大濱八幡大神社
祭神 主神 乎致命(おちのみこと)
相殿
饒速日命・天道日女命・仲哀天皇・応神天皇
神功皇后・武内宿禰・市杵島姫命・大穴牟遅命
同社境内の中心には「乎致命」の大きな石像が建立されていて、その台座部分には越智氏の系図が刻まれています。
越智氏族略系図
饒速日命──宇摩志麻治命──彦湯支命──出石心大臣──大矢口宿禰──大綜杵命──伊香色雄命──大新川命──大小千連──乎致命〔越智氏族之祖〕──天狭介──粟鹿──三並──熊武──伊但島──喜多守──高縄〔現大濱八幡大神社創建者〕
文武天皇の時代に「越智郡大領」として越智玉興の名があり、その弟の玉澄の名がみられます。この文武時代である大宝時代に、大山祇神社の新たな社殿祭祀がはじまります。
大濱八幡大神社
社号は八幡神社であるにもかかわらず、主神は「乎致命」と主張しつづけている社があります。といいます(今治市大浜町)。その境内社には、『今治市誌』にも『愛媛県神社誌』にも記載がないものの、祭神を「瀬織津姫神外三柱」とする潮富貴神社もまつられています。
さて越智は伊豫の著姓にて、其末流は河野となり、稲葉となる、〔中略〕
文武帝の時に越智玉興といふ者あり、越智郡大領となり、其弟玉澄が河野(風早郡)といへる地に住みて河野氏を称し、二十一世の孫通清は、寿永の乱に源氏の方人して殺され其子通信は承久の役に官軍に属して伊豫守護を失ひしが、蒙古の寇に曾孫通有戦功ありしかば、旧領を復せり、されば元弘の役に、其子通盛は北條氏に附従して、家は亡ひぬ、得能土井の両氏は、河野の一族なれど勤王の軍に加り建武中興の勲臣たるは、世の知る所なり、足利氏の時に、通盛再び伊豫の守護となり、子孫世襲して、天正中長曾我部元親に滅さる、応神帝の時より通計すれば、一千三百余年に及ふ名たゝる旧族なり、〔後略〕
大濱八幡大神社
祭神
主神 乎致命(おちのみこと)
相殿 饒速日命・天道日女命・仲哀天皇・応神天皇
神功皇后・武内宿禰・市杵島姫命・大穴牟遅命
由緒
創立は遠く上古に溯り、乎致命九代の後裔乎致足尼高縄の創建したものにて、応神天皇の御代小千国造に任ぜられ、此の大浜の地に館を造り、東予地方(中世の道前五郡、現在の越智郡今治市より周桑に及ぶ区域)を開拓した乎致命を祖神として斎き祀り、大濱宮(王濱宮)を号し壱千七百余年以前に未開の地を開拓せられた神を敬慕して御祀りしたものにて、伊予一国の中心門族越智・河野氏の産土神なり。
天智天皇の祖神門島神を遷座し饒速日命・天道日女命を合祀し、仁和元年神位従五位の下を賜う。
貞観元年宇佐八幡宮より八幡神を勧請して大濱八幡宮と改め、壱千一百余年の間、歴代の国司崇敬厚く、守護職河野氏を初め武将の崇敬深く、海上史に有名な瀬戸の海賊衆は八幡大菩薩と斎き祀り、一国の鎮守或は一の宮と称える。〔中略〕
祭日
例大祭 十月十日
開運祭 旧一月二十七日
境内社
杵築神社 祭神 大穴牟遅命
潮富貴神社 祭神 瀬織津姫命 外三柱
境外社
美保神社 祭神 事代主命
イメージ 2 楠神社 祭神 熊野久須毘命
杵築神社 祭神 大穴牟遅命
『新撰姓氏録考證』補遺の解説では、越智氏は「応神帝の時より通計すれば、一千三百余年に及ふ名たゝる旧族」と書かれ、ここでは「応神天皇の御代小千国造に任ぜられ」とあります。この応神天皇時代云々については、『先代旧事本紀』国造本紀の「小千国造、軽島豊明朝(応神)御世、物部連同祖大新川命孫乎致命定賜国造」を承けたものですが、乎致命を「伊予一国の中心門族越智・河野氏の産土神なり」とし、その相殿の筆頭神に、八幡関係神ではなく「饒速日命」(とその天上の妻神「天道日女命」)を配しているところに、大濱八幡大神社の小さな気概が読み取れます。
同社境内の中心には「乎致命」の大きな石像が建立されていて、その台座部分には越智氏の系図が刻まれています(初代内閣総理大臣・伊藤博文は越智氏族との記載もあります)。
越智氏族略系図
饒速日命──宇摩志麻治命──彦湯支命──出石心大臣──大矢口宿禰──大綜杵命──伊香色雄命──大新川命──大小千連──乎致命〔越智氏族之祖〕──天狭介──粟鹿──三並──熊武──伊但島──喜多守──高縄〔現大濱八幡大神社創建者〕
『先代旧事本紀』天孫本紀では、出石心大臣は出雲醜大臣命、大矢口宿禰は大水口宿禰命と記されていますが、こういった小さな差異にこだわる必要はないでしょう。ここで再確認できるのは、越智氏の正統系図に、大山祇神社がいうところの祖神としての大山積大神の名がみられないということです。
では、大山祇神社の主張がでたらめかとなりますが、そうではないという仮定のもとにいうことがあるとすれば、それは、越智氏にとって饒速日命が父系祖神であるとき、大山積大神は母系祖神ではなかったかということがあります。これは改めてふれますが、天孫降臨→瓊々杵尊婚姻神話における『日本書紀』の記述は、大山積大神「男神」説を語る複数の別伝・異伝を配するも、その本文においては、大山積大神は「女神」とされていたことを添えておきます。越智氏の母系祖神Xは、オオヤマツミの名で語られている可能性があります。
イメージ 3 ところで、大濱八幡大神社の相殿にまつられる饒速日命と天道日女命について、由緒は、「天智天皇の祖神門島神を遷座し饒速日命・天道日女命を合祀」と、その由来を書いていました。「天智天皇の祖神」とされる「門島神」、それが「饒速日命・天道日女命」とみなされているようで、そもそも「天智天皇の祖神」とは何かという問いがあらためて喚起されてきます。
国の命令で愛媛県の神社調べがなされた記録(昭和十二年頃に成る「神社に関する調査」)の大濱八幡大神社の項をみますと、主祭神・相殿神は現行表示と同じですが、「其他参考とイメージ 4なるべき事項」の欄には、「門島神」に関して、次のように書かれています。
官報不明ノ神社ナル門島神社(仁和元年従五位下ヲ賜ハル)ハ古ク海上門島(津島或ハ中戸ノ島トイフ)ニ鎮座セシガ天智天皇御宇王濱宮(当社)ニ合祀セシモノナリ
門島は「津島或ハ中戸ノ島トイフ」とあります。現在の島名表記は「津島」で、大三島南の大島の西の沖合にある小島ですが、門島神社は津島神社の名で、同じく「神社に関する調査」の津島・大山積神社の欄に記イメージ 5載があります。先にも紹介しましたが、大山積神社の祭神欄には、次のように書かれています。
大山積神∴(瀬織津比売命、来名戸祖命、
(合祀)津島神社─天照大神、饒速日命、天道日女命∴
大山積神と天道日女命のあとの「∴」など、とても不思議な表示がなされていますが、大濱八幡大神社に合祀されたのは津島(=門島)神社でした。ここで気づくのは、「饒速日命、天道日女命」はたしかに大濱八幡大神社相殿にまつられてはいまイメージ 6すが、天照大神の名がみられないということです。
大濱八幡大神社は「天智天皇の祖神門島神を遷座し饒速日命・天道日女命を合祀」と明記し、天照大神の名を自社祭祀から削除・不表示としています。記紀神話を盲信するかぎり、天皇の祖神は天照大神となりますが、大濱八幡大神社は、その祖神を「饒速日命・天道日女命」と語っています。これは考えてみると、途方もない歴史証言とも読めます。なぜならば、天照大神が天皇の祖神となるのは、天智天皇のあと、つまり壬申の乱(六七二年)のあと、天武・持統天皇以降、伊勢神宮の創祀と連動するもので、天智天皇の時代までは、天照大神は饒速日命のことだったといえるからです。饒速日命を、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という最大賛辞の神名で語っていたのは、越智氏同族物部氏の文書(『先代旧事本紀』)でした。
大濱八幡大神社境内の由緒表示には、越智氏の歴史的気概といったものが垣間見えるようです。この「気概」は、境内社の潮富貴神社の祭神表示「瀬織津姫命外三柱」にも表れています。この境内社は『愛媛県神社誌』等の公的な記録には記されておらず、にもかかわらず、境内の由緒板には明記され、しかも、「瀬織津姫命 外三柱」なのです。この「外三柱」は、瀬織津姫ほかの祓戸三神をいったものでしイメージ 7ょうが、それらの神名を具体的に記すことなく「外三神」で括っています。しかも、社号を祓戸神社とすることなく潮富貴神社としています。瀬織津姫の単独神祭祀に対して、明治期に祓戸四神表示が強要された事例は多くあり、大濱八幡大神社も例外ではなかったのでしょう。しかし、国家による強要祭祀を、そのままに受容していないことを示しているのが「外三柱」表示(と社号・潮富貴神社)で、これも大濱八幡大神社の「気概」とみられます。
ところで、大山祇神社境内の十七神社に合祭されている早瀬神社ですが、この神社の元社地はどこかということで、大山祇神社の根本由緒書の一つ「三島宮社記」は、次のように書いています(安永五年=一七七六年頃の書写、『神道大系』神社編四十二、所収)。
早瀬神社一座 瀬織津姫命〔一説木花知流姫命〕
此御社者、同越智郡之内鎮座于津嶋。
早瀬神社一座の祭神は瀬織津姫命とするも、一説には「木花知流姫命」ともいわれるというのは興味深いですが、それはおくとして、早瀬神社は越智郡のなかの津嶋(津島=門島)に鎮まりますという内容は、やはり重要でしょう。
昭和十二年の時点、津島には早瀬神社の社号はみられず、大山積神と「∴」の関係で、瀬織津姫の名は記されていました。また、大濱八幡大神社においては、津島=門島神の一神「天照大神」を表示することなく、境内に潮富貴神として瀬織津姫の名を出現させています。大濱八幡大神社から消えた津島神「天照大神」は、あるいは、瀬織津姫神の異称とされる天照大神「荒魂」のことだったのかもしれません。
大山祇神社の伝承文
言い伝えによると、孝霊天皇の時代においては、世の中が平和ではなく、(孝霊天皇の)意のままにならなかった。
民衆の多くは(孝霊天皇に)背いた。
このため孝霊天皇は 「オオクニヌシノミコト」 に世の中が穏やかになり、国民を従えられるようにお祈りなさった。オオクニヌシノミコトが孝霊天皇の夢枕に立って仰ったことには
「孝霊天皇が世の中が穏やかになり、国民が従うようになることを望むのならば、最初にオモダルカシコネノミコトを柱神として崇めて上位に据える必要がある。崇められることで大山積神となる」
と孝霊天皇にお教え申し上げなさった。
こういった理由で天照大神と一緒に大山積神を崇めなさったのだということだ。