356年、奈勿麻立干(なこつ(なむる)まりかん)の即位。「麻立干」は王を意味する称号
377年、新羅は高句麗とともに五胡十六国時代の北朝である前秦に朝貢した。
399年、新羅王から高句麗の広開土王へ使者を派遣し、「倭軍が国土を占領して新羅王を家臣としてしまった。新羅王は、倭の家臣となるくらいなら高句麗に仕えたいので、ぜひ救援を送ってほしい。」と伝えたが、このとき、高句麗の広開土王は百済が倭と結んで反旗をひるがえしたので、平壌城まで出陣していた
400年、高句麗の広開土王は5万人の大軍を新羅に送り、新羅の王城を占領していた倭軍を追い払い、任那加羅(現在の慶尚南道金海邑)まで進撃したが、安羅(現在の慶尚南道安邑)軍が再び新羅の王城を占拠したので、高句麗軍は新羅まで撤退して王城を取り戻した。これにより、新羅王は高句麗の家臣として朝貢した。
402年、奈勿王が死去すると、高句麗で人質となっていた実聖が王位についた。即位すると早々に奈勿王の子の未斯欣(みしきん)を人質として倭国へ送っている。412年には、奈勿王の子のト好(ぼくこう)を高句麗へ人質として送った。さらに、実聖王は新羅に駐留していた高句麗兵に依頼して奈勿王の長子の訥祗(とき)を殺害しようとしたが、高句麗兵は訥祗の秀でた様子をみて逆に実聖王を殺して訥祗を王位につけた。
日向国造ハ軽島豊明朝御代豊国別皇子三世孫老男
429?
百済・倭の軍勢(木羅斤資と沙沙奴跪)卓淳国より新羅に出撃新羅(高句麗軍)を破る
442?
沙至比跪 大加耶国進攻、大加耶国王百済に亡命、百済の木羅斤資 倭国勢を大加耶国より駆逐(大加耶国政策失敗)
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紀の5年に、辛丑年に蓋鹵王が弟の毘支君を倭に遣わすとあります。百済の蓋鹵王は455年に即位していますので、雄略元年の丁酉年は457年にあたります。
457年(雄略元年)
461年(雄略5年) 百済ののちの武寧王が筑紫で誕生
462年(雄略6年) 呉国遣使貢献
464年(雄略8年) 呉国に身狭村主青らを遣使
464年(雄略8年) 高麗と新羅の怨みが始まる
466年(雄略10年) 呉国から身狭村主青らが筑紫に到る
468年(雄略12年) 呉国に身狭村主青らを遣使
470年(雄略14年) 呉国から身狭村主青らが呉国の使いと共に帰る
476年(雄略20年) 高麗王が百済を滅ぼす
477年(雄略21年) 百済を助けるため久麻那利を文周王に賜る
479年(雄略23年) 百済の文斤王が亡くなり東城王が継ぐ。
昆支王の第二子の末多王に兵器と兵士を与えて百済に送り届けた
筑紫の安致臣・馬飼臣らが船軍を率いて高麗を討った
479年(雄略23年) 8月7日 雄略没
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百済本紀
427年 ビ有王即位
428年 倭国から従者50人を従えて使臣が来た
429年 使臣を宋にやり朝貢した
430年 宋の文帝が映(腆支王)と同じ爵号を冊授した
433年 使臣を新羅にやり和を請うた
434年 新羅に良馬二頭と白鷹を送った。新羅は黄金と夜明珠を返礼として送った
440年 使臣を宋にやり朝貢した
447年 民が飢えて新羅へ流れて行く者が多かった
454年 飢饉があった
455年 ビ有王が亡くなり、蓋鹵王が即位した
469年 高句麗の南辺を侵した
472年 使臣を北魏に遣わして、高句麗非難の表文を差し上げた
475年 高句麗王(長寿王)は兵三万で百済を攻め王を殺害した
文周王が即位。熊津に遷都
476年 宋への朝貢を高句麗に阻まれる
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本紀
417年 訥祇麻立干即位
418年 王弟のト好が高句麗から帰国。王弟の未斯欣が倭国から帰国。
424年 高句麗に使臣を遣わし修交した
433年 百済が使臣を遣わしたので和睦した
434年 百済王が良い馬二頭と白鷹を送ってきた。返礼として黄金と明珠を送った
450年 高句麗の辺境の将を襲って殺した。高句麗が西辺を侵したので陳謝した。
454年 高句麗が新羅の北辺を侵した
455年 高句麗が百済を侵したので、兵を遣わし救援した
458年 慈悲麻立干即位
468年 高句麗は靺鞨とともに北辺を襲撃した
474年 高句麗が百済を攻めた。
百済王はその子の文周を遣わしたので救援を送ったが、到達する前に陥落した
479年 照知麻立干即位
480年 靺鞨が北辺を侵した
481年 高句麗が靺鞨とともに侵入したので、百済・加耶の援軍とともに防いだ
484年 高句麗が北辺を侵したので、百済軍とともに大破した
450年代に高句麗は新羅に侵入していることに注意しましょう。
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高句麗本紀
440年 新羅が辺境の将軍を殺したので、兵を挙げようとしたが、新羅が謝罪したので中止した
454年 新羅の北辺を侵略した
463年 宋の孝武帝は高句麗の長寿王を冊封して「車騎大将軍開府儀同三司」とした
468年 靺鞨兵を率いて新羅を攻めた
469年 百済が高句麗の南辺を侵略した
471年 百姓、奴客が逃げて北魏に投降した
472年 使臣を北魏に遣わし朝貢した。このときから貢献を2倍にした
474年 宋に朝貢した
475年 兵3万を率いて百済に侵入し、首都を落とし百済王を殺した
478年 宋に朝貢した
480年 南斉に朝貢しようと派遣した使臣が北魏に捕えられ送り返された
481年 南斉に朝貢した
489年 新羅の北辺を侵略した
491年 長寿王は98歳で没した
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493年、倭族にそなえて、臨海・長嶺の二鎮(城)をおいた。
502年、第22代の智證王は、農業を勧めさせ、牛を用いた農耕を初めて行なった。
503年、智證王のとき、国名を「斯羅」「斯盧」「新羅」などいろいろに呼ぶのを正式に「新羅」とし、王号を「麻立干」から「王」に正式に定めた。
505年、異斯夫(いしふ)を悉直(現在の江原道三陟郡三陟邑)の軍主(地方の最高軍政官)にした、彼は512年に于山国(うざんこく・現在の鬱陵島)を降伏させた。
514年、小京を阿尸(あし)村におき、6部(建国神話の6つの村落)と南方の住民を移住させて小京を充実させた。
517年、法興王のとき、兵部を創設した。
520年、律令を発布。(注:従来の慣習を条文化したにすぎないとする説がある。)
528年、仏教の公認。(注:私的に伝来はしていた。)
532年、金官国(現在の慶尚南道金海郡)を降した。
536年、初めて独自の年号「建元」を用いた。
545年、広く文士を集めて国史を編纂させた。
551年、百済の聖王が新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、百済の旧王都である漢城地方を取り戻した。
552年、新羅は一転して高句麗と連合し、百済から漢城地方を奪った。百済・加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。
554年、百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅軍を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の百済王である聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。
554
百済、中部木刕施徳文次、前部施徳曰佐分屋らを筑紫に遣して、内臣の佐伯連らに、救援軍の要請。佐伯連、1000人、100匹・船40隻で百済に詣る。
562年、新羅が加羅諸国の反乱を抑え、完全に占領した。
中国が隋の時代
581年に隋が成立すると、高句麗と百済はすぐに朝貢したが、新羅が朝貢したのは594年であった。
百済は高句麗を討つようしきりに隋へ要請していたが、新羅も漢江下流域をめぐって高句麗と戦っていたため、608年に出兵の要請を隋に行っている。
阿毎多利思北孤
開皇20年(600年)と大業3年(607年)に隋に使者(遣隋使)を送ったという。
「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。
この多利思北孤は法隆寺の釈迦三尊像の光背銘記載の上宮法皇と同一人物と考えると、その在位期間は591-622
中国が唐の時代
618年、唐が成立する。
624年、百済、高句麗、新羅があいついで唐に朝貢した。
636年、独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を百済に襲われ、あやうく漢江流域が孤立するところであった。
641年、七重城(しちじゅうじょう・現在の京畿道坡州郡)などを高句麗に攻められた。
642年、国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を百済に奪われ、さらに唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗と百済が襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を百済に奪われて大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻が殺された。
品釈夫人は金春秋(のちの太宗武烈王)の娘であった。金春秋はみずから高句麗を訪ねて救援を求めたが、高句麗は百済とともに新羅の領土を侵略しようとしており、彼を捕らえてしまうが同情する高句麗の家臣に助けられて脱出する。
643年、新羅の使節が唐へ朝貢し、高句麗と百済が新羅を攻めて数十城をとろうとしているので、救援軍を出してほしいと要請した。
645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に新羅の西部と加羅地方を百済に侵略された。
647年、新羅に内乱が起きる。当時は女王が立っていたが、643年に唐へ救援軍を要請した際に、唐から男王を迎えるなら守備の軍隊を派遣しようといわれていた。会議では女王の退位問題が決まらないまま新しい上大等(官職)が着任し、この上大等の調整によって大等会議は女王の退位を決定したが、これに反対する勢力が女王をかついで内乱となった。この勢力は、大等会議への出席ができない地方豪族や没落貴族などで、百済や高句麗との戦いに活躍していた金庾信(きんゆしん・532年に新羅に統合された金官加羅王国の後裔)らが含まれていた。金庾信らの勢力は、はじめは大等の勢力に押されて極めて不利で、女王が陣中で死亡するほどであったが、すぐに新しい女王を立てて戦い大等の勢力を破ることができた。勝利を納めた新しい勢力は、行政組織の改革を進め律令体制を整備していった。
647年、金春秋は日本の大和朝廷へ使節として来朝し、国交を円滑化し新羅の孤立打開を図った。
648年、金春秋は子の文王とともに唐に朝貢し、百済への出兵を要請した。唐の太宗は、出兵を了承したが、時期は未定であった。新羅は諸制度の改革を推進し、対唐外交の必要から、唐の礼服の制度・正月の賀正の礼・行政官制などを取り入れ、650年には自国の年号をやめて唐の年号を採用した。
654年に、金春秋は王に即位し、金庾信を上大等(官職)に任用した。
655年、北部の33城を高句麗と百済の連合軍に奪われ、唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。
658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。
660年、唐は水陸13万人の大軍を動員して山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗沘城(しひじょう)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。
百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道琛(どうちん)・日本へおくられていた王子豊などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。
661年、百済を滅ぼした唐・新羅連合軍は、一時、高句麗の王都の平壌城を包囲したが、高句麗軍の善戦にはばまれ、新羅の大宗武烈王(金春秋)が死去し、百済の復興軍が勢力を増し、唐の国内でも連年の出兵で人心が動揺しはじめたので、撤兵することとなった。唐・新羅連合軍は、百済の復興軍との戦いに専念した。
大宗武烈王が死去すると、甥の文武王が即位し、引き続き金庾信を上大等(官職)に任用した。
(注:「白村江の戦い」は、663年です。 663年 白村江の戦い )
666年、高句麗の泉蓋蘇文が死去すると、唐・新羅連合軍は、再び高句麗を攻撃し、高句麗も善戦したが、翌667年に降伏し高句麗は滅びた。
唐と新羅の戦い
660年に唐と新羅の連合軍が結成されたとき、平壌以南を新羅が、以北を唐が領有する約束であったが、唐は朝鮮半島全土を直轄領にしようと考えていた。そのため、唐は、百済・高句麗との戦いのときから新羅軍の消耗を図っていた。戦後も百済の旧地に唐の都督府を置き、漢城州での反乱を扇動している。
新羅はなんとか旧百済の地を確保しようとしていた。
670年、高句麗の復興軍が唐と戦うと、新羅は元高句麗大臣淵浄土(えんじょうど)の子の安勝を高句麗王として迎え、唐と対立する。旧百済領から百済と唐の勢力を追放する戦いのなかで、新羅の第一級貴族たちが戦列を離れたり反乱を起こしたりした。彼らは、文化の進んだ唐と対立するよりも、唐と提携しようと考えたのかもしれない。唐との戦いに死力を尽くしたのは県令城主といった地方豪族および下級貴族であった。この戦いは、676年まで続く。
672年、新羅軍だけでは唐軍に勝てないことが明らかになると、高句麗人・百済人・靺鞨人の部隊も編成され九誓幢(きゅうせいどう)と呼ばれる9つの部隊がつくられていった。9つの部隊の内訳は、高句麗人が3部隊、百済人が2部隊、靺鞨人が1部隊、新羅人が3部隊であった。
676年、唐は朝鮮半島から撤退し、新羅は大同江以南の朝鮮半島を統一した。地方豪族・下級貴族らの力によって勝利した新羅は、中央貴族だけによる政治から地方豪族たちも同様の権限を持ちうる律令体制へと、政治体制を大きく変えていった。
(5世紀)
405 百済太子王仁来朝論語千字文を献ず[応神紀16]
408 百済直攴王遣斎都媛[応神紀39]政略結婚というよりは、王族間の親戚付合いという感じ。
414 広開土王稜碑建造[朝史]
416 東晋安帝、百済王腆支を使持節都督百済諸軍事鎮東将軍に冊命[百]
420 宋武帝、高句麗王高璉を征東大将軍、百済王餘映を鎭東大将軍とす[東夷]
421 襲の王、讃、使を宋に遣わす[襲:襲国偽僣考(1820)]
海西鶴峰戊申、(やまと叢誌 明治21年):襲の王であり、河内豪族の王ではない。
425 倭王讃(応神55歳、仁徳40歳)宋に遣使文帝に上表方物を献ず[襲]
430 讃、死して弟珍たつ、使を宋に遣わし自ら使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と称す[襲]
437 科伊豆国令造船長十丈[応神紀5]
(18メートル):枯野:伊豆狩野川に因む命吊?
438 以倭国王倭珍為安東将軍[宋文]
372百済王餘句鎭東将軍から66年遅れ
451 倭王倭済進号安東大将軍 宋主、済王に使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加う[襲]]
この頃はこれら六国の区別がはっきりしない。
457 宋、百済王餘慶を鎭東大将軍とす[東夷]
462 以倭国王世子興為安東将軍[東夷]
477 倭王武 宋に貢献上表自ら七国(含百済)諸軍事安東大将軍と称す[襲]
478 倭王武に倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六国諸軍事を認む[襲] 二中暦年始
479 倭王武に鎮東大将軍[襲]
480 斉百済(遼西)王牟都を鎭東大将軍とする[東夷](遼西)は兼川氏の新説
490 南斉武帝東城王に鎮東大将軍百済王の号[東夷]
502 梁高句麗王・百済王・倭王をそれぞれ進号す。梁武帝、倭王武に征東大将軍の号[東夷]
梁の認める半島三韓は高句麗・百済・倭(=弁韓)であったと云うこと
503 新羅国吊を新羅と称す[新]
508 梁、高句麗王雲を撫東大将軍とす[東夷]
513 百済貢五経博士
516 百済別貢五経博士
520 新羅、律令交付官朊制定[朝史]
521 梁高祖武寧王に寧東大将軍百済王の号を授ける、新羅百済に従い梁に朝貢[百]
522 倭王武(磐井73歳)建元善化と号す[海:海東諸国記(岩波文庫)] 武王建年善記是九州年号の始なり[襲]
524 梁高祖聖明王に綏東将軍百済王の号を授ける[百] 善記律令制定[襲]
532 任那金官(日本府)新羅に朊属、仇衡王九州に亡命→欽明?
日本府は欽明紀初見、日本書紀引用の百済本記にのみ表れる呼称。
536 新羅初めて年号「建元《を定める[朝史]
537 (欽命7年)大倭への仏教初伝(百済聖明王) 百済、国号を「南扶余《と定め、泗沘(扶余)に遷都[朝史]
百済、金官、竹斯の緊密な関係を示す。
545 新羅、国史を編纂[朝史]
550 北斉高句麗王成を驃騎大将軍とす[東夷]
562 陳百済王明を撫東大将軍に、高句麗王湯を寧東大将軍とす[東夷]
新羅、大伽耶など加羅諸国を支配す[東夷]伽耶系王族・氏族の亡命先は日本列島
565 北斉新羅王金真興を册命[東夷]
高麗より15年遅れて認められた。
570 庚寅銘大刀筑紫元岡古墳で出土:伽耶系倭人による精錬?
高麗の使い越より近江に至る
581 百済王扶餘昌・高句麗王高陽陳に朝貢し册命さる[東夷]
587 蘇我物部戦役 難波の守屋の宅(福岡県京都郡苅田町尾倉輿原:挾間畏三 神代帝都考、初稿:明治32年)
594 新羅隋に朝貢、王金真平册命さる[東夷]
高句麗僧恵慈帰化,百済僧恵総来朝,観勒暦本天文地理書持参
皇太子厩戸慧慈に師事
600 倭王多利思北孤遣隋使[隋書]
推古紀に記録なし