伊勢神宮、斎王


豊鍬入姫(とよすきいりひめ)

父: 崇神天皇
母: 遠津年魚眼妙媛
垂仁天皇の異母姉妹で、垂仁天皇とともに皇位継承者の候補にあげられた豊城入彦の同母妹。
宮中に祀られていた天照大神を大和笠縫邑で祀る。
崇神58年(B.C.40)ごろ、老衰により退下。
崇神
垂仁 皇女 崇神6
B.C.92 崇神58 B.C.40頃 53年間

倭姫命(やまとひめ)
父: 垂仁天皇
母: 丹波道主王の女、日葉酢媛命。
垂仁天皇皇女。
豊鍬入姫命より、御杖代の役目を引き継ぎ、天照大神の鎮座される地を求めて各地を巡幸し、伊勢に至った斎王。
ヤマトタケルノミコトの叔母にあたり、東征に赴く途中、伊勢神宮を訪ねたヤマトタケルに草薙剣を手渡した。
垂仁
景行 皇女 崇神58 B.C.40 ? ?

五百野皇女(いおの)
父: 景行天皇
母: 三尾氏磐城別の妹、水歯郎媛
ヤマトタケルノミコトの姉。別名、久須姫(くすひめ)
明和斎宮へ来た最初の斎王といわれる。
伊勢で死亡と伝えられ、三重県安芸郡美里村五百野に「景行天皇皇女久須姫命之古墳」の碑が残る。
三重県志摩郡浜島町南張の楠御前八柱神社も景行天皇皇女久須姫を祀る。この地で生涯を閉じたという伝説あり。
景行 皇女 景行20 A.D.90 ? ?

伊和志真皇女(いわしま)

『斎宮記』、『二所太神宮例文』に名前のみ記されているが、実在した斎王かどうかは確認できない。 仲哀 皇女 雄略3以前 ? ?

稚足姫皇女(わかたらしひめ)
父: 雄略天皇
母: 葛城圓大臣の女、韓姫
雄略天皇の皇女。
別名:栲幡皇女(たくはたのひめみこ)
清寧天皇の同母兄妹。湯人の廬城部連武彦との関係を疑われ、身の潔白を証明するため自殺。無罪とわかる。
雄略 皇女 ? ? ?

清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇の時代、斎王の記録なし

荳角皇女(ささげ)
父: 継体天皇
母: 息長真手王の女、麻績娘子
近江の息長系の皇女。
継体 皇女 ? ? ?

安閑・宣化天皇の時代、斎王の記録なし

※継体天皇前後で王朝の交代があったと考える説あり、また、継体天皇の後に即位したのは欽明天皇で、それを認めない勢力が欽明天皇即位の2年後に安閑天皇、次いで宣化天皇を擁立したとする説が有力。

磐隈皇女(いわくま)
父: 欽明天皇
母: 蘇我大臣稲目宿禰の女、堅塩媛
用明天皇の妹。推古天皇の同母姉。
別名:夢皇女
伊勢ではなく三輪山の麓で日神を祀っていたと考えられている。推古天皇の同母妹。
異母兄弟茨木(茨城)皇子に姦されて解任。
欽明 皇女 ? ? ?

兎道皇女(うじ)
父: 敏達天皇
母: 息長真手王の女、廣姫
用明天皇の妹。推古天皇の同母姉。
息長系を母系とする皇女。池辺皇子に姦されて解任される。
菟道磯津貝皇女とも記される。(古事記では宇遅王と記す)
おそらく、三輪山のほとりで日神を祀り、伊勢へは下向していないと思われる。
敏達 皇女 敏達7 578 ? ?

酢香手姫皇女(すかてひめ)
父: 用明天皇
母: 葛城直磐村の女、広子
聖徳太子の異母姉妹
用明・崇峻・推古の3代の天皇の治世にわたる斎王。おそらく磐余か他田の三輪山の麓、あるいは檜原神社のあたりで日神を祀っていたと考えられる。
初めて「日神の祀に奉らしむ」と明記される。
『上宮正徳法王帝説』では「次須加氏古女王」として聖徳太子兄弟7人の中に数えられる。
※在任期間については用明元年(586)~推古30年(622)の37年間とする説がある。
用明~推古 皇女 敏達14 585 推古33ー625 約41年間

大来皇女(おおくのこうじょ)

天武天皇の皇女・大来皇女。その就任は壬申の乱の翌年(673年)で、その翌年(674年)に伊勢神宮に向かった。その彼女のもとに、天武の有力な皇位継承者であった同母弟の大津皇子が訪れる。しかし、飛鳥に戻った大津は、天武崩御による政情不安定のなか、朱鳥元年(686年)、謀反の罪により死を賜る。父帝の崩御により斎王を退任した大来皇女は、父も最愛の弟もいない飛鳥に戻った。『万葉集』には、弟を想う哀切の歌が6首残る。

井上内親王(いのうえないしんのう)

聖武天皇の皇女・井上内親王は、神亀四年(727年)に伊勢に群行した。華やな天平の時代に、都を遠く離れ、伊勢で青春の時を過ごしたのである。そして帰京の後、天智天皇の孫、白壁王と結婚し、異母姉の称徳天皇の没後、夫が光仁天皇として即位したため、皇后となった。二人の子で、聖武の孫である他戸は皇太子となり、将来の国母も約束されていた。しかし、井上は、天皇を呪詛した疑いで、他戸もろともに位を追われ、宝亀6年(775年)に揃って謎の死を遂げる。ところが間もなく名誉回復が始まり、ついには皇后に復位している。怨霊として恐れられたらしく、後世の史料には、その身は生きて竜となったと記すものもある。