盛綱流 佐々木盛綱、加治春綱、加治氏
佐々木氏は、近江国を発祥の地とする宇多源氏の一流である。
宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗ったことから始まるとされるが、これには異説もあり現在も議論されている。
佐々木氏は特に近江源氏あるいは佐々木源氏と呼ばれて繁栄し、各地に支族を広げた。
祖の佐々木秀義は保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱において、天皇方の源義朝軍に属して戦った。
平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝軍に属して戦うが、義朝方の敗北により伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受ける。
源頼朝と佐々木四兄弟
秀義の4人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた。
1180年に頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、佐々木4兄弟はそれに参じて活躍し、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17ヶ国の守護へと補せられる。また、奥州合戦に従軍した一門の者は奥州に土着し広がっていったとされる。
承久3年(1221年)に後鳥羽上皇と幕府が争った承久の乱が起こると、京に近い近江に在り検非違使と山城守に任ぜられていた定綱の嫡子である佐々木広綱を始め一門の大半は上皇方へと属し、鎌倉に在り執権の北条義時の婿となっていた広綱の弟の佐々木信綱は幕府方へと属した。幕府方の勝利により乱が治まると、敗れた上皇方の広綱は信綱に斬首され信綱が総領となる。
近江本領の佐々木嫡流は、信綱の死後、近江は4人の息子に分けて継がれ、三男の佐々木泰綱が宗家となる佐々木六角氏の祖となり、四男の佐々木氏信が佐々木京極氏の祖となる。鎌倉政権において、嫡流の六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し、六波羅評定衆などを務める一方、庶流の京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をしており、嫡流に勝る有力な家となる。京極氏の系統である佐々木道誉は、足利高氏の幕府離反に同調して北条氏打倒に加わり、足利政権における有力者となる。
また、治承4年の頼朝挙兵時に平氏方につき、後に頼朝に従った佐々木義清(佐々木秀義の五男)は、初め「源氏仇方」であったため平氏追討以後も任国を拝領しなかったが、永年の功と承久の乱の時に幕府方についたため、初めて出雲、隠岐の両国守護職を賜い、彼国に下向し、分派して出雲に土着したため、この一族を出雲源氏という。
佐々木盛綱の一族
平家滅亡後、源頼朝と弟の源義経との間で対立が深まっており、そうした中の文治元年(1185年)10月24日、頼朝は父である源義朝の供養を行い、盛綱もそれに列している。文治2年(1185年)10月24日、甘縄神社へ参拝した頼朝に随行する。文治4年(1187年)7月10日、源頼家が初めて鎧を着る儀式に加わる。建久元年(1190年)8月15日、頼朝の鶴岡八幡宮参拝に随行する。
同年7月20日、頼朝の邸宅での双六の最中に、盛綱の15歳の息子・信実が工藤祐経の額を石で打ち、流血へと至る事件が起きる。信実はその場を逃れ、盛綱はその後を追ったが、翌日に頼朝より信実を捕らえよと命じられる。しかし盛綱は、信実は既に出家を遂げ逃亡し、親子の縁を切ったと述べる。頼朝が盛綱に対し、祐経に対する謝罪を命じると、既に親子の縁を切った事を理由に謝罪を拒否した。
9月から11月、頼朝に従い上洛し、院への参上や石清水八幡宮への参拝などに随行する。建久2年(1191年)10月1日、奥州と越後国より牛15頭を頼朝に贈る。建久3年(1192年)11月15日、永福寺への参拝に随行する。建久4年(1193年)9月7日には後白河法皇の崩御後に荒廃していた御所の宿直を命じられる。建久5年(1194年)2月2日、北条泰時の元服式に、11月21日には三島大社の神事による笠懸に加わる。
加治城主となった盛綱の嫡男、加治信実
佐々木盛綱の嫡男。佐々木加治信実とも記される。鎌倉幕府御家人。越後国加地荘地頭、備前国守護。
父盛綱は平氏追討に功をたて越後国加地荘(現在の新潟県新発田市)を賜り土着し、加地氏の祖となった。
15歳の時の建久元年(1190年)7月20日、大倉御所での双六の催しの最中に工藤祐経に侮辱を受けて激高し、祐経の額に石礫を叩きつけて流血へと至る事件を起こし、父の盛綱に義絶された。
承久の乱では、承久3年(1221年)5月29日、酒匂家賢ら後鳥羽上皇派が越後の願文山城(現在の新潟県新発田市)に立て籠もり、この追討軍の大将に任ぜられ幕府軍総大将である北条朝時を補佐して籠城軍を破った。その後結城朝広とともに北陸道の軍勢の上洛を指揮した。
この功により、承久3年(1221年)に備前国守護に補される。寛仁元年(1243年)に死去。享年は68であったとされる。
子孫は越後加治氏、磯部氏、倉田氏、新発田氏、竹俣氏となり揚北衆として上杉謙信の家臣となった。
加地城、加治城 (佐々木加地氏本城)
加治城は鎌倉時代初頭、越後守護職兼加治荘地頭 職、佐々木三郎盛綱により築城され以来室町時代 初めに至るまで、越後守護代、伊予(愛媛)備前 (岡山)守護職佐々木加治氏の本城として隆盛を 誇りましたが、足利将軍家の一族、関東上杉氏の 越後入封以来、衰微の一途をたどりました
戦国時代上杉謙信の姉が加治春綱の室となり 再び隆昌の途についた矢先、上杉謙信公の急死に 遭遇、天正八年暮一族五十公野氏の奇襲に より落城
その後再建、天正十五年(一五八七)九月七日 (旧暦)上杉景勝の攻撃を受け遂に落城
慶長二年(一五九七)上杉景勝の命により 加治氏は断絶
加治城は廃城となりました
註
1 諸国名を冠する加治氏、備前加治氏初め十九流
2 領地を姓とする分流新発田氏竹俣氏等五十氏を超える
3 大友稲荷社 加治城主三代加治實秀建立
4 藤戸神社 岡山県倉敷市藤戸町の地名より
5 順徳天皇の弟冷泉宮賴仁親王妃加治實秀の子女
田原城を築城した戸田宗光は、正親町(おおぎまち)三条家の庶流であり、応仁の乱の頃に碧海郡上野へ移って上野城(豊田市)を築き、文明7年(1475年)今川義忠(よしただ)の要請で渥美郡大津へ居を移した。さらに文明12年(1480年)渥美郡田原に進出し田原城を築いて本城とした。このころは、本丸、二の丸部分の小規模な城であった。宗光は渥美半島の統一を果たし、碧海郡上野、知多郡河和から冨貴までも支配し、三河湾の制海権を掌握した。田原城を長男憲光(のりみつ)に譲った宗光は、明応2年(1493年)二連木城(豊橋市仁連木町)を築城し、明応8年(1499年)三河・遠江の国境進出のため、今川方の多米又三郎(ためまたさぶろう)が守備する船形山砦(豊橋市雲谷町)を占拠した。これに対し、今川氏は掛川城代朝比奈泰以(あさひなやすもと)を派遣する。宗光は船形山砦で朝比奈軍を迎え撃ち、善戦するが敗れて討死した。その後、田原城の戸田氏は、吉田城(豊橋市今橋町)の牧野氏との争いを続けるが、享禄2年(1529年)三河平定を進める松平清康(きよやす)が田原城に兵を進めたため、和睦して松平氏の傘下となった。
天文16年(1547年)尾張の織田信秀(のぶひで)に岡崎城(岡崎市)を脅かされていた松平広忠(ひろただ)は、今川義元(よしもと)の力を借りるため、6歳の松平竹千代(のちの徳川家康)を人質として駿河に送ることとした。竹千代一行は蒲郡から船に乗って渥美半島に行き、姻戚関係にある田原城主の戸田康光(やすみつ)に駿河行きの大船を借りようとした。ところが、康光は竹千代を乗せた大船を、そのまま尾張国熱田に送って織田信秀に青銭百貫文で引き渡してしまう。この事件によって田原城は今川氏の猛攻を受け落城し、田原戸田氏は滅亡する。現在の田原城惣門跡のあたりで今川軍と戸田勢との激戦が行われたという。落城した田原城には今川氏の城代が配置され、しばらくは城代による支配が続いた。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで義元が敗死すると、松平元康(徳川家康)の勢力が東三河にまで拡大する。永禄7年(1564年)東三河に侵攻した松平元康は、田原城攻略のため本多彦三郎広孝(ひろたか)に砦の構築を命じた。広孝は西光寺(田原市西神戸町)に陣を置いて、加治砦(田原市加治)を築いている。永禄8年(1565年)長仙寺(田原市六連町)を本陣とする元康は、今川氏城代の朝比奈元智(あさひなもととも)が守る田原城を攻略し、奪取した田原城とその属領である7千余貫の地を本多広孝に与えた。広孝は徳川氏の東三河の旗頭である酒井忠次(ただつぐ)の指揮下に入っていたと推定される。その後、本多広孝は、天正18年(1590年)まで田原城主を務めた。
天正18年(1590年)徳川家康の関東転封とともに、田原城は吉田城主である池田輝政(てるまさ)の支配となり、家老の伊木清兵衛忠次(いきせいべえただつぐ)によって現在に見る近世城郭へと大修築された。慶長5年(1600年)輝政が播磨国姫路に転封となると、関ヶ原合戦の戦功により旧主戸田氏の支族である戸田尊次(たかつぐ)が伊豆国下田から1万石で田原に復帰した。戸田氏は、尊次-忠能(ただよし)-忠昌(ただまさ)と3代続くが、寛文4年(1664年)肥後国天草の冨岡城(熊本県天草郡苓北町)に転封となる。代わって挙母城(豊田市)の城主であった三宅康勝(やすかつ)が加茂郡挙母(ころも)から1万2千石で田原に入封し、以後三宅氏の居城として明治維新まで12代続いた。田原藩は幕末に渡辺華山(かざん)を輩出している。田原藩の家老職であった華山は義倉「報民倉(ほうみんそう)」を設け、天保の飢饉のときに1人も餓死者をださなかったことは有名である。この崋山の遺徳をしのび、田原城出曲輪跡に崋山神社が建てられている。
戦国時代の加治氏 佐々木春綱 (彦次郎)、加治城を継承した盛綱の宗家
鎌倉幕府創生期に戦功のあった宇多源氏の近江佐々木氏が加地荘地頭職に任じられ、佐々木盛綱が築城したといわれる。佐々木盛綱は建仁元(1201)年の鳥坂城における城資盛の叛乱鎮圧の総大将を勤めた。子孫は加地氏を称し、新発田氏、五十公野(いじみの)氏、竹俣氏など多くの庶流を生み出した。承久三(1221)年五月、後鳥羽上皇の院宣を奉じた酒匂家賢が郎党60名とともに願文山城(金山城)に籠城した「願文山城合戦」では、加地(佐々木)信実は幕府軍総大将である北条朝時を補佐して籠城軍と闘い軍功を挙げた。
応永三十(1424)年、足利幕府将軍の義量と関東公方・持氏の関係が悪化、越後においても室町幕府に与する守護・上杉房朝と関東公方に与する守護代・長尾邦景が対立した。守護方の上杉頼藤は奥州の伊達持宗の援軍を得て、加地氏を、新発田氏ら加地佐々木氏一党や黒川城の黒川基実、鳥坂城の中条房資らに守護代方の山吉行盛の守る三条城攻撃を命じられ参戦したが、加地氏、新発田氏は黒川氏らと語らい軍を引き上げ、鳥坂城主の中条房資らを窮地に陥れている。
戦国期には加地春綱が謙信の妹(姉?)を娶って重く用いられ、その子秀綱は川中島合戦にも参陣した。天正三(1575)年の軍役帳では158人の軍役を負うなど、中条氏などの近隣諸将よりも軍役高が多かった。しかし、謙信死後の「御館の乱」では上杉三郎景虎に味方し、景勝に味方した新発田重家、五十公野道寿斉らに奇襲され落城した。天正九(1581)年、新発田重家が織田信長・芦名氏の調略に呼応して上杉景勝に対して挙兵すると、加地秀綱もこれに加担して景勝と対抗した。景勝は新発田重家の本拠・新発田城攻撃に先立ち、天正十五(1587)年九月七日に加地城を攻め落城、加地秀綱は討ち死にした(新発田重家の乱)。秀綱死後は景綱が家を嗣いだが、文禄三(1594)年の上杉定納員数目録には「「加地某662石」としか記されておらず、直参家臣から格落ちしている。慶長三(1598)年、上杉景勝の会津移封には同道せず土着した。慶長五(1600)年の関ヶ原の役前夜の会津討伐の際に会津上杉氏に呼応し、竹俣壱岐守らとともに越後での旧臣一揆に加担して上杉氏移封後に越後に入封した堀氏らと闘ったが敗れ、景綱は万休斎と称して隠居、正保四(1646)年、87歳で死去した。