倭国の王

倭王やその一族の名前

三世紀 卑弥呼(倭風名称)
   壹與 (国名+中国風一字名称)
〈『三国志』魏志倭人伝〉

四世紀 倭王旨(中国風一字名称)
       〈七支刀・石上神宮蔵〉
五世紀 
倭国王・倭讃(国名+中国風一字名称)
倭国王・珍 (中国風一字名称)
倭隋(国名+中国風一字名称)
倭国王・済 (中国風一字名称)
倭国王・興 (中国風一字名称)
倭国王・武 (中国風一字名称)
      〈『宋書』倭国伝〉
元年・没年にかかわる年表
倭王 西暦 事      項
? 413 倭国、東晋に貢物を献ず
讃 421
438 倭王の讃、宋に朝貢し、宋の武帝から除授の詔をうける
これより先(437年)、倭王の讃没し、弟の珍立つ
珍 438 この年、珍、宋に朝貢し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓
6国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める
4月、宋の文帝、珍を安東将軍倭国王とする
済 443 倭国王の済、宋に朝貢して、安東将軍倭国王とされる
興 462
478 宋の孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする
これより先(477年)、倭王の興没し、弟の武立つ
武 478
479
502 武は自ら、「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓

六世紀 
日十大王年 (倭風名称+中国風一字名称)
   〈人物画像鏡・隅田八幡神社蔵〉

委意斯移麻岐弥(国名+倭風名称、倭石今君か)
 〈『日本書紀』継体紀「百済本記」〉
筑紫の君磐井 (倭風名称)
 〈『筑後国風土記逸文』〉
筑紫の君葛子 (倭風名称)
 〈『日本書紀』継体紀〉
筑紫君の兒・筑紫火君〔弟〕
      火中君 〔兄〕
〈『日本書紀』欽明紀「百済本記」〉
欽明紀十七年正月条に引用されている「百済本紀」には、
「筑紫君の児、火中君の弟」が人質として倭国に来ていた百済王子恵を本国へ送り届けたことが記されている

七世紀 
阿毎多利思北孤(倭風名称)
      〈『隋書』イ妥国伝〉
上宮法皇  〈法隆寺釈迦三尊光背銘〉
筑紫の君薩夜麻  (倭風名称)
      〈『日本書紀』日本書紀

倭王 とよ
魏志倭人伝によると、

女王卑弥呼が死ぬと男子の王が立てられた。邪馬壹國の人々はこれに服さず、内乱状態になり1000人が死んだ。このため再び女王が立てられることになり、卑弥呼の親族の13歳の少女の壹與が王となり、国は治まった。正始8年(248年)に邪馬壹國と狗奴国間の紛争の報告を受け、同年倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政は、檄文をもって壹與を諭した。ただし張政の派遣は、正始8年の朝貢の返しとして6年に出された詔によるものである。

とされる。このことから、卑弥呼の死と壹與の王位継承とは、張政が倭に渡った248年からそれ程年月が経っていないと思われる。その後、

壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らは魏の都に上り、男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

応神記

・・・
阿花王が立ち、貴国に無礼を働いた。それで我が 枕弥多礼とむたれ・ 峴南けんなむ・ 支侵ししむ・ 谷那こくな・ 東韓とうかんの地を奪われた。そこで王子直支を天朝に遣わして、先王の好みを修めた。
【日本書紀 応神天皇八年三月条 百済記云】
・・・
(285年1月23日 ~ 286年2月10日)

阿花王が薨じる。このとき応神天皇が、「あなたは国に帰って位を継ぎなさい」と言って、 東韓とうかんの地を賜って遣わした。
【日本書紀 応神天皇十六年是歳条】
・・・
(294年2月12日 ~ 295年2月1日)

薨去。子の久爾辛が立って王となる。
【日本書紀 応神天皇二十五年条】

応神天皇39年2月

百済くだらの直支王が妹の新斉都媛を遣わして仕えさせた。新斉都媛は七人の女を率いてやって来た。
【日本書紀 応神天皇三十九年二月条】

倭隋なる人物

 使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称する。上表して正式な除爵を求め、詔を以て安東将軍、倭国王に叙爵した。珍はまた倭隋ら十三人に平西、征虜、冠軍、輔国将軍号の正式な除爵を求め、詔を以てすべて聞き届けた。(『宋書』夷蛮伝)

 この記事の中に登場する倭隋なる人物である。他13名は誰であるかは不明であるが、筆頭の倭隋は平西将軍の爵位を受けていると思われる。中国の都から見て倭国自体が「西」のはずはないので、これは明らかに倭国の視点でみた平西将軍である。それに対し、中国の天子からの追認を求めているので、「平西将軍の任地」は、「倭国から見て西方に当る地域」だということになる。それは朝鮮半島を意味することになる。

 倭王珍は都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称している。この中に朝鮮半島の百済(現韓国西側)、新羅(現韓国東側)、辰韓(現北朝鮮東側)、馬韓(現北朝鮮西側)が含まれている。これが、当時の倭の勢力範囲と考えてよいであろう。倭王珍の時代倭国は朝鮮半島全域を支配していたと判断できる。平西将軍はその朝鮮半島を統治する人物に与えられる称号と思われ、倭王以外に考えられない。倭王隋は第6番目の倭王となる。

九州が倭国説から、玉垂命の皇子が倭国王
『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃死して弟珍立つ」と一致するのだ。すなわち、玉垂命(旨)の長男斯礼賀志命が讃、その弟朝日豊盛命が珍で、珍の子孫がその後の倭王を継いでいったと考えられる。この理解が正しいとすると、倭の五王こそ歴代の玉垂命とも考えられるのである

参考

438年 宋 元嘉15 珍 これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)
4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』夷蛮伝)

 438年 皇帝は、倭国王(珍)を、安東将軍・倭国王に任命した。 珍は、倭隋(家臣)の13人にも、低位の将軍職を求めたので、こちらも聴許した。

451年 宋 元嘉28 済 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)
7月、安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人は、宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』夷蛮伝)

大明二年(四五八)、百済王の餘慶けいは宋に使者を派遣し、上表して一一人の文武の高官に対する餘慶自称の官職を認めてほしいと願い出て許されている。右賢王の餘紀が冠軍将軍、左賢王の餘昆と餘暈が征虜将軍、餘都と餘乂が輔国将軍、沐衿と餘爵が龍驤将軍、餘流と糜貴が寧朔将軍、于西と餘婁が建武将軍に任じられている。すべて第三品と第四品である。餘紀ら八人は百済王の同族と思われ、異姓は三人のみである。
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穗積臣等之祖

故 邇藝速日命 娶登美毘古之妹 登美夜毘賣
生子 宇麻志麻遲命 【此者 物部連 穗積臣 婇臣祖也】

08.大倭根子日子國玖琉命 娶穗積臣等之祖 内色許男命 妹 内色許賣命
09.開化天皇即位前紀 母曰欝色謎命 穗積臣達祖欝色雄命之妹也

崇神天皇七年,垂仁天皇二五年 穗積臣遠祖大水口宿禰

13.若帶日子天皇 娶穗積臣等之祖 建忍山垂根之女 名弟財郎女

景行天皇四〇年 弟橘媛 穗積氏忍山宿禰之女也
景行天皇五一年 穗積氏忍山宿禰之女 弟橘媛

継体天皇六年  遣穗積臣押山 使於百済
継体天皇七年  穗積臣押山〈百済本記云 委意斯移麻岐弥〉

欽明天皇十六年 穗積磐弓臣
推古天皇八年  以穗積臣為副将軍〈 並闕名  〉

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『三国史記』百済本紀513年の条に、日本人穂積臣押山おしやまの名が「意斯移麻岐彌(おしやまきみ)」と記されている。
According to the article dated 513 of History of Paekche in “Samguk Sagi” (History of the Three Kingdoms), the name of Japanese Hozumi no Omi Oshiyama was written as ‘Oshiyamakimi.’ – Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス

倭の五王
倭国は百済・新羅の実効支配に成功し、列島統一も完了させると(前章)、倭国はそれを国際社会に認めてもらおうと、中国に遣使して承認を求めた。中国正史である晋書~宋書 の中に「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)に関する記述がある。
初出の倭王讃については、
晋書東夷伝 「413年、晋安帝の時、倭王讃有り、遣使朝貢す 」
宋書夷蛮伝 「421年、倭讃が宋の武帝に遣使修貢した。425年、讃が司馬曹達を遣使した」
とあり、前後数回遣使朝貢したが後代の様な「倭・百済・新羅の軍事権承認の要求」「倭国王叙位の要求」が無い。
承認の見込みがまだなかったのだろう。自称も「倭王」である。
次に、倭王珍について。
宋書夷蛮伝 「425年、倭讃が死に、弟珍が立ち、遣使貢獻、、、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭国王を自称し、除正を求めた。安東將軍、倭国王に叙す」
讃の弟珍の代で「倭国王」を自称し、初めて「倭国王」叙位を得た。百済・新羅を押さえ、初めて倭国を統一したと認められたのだ。以来、歴代の済・興も「倭国王」に叙された。軍事権については要求の一部だけが認められた。
宋書夷蛮伝 「443年、倭国王済が遣使奉献。安東将軍・倭国王となす。
451年、加えて使持節、、、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東將軍とす。済死、世子興遣使貢獻。
462年、倭王世子興を安東将軍・倭国王とすべし」
特に、倭王済は「倭国王」「倭・新羅その他の軍事権」を認められている。百済が除外されているのは、百済が倭国に先んじて宋に朝貢していたためといわれる。済の次に興も「倭国王」を認められている。
興の次に倭王武が立ち、上表文(後述)を奉じたとある。
宋書夷蛮伝 462年「興死す(477年か?)。弟の武が立ち、使持節、都督、倭、新羅、、、六國諸軍事、安東大將軍、倭国王を自称。
478年、武が遣使上表して曰く、、、(上表文略 後掲)、武を使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王に叙す」

「倭の五王」に関する日本書紀の記述はその一つとして「雄略紀五年条(461年)」が挙げられている。中国関係ではなく百済関係記事だが、ここには「日本」と「大倭」、「天皇」と「天王」 が並記されている。

雄略紀五年条(461年)
「百済の加須利君、、、其の弟の軍君に告げて曰く、汝宜しく日本に往き、天皇に仕えよ、、、百済新撰 に云う、、、蓋鹵王(がいろおう)、弟の昆攴君を遣わし、大倭に向かわせ天王に侍らし、以って先王の好を脩(おさ)むる也」
ここでは「百済の君が弟を日本の天皇に仕えさせた。百済新撰には『百済王が弟を大倭の天王に仕えさせた』とある。」と二文が並記されている。その解釈からこの記述は「倭国=大倭=日本=大和朝廷、従って倭の五王=大和天皇」(定説)の論拠とされている。これを検討するが、その前に、2節程準備の説明が要る。

また、「日本」「天皇」は継体紀の「百済本紀」引用に出てくる。
継体紀531年条
「百済本記に云う、、、『又聞く、日本天皇及太子・皇子、倶(とも)に崩薨す』と、、、後の勘校者が之を知る也(よく解らないが、後世の研究者が解明するだろう)。」

日本書紀には「原史料でも『日本』とあって、改変の『日本』ではない」と考えられている古い記述がある。特に、前述したように「海外史料の引用文」や海外王の云った言葉の伝承も「準引用文」として日本書紀編者が原史料を尊重し、改変していないとされている。以下に例示する。

垂仁紀二年条「意志富加羅国の王子、日本国に聖皇ありと聞きて帰化す」
神功紀摂政四六年「百済王聞く、東方に日本貴国有り」
応神紀二十八年条「高麗王の表に曰く日本国に教う」
雄略紀五年条「百済の加須利君、、、其の弟の軍君に告げて曰く、汝宜しく日本に往きて天皇につかえよ」(前掲)
継体紀三年「百済本記云う、久羅麻致支弥(くらまちきみ)が日本から来た、というが未詳」
継体紀六年「百済が遣使貢調す、、、国守穂積臣押山奏して曰く、此の四県は百済に近く連なり、日本に遠く隔たる、、、」

江戸時代の国学者で『古事記』の研究で知られる本居宣長(もとおり のりなが、1730 – 1801)は、孝徳天皇が大化元年(645)7月に高句麗と百済の使節に下した詔書に注目している。そこに「明神御宇日本天皇」という表現が用いられているためである。しかし、現在は、『日本書紀』編纂の段階で原資料を粉飾して大宝律令で定められた天皇号に書き換えられたものとみなし、日本国号の孝徳朝採用説は否定されている。

隋書倭国伝
内官には12等あり、一を大徳といい、次に小徳、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大礼、次に小礼、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信、員に定数なし。

「日本書紀」
《記載なし》


皇太子厩戸が冠位十二階を定めたのは推古11年(603)
官位の名称は隋書倭国伝と同じだが、順序が違う
徳・仁までは同じだが、そのあとが、礼・信・義・智になっている
600年時点で、倭国にはすでに12等の官位があった

参考、九州の国造

※ 「海東諸国記」による。( )内は「襲国偽僣考」による。

「新唐書」日本伝、次は欽明、欽明の11年は、梁の承聖元(552)年にあたる。次は海達、次は用明、また、なづけて多利思比孤という。隋の開皇(581-600年)の末にあたる。はじめて中国に通じる。次は崇峻。崇峻死に、欽明の孫女、推古が立つ。次は舒明、次は皇極。

国造 ; 火君、大分君、阿蘇君と筑紫磐井君

「先代舊事本紀~国造本紀」伊吉島造、磐余玉穂朝(継体)の御代に、石井(筑紫君磐井)に従える者、新羅の海辺の人を伐つ。天津水凝の後の上毛布直かみつみけぬのあたひの造である。(壹岐嶋)

「先代舊事本紀~国造本紀」阿蘇あそ國造、瑞籬朝(崇神)の御世に、火國造と同祖で、神八井耳命の孫の速瓶玉命を國造に定め賜う。
(肥後國阿蘇郡)

「先代舊事本紀~国造本紀」火ひ國造、瑞籬朝(崇神)の御世に、大分おおきた國造と同祖で、志貴多奈彦命の児の遲男江命を國造に定め賜う。

「古事記~神武」神八井耳命、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部連、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奥の石城國造、常道の仲國造、、長狭國造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣等の祖である。

※ 火・君/国造は、多氏で、神八井耳命の後裔。従って同祖の大分おおきた・君/國造、阿蘇君/國造も多氏。

水沼君とは『旧事本紀:天孫本紀』十四世孫物部大市御狩連公尾輿大連公の條に物部目連公の子としての物部阿遅古連公の説明に水間君等祖とあります。

物部阿遅古は『肥前国風土記』の基肄郡に物部珂遅古として出てきます。「姫社の郷」です。珂是古が祭ったのは佐賀県鳥栖市姫方の姫古曽神社であり、珂是古が占った幡が落ちた所には福岡県小郡市大崎の媛社神社が鎮座、ここは媛社神と織女神を祭りますが、別に磐船神社と棚機神社と併せて呼ばれていました。