坂本臣、紀角宿禰、根使主、日子坐王、日下部氏

皇妃を輩出した草香部氏

履中朝から雄略朝まで、草香部氏が皇妃を擁立している。五世紀中葉以降、皇妃の家柄は唯一草香部氏である。継体の元妃、「尾張連草香の女、目子媛」という時の草香もやはり草香部氏であろう。
(履中)草香幡梭皇女
(允恭)忍坂大中姫
(安康)中蒂皇女(長田大娘皇女)=大草香皇子の妻
(雄略)草香幡梭姫皇女

根使主(根臣)の悲劇と坂本臣

安康天皇は大草香皇子のところに根使主(ねのおみ)を遣わし、弟の大泊瀬皇子と大草香皇子の妹・草香幡梭皇女を結婚させようとした。この頃、大草香皇子は重病を患っており、自分の死後の妹の身を案じていた。そんなときに大王の弟との縁談が降ってきたのである。断るはずがなかった。
大草香皇子は天皇の申し入れを承諾し、家宝の押木玉縵を信契として天皇に奉った。
ところが、根使主がこの押木玉縵の麗美さに感嘆し、自分の宝として着服してしまい、さらに、 大草香皇子が命を奉じないと偽りの報告をした。
天皇は大いに怒って、大草香皇子の家を囲んで殺し、そして幡梭皇女を大泊瀬皇子と結婚させた。

其の後

雄略天皇14年に、雄略天皇が呉人たちを招いて会食を行おうとしました。
その接待係に任命されたのが根使主(根臣)だったのです。
天皇が、石上の高抜原に設営された会場へ、舎人に装飾を視察に行かせました。
その舎人が戻ってきて天皇に報告をしました中に、
「根使主が身に着けられておられた玉縵が大層すばらしいものでした。本番の時にも着けられるそうです」
と、いうものがありました。
その言葉に天皇は、「それはぜひ1度見てみたいものだ」と、望まれ、本番で着る衣裳を着て宮殿に来るよう命じましたが、宮殿に現れた根使主の姿を見た皇后は急に泣き出しました。
天皇が、その理由を訪ねますと、
「この玉縵はその昔、大草香王(大日下王)が安康天皇より、私をあなたに進(たてまつ)
るよう、勅命を承った時に、兄が礼物として献上したものです」
と、答えたので、天皇は驚き、続いて激怒して根使主を詰問しますと、根使主は、
「間違いございません。死罪となっても仕方ありません」
と、答えました。
天皇は、その場で斬り捨てようとする勢いで、根使主は日根(現在の大阪府泉佐野市周辺)
に逃げますと、そこに稲城を築いて籠城しました。しかし、天皇の送った軍の前に敗れ去り斬られたのでした。
戦いの後、天皇は根使主の一族を2つに分け、一方を大草香部民(おおくさかべのたみ)として皇后に与え、もう一方を負嚢者(ふくろかつぎびと)にして茅渟県主に与えました。
さらに、大草香王が殺害された時に、王に殉死した難波吉士日香香(なにわのきしひかか)とその二人の息子の子孫を探し出して、大草香部吉士(おおくさかべのきし)の姓を授けました。
その後、根使主の子、小根使主は、人に、 「天皇の城は堅固にあらず。わが父の城は堅固なり」
と、語ったのが天皇の知るところとなり、家臣に根使主の邸宅を見に行かせたところ、本当に
立派過ぎる邸宅であったので、小根使主を捕らえて処刑してしまいました。
根使主の本宗はこれより後は坂本臣となりました。

この伝承の最後には、根使主の一族が坂本臣となった、と記されますが、『古事記』にも、
「坂本臣の祖根臣」と記されています。
さらに、『古事記』によれば、坂本臣は建内宿禰の子孫とあります。
建内宿禰には7人の息子がいましたが、そのひとりに葛城氏の祖葛城曾都毘古がいるのですが、他の6人のうち、木角宿禰(キノツヌノスクネ)が坂本臣の祖だとします。
それは、 「木角宿禰(キノツヌノスクネ)は、木臣、都奴臣、坂本臣の祖」とあるからでしょう。

押木玉縵とは、

慶州で出土した金冠と同じ種類の宝物であると言われている。 押木とは、押し重なった樹枝形立飾を意味し、玉縵とは、縵草の類を輪にした髪飾り、転じて冠のことで、実際に慶州の、金冠塚や瑞鳳塚、天馬塚などから出土している、勾玉で飾った金製の冠のことである。 

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竹取物語の蓬莱の玉の枝: くらもち皇子

蓬莱の玉の枝 『竹取物語』の求婚難題物の一つで、蓬莱山にある不老不死の薬となる玉の枝のことである「くらもちの皇子には、東の海に蓬莱の玉の枝といふ山あんなり。そこに銀を根とし、金を茎として、白き玉を実としたる木あり。それ一枝折りて給はらむ」「竹取の翁申し給ひし蓬莱の玉の枝を、一つの所あやまたず持ちておはしませり」以上『竹取物語』。さらに『うつほ物語』「内侍のかみ」に「蓬莱の山へ不死薬取りに渡らむこそ、童男、艸女だに、その使に立ちて、船の中にて老い、『島浮かべども、蓬莱を見ず』とこそ嘆きためれ」と見えている。

解説:かぐや姫に求婚した5人の貴公子のうちの3人(阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂)までは実在の人物であり、残り2人も実在の人物がモデルであると考えられる。ここで2人のうち車持皇子は不比等の母は車持氏出身であり、「皇子」も平安当時彼が天皇の御落胤と広く信じられていたことが不比等に合致しており、これがモデル説の根拠となっている。ちなみにもう1人の求婚者である石作皇子は宣化天皇の玄孫である多治比嶋がモデルの候補としてあげられている。

本拠地は泉佐野市日根野
根使主が稲城を造り籠城した日根は、大阪府にあった日根郡(現在も大阪府泉佐野市に日根野の地名を残しています)のことと解釈されていますし、坂本氏の本拠も大阪府和泉市の阪本町や東阪本町だとされているのです。大阪府でも、志幾大県主が旧河内国の勢力であり、根臣・坂本臣は旧和泉国の勢力です。

国造本記
河内国造「神武朝の御代に、彦己曾根(ヒココソネ・乎田部連と同一人という)を河内国造とした。即ち凡河内氏の祖也」
古代河内国・摂津国・和泉国全般に勢力を張っていた豪族が凡河内氏。
(天津彦根系の系譜は、天津彦根--天津彦根--天津御影(アマツミカゲ)--○--彦己曾根(凡河内国造)→凡河内氏という)

和泉国造(いずみのくにのみやつこ)
元は河内の国で霊亀[元正天皇]元年に割いて茅野監(ちののつかさ)を置く。改めて国とした。元は珍努官(ちぬのつかさ)

新撰姓氏録

新撰姓氏禄(815)によれば、
・摂津国神別・天孫 凡河内忌寸 額田部湯坐連(ヌカタベノユエ)同祖
(河内国神別・天孫 額田部湯坐連 天津彦根命五世孫乎田部連(オタベ?)之後也)
・摂津国神別・天孫 国造(摂津国造) 天津彦根命男天戸間見命之後也
・河内国神別・天孫 凡河内忌寸 天津彦根命之後也
・摂津国神別・天孫 凡河内忌寸 天穂日命十三世孫可美乾飯根命(ウマシカラヒネ)之後也

・左京 皇別   坂本朝臣 朝臣 紀朝臣同祖 紀角宿祢男白城宿祢之後也
・左京 皇別   角朝臣 朝臣 紀朝臣同祖 紀角宿祢之後 日本紀合
・摂津国 皇別 坂本臣 臣 紀朝臣同祖 彦太忍信命孫武内宿祢命之後也
・河内国 皇別 蘇何     彦太忍信命之後也

・左京 皇別   上毛野坂本朝臣 朝臣 上毛野同祖 豊城入彦命十世孫佐太公之後也   続日本紀合

・摂津国 神別 天孫 凡河内忌寸 忌寸   天穂日神十三世孫可美乾飯根命之後也 ウマシカラヒネ

根使主の子孫の坂本臣は推古朝の高官であり、祖先が袋かつぎ人であったようには見えない

摂津の鵜原の大河内氏
大草香皇子の妻で後に安康妃となる中蒂媛皇女は雄略即位前紀にはまたの名として長田大娘皇女となっている。草香部氏が摂津長田から妃を迎えているわけだが、これは草香部氏が長田の氏族と結びついているか、あるいは長田を統属したことを示している。
ところで、やはりこの長田と関係している氏族に大河内氏がある。摂津国菟原郡(西宮市)に河内国国魂神社があり、雄伴郡(神戸市長田区)に凡河内寺山がありこれが氏寺だという

継体天皇が淀川右岸までヤマト政権の勢力下においたのを契機に、淀川左岸の河内に勢力を有していた河内直が淀川右岸にまで進出した。河内の拡大したものとして凡河内国と称され、河内直は凡河内直の氏姓を得たのであろうという

大河内氏の勢力圏が本来、河内~淀川左岸だとすると、これは草香部氏の所在地域と重なっている。草香部氏は古くからの勢力で長田との関係も履中朝からが現れるが、大河内氏は、雄略紀に凡河内直香賜の名が始めて現れる氏族である。

坂本臣の坂本は『和名抄』の「和泉国和泉郡坂本郷」(大阪府和泉市阪本町付近)とされる。根使主の所在地は坂本であり、これを二分した一つを治めたのが茅渟県主とすれば、坂本は茅渟の領域にある。坂本は奈良時代に和泉監・和泉国府がおかれた和泉府中があった地であり、聖武天皇の珍努宮があったと推定されている地域である。

坂本臣というのは茅渟に入った草香部氏の別称と解される。根使主の「根」とはおそらく「在地」であり、草香部氏が坂本(茅渟)に侵攻し、在地勢力を制圧したということであろう。
『書紀』に坂本臣と大河内氏にともに「糠手」という人物が現れる。

 坂本臣糠手  推古八年  百済派遣
推古十八年 新羅・任那の使者を迎える
大河内直糠手 推古十六年裴世清を接待(『隋書』では小徳阿輩台)

この両者は同一人物であり、複姓であろう。ともに外交に関係し、外国から来た客の接待にあたっている。
根使主も交渉や接待を受けもった任務出会ったのであろう。

使主とは、王の使いか?

阿知使主は、今来の漢人を連れて来帰郷

『日本書紀』応神20年(289年)九月条には、「倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り」と伝わる。

笠原直使主は、武蔵の乱をおさめ屯倉を献上

武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい おみ)と同族の笠原直小杵(おき)は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上したという。

米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)やその弟の和邇日触使主は、大臣のような任務を遂行

米餅搗大使主のもとの名は「日布礼大使主」とされる(滋賀県神社庁)

日下部連使主と弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)

記紀では、「顕宗紀」の即位前記に履中天皇の御子市辺押羽皇子が皇統争いから雄略天皇に殺されることになった時、弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を連れて丹波国余社郡に避難した日下部連使主と吾田彦(使主の子)の記事が日下部の初見である。日下部連使主の子とされる吾田彦の名から、吾田(隼人)族と日下部氏の関わりが想起される。また、『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”と記載があることは注目に値する。

中臣烏賊津使主は、神託を司る審神者

仲哀天皇,神功(じんぐう)皇后につかえ,皇后が新羅(しらぎ)(朝鮮)出兵で神意をたずねた際,神託の判定者である審神者(さにわ)をつとめた。2世紀余もあととされる允恭(いんぎょう)天皇の舎人(とねり)にもこの名がある。「続日本紀」によれば,中臣氏の祖先とされる。名は烏賊津連,伊賀都(津)臣とも。

難波吉士の殉死
難波吉士日香々は大草香皇子の部下で大草香皇子が安康天皇に殺されたときに、大草香皇子を追って死んでしまった忠臣。
この難波吉士日香々に根使主の子孫の一部を与えた。

安康天皇 根使主は押木珠縵に目が眩む。大草香皇子の死
この時、難波吉師日香蛟(ナニワノキシヒカカ)の父と子は大草香皇子に仕えていました。その君が無罪なのに死んでしまうことに心を痛めて、父は王(=大草香皇子)の首を抱き、二人の子はそれぞれ王(=大草香皇子)の足を持ち、唱えて言いました。
「我が君!
罪も無く死んでしまうこと!
なんと悲しいことか!
我々、父子三人は生きていたときに仕えだのならば、死んで殉死しないなど臣下とは言えないだろう!」
すぐに自ら首を刎ねて、皇子の遺体のそばで死んでしまいました。

難波吉士日香々の子孫を探し求めて、姓を与えて大草香部吉士(オオクサカベノキシ)としました。その日香香(ヒカカ)たちの語(物語のこと)は穴穂天皇の紀にあります。

葛城と日向諸県君

安康天皇の父は允恭天皇。允恭天皇の母親は葛城の磐之媛。つまり磐之媛の孫にあたる「葛城の血統」です。一方、大草香皇子の父親は仁徳天皇、母親は日向髪長姫で、葛城の血が入っていない。大草香皇子は、仁徳天皇の皇子。母は日向諸県君牛諸井の娘・髪長媛。「大日下王」「波多ヒ能太郎子」とも書かれる。

雄略朝では東漢氏は王権の中枢にいる。

『書紀』によれば、 雄略は臨終にあたって、大伴室屋大連、東漢掬直に遺詔し たという。掬は阿知使主の子である。また雄略が愛寵した 人物は、檜隈民使博徳、身狭村主青の二人だったというが、 檜隈は東漢氏が応神より与えられて住んだ土地であり、身 狭も、檜隈の入り口にある土地である。檜隈の人、つまり 東漢氏が雄略王権を動かしている

神根神社 備前国三宮
当社は、もと現社地の500m東の、「古美山」に鎮座していたが、
建久年中に、現在地に鎮座したという。

祭神は、開化天皇の皇子、あるいは孫などとよばれ、大根王、神大根王などとされていたが、
文久元年、神根神社祠官・北川宗國の説により木花開耶姫命が、主流となった。ところで、記紀には大根王は記されていない。
大根王は、神大根王の誤記か、神大根王の父・日子坐王のことだろうか。

備前國和氣郡 神根神社
御祭神 木花開耶姫命
配祀 仲哀天皇 応神天皇 神功皇后 天照大神 豊受大神 素盞嗚尊 伊弉諾尊 伊弉冉尊 大己貴命 速玉男命 事解男命 大山祇神

『備陽國誌』 開化天皇皇子・大根王(記紀になし)
『吉備温故秘録』 開化天皇孫・神大根王
『吉備温故秘録』 鐸石別命(和気氏始祖)
『吉備温故秘録』 大中津日子命(和気氏本姓磐梨別公の祖)

神根神社は三代實録の貞観七年(八六五)七月 二十六日の項に「備前國正六位上神根神(中略)等並従五 位下」とあるのが初見である。『備前國神名帳』諸本及ぴ 『國内神名位階記』山本本には前記のとほり「従二位神根 大明神」「正二位神根大明神」とあり、『和気郡誌』には 「天正十八年十一月備前宇喜多中納言秀家卿家臣長船紀伊 守検地の節、數度の神位記、神田共悉く取り上ると云傅 へ……」とある。
當社は備前國の三宮とされ、寛文十年(一六七○)には岡 山藩主池田光政が和気郡奉行渡邊助左衛門に命じて社殿を 改築し、社領二石九斗及び神根本村字鯉の河原の新田三反 歩を寄進したといはれる。字鯉の河原の新田は享保十三年 (一七二八)九月の洪水によつて流失し、そのため文久元 年(一八六一)になつて祠官北川宗國によつて再興がはか られてゐる。
明治五年郷社に列し、同四十年一月二十七日神饌幣帛料 供進神社に指定された。
明治四十三年五月には神根村字板屋の御崎神社、字山津田の今伊勢神社、字門出の八幡神社、字南谷の素盞嗚神社、字和意谷の大山祇神社、字樫村 の熊野神社を合祀してゐる。
『備前國式内書上考録』によると、社頭に櫻の古木かあ り、これを神木と云ひ傅へてをり、そこが元の社殿のあつた 跡であるとしてゐる。また、そこから几そ二町ばかり隔て たところに宇鳥の木といふところがあり、元の烏居の跡と いひ、同所の「射場の元」といふ田地は祭典の際に「流鏑馬の神事」が行はれてゐた場所であると傳へてゐる。
-『式内社調査報告』-

日根神社
日根神社:ひね、大井堰大明神。
住所:泉佐野市日根野631
祭神:鵜葺草葺不合、玉依姫命
神紋:菊
由緒,伝承:「式内社」
和泉5社のひとつで日根荘の総社。祭神も天照大神、饒速日、軻遇突智、根連祖、允恭19、などありいろいろと伝承の多い社である。
神武東遷の時、日下坂の戦いで敗れ路を転じて紀伊に向う途中たちより戦勝を祈り、その後紀伊より大和を平定したことにより日根の神社と称す。
亦、昔神鳳大鳥郷に降り社を立てて之を祭る、是天照大神の権化にして初めて此に勧請したのは聖武45の時(仲哀14の時とも)。
記録では允恭19の時はじめて日根野の名がでる、允恭は衣通郎姫の為に日根に茅渟宮を造りよく遊猟したと伝わる。
雄略21の時、根使主は日根に稲城を造り戦うも官軍の為に殺される
元正44の時(716)河内国を割きて和泉国を置き、聖武45は表門を創建。
桓武50は陪従諸臣の宿舎行宮新たに設け1週間以上滞在したらしい。
末社多し、八坂社、住吉、琴平、五社、多賀、 安産、菅原、稲荷、熱田、加茂、春日、吉野、愛宕、八幡。
住所:江戸=日根野荘日根野村、明治=日根郡日根野村大字日根野字大井関
和泉国諸蕃に「日根造、新羅国人、億斯富使主之後也」とある。
(記、紀、府全志)

由緒
日根神社は大井関大明神とも称し、延喜式や国内神名帳にも名がでている。
神社の創建にはいくつかの伝承がある。

(一)神日本磐余彦(神武天皇)が紀伊熊野から大和に入る途中、日根野の地に神を祭り戦勝を祈願したのがこの神社のはじまりとする伝承である。
しかし記紀での東征の経路としては、草香で長随彦との戦いに破れ、紀の国方面に南下する途中でなければここを通る事にはならない。

(二)神功皇后が朝鮮との戦いの帰途、岡本の船岡山に上陸し、皇后に助力し共に帰ってきた神を祭ったのが溝口大明神(比売神社のこと。現在は日根神社摂社)で、この神社が日根神社のはじまりとされている。

上記2つの伝承から次の推測が成り立つ。主祭神の鵜葺草葺不合尊は日子渚武であり、これは名草猛に通じ、神功皇后の船の先頭に祀られた御船前伊太神である五十猛命が祀られたか、赤土の効用で皇后を助けた丹生都比売神が祀られたのが創建の由緒とではないか と。

(三)樫井川流域を開発した日根造は、新羅からの渡米人の子孫で「神祇志料」にはこの日根造が日根神社の主神として先祖の億斯富使主を祭ったとされている。 慶長七年の日根神社縁起由来には「当社大明神ハ古三韓新羅国修明正覚王一天四海之御太子ニテ」とあり、この説をとっている。

(四)天武天皇の時代に大鳥神社より分霊を勧請し神殿を造ったのがはじまりともいわれる。

伝えられる由緒から推測すると、最初に樫井川から水を引き、上之郷と日根野の一部を開発した人たちが溝口大明神(比売神社)を祭り、後に新しい井堰・水路をつくり大規模に樫井川流域の開発をすすめた豪族(日根造)が樫井川の水を押さえる重要な場所に大井関大明神(日根神社)を祭り、やがて溝口大明神を吸収したとしている。

神大根王:彦坐王と息長水依比売の子に

彦坐王とは
日子坐命は余程、崇神天皇と相性が好かったのでしょう。沙本之大闇見戸売命(さもとのおおやみとめのみこと)との間に出来た沙本毘売命(さほびめのみこと)を、崇神天皇の息子である垂仁天皇の后にしています。彦坐命(日子坐命)は崇神天皇に命じられ、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を退治の為に丹波へ派遣された事になっています。

『日本書紀』開化天皇紀によれば、第9代開化天皇と、和珥臣(和珥氏)遠祖の姥津命の妹の姥津媛命(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子が彦坐王である。同書における子女に関する記載は、垂仁天皇紀において丹波道主命が子である旨のみである(ただし丹波道主命は彦湯産隅王の子という異伝も併記)。

『古事記』では、開化天皇と丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命の妹の意祁都比売命(おけつひめのみこと)との間に生まれた第三皇子とする

彦坐王と息長水依比売の子供達

妃:息長水依比売 (おきながのみずよりひめ) – 天之御影神の女。

丹波比古多多須美知能宇斯王 (たんばひこたたすみちのうしのみこ、丹波道主命)

  • 孫:比婆須比売命 (日葉酢媛命) – 垂仁天皇の後皇后、景行天皇の母。
  • 孫:真砥野比売命 (真砥野媛) – 垂仁天皇妃。
  • 孫:弟比売命 – 垂仁天皇妃。
  • 孫:朝廷別王 – 三川之穂別の祖。

水之穂真若王 (みずのほまわかのみこ) – 近淡海之安直の祖。

神大根王 (かむのおおねのみこ、八瓜入日子王) – 三野国之本巣国造の祖、長幡部連の祖。

水穂五百依比売 (みずほのいおよりひめ)

御井津比売 (みいつひめ)

天御陰命=倭宿禰命(饒速日3世の孫)

三世孫倭宿禰命について『勘注系図』は次のように記す。
『またの名御蔭命(みかげのみこと)、またの名天御蔭志楽別命(あめのみかげしらくわけのみこと)、母伊加里姫命(いかりひめのみこと)なり。神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇【神武】御宇參赴(まいりおもむき)、しこうして祖神より傳へ来る天津瑞神寶(あまつみずかんだから)(息津鏡・邊津鏡是也)を献じ、もって仕え奉る。
彌加宜社(みかげしゃ)、祭神天御蔭命、丹波道主王之祭給所也

この命、大和國に遷坐(うつりいます)の時、白雲別(しらくもわけ)神の女、豐水富命(とよみずほのみこと)を娶り、笠水彦命を生、笠水訓宇介美都(かさみずよむうけみず)』

丹後風土記残欠の一部である。
『笠水訓字宇介美都 (笠水をウケミズと読む)一名、真名井、白雲山の北郊にあり(中略)傍に、祠が二つある。東は、伊加里姫命、或いは豊水富神と 称す。西は、笠水神即ち、笠水彦命笠水姫命、の二神。これは、即ち 海部直たちの斎きまつる祖神である』

笠水彦(倭宿禰の子)と母の伊加里姫と妻の豊水富を祀る神社

笠水神社は京都府舞鶴市公文名にある笠水神社、伊加里姫社は舞鶴市京田の伊加里姫社と思われる。祭神は笠水神社が倭宿禰の子、笠水彦。伊加里姫社が母、伊加里姫と妻豊水富である。
また『勘注系図』の注記にみる、丹波道主が倭宿禰の別名である天御蔭命を祭ったとされる彌加宜社(みかげじんじゃ)は、舞鶴市森の彌加宜社である。祭神は倭宿禰のもう一つの別名でもある、志楽別(しらくわけ)である。更に舞鶴市には志楽という地名が残る。
このことから倭宿禰は京都府舞鶴市あたりと深い関係にある。

『勘注系図』が、倭宿禰の妻を、白雲別神の娘、豊水富(とよみずほ)命とする
豊水富を白雲別の娘という伝承は『新撰姓氏録』にもある。
『神武天皇、吉野に行幸(い)でまして、神瀬(かみのせ)に到りて、人を遣して、水を汲ましめたまひしに、使者還りていはく、「井に光る女あり」といふ。 天皇、召して問ひたまはく、「汝は誰人ぞ」とのたまふ。答へてもうさく、「妾(わらわ)はこれ天より降り来つる白雲別神(しらくもわけのかみ)の女(むす め)なり。名を豊御富(とよみほ)といふ」とまうす。天皇、即ち水光姫(みひかひめ)と名づけたまひき。今の吉野連が祭れる水光神これなり。

笠水彦命(四世孫) 母豊水富命、亦名井比鹿也
神渟名川天皇【綏靖】御宇、以天御蔭之鏡爲神寶、以奉仕矣、此命娶笠水女命、亦名與志美別、生笠津彦命矣、(笠訓宇介、)
御蔭之神事、今俗稱葵神事

笠水彦命は、母は豊水富命、またの名は井比鹿なり。
綏靖天皇の時代に、天御蔭之鏡を神宝と為して、もって奉仕する
この命が、笠水女命(またの名を與志美別)を娶り、笠津彦命を産んだ。(笠はウケとよむ)
御蔭の神事を、今、俗に葵神事と称す。

守山市吉身。古くは当地を吉水郷と言い、ゲンジホタル(守山ホタル)が非常に多く、湧水の豊かな土地だったようです。
吉水郷は、その名の通り、吉(よい)水の意味があります。朝廷に、病気療養に効くとされ、さらに恩賞を賜るほど、吉水郷の水は有名でした。(守山市吉身の隣に、泉町があり、そこが都賀山の醴泉と思われます)
吉野にいた持統天皇が、わざわざ近江にまで、部下を遣わして水を貰い受ける程です。これは、単なる名水というだけでなく、”何らかの霊験”を求めての事だったのでしょう。

<『日本書紀』持統天皇八年三月条>

己亥に、詔して曰はく、 「粤に七年の歳次癸巳を以て、醴泉、近江国の益須郡の都賀山に涌く。諸の疾病人、益須寺に停宿りて、療め差ゆる者衆し。故に水田四町・布六十端入れよ。益須郡の今年の調役・雑徭原し除めよ。国司の頭より目に至るまでに、位一階進めしむ。其の初めて醴泉を験する者葛野羽衝・百済土羅羅女に、人ごとに二匹・布十端・鍬十口賜ふ」とのたまふ。

舞鶴市公文名にある笠水神社の祭神が、
丹後海部氏の祖神である笠水彦神、笠水姫神
舞鶴市松尾にある青葉神社の祭神が、丹後国造海部氏の祖・笠津彦(うけつひこ)と笠津姫(うけつひめ)

日葉酢媛命は彦坐王と天御影命の娘・息長水依姫の孫娘に当たり、父親は丹波道主王でした。つまり帝室と息長家は天津彦根命系と和邇日子押人命系の二流で複雑な婚姻を重ねて深遠な閨閥を生み出している
忍坂の生根神社と額田部氏
「大和国城上伊久根子乃神社所伝」「額田部連等の家方なり」との解説文が載せられ、どうやら妊婦のための「良薬」の製法(処方)を額田部連が伝えていたようです。また「大和志料」は、同書にある文言から額田部氏が生根神社の神職を務めながら薬の調合も行っていたのではないか、更には、氏族の祖先である天津彦根命を祀っていたのであろうと推測している