭大王時、衣通郎姫のため藤原部を定める。大伴氏の実在がはっきり信じられる のは、室屋以降である。21雄略大王即位に伴い、物部連目と共に”大連”となる。21雄略崩御後、「東漢直掬」に命じ兵を起こし、「星川皇子の乱」を鎮圧。
22清寧大王時 、子供のいない22清寧の名を遺すため、諸国に白髪部舎人、膳夫(かしわで)等を置く。
25武烈大王まで5代にわたり、大連として政権を掌握した。一説に、大伴氏の本来の職掌は、「部」の設置にあったという(直木孝次郎氏)
大伴連談(カタリ)(???-雄略9年)
父;大伴室屋 母;不明
子供;「金村」 「歌」(佐伯氏祖ーーー9代後 僧「空海」***)
21雄略9年 紀小弓、蘇我韓子らと共に新羅討伐を命じられ遠征。
現地で戦死。
久米歌
<古事記 中巻 神武天皇 四より>
忍坂の大室屋に人多に来入り居り 人多に入る居りとも
みつみつし久米の子が 頭椎い石椎いもち 撃ちてしやまむ
みつみつし久米の子らが 頭椎い石椎いもち 今撃たば宜し
<現代語訳>
忍坂の大きな土室に、人が数多く集まって入っている。どんなに人が多くても、
勢い盛んな久米部の兵士が、頭椎の太刀や石椎の太刀でもって、撃ち取ってしまうぞ。
勢い盛んな久米部の兵士が、頭椎の太刀や石椎の太刀でもって、今撃ったらよいぞ。
楯並めて 伊那佐の山のこの間よも い行きまもらひ戦へば
吾はや飢ぬ 島つ鳥鵜養が伴 今助けに来ね
<現代語訳>
楯を並べて伊那佐の山の木の間を通って行きながら、敵の様子を見守って戦ったので、
我々は腹がへった。鵜養部の者どもよ、今すぐ助けに来てくれ。
諸説に、大伴氏は来目から出たとも。
『日本書記』星川王の乱条に、星川関係者の河内三野縣主小根は星川反乱の罪を逃れるため、大伴室屋大連に「難波来目邑大井戸田10町」を、草香部吉士漢彦に田地を贈ったとある
『日本古典大系・日本書記』頭注には久米氏は「紀伊国名草郡岡崎村」と本拠とする氏族の可能性が示唆してある。
久米氏は海部としての久米部を管理するよう指示された氏族であろうから、その出身を畿内に求めるのも致し方ないが、久米部そのものの出自は筑紫に久米があり、また南九州奄美に久米島があり、南海の海人族と見てよかろう
大伴氏は雄略・継体まで、西国の靫負集団(ゆげいしゅうだん・弓矢で相手を威嚇する門番)を統率しており、同族には佐伯氏、東国支配の膳氏とも同族で、佐伯氏と紀氏の関係から、紀氏とも婚姻があったと考えられるが、もっとも古い同族が久米氏である。その上下関係は諸説あるが、5世紀までに大伴>久米となったと見てよかろう。
雄略が滅ぼした葛城氏と、その後の王権の関係修復に、久米氏はかなり尽力したといわれ、それを支えていたのが大伴氏だとも言う(高橋富雄氏)。
衰退した吉備を紀氏とともに再建して行ったのも久米氏である。鉄生産を掌握し、これを基盤として大伴連金村は継体大王を擁立できたと見られる。凡直氏が牛耳っていた四国伊予に割り込んだのも久米氏である。継体が多くの海人氏族に推挙された理由も久米や安曇や海部や紀氏や物部氏や尾張氏らの根回しがあったかも知れない。そもそも越前気比から九頭竜川までは継体母方の三尾(みお)氏の本拠地で、奇しくも先日、琵琶湖安曇川(高島市三尾(水尾))の遺跡から新たに古墳後期の円墳が出た。父方息長氏も安曇と関わる海人氏族ゆえ、継体の海のネットワークは全国規模である。