鉄器の使用
鉄器使用については、朝鮮半島北部ではほぼ前四~三世紀頃から始まったことは、竜淵洞遺跡などで伴出する燕の貨幣・明刀銭から知られる。これら鉄器類の器種・形式も燕の鉄器文化に近似する。この鉄器文化は半島中南部へは、前二~一世紀を通じて次第に普及していったとされる。
鉄鉱石成分を持った花崗岩鉱床は吉備と近江にある。
多くの地域においては輸入された鉄斧型の鉄インゴットを使うしかなかった。その後砂鉄を用いたたたら工法が伝わる。
近年の製鉄開始についての一般的理解は、弥生時代後期後半(1 – 3世紀)に溯るといわれる備後の「小丸遺跡(三原市八幡町)」や九州地方北部(博多遺跡群)であり、それから時代が下り出雲地方や吉備の製鉄が行われる、ということである。
砂鉄や鉄鉱石を木炭によって還元し、鉄を取るには温度を高くしなければなりません。1000°C以下でも還元できますが、非常に時間がかかり、しかもできた鉄は海綿鉄(スポンジ)状で、もう一度半熔融状態に加熱しなければ鍛造が困難です。能率的に鉄を取るには還元性雰囲気の中で砂鉄の熔融温度(約 1400°C)以上に長時間保つことが必要です。それには人工的に風を送る吹子が不可欠なのです。
我が国で記録に初めて現れる吹子は、「日本書紀」にある天羽鞴(あまのはぶき)という皮袋の吹子(皮吹子)で、これは真名鹿の皮を全剥(うつはぎ)にして作ったとされている。これは漢代の中国に前例がある。
送風管は朝鮮半島ではBC1~2世紀と考えられる京畿道の冶鉄住居址から、鼓風管、つまり羽口が発見されている。
製鉄のごく初期の段階では、小さな炉を山の谷あいなど風通しの良いところに作り、自然通風により鉄を作ったと考えられているが、我が国では自然風の利用が想定される大形羽口は例外的で、ほとんど吹子が用いられた。
930年代の『倭名類聚抄』では鞴の訓を『ふきかわ』としており、これが後に変化して「ふいご」となったとされています。我が国では冶金技術の伝来と同時に吹子も伝わって来たのではないでしょうか。また、『倭名類聚抄』では皮吹子と区別して踏鞴を挙げ『たたら』のこととしています。鉄のような融点の高い金属を作るには皮吹子では力が弱く、十分ではないので製鉄用として踏吹子が発達したと思われます。
日本神話で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋戸に隠れたとき、鏡を作った神。天孫降臨に従った五伴緒神(いつとものおのかみ)の一。鏡作部(かがみつくりべ)の祖神。
砂鉄を使った吉備の製鉄
砂鉄は花崗岩(かこうがん)の風化残留物で、中国山地を中心とする花崗岩地帯で大量に採取できます。
奈良時代の状況をみてみましょう。その中心は吉備で、製鉄遺跡は約30遺跡、製鉄炉は100基以上が発掘されており、他地域とは格段の差があります。
特に備中の総社市域に集中しており、西団地内遺跡群・奥坂遺跡群の11遺跡で82基の製鉄炉が見つかりました。多数の製鉄遺跡からみても、やはり奈良時代までは「まがね吹く 吉備」という状況だったようです。このような吉備の鉄生産を支えた背景には、原料の豊富な存在が不可欠です。奈良時代以前には、製鉄原料として鉄鉱石と砂鉄を使用していたことが、出土遺物の分析から明らかです。
天羽鞴 鹿皮のふいご
『日本書紀』の岩戸隠れの段の第一の一書には以下の記述がある。
「故即以石凝姥為冶工 採天香山之金以作日矛 又全剝真名鹿之皮以作天羽皮吹 用此奉造之神 是即紀伊國所坐日前神也」
即ち石凝姥を以て冶工(たくみ)として、天香山(あめのかぐやま)の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ。又、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴(あめのはぶき(鹿の革で作ったふいご))に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり。
阿蘇のベンガラ
- 阿蘇乙姫下山西遺跡北方の水田や原野には、推定50~100万トンの阿蘇黄土(褐鉄鉱:酸化第二鉄)が埋蔵している。この阿蘇黄土を焼くといともたやすくベンガラができる。厳島神社の古文書のなかに、平清盛が社殿を建立した際、阿蘇家を通じてベンガラを手に入れたとある。
- 下山西石棺群(しもやまにしせっかんぐん: 阿蘇市乙姫下山西928-2) ・・・大量のベンガラが出土した。
- 鷹山の麓には鉱山(明神山)もあった。日本リモナイト鉱業 阿蘇市狩尾289番地0(阿蘇郡黒川村大字乙姫明神山)
- 阿蘇外輪のスロープにつながる大津町の畑地帯で昭和58年頃(?)に発見された弥生村落の西弥護免遺跡から約300点もの鉄器が発見されている。西弥護免遺跡は阿蘇の二重峠への交通路にも当たり、近くには『多々良』(大津町大字大津字多々良5)という地名もある。段丘伝いに阿蘇からの“まつぼり風”が吹きぬけ、いかにも野鍛冶の営まれたような風土を持っている。
石凝姥命
イシコリドメまたはイシコリトベは、日本神話に登場する神である。作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神、天拔戸または天糠戸の子とされている。『古事記』では伊斯許理度売命、別名 櫛石窓神、豊石窓
天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋戸に隠れたとき、鏡を作った神。天孫降臨に従った五伴緒神(いつとものおのかみ)の一。
岩戸隠れの際に八咫鏡を作った。ちなみに日前神宮・國懸神宮(和歌山市)には八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)がある。日像鏡は日前神宮の神体、日矛鏡は國懸神宮の神体となっている。
天孫降臨の際瓊瓊杵尊(ににぎ)に附き従って天降るよう命じられ、天児屋命(あめのこやね)、太玉命(ふとだま)、天鈿女命(あめのうずめ)、玉祖命(たまのおや)と共に五伴緒の一人として随伴した。
崇神天皇の時代に、鏡を改鋳し天照大神之御魂とする
『大倭神社註進状 裏書 斎部氏家牒』は鏡作神社三座の伝承を伝えています。
「神名帳云、大和國城下郡鏡作坐天照御魂神社一座(中略)社伝云、中座天照大神之御魂也、傅聞、崇神天皇六年九月三日、於此地改鑄日御象之鏡、為天照大神之御魂、今之内侍所神鏡、即當社其像鏡奉齋、爾来号此地曰鏡作」
「鏡作」という地名の由来を述べているのですが注目すべきは「改鑄日御象之鏡、為天照大神之御魂」とある箇所です。崇神天皇六年九月三日に、太陽を象った鏡をアマテラスの御魂に改鋳した それ以来この地を鏡作というとあります。
後続の文章は「神名帳云、鏡作麻気神社一座、鏡作伊多神社一座、社伝云、左座麻気神者、天糠戸命、大山祇之子也、此神鑄作日之御鏡像鏡、今伊勢崇秘大神也、(中略)右座伊多神者、石凝姥命、天糠戸命之子也、此神鑄作日象之傹(鏡)、今紀伊国日前神是也」
吉備の温羅
伝承によると、温羅は吉備の外から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣した。
討伐に際し、吉備津彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。そして温羅に対して矢を1本ずつ射たが矢は岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。すると温羅は雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追った。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。そうして温羅を討ったという。
古代から製鉄が盛んだったという 阿曽地区の人々が扮した温羅や阿曽姫、その従者らの行列が、鬼ノ城山頂で採火した魂火(おにび)を阿宗神社に運びます。
鉄鏡
中国・三国時代(184~280年)の書に「魏(ぎ)の曹操(そうそう)が金錯鉄鏡(きんさくてっきょう)を持っていた」と書かれていますが、大きさは直径約46cmの大きなものだったようです。
日田出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 (きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)
この鉄鏡は漢代のものと考えられているが、前漢か後漢かについては両論がある。
この鏡が出土した日田市には、東洋最大規模と言われた鯛生金山はじめ、15の金山の存在 がわかっています。また金の精製に不可欠な水銀が大分県内で採掘されていたことは、豊後国風土記(720~740年)にも記されています。(現在わかっている九州の水銀鉱は大分県のみ)
1世紀~3世紀 弥生時代
■ 出土地: 大分県日田市日高町 東寺 ダンワラ古墳 (竪穴式古式古墳) 1933年消滅
■ 大きさ: 直径21.1cm、厚み2.5mm
■ 材 質: 鉄 (99%)
■ 装 飾: 金、銀、宝玉
金 : 純金を24金とした場合 20金 (金84%、銀5%、水銀11%)
銀 : 970 (/1000) (銀97%、錫2%、鉛0.7%、銅0.3%)
■ 文 様:
竜をはじめとする多種類の文様が約0.4ミリの細い金線で繊細に装飾されています。また高い技術で、金、銀、石玉が象嵌(ぞうがん)されています。
盤の外側は金のうずまき文様、蕨手文で縁取られています。この文様は、呪術を意味すると考えられており、所有者はシャーマンではないかと推測されます。 竜と虎の文様について
■ 文 字: 長宜◆孫 (◆は欠落)
中央部に金で書かれた文字は、1文字欠落していますが 「長宜子孫」(ちょうぎしそん)であるとされており、中国で秦・漢の時代に流行し、女性に対してよく使われた「子孫繁栄」を意味する吉祥句です。
小迫辻原遺跡
筑後川三大遺跡は吉野ヶ里遺跡(佐賀)と平塚川添遺跡(甘木)と小迫辻原遺跡(日田)であると言われる。これらの遺跡の特徴として、古墳時代の始めに衰えている事実がある
遺跡は標高約120mの通称辻原の台地上にあり、これまでに10年間におよぶ発掘調査で旧石器時代から近世までの遺構や遺物が多数出土している。
なかでも台地の東側では東西に並ぶ古墳時代前期(4世紀)の三基の居館跡が発見されている。いずれも濠を方形に巡らせ、その内側に柵状の施設や建物を計画的に配置している。各居館跡の規模は、1号が一辺約47m、2号が一辺約38m、3号が一辺約20mである。
また、台地の西側には居館跡と前後する時期の三基の環濠集落が存在し、台地の下にある湧水地に近い場所につくられている。環濠は形を不定形から方形へと変化させながら発達している。竪穴住居が環濠の内と外に存在することから、そこに身分的違いが生じたことがわかる。
三基の居館跡と環濠集落はお互いに密接な関係にあり、我が国の成立を知るうえで重要である。
このほか、古代(8世紀頃)の整然と配置された7棟の掘立柱建物群の確認と「大領」と読める墨書土器の出土や、中世(12世紀~16世紀)の建物などを濠や柵で囲む屋敷跡などが発見されている。 日田市教育委員会
日田の古代
「湖であった日田盆地に大鷹が東から飛んできて湖水に羽を浸し、羽ばたき、旭日の中を北へ去ると、湖水は轟々と抜けて干潟となった。そして日隈、月隈、星隈の三丘が現れた。」という「日と鷹神話」が『豊西記』にあり、それよりヒタカと呼ばれるようになったという。
『豊後国風土記』では、景行天皇が九州遠征時に浮羽から日田に立ち寄った際に、「久津媛」(ひさつひめ)と名乗る神が人となり現れたことに因んで名づけられたもので、後に久津媛が訛って「日田」になったとしている。
日田郡と呼ばれる以前は日高郡と呼ばれており、本来は日高見国であって、そこから日高、日田になったという説もある。現在も地名は、三芳地区に「日高町」として現存している。
『旧事本紀』国造本紀に、古代ヒタにおいての国造には、「成務天皇の時代に葛城国造同祖、鳥羽足尼(宿禰)を定めた。」とある。止波宿禰(鳥羽宿禰)は、西暦470年以降(古墳時代後期)に靱編連(ユギアミノムラジ。現在の日田市刃連町付近)に会所宮(現在の会所山久津媛神社周辺)とよばれた屋敷に居住し、村人に農業などを指南した人物として『豊日志』(現存せず)に記されていたとされる。
欽明天皇の時代、日下部君の祖であるオオアジ(邑阿自)が靱部として仕えており、村について家を構えた。これにより靭負連(ユギオヒノムラジ)とよび、後に靭編(ユギアミ)と呼んだと『豊後国風土記』にある。ちなみにユギオイとは、靭(ユギ・ユキ、矢を入れる容器)を使用する者をいい、ユギアミとは、靭を作る者のことをいう。大化の改新後は郡司に任ぜられ、大蔵氏が郡司に就くまで日田の支配権を握っていたと考えられている。
日本にわたってきた渡来人の中にも曹操の子孫
新撰姓氏録には「大崗忌寸、出自魏文帝之後安貴公也、大泊瀬幼武天皇[謚雄略。]御世。率四部衆帰化。(中略)亦高野天皇神護景雲三年。依居地。改賜大崗忌寸姓」とあり、曹丕(魏文帝)の子孫安貴公が雄略天皇の時に一族とともに帰化し、神護景雲三年に「大崗忌寸」の姓を賜ったとしている
菊池川流域の4世紀の古墳
古墳時代は、主として古墳の形態や内容の変化によって前期(4世紀)、中期(5世紀)、後期(6から7世紀)に分けることができます。玉名の前期古墳としては山下古墳があります。全長59メートルの前方後円墳で、前方部には舟形石棺1基、後円部に舟形石棺1基と石棺の短辺両端に壷棺2基が検出されました。前方部石棺には1体分の女性人骨、後円部石棺には老年女性1体分と、老年男性2体と熟年男性1体分の頭骨と四肢骨が残っていました。壷棺には複数の若年男女の人骨がそれぞれ収められていました。後円部石棺内外から鉄鏃、鎗、鉄斧等が出土しています。
舟形石棺は古墳時代中期を中心に多く、各石材の産地で制作されたと考えられています。阿蘇溶結凝灰岩製石棺はすべて菊池川流域、宇土半島、氷川下流域の3つの地域で造られ、一部は遠く畿内まで運ばれています。
江田船山古墳(現菊水町)からは、日本最古と言われてきた漢字が刻まれた銀象眼の太刀が出土した。
菊池川流域の日置氏
この江田船山古墳は誰の墓なのか…?当時、大和朝廷から派遣された玉名郡司の日置氏の墓ではないだろうか。日置氏は熊襲征伐の最高司令官で、菊池川流域に大きな勢力を張った豪族である。日置氏が力をつけていった背景には、近くの小岱山に製鉄や須恵器の生産という経済的基礎があったからとみられる。現在、小岱山麓にある製鉄遺跡(約50ヶ処)須恵窯遺跡(約30ヶ処)が、その証しである。
日置氏と製鉄
日置族は出雲臣族です。このうち紀伊・日置首は天照大神の子天穂日命の後裔で、大江・秋篠・菅原朝臣と同祖です。また、京師・日置臣は菅原朝臣を賜り、土師宿禰と同祖です。さらに日置部の伴造である幣岐君は応神天皇の子大山守命の後裔です。従って、日置族は応神天皇の子孫ということになります。
古代日置氏族の集住した地として伝わる日置郷は、『和名抄』には大和国葛上郡、和泉国大鳥郡、伊勢国一志郡など、千葉県から鹿児島県にかけて広く分布している。山口県では周防国佐波郡日置郷(佐波郡徳地町)と長門国大津郡日置荘(長門市日置)の2ヶ所が記載されている。
中略
ここ長門市日置に集住した古代の日置氏は、油谷から深川までの広い地域を日置荘とし、隆盛していたとある。その基盤となったのは、堀田遺跡から出土された「ふいご口」、鉱滓などから推定されるよう、たたら製鉄・鉄冶業を本来の職掌としながら、日読み(暦作成)をも司ったことによるだろう。八幡人丸神社のある三佐崎山は御陵山ともいい、往古にこの地にあった豪族・日置氏の陵墓として造築されたものと考えられる。
日置部と製鉄
日置氏が製鉄と結びつくことは、垂仁天皇紀三十九年十月条に、五十瓊敷命が茅沼の菟砥の川上宮に居て、大刀一千口を作ったとき、これに参加した十箇の品部の中に日置部もみられることがあげられる
一に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥河上に居しまして、鍛名は河上を喚し、大刀一千口を作らしめたまふ。是の時に、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、并せて十箇の品部を五十瓊敷皇子に賜ふ。其の一千口の大刀は、忍坂邑に蔵め、然して後に、忍坂より移して石上神宮に蔵む。是の時に、神乞して言はく、「春日臣の族、名は市河をして治めしめ」とのたまふ。因りて市河に命せて治めしむ。是、今の物部首が始祖なりといふ。
吉野裕氏は、「日置の伴部 日置臣は応神天皇の皇子大山守命の後とされるが(姓氏録)、日置部・日置造などの別系氏もあり、あきらかにしがたい。あるいは製鉄関係の部民で、欽明朝の鋼鉄などの仏像・仏寺の製造と関係があるか。」と注釈しておられる。
長門市日置に集住した古代の日置氏は、油谷から深川までの広い地域を日置荘とし、隆盛していたとある。その基盤となったのは、堀田遺跡から出土された「ふいご口」、鉱滓などから推定されるよう、たたら製鉄・鉄冶業を本来の職掌としながら、日読み(暦作成)をも司ったことによるだろう。八幡人丸神社のある三佐崎山は御陵山ともいい、往古にこの地にあった豪族・日置氏の陵墓として造築されたものと考えられる。
日置荘近辺は「河内;かわち」という地域に属しますが、主に奈良時代以降に鋳物師(“イモジ”と読む)という技術者集団が住んでいました。
鋳物(イモノ)とは金属加工品の意で、寺院の梵鐘やら金灯篭の加工、奈良に出向い
て大仏さんの鋳造事業にも参加したといわれています。「日置」の語源も「火起;ヒキ」に由来する、との説がある。
出雲の日置郷
出雲大社の南正面に当たる位置に、神門郡日置郷があります。
この「日置」のルーツについて、畑井弘氏は、『物部氏の伝承』の中で、・・・『日置部とは、高麗系渡来氏族ではじめは銅鐸祭祀族として、のちには鋳鋼技術者集団、鍛冶技術者集団であり、古来伝承のある「土蜘蛛」と呼ばれている集団ではなかったか』・・・と推測されています。そして、・・・『もともとは大和国の日置部にその発祥がある』・・・とされています。
『出雲国風土記』に
出雲の国の神門(かむど)郡に日置の郷(さと)というところがあって、これは郡の役所から真東へ四里のところにある。この地を、なぜ日置の郷と呼ぶかというと、昔、欽明天皇の御代に、日置という一団が派遣されてきて、しばらく、この地に駐留して「まつりごと」を行なった。そこで、この地を日置の郷と呼ぶようになったのである。
香春の豊比売
豊比売命が何故か「阿曾隈(あそくま)」。阿蘇の神であるという。そして、神紋を阿蘇の鷹羽として、奉祭氏族を日(火)の神祇、日置氏とする。また、香春は高良であるという。神社覈録には高良は加波良(かわら)と訓べしとある。
磐裂神と経津主神
『日本書紀』の一書によれば、伊邪那岐神が火神の迦具土神を斬ったとき、 剣から滴る血が固まって天安河辺の岩群(五百筒磐村)になった。そして「即ちこれ経津主神の祖なり」とある。
他の一書では血に染まった岩群を磐裂神・根裂神といい、 その御子磐筒男、磐筒女が生んだのが経津主神であるとしている。
阿蘇の山部
太田亮氏の『姓氏家系大辞典』には「太古以来の大民族、否、氏族と云ふよりは寧種族と云ふ方、穏当ならんか」とあり、「されど此の部は早く散乱して、諸豪族私有の民となりて、其の名に隠れしも多く、(略)これを研究する事甚だ難し」と言っている。
肥後国の山部に関しては、『日本続記』に「益城郡人山稲主白亀を献ず」(宝亀元年=七七〇年)とみえ、益城郡に山部が置かれていたことが分かる、と井上辰雄筑波大教授は著書『火の国』に書いている。また『景行紀』には、景行天皇が葦北の小嶋に泊まったとき、山部阿弭古の祖少左が冷水をすすめようとしたが、島に水がなく、神に祈ったところ、崖から水がわいたといういわゆる「水島」伝説がある。しかし、この芦北・水俣地方にも現在、山部姓を名乗る家はない。
「太古以来の大民族」である山部姓はなぜか今日、古代阿蘇君の故地にのみ集中しているというわけだが、阿蘇神社の禰宜、宮川正也さんは「実は社家の宮川一族も本当の姓は山部なんですよ。宮川は神官としての姓です」と驚くべきことを打ち明けた。
宮川さんによれば、神武天皇の第一皇子日子八井命が九州へ派遣されるまで住んでいたところが、大和国の山辺郷で「山部姓もそこからきていると私たちは聞いていました」と言う。
神話では、この日子八井命は、阿蘇都媛の父である草部吉見神(国龍神) のことであり、甥で婿でもある健磐龍命とともに九州平定に尽くしたとなっている。阿蘇家を補佐する社家集団である宮川一族が祖神としてあがめているのも実はこの草部吉見神で、阿蘇神社の「田作り祭」など一貫した農耕祭事も本来は社家の祭りといわれる。
- 山部阿弭古ノ祖小左(景行紀、葦北)、益城郡人山稲主白亀を献ず(宝亀元年)、山部姓の由来(書紀): 市辺押羽皇子の二王子発見物語〔顕宗紀〕
- 伊予来目部小楯、山部連となる(日本書紀 顕宗記): 弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を難より逃れさせたのは日下部連使主-吾田彦親子の功績であったが、播磨国に逃れ名を変え身を隠していた二皇子を見出し救い出したのは伊予来目部小楯であった。後に小楯はその功績によって顕宗天皇より山官の役職を貰い、姓を改め山部連となった。
- 「新撰姓氏録」 山辺公 和気朝臣同祖 大鐸石和居命(=垂仁天皇皇子鐸石別命)の後也
- 応神天皇の御世に、海部、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき