『北史』 新羅 伝
新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。
その言語や名称は中国人に似ており、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴といい、皆を徒と呼び合うが、馬韓と同じではない。また、辰韓王は常に馬韓人を用いて擁立し、代々に継承され、辰韓は自ら王を立てることはできない。明らかにそれは流民の故で、恒久的に馬韓が領土を制している。
辰韓の初め六国だったが、十二国に細分した、新羅はその一国なり。あるいは魏の将軍の毋丘儉が高麗を討ち破ると、高句麗は沃沮に奔走、その後、故国に復帰したが、居留する者があり、遂に新羅を立てた、斯盧ともいう。
その族人は華夏(漢族)、高麗、百済に属す人々と雑居しており、沃沮、不耐、韓、濊の地を兼ねている。その王は元の百済人、自ら海に逃れ、新羅に進入し、遂にその国の王となった。初めは百済に従属し、百済が高麗に征圧されると、苦役に堪えられず、後に連れ立ってここに帰属、遂には強盛となった。百済を因襲し、迦羅国を臣従させる。伝世三十代の真平(王名=金姓)に到る。
隋の開皇十四年(594年)には遣使を以て方物を貢献する。文帝は真平を開府に上京させて、楽浪郡公、新羅王の爵位を拝受させた。
その官には十七等級がある。初めが伊罰干、(中華王朝の)相国の如く高貴とされる、次に伊尺干、迎干、破彌干、大阿尺干、阿尺干、乙吉干、沙咄干、及伏干、大奈摩干、奈摩、大舍、小舍、吉士、大烏、小烏、造位と続く。
外有郡縣。其文字、甲兵、同於中國。選人壯健者悉入軍、烽、戍、邏倶有屯營部伍。風俗、刑政、衣服略與高麗、百濟同。毎月旦相賀、王設宴會、班賚群官。其日、拜日月神主。八月十五日設樂、令官人射、賞以馬、布。其有大事、則聚官詳議定之。
外に郡県がある。文字や甲兵は中国と同じである。壮健な者を選んで悉く軍に入れるが、烽、戍、邏倶など五部の屯営がある。風俗、刑罰、祭祀、衣服、すべて高麗、百済と同じである。正月元旦ごとに皆で祝賀し、王は宴席を設けて来賓や官吏を招いて興じる。その日は日月神を祭祀して拝む。八月十五日には行楽を設け、官人に射撃競技をさせ、馬や衣服を賞品とする。大事があれば官吏が集って詳しく協議して定める。
服色尚畫素。婦人辮髮繞頸、以雜綵及珠為飾。婚嫁禮唯酒食而已、輕重隨貧富。新婦之夕、女先拜舅姑、次即拜大兄、夫。死有棺歛、葬送起墳陵。王及父母妻子喪、居服一年。田甚良沃、水陸兼種。其五穀、果菜、鳥獸、物産、略與華同。
服飾は質素ではない。婦人は髪をまとめて頚(頭の誤記?)に巻き、色々な色彩の宝玉を飾りとする。婚礼は酒食をもてなせば成立し、貧富の差に応じて軽重がある。新婚の夜、女は先に舅姑に拝礼し、次に長男と夫に拝する。死ねば棺に納め、葬送は墳陵で始める。王や父母妻子の喪は一年の服喪とする。農地はとても肥沃で、水稲と陸稲の種を兼用する。五穀、果菜、鳥獣、物産、すべて中華と同じである。
大業以来、毎年遣使が朝貢した。新羅の地は険しい山が多く、百済に隙をみせても、百済もこれを包囲することは不可能である。
ーーー 疑問
中国側の史書中の記述にも二説あり、新羅発祥の位置づけは極めて難し い。
- 一説は、「弁辰斯羅」という邦がその前身であったとするもの。
- 他の一説が、西暦227年から248年、高句麗第11代「東川王」の時、魏 将「毌丘倹(かんきゅうけん)」の猛攻を受け、「東川王」は黒龍江省寧安県 の東京城方面へ遁走し、時を経て帰国してみると、残留者達は「斯盧」或いは 「新羅」と名乗っていたとする説である。
大雑把に見ても、定説を加えて三つの説に分かれ、簡単に極めつけるわけに はゆかないが、吉林大学教授で故・林昌培(りん しようばい)先生によると、 考古学術調査上判明していることは、現在の吉林省吉林市が古時、「始林」、 ないし「鶏林」と称されていて、共に「チー・リン」で同音異字に過ぎない。 かつて大唐帝国が新羅を都督すべく置いたという「鶏林州」或いは「鶏林都督府」とは、現在の「吉林市」であって、唐は現在の朝鮮半島方面深くへは入っ ていないことが証明されているとの由。
さて、こうなってくると、更にこの「新羅」と称される国については大なる 疑問が生じてくることになる。一体、新羅の国というのは何処に存在していた のか…という疑問である。ただ、最終的には、現在の朝鮮半島を最初に統一し た史実だけは間違いはない。
伝承
始祖・朴赫居世
辰韓の一村長・蘇伐公が 大きな卵を拾ったところ、中から生まれたのが靈異奇しき朴赫居世であったと いう。朴とは「瓠(ひさご)」のこと。又、「瓠」とは卵の比類で、この伝説 は舟に乗って渡ってきた外来者を意味するという。 又、朴赫居世の妃は、井中から現れた龍の右脇から生まれたとある
宰相の瓠公
その宰相の瓠公なる人物も海を渡ってきた外人であった由
昔脱解
赫居世は在位六十 九年、新羅の国の基礎固めをなし、次いでその子の慈允(じいん)が即位した が、この時も又、「昔脱解(しゃくだくかい)」という怪物が現れたという。 慈允は長女をこの昔脱解に妻として与え、昔氏を大輔となして国を助けしめた という。 だが、この「昔脱解」は、「多婆那国王」の妃が大卵を生んだので、これを 忌んで櫝(ひつ)に入れて海に流したものが、「浦口(ほこう)」に流れつい た時、鵲(かささぎ)がしきりに鳴いて注意したので、老婆がこれを発見、櫝 を解いて中から脱せしめた人物であったという。姓の「昔」は鵲の音を採った ものと言われ、脱解の出身地の「多婆那国」とは「倭国の東北一千里」と伝え られている