吉野金峰山と役小角、水銀、大仏

吉野の金峰山
697文武1年8月20日、賀茂朝臣比売の娘、宮子が文武天皇夫人となる。
698文武2年3月21日、賀茂祭での無礼講を諫める、詔。
699文武3年5月24日、賀茂氏の一族の一人、役氏の小角が伊豆に流される。
701大宝1年3月21日、対馬国が金を貢じたので、年号を大宝と改めた。
    この年宮子夫人が、後の聖武天皇を生むと続日本紀にある。
701大宝1年11月4日、全国に大赦する。
702大宝2年正月   、大赦により、役小角、京に戻る。(本説)

続日本紀 699文武3年5月24日

丁丑、役君小角流于伊豆嶋。  丁丑、役君小角、伊豆嶋に流さる。
初小角住於葛木山、以呪術称。 初め小角、葛木山に住みて、呪術を以てほめらる。
外従五位下韓国連広足師焉。  外従五位下韓国連広足が師なりき。
後害其能、讒以妖惑。     後にその能を害ひて、讒づるに妖惑を以てせり。
故配遠処。          故、遠き処に配さる。
世相伝云、          世相伝へて云はく、
小角能役使鬼神、汲水採薪。  「小角能く鬼神を役使して、水を汲み、薪を採らしむ。
若不用命、即以呪縛之。    もし命を用ゐずは、即ち呪を以て縛る」といふ。

日本霊異記によると、

役優婆寒者、賀茂役公。今、高賀茂朝臣者也。大和国葛木上郡芧原村人也。

役行者こと役小角(えんのおづの)は賀茂氏の一族で役公(えんのきみ)であることから名づけられたようです。延暦の頃には賀茂氏の本宗家といえる高賀茂朝臣を名乗ることになる由緒正しい家柄です。大和国葛木郡芧原村(奈良県御所市芧原)の出身です。続日本紀でも葛木山に住んでいたという。

日本霊異記の作者は僧侶ですから、役行者が仏教を深く信仰したという書き方になっていますが、「抱朴子」などに描かれた仙人に自らなることを本気で目指していたと思われます。
生年は諸説あり、天武天皇の壬申の乱前後と思われます。
ところが後に、讒言にあって、伊豆の島に699文武3年5月24日に流されたのです。天武天皇崩御から13年後のことでした。

韓国連広足は、藤氏家伝に724~728神亀年の頃、呪禁(呪術で病気を祓う)師とあり、731天平3年正月27日に外従五位下を授けられ、翌年10月17日に典薬頭に任じられている高級官僚です。「韓国」という氏姓は790延暦9年11月10日の記事に書かれるように、物部連の苗裔で、その祖先が韓国に派遣されたので韓国姓となったもの。姓氏録では摂津神別に物部韓国連、和泉神別に韓国とある。

流罪の理由
日本霊異記では「謀して天皇を傾けむとす」とあり、政府転覆の企みとなります。続日本紀では「妖惑、庶民を惑わ言動」の罪となります。

699文武3年役行者が流罪に処せられると、皇位の近親者が次々亡くなられていきます。役小角を伊豆島に流した途端、皇室の面々が次々倒れたのです。あわてた当時の朝廷は10月13日、天下の有罪の人々を赦免します。
699年 6月23日、浄広参の日向王が卒した。
   6月27日、浄大肆の春日王が卒した。
   7月21日、浄広弐の弓削皇子(天武天皇と大江皇女の子)が薨じた。
   9月25日、新田部皇女(天智天皇皇女)が薨じた。
  12月3日、弓削皇子の母、大江皇女(天智天皇皇女)が薨じた。

続日本紀は11月4日の大赦の理由を書いていませんが、たぶん聖武天皇が生まれたからだと推測できます

石鎚山
参考 今治の越智氏
701年、大山祇神社の大造営が始まったとされるその年、ここ今治に、「役行者」が入り、ここを根本道場として、孔雀明王、不動明王、愛染明王の法の功徳によって大誓願を行いました
すると、空中から五色の雲が下り、楢原、石土、豊岡、象頭の四大権現が現れ、役行者は、この地から石土蔵王権現の彌山を決めるため出発しました。

そして、石鎚山最高峰に 「天狗」 を宿し、石鎚神社山頂社のある山を 彌山としました。
現在の 「天狗岳」と呼ばれる、石鎚山最高峰に、なぜ役行者は、天狗を宿したか。
それは、天狗とは、インド神話の カルラが変化したものといわれ、
仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天。
金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き、

「龍を常食としていました」

西日本の一番高い場所に住みついた 天狗(迦楼羅天(かるらてん)は、
その金色に光る赤い翼を広げると336万里(1344万km)にも達するといいます。
半径にして約700万km。
全ての龍をその翼の中に、収めてしまうほどの威力です。

瀬戸内海(竜宮の海)の中央に位置する 「大三島」と、西日本最高峰の石鎚の二つを制し、空と地、そして海の龍を制したのではないでしょうか。
そして、その両方の国を治めていたのが 「小千命(乎致命 こちのみこと)」 

天武天皇より年上だった小角

賀茂蝦夷
賀茂蝦夷は役行者の親族であり、壬申の乱で活躍した功臣です。

因乃令吹負拜將軍。
是時、三輪君高市麻呂・鴨茂君蝦夷等、及羣豪傑者、如響悉會將軍麾下。
因りて吹負に命して將軍に拜す。
是の時に、三輪君高市麻呂・鴨茂君蝦夷等、及び豪傑しき者、響の如く悉に將軍の麾下に会ひぬ。
壬申の乱の初め6月、「吹負を大和の将軍に任命された。このとき三輪君高市麻呂、賀茂蝦夷ら諸豪族は響きが声に応ずるように、ことごとく将軍の旗の下に集った」といいます。

壬申の乱では吉備国守、当麻公広嶋は近江朝の使者に欺かれ殺されています。日本書紀は、吉備国守当麻公広嶋と筑紫大宰栗隈王は元から大皇弟(天武天皇)についていた、と敵に語らせています。壬申の乱のとき、すでに吉備国と筑紫国は天武天皇の味方であり、親しかったことになるのです。

天武天皇勅願寺。 金峯山修験本宗 奈良県吉野町吉野山1269。
兄、天智天皇のもとを離れ、吉野に向かった大海人皇子(後の天武天皇)は、現在の「桜本坊」の前身である吉野離宮日雄殿(ひのお)に留まったと言われています。冬の日に桜が咲き誇っている夢を見た大海人皇子が役行者の高弟、日雄角乗(ひのおのかくじょう)に訊ねたところ、「桜は花の王といわれ,近々皇位に就くよい知らせです」と答えました。その後、壬申の乱に勝利し,皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所に寺を建立し桜本坊とされた。

 地元の記録文献、『日雄寺継統記』には、井光の後裔で井依の末孫、角乗が天武天皇から日雄殿を賜ったこと。角乗の長子角範を吉野首とし、日雄連の姓を賜ったこと。それに、役小角との関係が記されている。『大塔宮之吉野城』を著した中岡清一は、その著書の中で「当時井光は吉野を中心とした地方一帯の先住豪族であったことは疑いのないところである。」と言っている。

井光の後裔が吉野首になりました。この井氏は後に井氏と角氏に分家し、この井氏から井頭(井藤、伊藤)が出て、角氏は後代に加藤と改めたと云われます。この吉野首・井氏から丹生氏なる者が出たのでしょうか。もちろん井氏の元の生業は真朱と云われる「丹」の採取であった。

「証類本草」巻四水銀の項
「山の中より朱砂を採って、炉を作りハソウを乗せ朱砂を入れ、火を入れれば煙は上に飛び、少し白く濁った水銀が下にたまる」

奈良の大仏建造の際、作業者の間に原因不明の病気が流行し死者が発生したと記録されているが、これは当時の金メッキが、水銀と金のアマルガム合金を塗布した後に加熱して水銀を蒸散させる工法であったため、作業者が水銀蒸気を吸引したことによる水銀中毒と考えられる。

『朝日新聞』2013年05月29日 東京 夕刊 環境

8世紀に都がおかれた平城京(奈良市)が74年間という短命で終わったのは、大仏建立時に使われた水銀による汚染のため? 近年広まっているこの学説について、東京大などが当時の土壌を調べたところ、水銀汚染は見つからなかった。23日、千葉市で開かれた日本地球惑星科学連合大会で発表された。

平城京には710年から都がおかれ、聖武天皇による大仏建立など仏教文化が花開いたが、784年には長岡京(京都府)に遷都した。大仏建立時に使った金めっきに大量の水銀が含まれていたことから、水銀中毒が広かったためという指摘があった。

東大大気海洋研究所の川幡穂高教授が奈良文化財研究所などの協力を得て、平城京のあった奈良市内や周辺4カ所の当時の土壌を採取し分析した。すると水銀については、大仏建造時に数倍増えているものの、現代の環境水準(15ppm以下)よりい大幅に低い0.25ppm前後にとどまっていることがわかった。
 
一方、8世紀中頃の土壌から最大で1200ppmの鉛が見つかった。これは現代の環境基準(150ppm)の8倍にあたる。平城宮から10km離れた地点でも高濃度の鉛が見つかっており、汚染は周辺にも及んでいたと見られる。これらの鉛は同位体の分析の結果、大仏に使われた銅と同じ長登(ながのぼり)鉱山(山口県)で採掘されたものとほぼ断定できた。

平安時代中期に編纂された『三宝絵詞』(源為憲著 永観2年=984成立)に、奈良時代、東大寺の盧舎那大仏に塗るための金を探して、吉野の金峰山(きんぷせん)に祈願すると、金剛蔵王(蔵王権現)が、金峰山の金は弥勒下生(出現)のためだからと断った上で、近江国志賀郡の水辺の岩に如意輪観音を祀れと教える(その通りにすると、陸奥国から金が発見された)、という話がある。

『石山寺縁起絵巻』の詞書に見える金峰山と石山寺の関係
石山寺とその本尊

天平年間後半?、岩の上に観世音菩薩が祀られ、それを覆う形で草堂が作られる?。本尊は、聖徳太子の持仏と伝える金銅の観音菩薩の小像(白鳳時代?)。

【本格造営】
天平宝字5~6年(761~62)、藤原仲麻呂が自分の勢力圏の近江の琵琶湖の南岸に保良宮を造り、天皇・上皇を招くにあたり、宮の南方に位置する石山に本格的な寺院を造営。造営は、造東大寺司の管理官や工人が出張担当した国営事業。
本尊は丈六(高さ3m余)の巨大な塑像の観世音菩薩半跏像(二臂)。

石山寺の建立は、聖武天皇の時代にまでさかのぼる。東大寺大仏造立のために多くの黄金を必要とした聖武天皇。依頼を受けた東大寺の良弁僧正は金峯山に籠り、蔵王権現の夢告にしたがって石山の地に聖武天皇の念持仏を岩の上に安置して祈ったところ、やがて陸奥国から砂金が献上された。そこで念持仏を戻そうとしたが岩から離れなかったことから寺としたのが始まりだ。奈良時代から平安時代にかけて、観音信仰が盛んになると皇族や貴族の信仰を集め、庶民からも崇敬されるようになる。

石山寺は、京都よりも古い。

伊加里姫
天村雲命に娶られた伊加里姫は井氷鹿の名で『神武記』に登場します。
「吉野河の河尻・・より幸行せば尾生ひたる人、井より出で来たりき。その井に光ありき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿(ヰヒカ)と謂ふ」と答へ白しき。こは吉野首等の祖なり。」とあります。吉野には井光神社(イカリ)が鎮座しています。

何故この神が當麻の長尾神社の祭神になっているのでしょうか。
イカリの神は丹後の「伊加里姫社」の祭神だそうです。
現在は舞鶴市公文名の笠水神社。
天村雲命と伊加里姫との間に葛木出石姫が誕生しています。葛木出石姫の出石は但馬の出石でしょう。かの出石神社には天日矛命の将来した八前の神宝が祭られています。神主家は大和から神宝の検収におもむいた長尾市の子孫です。現在も長尾家です。出石から葛城にやって来た長尾市の子孫が葛城の長尾氏となり、この家の娘が葛木出石姫といえそうです。・・・・」

葛木出石姫の両親は、それぞれ丹波・丹後にゆかりありです。この姫自身も出石とついているので出石出身でしょう。嫁いだ先は天忍人命のようですが?