伊吉連博德書

『日本書紀』には、百済滅亡、白村江敗戦という歴史的事件を見聞きした人たちが書いた、その記録が載っている。
『伊吉連博德書』と高麗の僧・釈道顕が書いた『日本世記』である。

今日知られる最も古い日記は『日本書紀』二十六斉明天皇五年(六 五九)七月・同六年七月同七年五月の条に分注の形で引かれる『伊吉連博徳書』である。第四次遣唐使の一員として渡唐した折りの記録で、他に巻二十五孝徳天皇白錐五年(六五四)二月の条にも「伊吉博徳言」として留学した学問僧たちの消息が記されている

彼ら「伊吉博徳」を含む遣唐使団は、「唐皇帝」から「海東の政」があるから還すわけにはいかない、とされ「洛陽」と「長安」に離れて「幽閉」されてしまい、「百済」が「唐」と「新羅」の連合軍により滅亡した後になってから解放され、「六六一年」になって帰国したわけです。この際の事情は「伊吉博徳書」によると、帰国途中船が迷走し「耽羅」(済州島か)に流れ着いた後、「筑紫」の「朝倉の朝廷」に到着し「奉進」、つまり「帰国報告」を行ったわけですが、そこには以下のように書かれています。

又為智興傔人東漢草直足島所讒 使人等不蒙寵命。使人等怨 徹于上天之神 震死足島。時人稱曰 大倭天報之近

大倭天報之近 が気になる。

伊吉連博德書
(孝德天皇白雉五年〔654〕)二月、遣大唐押使大錦上高向史玄理【或本云、夏五月、遣大唐押使大花下高向玄理。】(中略)田邊史鳥等、分乘二船。留連數月。取新羅道、泊于萊州。遂到于京、奉覲天子。於是、東宮監門郭丈擧、悉問日本國之地理及國初之神名。皆隨問而答。押使高向玄理、卒於大唐。【伊吉博得言、學問僧惠妙、於唐死。知聰、於海死。智國、於海死。智宗、以庚寅年〔690年〕、付新羅船歸。覺勝、於唐死。義通、於海死。定惠、以乙丑年〔665〕、付劉德高等船歸。妙位・法勝、學生氷連老人・高黄金、幷十二人、別倭種韓智興・趙元寶、今年共使人歸。】
(斉明天皇五年〔659〕)秋七月丙子朔戊寅、遣小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥、使於唐國。(中略)【伊吉連博德書曰、同天皇之世、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等二船、奉使呉唐之路。以己未年〔659〕七月三日、發自難波三津之浦。八月十一日、發自筑紫大津之浦。九月十三日、行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時二船相從、放出大海。十五日日入之時、石布連船、横遭逆風、漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻・坂合部連稻積等五人、盗乘嶋人之船、逃到括州。々縣官人、送到洛陽之京。十六日夜半之時、吉祥連船、行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日、行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物、留着彼處。潤十月一日、行到越州之底。十五日、乘驛入京。廿九日、馳到東京。天子在東京。卅日、天子相見問訊之、日本國天皇、平安以不。使人謹答、天地合德、自得平安。天子問曰、執事卿等、好在以不。使人謹答、天皇憐重、亦得好在。天子問曰、國内平不。使人謹答、治稱天地、萬民無事。天子問曰、此等蝦夷國有何方。使人謹答、國有東北。天子問曰、蝦夷幾種。使人謹答、類有三種。遠者名都加留、次者名麁蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。毎歳、入貢本國之朝。天子問曰、其國有五穀。使人謹答、無之。食肉存活。天子問曰、國有屋舍。使人謹答、無之。深山之中、止住樹本。天子重曰、朕見蝦夷身面之異、極理喜怪。使人遠來辛苦。退在館裏。後更相見。十一月一日、朝有冬至之會。々日亦覲。所朝諸蕃之中、倭客最勝。後由出火之亂、棄而不復檢。十二月三日、韓智興傔人西漢大麻呂、枉讒我客。々等獲罪唐朝、已決流罪。前流智興於三千里之外。客中有伊吉連博德奏。因卽免罪。事了之後、勅旨、國家、來年、必有海東之政。汝等倭客、不得東歸。遂匿西京、幽置別處。閉戸防禁、不許東西。困苦經年。難波吉士男人書曰(以下略)】
(斉明天皇六年〔660〕)秋七月庚子朔乙卯、高麗使人乙相賀取文等罷歸。(中略)【高麗沙門道顯日本世記曰、七月云々。(中略)伊吉連博德書云、庚申年〔660〕八月、百濟已平之後、九月十二日、放客本國。十九日、發自西京。十月十六日、還到東京、始得相見阿利麻等五人。十一月一日、爲將軍蘇定方等所捉百濟王以下、太子隆等、諸王子十三人、大佐平沙宅千福・國辨成以下卅七人、幷五十許人、奉進朝堂。急引趍向天子。天子恩勅、見前放着。十九日、賜勞。廿四日、發自東京。】
(斉明天皇七年〔661〕)五月(中略)丁巳、耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。【伊吉連博得書云、辛酉年〔661〕正月廿五日、還到越州。四月一日、從越州上路、東歸。七日、行到檉岸山明。以八日鷄鳴之時、順西南風、放船大海。々中迷途、漂蕩辛苦。九日八夜、僅到耽羅之嶋。便卽招慰嶋人王子阿波伎等九人、同載客船、擬獻帝朝。五月廿三日、奉進朝倉之朝。耽羅入朝、始於此時。又、爲智興傔人東漢草直足嶋、所讒、使人等不蒙寵命。使人等怨、徹于上天之神、震死足嶋。時人稱曰、大倭天報之近。】

日本国の地理及び国初の神名
孝德天皇白雉五年〔654〕二月条の本文

唐の東宮監門郭丈擧が遣唐使に日本国の地理及び国初の神名を聞いたので遣唐使はそれに答えた、という。

日本が魏の時代から中国と通交していた国ならば、この時期になって中国が日本国の地理を聞くなどということは普通では考えにくい隋書』東夷伝にも俀国(倭国)の地理地形がはっきりと書かれており、日本が倭国だとすると、これは非常に不自然な記事となる。
日本国は中国史書では『旧唐書』東夷伝になってはじめて登場するので、新しく通交をはじめた国であるからこそ、中国はその国の地理地形を尋ねたのであろう。『新唐書』東夷伝の「次用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」はまさにこのことを裏付けている。『旧唐書』東夷伝にはじめて登場した「日本国」の記録は、このときの遣唐使によって中国が日本についてはじめて得た知識だったのであろう。

『伊吉連博德書』に、孝德天皇白雉五年〔654〕二月条では「博得言」となっており、博德が話したことが記録されている。その中に「別倭種」というのがある。
『旧唐書』東夷伝には「日本国は倭国の別種である」とある。『旧唐書』のこの記述は正確だといえる。
博德は韓智興のことを自分たちと区別し、わざわざ「倭種」と書いているから、この「倭種」はヤマト人のことではないことになる。つまりここでは「倭」は「やまと」とは読まれていないことになる。この「倭種」はヤマト人の国以外に倭人の国(倭国)があったことを示している。
倭客と我客
斉明天皇五年〔659〕)秋七月条の『伊吉連博德書』の前段には、唐に向け出発したが嵐に遇い、苦難に遇いながら、それを乗り越え、天子のいる東京に着いたことが記され、続いて、天子が日本国天皇のこと、国内のこと、一緒に連れて行った蝦夷のことなどを訊いた様子が記され、さらに自分たちと倭種韓智興との間に起こった騒動が記されている。

一つは「天子相見問訊之 日本國天皇 平安以不」の「日本國」である。白雉五年〔654〕二月条にも「悉問日本國之地理及國初之神名」と「日本國」が登場しているが、この「日本國」は博德が記録したものの中にある、という意味で非常に重要である。
これは明らかに日本(ヤマト)に関する記事である。日本が誕生していなければ、博德は「ヤマト」を「日本」と書くことはできなかった。にもかかわらず『伊吉連博德書』には「日本國」とあったとされる。
ここで考えられるのは次の二つである。このときすでにヤマトは「日本」となっていたということ、あるいは新生の日本国を敢えて言ったのであろう。

「倭客」と「我客」
出火騒ぎがあり、倭種韓智興の従者西漢大麻呂の讒言により「我客」のせいにされ、「我客」は流罪とされた。韓智興はすでに三千里離れたところに流罪にされたが、博德の進言によって「我客」らは流罪を免れることができた。事件が片付いた後、「中国は来年必ず海東を征服する。おまえたち倭客は東へ帰ることはできない」と言われた。西京に別々に幽閉され、自由に行動することができなかった。困苦して年を経た。
博德らは倭種韓智興の従者西漢大麻呂の讒言により「我客」のせいにされたという。これは、韓智興らは「我客」ではなく、つまり博德らと韓智興らはそれぞれ別の「客」であることを、彼ら自身認識していたことを示している。
一方、中国は韓智興と博德らに対して「汝等倭客」と言っており、ヤマトの倭種ではない使者も「倭客」としている。どうも中国は倭国とヤマトという二つの国の存在を知っていながら(孝德天皇白雉五年二月条で、中国は日本国の地理及び国初の神名を訊いている)、倭国一つだけを国として扱っているようにみえる。
『旧唐書』東夷伝、『新唐書』東夷伝には、日本の国名と生い立ちについて、日本の使者は事実をもって答えないので中国はこれを疑ったとある。
中国からみれば、日本列島の国は倭国一つであるが、日本列島内ではそうではなかったということである。

大倭天報之近
斉明天皇七年〔661〕五月条の『伊吉連博德書』によれば(六年秋七月条に続く)、博德らは東京を発った後、途中海路を迷走しながら耽羅嶋(済州島)に着き、耽羅の使者を船に乗せ、5月23日朝倉の朝に奉進したという。問題はこの次の記事である。
韓智興の従者倭漢草直足嶋の讒言により、使者は天子の寵命を受けることができなかった。使者たちの怨みは天の神を突き抜け、足嶋を震え死なせた。時の人は、大倭の天の報いは近い、と言った。

斉明天皇五年〔659〕)秋七月条では、讒言したのは西漢大麻呂となっている。ここでは倭漢草直足嶋となっているが、博德が間違えるわけはないので、何人か讒言したものがおり、倭漢草直足嶋はその中心人物だったのかもしれない。
「大倭天報之近(大倭の天の報いは近い)」
足嶋は倭種韓智興の従者であり、彼らは博德がいうように「我客」ではない。「我客」らは讒言した足嶋を強く怨み、その怨みが足嶋を震え死なせたというのである。そしてそのことにより、時の人は「大倭の天の報いは近い」といったのである。その原因は讒言した足嶋にある。博德ら「我客」は「大倭」の使者ではない、つまり「大倭」はヤマトではないということがわかるのである。

斉明天皇5年(659)、第四次遣唐使の津守吉祥(つもりのきちぞう、なお坂合部石布の船は遭難、島に漂着し島民に殺害される)は、長安にて高宗皇帝に拝謁、冬至の儀式に出席し、「諸蕃の中、倭の客が最もすぐれている」と評されており、日本の他に諸蕃(「三韓」と呼ばれた朝鮮半島の国々)が出席したことがわかります。
但し、唐には百済出兵計画があり、それを日本に漏れては困るので、遣唐使一行は長安に監禁され、外出は禁じられています(解放されたのは翌年9月)

『伊吉連博德書』からは、「倭種」の「倭」は「やまと」とは読まないこと、「倭客」は倭国人とヤマト人のことであること、「我客」はヤマト人だけを指し、「大倭」はヤマトではない(倭国だということ)ことなどがわかる。

『伊吉連博德書』は同時代史料として、また本人がその目で見て、経験したことを書いたものとして、高く評価されるべき

追記、
下記の説もあります。
http://www2.ocn.ne.jp/~jamesmac/body236.html

この「伊吉博徳書」が挿入されている直前の記事は天皇が「朝倉」に「遷居」した際に「朝倉社の木」を切って神の怒りを買い、鬼火が出たり、近習するものに病死者が出たりした、というものです。

「斉明六年五月 乙未朔癸卯 天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。
是時 ?除朝倉社木而作此宮之故 神忿壞殿。亦見宮中鬼火。由是大舍人及諸近侍病死者?。」

この記事に続けて「徹于上天之神 震死足島」という「伊吉博徳書」に繋がるわけです。
どちらも「神」の怒りに触れて死ぬという共通点があり、これらの記事を並べている事から、これら二つの事件の間に「関連」があるということを示唆しているものと思われます。
このことは、この「東漢草直足島所讒」から始まり、「震死足島」ということとなったという一連の記事内容が、「帰国時点」での「朝倉の宮」における事象であることを傍証しているものと考えられるものです。
つまりこの「讒言」事件は、帰国した「朝倉」の朝廷でも「韓智興」の供人に「讒言」されて「倭国王」から「使人等不蒙寵命」と云うことになったという顛末と考えられるのです。

原文

伊吉連博徳書日。同天皇之世。小錦下坂合部二布連・大山下津 守吉祥連言肴船、奉二使呉々之路一。以二己未年七月三日一、発 レ自二黒波三津之十一。八月十一日。発レ自判筑紫大津之浦一。 九月十三日、行二到百済南畔三遠一。々名母二分明一。以二十四 日寅時一、二船相続、放二出大海一。十五日日入区営、石布連船、 横走二逆風一、漂二院南海之嶋一。々名石加委。傍為二嶋人一所レ 滅。便東漢長直阿利麻・坂合十二稲積等五人、盗二乗嶋人船一、 逃到二括州一。々県官人、送二二洛陽之京一。十六日夜半昼時、 吉祥長船行到二越州会稽県須岸山一。東北風、々特急。廿二日、 行二到二丈県一。所レ乗大船平楽調度之物、留二着彼処一。閏十 月一日、行二到越州之十一。乗レ駅逓レ京。廿九日馳到二尉京一。 天子在智東京一。計日、天子相見問訊之、日本国天皇、平安以不。 中人本当、天地合レ徳、自得二平安一。天子問日、執レ事卿等、 好在以不。単寧謹製、天皇憐重、亦得二好在一。天子問日、国 内軽質不。使即答、治称二天地一、万民無レ事。
(中略)
十一月一日、朝有二冬至舌痛一。々日亦観。所レ朝激昂之中、接客最勝。 後由二出火之乱一、白濁不二盲検一。十二月三日、無智興百人三 豊大麻呂、柾読二尊客一。官等獲二占居朝一、巳決二流罪一。前 流二智興於三千里之外一。客中有二伊吉連博徳一奏。因即免レ罪。