冠位十二階(俀國と推古記)
冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、日本で604年に制定され、605年から648年まで行なわれた冠位である。日本で初めての冠位・位階であった。朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けるものである。七色十三階冠の施行により廃止された。
俀国伝と推古紀の官位:比較調べ
a 内官有十二等。一曰大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。(隋書 東夷 俀國)
b 戊辰朔壬申、始行冠位。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮、小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、并十二階。(推古紀 十一年十二月条)
よく似ているようです。俀国伝では徳・仁・義・禮・智・信の順であるのに対し、推古紀では徳・仁・禮・信・義・智の順であるから微妙に違っている。
c 官有太大兄、次大兄、次小兄、次對盧、次意侯奢、次烏拙、次太大使者、次大使者、次小使者、次褥奢、次翳屬、次仙人、凡十二等。(隋書 東夷 高麗)
d 官有十六品。長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:皂帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。(同 同 百濟)
e 其官有十七等。其一曰伊罰干:貴如相國、次伊尺干、次迎干、次破彌干、次大阿尺干、次阿尺干、次乙吉干、次沙咄干、次及伏干、次大奈摩干、次奈摩、次大舎、次小舍、次吉土、次大烏、次小烏、次造位。(同 同 新羅)
大業4年の遣隋使
古田氏の指摘どおり、俀国伝と推古紀の間には、裴世清を迎えた使者の名や日付等のすべてに対し、明確に齟齬が存在している。
a | 俀国伝(大業3年条) | |
(1) 到着した海岸で数百人を従えて出迎え …… | アハイダイ 小徳・阿輩臺 |
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(2) 後十日、二百余騎を従えて出迎え ………… | カタヒ 大礼・哥多[田比] |
b | 推古紀(推古16年条) | |
(3) 4月、筑紫で出迎え ………………………… | 難波吉士雄成 |
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(4) 6月15日、難波津で飾船三十艘で出迎え … | 中臣宮地連烏摩呂 |
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大河内直糠手 | ||
船史王平 | ||
(5) 8月3日、京で飾騎七十五匹で出迎え …… | 額田部連比羅夫 | |
(6) 8月12日、朝庭で出迎え …………………… | 阿部鳥臣 |
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物部依網連抱 |
通常は、「阿輩臺」を推古19年5月5日条に出てくる「粟田細目臣」に当てたり、あるいはこれを「何輩臺」(『北史』による)の誤りとみなして「大河内直糠手」に当て、「哥多[田比]」を「額田部連比羅夫」に当てたりしている。
しかしながら、これらは音の類似も不充分なだけでなく、日付にも齟齬が生じている。例えば、6月15日に出迎えた大河内直糠手を「阿輩臺」に、8月3日に出迎えた額田部連比羅夫を「哥多[田比]」に当てたのでは、間が1月半も空いてしまい、とても(2)のいう「後十日」にはならない。
さらに、これは古田氏も指摘していることだが、俀国伝では「阿輩臺」は「小徳」、「哥多[田比]」は「大礼」という官位が付いている。ところが推古紀では、大河内直糠手や額田部連比羅夫は「小徳」や「大礼」どころか、そもそも肩書きが書いていない。他の小野妹子や乎那利には「大礼蘇因高」とか「大礼乎那利」と書いてあるのにである。
また、「阿輩臺」を「粟田細目臣」に当てる説では、皇極元年12月13日条に「小徳粟田臣細目」と書かれており、これなら肩書きも一致する。しかし、肝心の推古15年条にも16年条にも「粟田細目臣」の名は出て来ず、しかも推古19年条でも「小徳」の肩書きは書かれておらず、推古16年から皇極元年まで34年も経っているのであるから、推古16年から既に小徳だったという保証はない。従って、この当てはめも苦しいといわなければならない。
日本書紀に記載の官位授受者
《将軍》
(推古三一) 大徳 境部臣雄摩侶
(推古三一) 小徳 中臣連國
(推古三一) 小徳 河辺臣禰受
(推古三一) 小徳 物部依綱連乙等
(推古三一) 小徳 波多臣広庭
(推古三一) 小徳 近江脚身臣飯蓋
(推古三一) 小徳 平群臣宇志
(推古三一) 小徳 大伴臣連某
(推古三一) 小徳 大宅臣軍
(舒明 九) 大仁 上毛野君形名
《遣外使節》
(推古十五) 大礼 小野臣妹子
(推古十六) 大礼 吉士雄成
(舒明 二) 大仁 犬上君三田耜
(舒明 二) 大仁 薬師恵日
(皇極 元) 大仁 安曇連比羅夫
(孝徳 二) 小徳 高向史黒麻呂
《百済質》
(皇極 元) 小徳 長福
《匠》
(推古一四) 大仁 鞍作鳥
《豪族》
(皇極元) 小徳 巨勢臣徳太
(皇極元) 小徳 粟田臣細目
(皇極元) 小徳 大伴連馬飼
(皇極二) 大仁 土師裟婆連
小徳
小徳(しょうとく)は、604年から648年まで日本にあった冠位である。冠位十二階の第2で、大徳の下、大仁の上にあたる。
大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智、并て十二階。
《将軍》 (推古三一) 大徳 境部臣雄摩侶 (推古 三一)
史料に見える小徳の人物は18人
43年の施行期間には世代交代があろうし、地位が高いほど史書に記されやすいので全体の、また同時点での人数をここから推し量るのは難しい。しかし3人しか知られない大徳よりずっと多かっただろうし、1人の大将軍と7人の副将軍が小徳であった推古天皇31年(623年)には、それを上回る人数がいたわけである。
阿輩台(大河内糠手?)- 大業4年・推古天皇16年(608年)(隋書)
中臣国 – 推古天皇31年(623年)。群卿(マエツキミ)の一人。新羅征討軍の大将軍。(日本書紀)
河辺禰受 – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
物部依網乙等 – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
波多広庭 – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
近江脚身飯蓋 – – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
平群宇志 – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
大伴某 – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
大宅軍 – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
巨勢大海 – 推古朝(続日本紀)
平群神手 – 推古朝 (上宮聖徳太子伝補欠記)
秦川勝 – 推古朝(上宮聖徳太子伝補欠記、聖徳太子伝暦)
中臣御食子 (弥気) – 推古・舒明朝(中臣氏本系帳)
長徳 – 皇極天皇元年(642年)8月13日授。百済の質。達率。(日本書紀)
巨勢徳太 – 皇極天皇元年(642年)12月13日。(日本書紀)
粟田細目 – 皇極天皇元年(642年)12月13日。(日本書紀)
大伴馬飼 – 皇極天皇元年(642年)12月13日。(日本書紀)
高向黒麻呂(玄理) – 大化2年(646年)9月。遣新羅使。(日本書紀)
小野妹子【略歴】
『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高と呼ばれた。日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされているが??
天武天皇記の「連」賜姓記事
八色姓(ヤクサノカバネ 六八四年)では姓の中で一番尊重された臣(オミ)の一部は朝臣となったが他は六番目となり、連(ムラジ)に至っては臣(オミ)と並ぶ有力豪族だったものが七番目に落ちている。
考えてみれば八色姓で第三位にある宿禰の付く武内宿禰、稲荷山古墳出土の太刀にある地方豪族の名にある多加利足尼(タカリノスクネ)全てが同じ宿禰(足尼 スクネ)で同格だというのも何処か奇妙な話で、恐らく八色姓とは、倭国から日本国へ移行する過程で旧体制を変えるためのものだったが、『古事記』や太刀の銘文に残ってしまったのだろう。もちろん天武天皇の和風諡号にある真人(マヒト)が新たに第一位となっている。
- 682年(天武11)8月、官人の考選に族姓を重んじる。
- 683年(天武12)9月、倭直(やまとのあたい)など38氏に連の姓を授ける。
- 684年(天武13)10月、守山公・路公・高橋公・三国公・当麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・息長公・羽田公・酒人公・山道公など13氏に真人の姓を授ける(公は「きみ」と読む)
草香部吉士大形は「帝紀・上古諸事の記定」の記事(3月17日条)に「難波連大形」という表記で現れる。
681(天武10)年4月12日
庚戌に、錦織造小分・田井直吉摩呂・次田倉人椹足〈椹。此をば武規と云ふ。〉石勝・川内直縣・忍海造鏡・荒田・能麻呂・大狛造百枝・足坏・倭直龍麻呂・門部直大嶋・宍人造老・山背狛烏賊麻呂。幷て十四人に姓を賜ひて連と曰ふ。
ここに記録されている人物は他には現れない。〈大系〉は全てに「他に見えず」と頭注している。
681(天武10)年12月29日
是の日に、舍人造糠蟲・書直智徳に、姓を賜ひて連と曰ふ。
書直智徳は壬申の乱に参戦している人物だが、これ以降登場しない。
ここまでの賜姓は個人に与える形を取っている。冠位は個人限りのものだが姓は授与された者の一族が代々受け継いで行くものだろう。次の賜姓記事からは氏族全体への授与に変わっている。
682(天武11)年5月12日
五月の癸巳の朔甲辰に、倭漢直等に、姓を賜ひて連と曰ふ。
「等」というのは氏族全体に授与したという意味のようだ。次のような記事が続いている。
倭漢直は「八色の姓」では忌寸を授与されている。
683(天武12)年9月23日
丁未に、倭直・栗隈首・水取造・矢田部造・藤原部造・刑部造・福草部造・凡河内直・川内漢直・物部首・山背直・葛城直・殿服部造・門部直・錦織造・縵造・鳥取造・来目舍人造・檜隈舍人造・大狛造・秦造・川瀬舍人造・倭馬飼造・川内馬飼造・黄文造・蓆集造・勾筥作造・石上部造・財日奉造・泥部造・穴穂部造・白髪部造・忍海造・羽束造・文首・小泊瀬造・百濟造・語造、凡て三十八氏に、姓を賜ひて連と曰ふ。
683(天武12)年10月5日
冬十月の乙卯の朔己未に、三宅吉士・草壁吉士・伯耆造・船史・壹伎史・娑羅羅馬飼造・菟野馬飼造・吉野首・紀酒人直・釆女造・阿直史・高市縣主・磯城縣主・鏡作造、幷て十四氏に、姓を賜ひて連と曰ふ。
684(天武13)年正月17日
十三年の春正月の甲申の朔庚子に、三野縣主・内蔵衣縫造、二氏に、姓を賜ひて連と曰ふ。
上の3例は地方豪族と民部・品部の統率者を対象にした賜姓記事である。
679(天武8)年11月23日条には倭馬飼部造連が大使として多禰嶋に遣わされてる記事がある。
それにしてもなぜ「連」賜姓記事だけなのだろう。最上位の「真人」やナンバーツーの「朝臣」などの賜姓記事は?