吉備臣、稚武彦、御友別、品治部

吉備臣について
『書紀』孝霊二年二月条には「稚武彦命、是吉備臣之始祖也」とあ るように、孝霊と倭国香媛(ハエイロネ)との間に、倭迹々日百襲姫・彦五十狭芹彦(亦名吉備津彦)・ 倭迹々稚屋姫命をなし、ハエイロドとの間に、彦狭島・稚武彦をなすのだが、これに対応する『古事 記』孝霊段では、孝霊とオホヤマトクニアレヒメとの間にヒコイサセリヒコ(大吉備津彦)が生まれ、 吉備上道臣の祖とされる。また孝霊とハヘイロドとの間にワカタケキビツヒコが生まれるのだが、こ れは吉備下道臣・笠臣祖とされている。そして、『書紀』応神廿二年九月庚寅条は、周知の如く、御 友別を祖とする次のような系譜を伝える。
浦凝別 苑臣(苑県)
稲速別 下道臣(川島県)
御友別 仲彦 上道臣・香屋臣(上道県) 弟彦 三野臣(三野県)
鴨別 笠臣(波区芸県)
『書紀』応神二二年三月条にも「兄媛者、吉備臣祖御友別之妹也」とみえるように、御友別は吉備臣 の祖として位置づけられていた。

『古事記』景行段に、景行(大帯日子淤斯呂和気) が、「娶吉備臣等之祖、若建吉備津日子之女、名針間之伊那毘能大郎女」とあって吉備臣なる表現が みえ、『書紀』神功摂政前紀三月朔条にも「吉備臣祖鴨別」がみえる。そして、『日本書紀』の雄略紀 から顕宗紀にかけて、吉備臣山(14)・吉備臣弟君(15)・吉備臣小梨(16)・吉備臣尾代(17)・吉備臣(18)がみえ、欽明 紀になると任那日本府吉備臣(19)・吉備臣(20)・日本吉備臣21などととみえるが、欽明五年を最後として吉 備臣という表現がみえなくなる。

『書紀』天武十三年十一月朔条では、大三輪君・大春日臣・阿倍臣・ 巨勢臣・膳臣・紀臣・波多臣をはじめとして、五十二氏に朝臣の姓が賜姓されるのだが、その際、吉 備に関連する氏族では下道臣と笠臣が朝臣を賜姓されるのに対して、そこに吉備臣はみえない。

この点について、門脇禎二は、吉備臣に関連する氏族が吉備上道臣・吉備下道臣・吉備窪屋臣など と吉備を冠して表現される場合のあることから、単に吉備臣とある場合は、吉備出身の中央化した氏 族をさすと考える22。たしかに、『新撰姓氏録』(巻五、右京皇別下)には「吉備臣 稚武彦命孫御友 別命之後也」とあるが、これは、『続日本紀』神護景雲三年(七六九)九月辛巳条で「河内国志紀郡人従七位下岡田毘登稲城等四人賜姓吉備臣」とみえるものが相当する可能性があり、これ以外に八世 紀以降の史料で吉備臣を確認することはできない。また、『書紀』雄略二三年八月条では征新羅将軍 吉備臣尾代が派遣されるが、その途次に、行きて吉備国に至り、家を過ぎるとあり、率いる蝦夷が反 乱を起こした際には、その家よりでて蝦夷を討つとある。この場合、吉備臣尾代の家は吉備にあった と考えるのが普通であろう。もとより、吉備とヤマトの両方に拠点をもっているのが中央化した氏族 ということでもあるから、これは何ら反証たりえないのだが、吉備に家があるという在地性も無視し 得ないだろう。

吉備臣を構成していた個別の氏族が明確になることは、おそらく、 列島中央部で欽明朝以降、世襲王権が形成されるのに対応して、地域の支配関係、王権への奉仕の体 系が再編されることに関連すると考えるべきである。

この頃、『先代旧事本紀』国造本紀に、大伯国造・上道国造・三野国造・下道国造・加 夜国造・笠臣国造・吉備中縣国造・吉備穴国造・吉備品治国造がみえるように、国造が成立すること は見逃せない。
大伯国造には吉備海部直、
上道国造には上道臣、
三野国造には三野臣、
下道国造には 下道臣、
賀陽国造には香屋臣、
笠臣国造はそのまま笠臣が、
吉備穴国造は阿那臣、
品治国造は品治君
が任じられたのであろう。

和珥臣と吉備

和珥臣は吉備地域とも密接な関係を持っていた。最後に、この問題を考 えてみたい。 まず『古事記』景行段には「大帯日子淤斯呂和気天皇、坐纏向之日代宮、治天下也。此天皇、娶吉 備臣等之祖、若建吉備津日子之女、名針間之伊那毘能大郎女」とあり、吉備臣等之祖とされる若建吉 備津日子の女、針間之伊那毘能大郎女を后妃としたことがみえるが、『播磨国風土記』賀古郡条では、 印南別嬢は、丸部臣らの祖である比古汝茅と吉備比売の子とされており、和珥臣は吉備臣と婚姻関係 をもっていたことになる。

『古事記』孝昭段にみえる和珥臣の同族集団に阿那臣と大坂臣がみえたが、 これらは吉備、なかでも備後を根拠とした氏族であった。『続日本紀』天応元年(七八一)三月庚申 朔条には、安那公御室が采女としてみえ、『三代実録』貞観十四年(八七二)八月八日条には備後国 安那郡人として安那豊吉売がみえる。

『先代旧事本紀』国造本紀には、吉備穴国造なるもの がみえるが、これは「纏向日代朝御世。和邇臣同祖。彦訓服命孫八千足尼定賜国造」とされており、 明確に和珥臣の同族とされている。
残念ながら、臣姓をもつ阿那氏を『古事記』以外に確認すること はできないが、安那公以外に阿那臣が存在した可能性は十分に考えうるだろう。ちなみに、大坂臣に ついては、その本拠地を明らかにすることができないのだが、備後国安那郡には大坂郷がみえるので、 ここが本拠であったろう。

和珥臣に関連する氏族が吉備にはさらに存在した。 吉備品遅君である。吉備品遅君は、針間阿宗君とともに『古事記』開化段に息長日子王を祖とする氏 族としてみえ、『書紀』仁徳四十年二月条には、吉備品遅部が播磨の佐伯直とともにみえる。
『先代旧 事本紀』国造本紀にも吉備品治国造として、「志賀高穴穂朝 多遅麻君同祖。岩角城命三世孫大船足 尼定賜国造」があげられている。吉備の品治部(品遅部)を管掌した氏族であり、備前の西大寺観音 院に伝わる備前国神名帳には邑久郡に品治神社がみえる。

本拠地は備後国品治郡が相当するだろう。『三代実録』貞観六年(八六四)十一月十 日条には、備後国品治郡人として従八位上品治公宮雄がみえる。品治郡は備後国東部に位置し、現在 の福山市などが含まれる

但馬国造・吉備品遅部君はいずれも日子坐王に系譜して おり、和珥臣に関連する氏族

古事記開化段
日子坐王と沙本之大闇見戸売・袁祁都比売・息長水依比売・山代之荏名津 比売の間の子により構成される一大系譜群である日子坐王系譜が残されており、この日子坐王の母 が「丸迩臣之祖、日子国意祁都命之妹、意祁都比売命」であった。『書紀』開化六年正月甲寅条にも「妃 和珥臣遠祖、姥津命之妹、姥津媛生彦坐王」とあり、開化と和珥臣出身の妃姥津媛の子が彦坐王であ ることは、帝紀において早い段階から固定していて動かない。
そして、日子坐王と山代之荏名津比売との間に生まれた大俣王の子である曙立王は、「伊勢之品遅 部君・伊勢之佐那造之祖」としてみえ、彼は『古事記』垂仁段のホムチワケの物語にも登場し、そこ では出雲大神を奉斎することで、物言わぬ皇子ホムチワケは言語を獲得するのだが、その中で品治部 を設置したとみえる。また日子坐王と袁祁都比売に系譜する息長宿禰王の子である息長日子王は、息 長帯比売・虚空津比売の同母弟にあたり、「吉備品遅君・針間阿宗君之祖」とみえる。国造本紀では、 吉備品治国造は多遅麻君(但馬君)と同祖にあるとされるが、同じく国造本紀では、但遅麻国造につ いて「志賀高穴穂朝御世。竹野君同祖。彦坐王五世孫船穂足尼定賜国造」とあり、彦坐王に系譜する とされている。『古事記』開化段では、息長宿祢王が河俣稲依毘売との間になした大多牟坂王が「多 遅摩国造之祖也」とされている。このように但馬国造・吉備品遅部君はいずれも日子坐王に系譜して おり、和珥臣に関連する氏族であった。 和珥臣に関連する部である和尓部は、備前国上道郡と備中国都宇郡・賀夜郡といった吉備中枢部に も確認できるところで、和珥臣が吉備と密接な関係を有していたことはもはや疑いないのだが、こう した部ではなく、和珥臣に連なる氏族である阿那臣・大坂臣・品治部君が存在し、しかもそれが吉備 西部の備後に集中することには何らかの意味があったのではないかと思う。この点は節を改めて検討 してみたい。

品治部は垂仁の皇子ホムチワケの名代

『古事記』垂仁段によると、燃え盛る稲城のなかで生まれたホムチワケは、長じても言葉を発する ことがなかったが、ある日、高く飛び行く鵠の音を聞いて初めて言葉を発したので、ヤマベノオオタ カを派遣して鳥を追わせたところ、紀国・針間・稲羽・旦波・多遅麻・近淡海・三野・尾張・科野・ 高志へと越え、ついに和那美水門で捕えることができた。しかし、なお物言わぬ皇子に対して、曙立 王らを遣わして、出雲大神を奉ったところ、ようやく言語を獲得した。その行く先々に鳥取部・鳥甘 部・品遅部・大湯坐・若湯坐を設置した、とあり、品治部は垂仁の皇子ホムチワケの名代とされるが、 その詳細は不明である。 表2にまとめたように、品治部の分布は各地に認められるが、東は越中、西は周防までであり、お およそヤマベノオオタカの廻った範囲と重なっている。今のところ、東国と西海道には存在が確認で きない41。そして、品治部が濃厚に分布するのが出雲であった。天平十一年の出雲国大税賑給歴名帳 には、出雲郡出雲郷・杵築郷、神門郡朝山郷・日置郷・滑狭郷・多伎駅に品治部(凡治部)がみえる

崇神帝の兄弟でもある彦坐王の最初の妻(妃)は山背国造・長溝の娘の山代之荏名津媛(またの名・刈幡戸弁、カリハタトベ)で、この夫婦の間に『品遅部君の祖』とされる大俣王が生まれていることが応神帝との「関連」を強く示唆しています。更に、垂仁帝自身が山背国造大国不遅の娘二人(苅幡戸辺カリハタトベ、綺戸辺)を後宮に入れ、綺戸辺(カニハタトベ)が仲哀帝の母(両道入姫命)と三尾氏の祖(磐衝別命)を生んだとある。
継体天皇の母「振姫」の出身氏である三尾氏の祖と言われる「磐衝別命(イワツキワケノミコト)」(大湊神社)。磐衝別命の子供である磐城別命(いわきわけのみこと)は高島一帯を治めた三尾氏の祖であり、5世孫に継体天皇の母である振媛がいます。

出雲西部に品治部と吉備部が集中的に分布する

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