任那

任那は崇神天皇の時代に来倭した大加羅国王子の都怒我阿羅斯等、別名蘇那曷叱知が帰国した際に国名を任那に改名させたのがはじまり。

崇神天皇の時、任那国から「我が国は東に三己紋の地があり、地方三百里、人民は富み、 常に新羅国と争って治められないので、しかるべき将軍に治めさせるならば貴国に属そう」と云って来た。
そこで天皇が郡臣に人を選ばせたところ、彦国葺命の孫の鹽垂津彦命の名があがった。 頭上に松樹のような三岐の角があり、身の丈五尺、力は人に勝り、性質も勇悍な人物で、直ちに任那に派遣された。

高句麗と百済、新羅の三国が建ったころ、朝鮮半島の東南部を流れる洛東江流域でも多くの小さい国が起こった。これらの小国は次第に成長して6伽耶に発展していったが紀元18年、現在の金海を中心に起こった金官伽耶が代表的な国であった。
金官伽耶は天から降りてきたという金首露王によって建国され、1世紀ごろから東のほうの新羅と競争しながら伽耶国の盟主として隣接する伽耶諸国に強力な影響力を及ぼした。この地域では以前から鉄がたくさん生産されていて鉄の交易を主導し、伽耶文化の中心的役割を果たした。
百済、倭とつながっていた伽耶の交易網は4世紀の末高句麗の攻撃で破壊される。そしてその中心地であった金官伽耶も破れて前期伽耶連盟もつぶれてしまったが、伽耶の国は内陸に位置していた大伽耶を中心に後期の伽耶同盟を結び、中国と独自的に交易をおこなうなど6世紀ごろまで朝鮮半島の南の方で独自の勢力をなしていた。

彦 国葺 命(息長)・和邇・ヒコクニブク・ヒコクニフキ。孝昭天皇系・天足彦国押人の子孫。稚押彦(彦姥津命)の息。大彦命とともに武埴安彦命を討伐。垂仁天皇から五大夫に任命される。兄に伊富都久命。弟に小篠命。彦坐王は甥。息に建耶須禰命、大口納命、彦忍人命(武射国造の祖)、八千宿禰命(吉備穴国造。安那氏の祖)<和邇氏の祖。>

加羅七国 日本書紀:神功皇后

《神功皇后摂政四九年(己巳二四九)三月》四十九年春三月。以荒田別。鹿我別為将軍。則与久〓[氏+一]等共勒兵而度之。至卓淳国。将襲新羅。時或曰。兵衆少之。不可破新羅。更復奉上沙白。蓋盧。請増軍士。即命木羅斤資。沙沙奴跪。〈 是二人不知其姓人也。但木羅斤資者。百済将也。 〉領精兵与沙白。蓋盧共遣之。倶集于卓淳。撃新羅而破之。因以平定比自〓[火+本]。南加羅。喙国。安羅。多羅。卓淳。加羅七国。仍移兵、西廻至古爰津。屠南蛮。〓弥多礼。以賜百済。於是。其王肖古。及王子貴須。亦領軍来会。時比利。辟中。布弥支。半古四邑自然降服。』是以百済王父子。及荒田別。木羅斤資等。共会意流村。〈 今云州流須祇。 〉相見欣感。厚礼送遣之。唯千熊長彦与百済王。至于百済国登辟支山盟之。復登古沙山。共居磐石上。時百済王盟之曰。若敷草為坐。恐見火焼。且取木為坐。恐為水流。故居磐石而盟者。示長遠之不朽者也。是以自今以後。千秋万歳。無絶無窮。常称西蕃。春秋朝貢。則将千熊長彦。至都下厚加礼遇。亦副久〓[氏+一]等。而送之。

465年 新羅遠征
雄略天皇 紀氏、蘇我氏、大伴氏による遠征。
紀小弓宿禰は大将軍であるので、蘇我韓子宿禰は前将軍、大伴談連は中将軍、小鹿火宿禰は後将軍とみなすことができる。
《雄略天皇九年(乙巳四六五)三月》三月。天皇欲親伐新羅。神戒天皇曰。無往也。天皇由是不果行。乃勅紀小弓宿禰。蘇我韓子宿禰。大伴談連。〈 談。此云箇陀利。 〉小鹿火宿禰等曰。新羅自居西土。累葉称臣。朝聘無違。貢職允済。逮乎朕之王天下。投身対馬之外。竄跡匝羅之表。阻高麗之貢。呑百済之城。況復朝聘既闕。貢職莫脩。狼子野心。飽飛飢附。以汝四卿。拝為大将。宜以王師薄伐、天罰襲行。於是。紀小弓宿禰使大伴室屋大連。憂陳於天皇曰。臣雖拙弱、敬奉勅矣。但今臣婦命過之際。莫能視養臣者。公冀将此事具陳天皇。於是。大伴室屋大連具為陳之。天皇聞悲頽歎。以吉備上道采女大海。賜於紀小弓宿禰。為随身視養。遂推轂以遣焉。紀小弓宿禰等即入新羅。行屠傍郡。〈 行屠。並行並撃。 〉新羅王夜聞官軍四面鼓声。知尽得喙地。与数百騎馬軍乱走。是以大敗。小弓宿禰追斬敵将陣中。喙地悉定。遣衆不下。紀小弓宿禰亦収兵。与大伴談連等会。兵復大振。与遣衆戦。是夕大伴談連及紀岡前来目連、皆力闘而死。談連従人同姓津麻呂。後入軍中、尋覓其主。従軍不見出問曰。吾主大伴公、何処在也。人告之曰。汝主等果為敵手所殺。指示屍処。津麻呂聞之踏叱曰。主既已陥。何用独全。因復赴敵。同時殞命。有頃遣衆自退。官軍亦随而却。大将軍紀小弓宿禰値病而薨。

喙の地はことごとく定まると言いながら、その後も戦闘が続き大将軍紀小弓宿禰は病死。なお、新羅本紀には462年、463年の倭の侵入はあっても465年の侵入はない。
新羅本記
慈悲麻立干五年 夏五月 倭人襲破活開城 虜人一千而去
慈悲麻立干六年 春二月 倭人侵□良城 不克而去 王命伐智・德智 領兵伏候於路 要撃大敗之 王以倭人□侵疆□ 縁邊築二城 秋七月 大閲

《顕宗天皇三年(丁卯四八七)是歳》是歳。紀生磐宿禰跨拠任那。交通高麗。将西王三韓、整脩宮府。自称神聖。用任那左魯・那奇。他甲肖等計、殺百済適莫爾解於爾林。〈 爾林、高麗地也。 〉築帯山城、距守東道。断運糧津、令軍飢困。百済王大怒、遣領軍古爾解。内頭莫古解等。率衆趣于帯山攻。於是。生磐宿禰進軍逆撃。胆気益壮。所向皆破。以一当百。俄而兵尽力竭。知事不済。自任那帰。由是。百済国殺佐魯・那奇。他甲肖等三百余人。
紀生磐宿禰が高句麗と交流し、新羅、百済、加羅の三韓の王として神聖を名乗ったとある。

《継体天皇七年(癸巳五一三)十一月乙卯【五】》冬十一月辛亥朔乙卯。於朝庭、引列百済姐弥文貴将軍。斯羅汶得至。安羅辛已奚及賁巴委佐。伴跛既殿奚及竹汶至等。奉宣恩勅。以己汶帯沙賜百済国。
《継体天皇七年(癸巳五一三)十一月是月》是月。伴跛国遣〓攴。献珍宝乞己汶之地。而終不賜国。
《継体天皇八年(甲午五一四)三月》三月。伴跛築城於子呑・帯沙。而連満奚。置烽候・邸閣。以備日本。得築城於爾列比。麻須比。而〓麻且奚・推封。聚士卒・兵器以逼新羅。駆略子女、剥掠村邑。凶勢所加。〓有遺類。夫暴虐、奢侈。悩害、侵凌。誅殺尤多。不可詳載。
《継体天皇九年(乙未五一五)二月丁丑【四】》九年春二月甲戌朔丁丑。百済使者文貴将軍等請罷。仍勅、副物部連〈 闕名。 〉遣罷帰之。〈 百済本記云。物部至至連。 〉
《継体天皇九年(乙未五一五)二月是月》是月。到于沙都嶋。伝聞。伴跛人懐恨御毒。恃強縦虐。故物部連率舟師五百。直詣帯沙江。文貴将軍自新羅去。
《継体天皇九年(乙未五一五)四月》夏四月。物部連於帯沙江停住六日。伴跛興師往伐。逼脱衣裳、劫掠所賚。尽焼帷幕。物部連等怖畏逃遁。僅存身命、泊〓慕羅。〈 〓慕羅。嶋名也。 〉
《継体天皇十年(丙申五一六)五月》十年夏五月。百済遣前部木〓不麻甲背。迎労物部連等於己〓。而引導入国。群臣各出衣裳・斧鉄・帛布。助加国物、積置朝廷。慰問慇懃。賞禄優節。

伴跛国は己汶と帯沙を百済に割譲することをよしとせず、倭に反旗を翻し新羅を攻め、物部至至連を撃退している。しかし、反乱は2年で鎮圧されたようだ。

己汶は新選姓氏録にも出てくる。

左京 皇別   吉田連 大春日朝臣同祖 観松彦香殖稲天皇[謚孝昭。]皇子天帯彦国押人命四世孫彦国葺命之後也
昔磯城瑞籬宮御宇御間城入彦天皇御代。任那国奏曰。臣国東北有三己汶地。[上己汶。中己汶。下己汶。]地方三百里。土地人民亦富饒。与新羅国相争。彼此不能摂治。兵戈相尋。民不聊生。臣請将軍令治此地。即為貴国之部也。天皇大悦。勅群卿。令奏応遣之人。卿等奏曰。彦国葺命孫塩垂津彦命。頭上有贅三岐如松樹。[因号松樹君。]其長五尺。力過衆人。性亦勇悍也。天皇令塩垂津彦命遣。奉勅而鎮守。彼俗称宰為吉。故謂其苗裔之姓。為吉氏。男従五位下知須等。家居奈良京田村里間。仍天璽国押開豊桜彦天皇[謚聖武。]神亀元年。賜吉田連姓。[吉本姓。田取居地名也。]今上弘仁二年。改賜宿祢姓也

562年 日本書紀 :欽明天皇 任那滅亡
《欽明天皇二三年(五六二)正月》二十三年春正月。新羅打滅任那官家。〈 一本云。二十一年、任那滅焉。忽言任那。別言加羅国。安羅国。斯二岐国。多羅国。卒麻国。古嗟国。子他国。散半下国。乞〓[冫+食]国。稔礼国。合十国。 〉

神功皇后から欽明天皇の間で、変わらない国は加羅と安羅と多羅の3国である。南加羅、喙、卓淳は新羅に併合されてしまったことが記載されている。

三国史記新羅本紀では以下の記事がある。

(562年)二十三年 秋七月 百濟侵掠邊戸 王出師拒之 殺獲一千餘人 
九月 加耶叛 王命異斯夫討之 斯多含副之 斯多含領五千騎先馳 入栴檀門 立白旗 城中恐懼 不知所爲 異斯夫引兵臨之 一時盡降 論功 斯多含爲最 王賞以良田及所虜二百口 斯多含三讓 王強之 乃受 其生口放爲良人 田分與戰士 國人美之

日本書紀には新羅本紀に記載されている記事に対応する記事がある。

《欽明天皇二三年(五六二)是月》(七月)是月。遣大将軍紀男麻呂宿禰。将兵出〓[口+多]〓[口+利]。副将河辺臣瓊缶出居曾山。而欲問新羅攻任那之状。遂到任那。以薦集部首登弭。遣於百済。約束軍計。登弭仍宿妻家。落印書。弓箭於路。新羅具知軍計。卒起大兵。尋属敗亡。乞降帰附。紀男麻呂宿禰取勝旋師、入百済営。令軍中曰。夫勝不忘敗。安必慮危。古之善教也。今処彊畔。豺狼交接。而可軽忽、不思変難哉。況復平安之世刀剣不離於身。蓋君子之武備、不可以已。宜深警戒、務崇斯令。士卒皆委心而服事焉。河辺臣瓊缶独進転闘。所向皆抜。新羅更挙白旗、投兵隆首。河辺臣瓊缶元不暁兵。対挙白旗、空爾独進。新羅闘将曰。将軍河辺臣今欲降矣。乃進軍逆戦。尽鋭〓攻破之。前鋒所傷甚衆。倭国造手彦自知難救。棄軍遁逃。新羅闘将手持鉤戟。追至城洫。運戟撃之。手彦因騎駿馬、超渡城洫。僅以身兔。闘将臨城洫而歎曰。久須尼自利。〈 此新羅語未詳也。 〉於是。河辺臣遂引兵退、急営於野。於是士卒尽相欺蔑。莫有遵承。闘将自就営中、悉生虜河辺臣瓊缶等及其随婦。于時父子夫婦不能相恤。闘将問河辺臣曰。汝命与婦、孰与尤愛。答曰。何愛一女、以取禍乎。如何不過命也。遂許為妾。闘将遂於露地、奸其婦女。婦女後還。河辺臣欲就談之。婦人甚以慚恨、而不随曰。昔君軽売妾身。今何面目以相遇。遂不肯言。是婦人者坂本臣女。曰甘美媛。同時所虜調吉士伊企儺。為人勇烈。終不降服。新羅闘将抜刀欲斬。逼而脱褌。追令以尻臀向日本、大号叫〈 叫〓[口+兆]也 〉曰、日本将齧我〓〓[月+隹]。即号叫曰。新羅王啗我〓〓[月+隹]。雖被苦逼。尚如前叫〓。由是見殺。其子舅子亦抱其父而死。伊企儺辞旨難奪、皆如此。由此特為諸将帥所痛惜。昔妻大葉子亦並見禽。(後略)

日本書紀では562年1月に滅びたと言いながら、新羅本紀では562年9月に加羅が反乱を起こしたと記載している。1月に新羅に占領され9月に反乱が起きたのだろうか。また、新羅本紀の9月の加羅反乱の記事は日本書紀では7月の記事のなっているようである。

列伝の斯多含(したがん)には562年9月の加羅反乱に関する記載がある。

(前略)眞興王命伊 異斯夫, 襲加羅[一作加耶.]國. 時, 斯多含年十五六, 請從軍, 王以幼少不許, 其請勤而志 {確}, 遂命爲貴幢裨將, 其徒從之者亦衆. 及抵其國界, 請於元帥, 領麾下兵, 先入 檀梁[ 檀梁, 城門名. 加羅語謂門爲梁云.]. 其國人, 不意兵猝至, 驚動不能禦, 大兵乘之, 遂滅其國.  師還, 王策功, 賜加羅人口三百, 受已皆放, 無一留者. 又賜田, 固辭, 王强之, 請賜閼川不毛之地而已. 含始與武官郞, 約爲死友. 及武官病卒, 哭之慟甚, 七日亦卒, 時年十七歲.

日本書紀に、南加羅、喙、卓淳3国の滅びた理由が述べられている。
南加羅は金官加羅とみられており、小さく備えることあたわず、頼るところもなく新羅に降伏したようである。
喙は新羅と接しており連年新羅に攻められ滅びたという。また、喙の函跛旱岐は新羅と内応し、加羅と戦争になり滅びたようである。
卓淳も国が上下に離れ離れになっており、新羅に内応して滅びたという。

《欽明天皇二年(五四一)四月》夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。久取柔利。加羅上首位古殿奚。卒麻旱岐。散半奚旱岐児。多羅下旱岐夷他。斯二岐旱岐児。子他旱岐等。与任那日本府吉備臣。〈 闕名字。 〉往赴百済、倶聴詔書。百済聖明王謂任那旱岐等言。日本天皇所詔者。全以復建任那。今用何策、起建任那。盍各尽忠奉展聖懐。任那旱岐等対曰。前再三廻、与新羅議而無答報所図之旨。更告新羅、尚無所報。今宜倶遣使、徃奏天皇。夫建任那者。爰在大王之意。祗承教旨。誰敢間言。然任那境接新羅。恐致卓淳等禍。〈 等謂〓己呑・加羅。言卓淳等国、有敗亡之禍。]聖明王曰。昔我先祖速古王。貴首王之世。安羅。加羅。卓淳旱岐等。初遣使、相通。厚結親好。以為子弟。冀可恒隆。而今被誑新羅、使天皇忿怒、而任那憤恨。寡人之過也。我深懲悔。而遣下部中佐平麻鹵。城方甲背昧奴等赴加羅、会于任那日本府相盟。以後繋念。相続、図建任那。旦夕無忘。今天皇詔称。速建任那。由是欲共爾曹謨計。樹立任那国。宜善図之。又於任那境。徴召新羅。問聴与不。乃倶遣使、奏聞天皇。恭承示教。儻如使人未還之際。新羅候隙、侵逼任那。我当往救。不足為憂。然善守備。謹警無忘。別汝所道。恐致卓淳等禍。非新羅自強故所能為也。其〓己呑。居加羅与新羅境際。而被連年攻敗。任那無能救援。由是見亡。其南加羅。〓爾狭小。不能卒備。不知所託。由是見亡。其卓淳上下携弐。主欲自附。内応新羅。由是見亡。因斯而観、三国之敗。良有以也。昔新羅請援於高麗。而攻撃任那与百済。尚不剋之。新羅安独滅任那乎。今寡人与汝戮力并心。翳頼天皇。任那必起。因贈物各有差。忻忻而還。

《欽明天皇五年(五四四)三月》三月。百済遺奈率阿〓得文。許勢奈率歌麻。物部奈率歌非等。上表曰。奈率弥麻沙。奈率己連等、至臣蕃。奉詔書曰。爾等宜共在彼日本府、同謀善計。早建任那。爾其戒之。勿被他誑。又津守連等至臣蕃。奉勅書。問建任那。恭承来勅。不敢停時。為欲共謀。乃遣使召日本府〈 百済本記云。遣召烏胡跛臣。蓋是的臣也。 〉与任那。倶対言。新年既至。願過而徃。久而不就。復遣使召。倶対言。祭時既至。願過而往。久而不就。復遣使召。而由遣微者。不得同計。夫任那之不赴召者。非其意焉。是阿賢移那斯。佐魯麻都。〈 二人名也。已見上文。 〉奸佞之所作也。夫任那者以安羅為兄。唯従其意。安羅人者。以日本府為天。唯従其意。〈 百済本記云。以安羅為父。以日本府為本也。 〉今的臣。吉備臣。河内直等。咸従移那斯。麻都指〓而已。移那斯。麻都。雖是小家微者。専擅日本府之政。又制任那。障而勿遣。由是不得同計奏答天皇。故留己麻奴跪。〈 蓋是津守連也。 〉別遣疾使迅如飛烏。奉奏天皇。仮使二人。〈 二人者。移那斯与麻都也。 〉在於安羅。多行奸佞。任那難建。海西諸国。必不獲事。伏請移此二人。還其本処。勅唹日本府与任那。而図建任那。故臣遣奈率弥麻沙。奈率己連等。副己麻奴跪、上表以聞。於是詔曰。的臣等。〈 等者謂吉備弟君臣。河内直等也。 〉往来新羅、非朕心也。襄者。印支弥〈 未詳。 〉与阿鹵旱岐在時。為新羅所逼。而不得耕種。百済路迥。不能救急。由的臣等往来新羅。方得耕種。朕所曾聞。若已建任那。移那斯。麻都。自然却退。豈足云乎。伏承此詔。喜懼兼懐。而新羅誑朝。知匪天勅。新羅春取〓淳。仍擯出我久礼山戍。而遂有之。近安羅処。安羅耕種。近久礼山処。新羅耕種。各自耕之不相侵奪。而移那斯。麻都。過耕他界。六月逃去。於印支弥後来許勢臣時。〈 百済本記云。我留印支弥之後。至既酒臣時。皆未詳。 〉新羅無復侵逼他境。安羅不言為新羅逼不得耕種。臣嘗聞。新羅毎春秋。多聚兵甲。欲襲安羅与荷山。或聞。当襲加羅。頃得書信。便遣将士。擁守任那。無懈怠也。頻発鋭歌兵。応時往救。是以任那随序耕種。新羅不敢侵逼。而奏百済路迥。不能救急。由的臣等往来新羅。方得耕種。是上欺天朝。転成奸佞也。暁然若是。尚欺天朝。自余虚妄。必多有之。的臣等猶住安羅。任那之国恐難建立。宜早退却。臣深懼之。佐魯麻都雖是韓腹。位居大連。廁日本執事之間。入栄班貴盛之之例。而今反著新羅奈麻礼冠。即身心帰附。於他易照。熟観所作。都無怖畏。故前奏悪行。具録聞訖。今猶著他服。日赴新羅域。公私往還。都無所憚。夫喙国之滅。匪由他也。喙国之函跛旱岐。弐心加羅国。而内応新羅。加羅自外合戦。由是滅焉。若使函跛旱岐不為内応。喙国雖小。未必亡也。至於卓淳。亦復然之。仮使卓淳国主不為内応新羅招冦。豈至滅歌乎。歴観諸国敗亡之禍。皆由内応弐心人者。今麻都等腹心新羅。遂着其服。徃還旦夕。陰搆〓心。乃恐、任那由茲永滅。任那若滅。臣国孤危。思欲朝之。豈復得耶。伏願天皇玄鑑遠察。速移本処。以安任那。

南加羅は金官加羅とみなされている
532年に新羅に降伏した記事が三国史記の新羅本紀に記載されている。
532年は日本書紀では継体天皇と安閑天皇の間の空位の2年間。
三国史記新羅本記
法興王十九年 金官國主金仇亥 與妃及三子 長曰奴宗 仲曰武德 季曰武力 以國帑寶物來降 王禮待之 授位上等 以本國爲食邑 子武力仕至角干

479年加羅国王荷知が中国の「南斉」に朝貢して「輔国将軍本国王」に冊封されている。

487年 紀生磐宿禰が神聖を名乗り三韓の王となった。
日本書紀によると欽明元年は540年であるが、元興寺伽藍縁起并流記資財帳によると欽明七年が戊午年538年なので、欽明元年は532年となり、日本書紀より8年前にずれているのである。元興寺伽藍縁起并流記資財帳の場合、欽明八年は539年となる。この8年のずれを適用すれば、487年の記事は欽明紀により8年前にずれて479年になるのである

(479年)《顕宗天皇三年(丁卯四八七)是歳》是歳。紀生磐宿禰跨拠任那。交通高麗。将西王三韓、整脩宮府。自称神聖。用任那左魯・那奇。他甲肖等計、殺百済適莫爾解於爾林。〈 爾林、高麗地也。 〉築帯山城、距守東道。断運糧津、令軍飢困。百済王大怒、遣領軍古爾解。内頭莫古解等。率衆趣于帯山攻。於是。生磐宿禰進軍逆撃。胆気益壮。所向皆破。以一当百。俄而兵尽力竭。知事不済。自任那帰。由是。百済国殺佐魯・那奇。他甲肖等三百余人。

もともと二文字の国号だったのを後世に一文字削ったと考える見解がある。
http://nihonki.blog.fc2.com/blog-entry-56.html
もともとの国号は「輔国将軍日本国王」であったのを、1字削って、「南斉」に朝貢して「輔国将軍本国王」とされたとの見方である。

任那と加羅を別の国として認識している点については、倭の支配地域として認められた秦韓(シンハラ)や慕韓(ボハラ)を考えることで理解できる。秦韓や慕韓はそれぞれ、辰韓と馬韓である。479年にはすでに存在しない辰韓と馬韓が含まれている。以前は加羅だったが479年には任那という国名であるということである。なお、三韓の最後の一国である。

舊唐書  卷一九九上 東夷伝 倭國 日本
日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地

「旧唐書は日本が旧小国であったというが、紀生磐宿禰が独立して神聖を名乗り国号を「日本」としたのが原因ではないか。日本は479年に加羅で建国したのだ。しかし、二年後には滅ぼされ任那の県として日本という名を留めたのだ。」

継体天皇のところに、509年に 任那日本県邑が見られる。
《継体天皇三年(癸丑五〇九)二月》三年春二月。遣使于百済。〈 百済本記云。久羅麻致支弥従日本来。未詳。 〉括出在任那日本県邑百済百姓、浮逃絶貫三四世者、並遷百済附貫也。

伴跛国は249年の7ヵ国にも562年の10ヵ国にも記載がない。しかし、三国遺事の星山伽耶の一部とされている。三国史記の地理には星山郡の四縣の一つとして本彼縣が存在し、伴跛国のこととされている。
星山郡, 本一利郡[一云里山郡.], 景德王改名, 今加利縣. 領縣四: 壽同縣, 本斯同火縣, 景德王改名, 今未詳; 谿子縣, 本大木縣, 景德王改名, 今若木縣; 新安縣, 本本彼縣, 景德王改名, 今京山府; 都山縣{都川縣}, 本狄山縣, 景德王改名, 今未詳.
伴跛国が星山伽耶の本彼であれば、479年に加羅国王荷知が中国の「南斉」に朝貢して「輔国将軍本国王」に冊封されたというのは本彼のことであると考えることができる。なぜなら、本国とは「本」という国号と考えることが出来るからである。
倭王の武は479年に使持節都督倭新羅任那加羅秦韓六国諸軍事安東大将軍から鎮東大將になっている。六国と記載しながら五国しか記載がない。
重要なのは南斉が任那と加羅を別の国として認識し、加羅を「本」という国として認めていることだ。

三国遺事
五伽耶。阿羅(一作耶)伽耶(今咸安)、古寧伽耶(今咸寧)、大伽耶(今高靈)、星山伽耶(今京山玄)、碧珍小伽耶(今固城)。

又本朝史略云、太祖天福五年庚子改五伽耶名。一金官(為金海府)、二古寧(為加利縣)、三非大(今昌寧恐高靈之訛)、餘二阿羅星山(同前星山或作碧珍伽耶)

日本書紀では259年の頃は7ヵ国であったが、562年には10ヵ国になっている。一方三国遺事においては5ヵ国となっている。名前が一致しているのは阿羅のみである。日本と新羅において任那を構成する国は異なることがわかる。一つ考えられるのは任那は百済と新羅に隣接する国であるので最終的に百済と新羅に任那は併合され、三国遺事に記載された5ヵ国は新羅に併合された任那諸国であり、それ以外の任那諸国は百済に併合されたということかもしれない。
630 遣唐使はじまる
632 新羅・善徳女王 即位
642 皇極天皇・35代 即位
645 中大兄皇子乙巳の変
645 孝徳天皇・36代 即位
648 倭国は新羅にことづけて上表文を送る。
655 斉明天皇・37代 即位
660 百済滅亡
661 斉明天皇が崩御
662 天智天皇38代那国で即位 
663 白村江で大敗する
667 大津へ遷都する
703 日本国は粟田真人を使者とする。
《天智天皇二年(六六三)三月》◆三月。遣前将軍上毛野君稚子。間人連大蓋。中将軍巨勢神前臣訳語。三輪君根麻呂。後将軍阿倍引田臣比邏夫。大宅臣鎌柄。率二万七千人、打新羅。

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韓国、栄山江流域の前方後円墳
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任那の頃の古墳=前方後円墳
2005年10月31日の KBSの報道(聯合ニュース)は、
『 ソウル・江東区一帯で 漢城 百済時代に作られた前方後円墳10数基が一度に発見された 』と報道した。KBSでは これらを 百済初期の王陵クラスの墓と 推定し、『 前方後円墳は 日本で典型的な 古墳方式だが、朝鮮半島では 全羅南道の 栄山江流域で10基あまりが確認されるだけだ。』とも 報じた。

ところが、、2日後の 11月2日、聨合ニュースは
『 漢城都邑期 百済時代(BC 18~AD 475)王陵級 前方後円型 超大型古墳10数基が ソウル江東一帯で発見されたと 31日報じた 一部メディアの報道は 根拠の 裏付けがないことが 判明した。』 と、慌てて 否定した。

一方、韓国の 国立中央博物館が発行する学術誌‘ 博物館 保存科学 ’2009年12月号(通巻10集)よると、『 百済の最後の首都、扶余で発掘された 木製品に 日本列島だけに自生する杉が 多数使われたことが確認された 』 とし、また 保存科学チームは「 杉は 我が国では 育たない 日本特産品種 」 だとしている。

最近では、「 海を渡った日本文化 」 というテーマの 日韓交流展が、各地で開催され、その中では 3世紀後半から7世紀の古墳時代、韓国で出土した 日本の様式の装飾品や 埴輪、それに、韓国の 南西部光州で発見された 「 前方後円墳 」 の写真など 国の重要文化財 2点を含む、約 50点が展示されている。

その中の掲示には、『 特に前方後円墳は、これまで 日本独自の墳墓と思われてきたが、韓国でも 20年ほど前から 日本が起源と見られる 「 前方後円墳 」 が、10基以上 見つかっている。』 としている。
慶尚南道昌寧郡の松硯洞古墳群の中で 6世紀初め頃に築造された第7号墳の
「秣桶型(丸太型)木棺」を作るのに利用されたクスノキは朝鮮半島自生樹木である可能性はほとんどなく、日本列島から入って来た可能性が大きいことが分かった。

同時期に築造された公州の武寧王陵から出土した王と王妃の木棺も、日本列島だけに自生する金松と判明した

朝鮮半島南部の前方後円墳

1983年に韓国慶尚南道固城の松鶴洞一号墳が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いだ。その後の調査により、松鶴洞一号墳は築成時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものであり、前方後円墳ではないことが明らかになったものの、現在までに、5世紀後半から6世紀半ば築造されたとみられる前方後円墳が、百済が南遷する前は任那の最西部であった
全羅南道に12基、全羅北道に2基確認されている

現在前方後円墳が集まる全羅南道を流れる榮山江(Yeongsan-gang)流域は、墳丘形態と円筒埴輪などの外部施設、甕棺による独特な埋葬法や九州北部でも発掘されている鳥足文土器の副葬から、この地域は周囲とは異なる文化を持つ地域であったことが見受けられる。このことから、被葬者について、大和朝廷によって当地に派遣された官吏や軍人、大和朝廷に臣従した在地豪族、いずれも倭国が擁立した東城王・武寧王に随伴した倭人有力者とする見解などが出ている。
榮山江流域に倭人が住んでいたという説も存在する。

北京大学教授の歴史学者である宋成有は以下のように述べる。 「1948年の大韓民国創立の後、民族主義史学は韓国の大学の歴史学の三大流派の一つになったが、民間のアマチュア史学や神話や伝承や講談などの作り物と真実を混同して、社会的な扇動におおきな力を振るっている」

見解は様々に分かれる。倭人系百済官僚であるとする見解や、百済が高句麗の南下により、475年に首都の漢城(現在のソウル)を落とされ、都を熊津(現在の現在の忠清南道公州市)に移し、高句麗戦で失った地域の代わりに求めた土地が榮山江流域であったが、武寧王がこの地域を支配しようとしていた時代に前方後円墳が現れており、百済が背後に他国との関係があることを見せつけるために造った、あるいは百済に協力した倭人が造ったとするものもある

古代、文化は朝鮮半島から日本へ一方的に移動したとする先入観から、前方後円墳を『里帰りによる逆輸入』などと考える研究者も存在し、そのような固定観念による全羅南道西部の前方後円墳についての解釈に日本の研究者から批判の声も挙がっていた。近年は、前方後円墳を倭人の墳墓と認め、倭の軍事勢力が栄山江流域で活動していたという事実を認定した上で、百済に服属した倭系官僚がこの地を支配していたなどと従来の観念から脱却しつつある韓国人学者も出ている。

朴天秀は、韓国の前方後円墳が在地首長の墓を避けるように単発的に存在し、石室を赤く塗るものもあり九州の古墳と共通点が多いことから、その被葬者は九州出身の豪族である可能性を提起している。また、当時の先進文化は韓国から日本に渡ったものであり前方後円墳もその1つであるという認識が1980年代の韓国にはあったが、それは間違いであり、韓国の前方後円墳は5世紀から6世紀に日本から韓国に伝わったものであると指摘している。

日本府

日本書記を読むと
1. 「日本府」は百済・新羅の伽耶地域への侵攻が進む六世紀代に登場する。
2. 所在地は安羅(アンラ)である。
3. 「在安羅緒倭臣」(欽明十五年十二月条)が正式名称である。
4. 構成員は倭の中央豪族、吉備臣などの地方豪族、伽耶系の人々(倭人との混血児を含む)であり、彼らは5世紀代の倭と半島との関係や地方豪族の独自の通交(例吉備臣―雄略7年(463)是歳条)などにより、特に倭とつながりの深かった安羅(有力な渡来系氏族東漢直(ヤマトノアタイ)氏は安羅出身とされる)に居住した倭人の一団であったと考えられる。その中で実務を担っていたのは伽耶系の人々であった。
5. 倭本国とのつながりは無かったようである。
6. 伽耶諸国と共通の利害を有し、ほぼ対等な関係で彼らと接し、主に外交交渉に共同で従事している。
 
しばしば反百済策をとる「日本府」官人を「本邑」に返すよう百済聖明王が倭に建言した際、倭は「日本府」に具体的な指示をだすことができなかったこと、また「日本府」は百済に赴いて倭の半島策をたずねており、倭から「日本府」への直接的に使者を派遣することはなかった事実がわかっている。