丸亀城主、山崎甲斐守、山崎家治、京極氏

丸亀藩は、讃岐国(香川県)の西部を領し、丸亀城(丸亀市)を本城とした藩。藩主は生駒氏、山崎氏、京極氏と続き廃藩置県を迎えた。

丸亀城は、亀山と呼ばれていた室町初期に、讃岐守護職細川氏の家臣が築城したのが起こりである。 

 

山崎氏と京極氏は、近江源氏、佐々木氏の後裔である。六角氏も近江源氏として名高い佐々木氏の嫡流である

丸亀藩は京極さんで、京都の京極氏六角氏など近江佐々木氏の流れです。近江八幡市の沙沙貴神社は江戸時代天保年間に消失し、社殿を再建したのは丸亀藩主京極高明でした。
京都風の文化を、室町時代は讃岐藩主の細川氏   そして江戸時代は、高松の松平さん丸亀の京極さんが伝えたようです。

出自

近江山崎氏は、宇多源氏佐々木氏の支族の一つ。佐々木憲家が源頼朝に近江国犬上郡山崎の地頭に補せられ山崎を称したのが始まりとされる。

  • 家治は宇多天皇七世の孫、佐々木兵庫助経方の四男四郎大夫家行の子六郎憲家の末裔。
  • 憲家が頼朝公に仕えて近江国犬上郡山崎の城に居たので氏とした。

彦根山には養老4年<710年>、近江の国司藤原房前によって、一寸八分の観音像を本尊とした彦根寺が建立されていました。 

この本尊は、金の亀に乗っておられたので彦根寺の山号を金亀山と称し、そのために彦根山を金亀山というようになりました。金亀城というのも、この由来からです

山崎宗家 (山崎城主)ー 山崎片家(六角家臣山崎城主、のち織田家臣) ー  山崎家盛 ー 山崎家治

山崎家治 1594-1649

丸亀藩の初代城主である。

大阪夏の陣や島原の乱で活躍した。

家治は松平信綱をはじめとする幕閣から信任を得て、島原の乱後の寛永16年(1639年)、肥後天草(富岡)4万石に加増転封された。乱後の天草は領内の2~3割が荒れ地というほどに荒廃していたが、家治は富岡城の再建、離散した領民の呼び戻し、新田開発など復興に着手した。

寛永18年(1641年)9月、讃岐西半分を治める讃岐丸亀5万3,000石(丸亀藩)に大幅加増転封された。

丸亀城の築城

丸亀でも築城経験を生かして丸亀城の築城を開始する一方、城下町の経営・整備を行ない、今日の丸亀の基礎を築いた。しかし丸亀城を凝った造りにしたこともあり、慶安元年(1648年)3月17日、その完成を見届けることなく55歳で死去した。丸亀城の築城工事は山崎家が丸亀を去った後、京極高和まで引き継がれ、万治3年(1660年)にようやく完成した。

現存する「丸亀城」建造物を造ったのは山崎氏による。亀山の周囲の平地に内堀と外堀をめぐらし、総高60mに及ぶ東西南北の4面に日本一といわれる4段階の高石垣を築き、螺旋状に登る峻険な縄張りが構成された。
また城下町も整然と町割を施した。現存する3層の天守は
「山崎氏」の頃建てられたといわれる

築城の名手

文禄3年(1594年)、山崎家盛の長男として生まれる。正室・天球院(池田恒興の娘)の子ではなく側室の子であったという。

慶長19年(1614年)10月、父の死去により跡を継いだ。同年末の大坂冬の陣では中之島に陣を布いた。このとき、弟の久家が戦死している。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では池田利隆隊に属して戦い、首級を6個挙げる活躍をした。

元和3年(1617年)、大坂の陣の戦功により因幡若桜3万石から備中成羽3万5,000石に加増転封された。成羽時代には連島新田開発などに尽力した。また元和5年(1619年)の福島正則改易時には備後国三原城を守衛した。築城の名手であったといわれ、翌元和6年(1620年)の大坂城築城工事において、天主・本丸・二の丸の石垣構築に携わり才能を遺憾なく発揮している。なお、この築城工事で出た廃石を中之島の基礎として再利用している。そのため中之島には山崎家の大坂屋敷が存在していた。

讃岐富士の山崎城

山崎城(山崎邑城) 丸亀市飯野町東二山崎(飯野町東分山崎・東二)

 飯野村史に戦国時代の豪族で山崎甲斐守が山崎に築城したが、土佐の長宗我部元親に滅ぼされたと書かれている。 上記の飯ノ山城落城の後、山崎甲斐守が拠ったものと思われるが確証はない。

≪参考文献≫の『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』は山崎邑城(飯野山城)と表記し城主は高木右馬守~藤井太郎右衛門尉と書いている又『伝承地には、伊勢神社のある台地上と飯野山麓の高速道路北側の二ヶ所ある』ととも書かれている。


小石川の後楽園の石垣

諸大名が競って築いたた寛永十三年(一六三六年) の江戸城外堀普請(丸の内一丁目鍛冶橋付近)で、当時松平新太郎(池田光政)岡山藩主を組頭とする石垣方四組に属していた備中成羽藩主山崎甲斐守(山崎家治)の丁場の石垣で、江戸城外堀発掘調査の際に出土した石垣が使われている。石垣の石材は伊豆半島もしくは真鶴半島から運ばれたもののようであるが、その石垣には備中藩山崎家の刻印が掘られており、当時が偲ばれる。


岡城 

山崎甲斐守家治は成羽から肥後国天草へ転封となっていますが、これは幕府から命ぜられて「島原の乱」の後始末に行かされたのです。しかし、甲斐守は富岡城を再建するなど戦乱後統治で多大な功績を挙げ、讃岐国丸亀藩五万石の領主に栄転となりました。

富岡城は慶長7年(1602)天草を統治するため唐津城主寺沢志摩守広高によって築かれました。寛永14年(1637)に天草島原の乱でキリシタン一揆勢、1万2千人の攻撃を受けたが落城しませんでした。その後、山崎甲斐守家治によって城郭の再建が行われました。一時天領を経て再び私領となり、寛文10年(1670)に戸田伊賀守忠昌によって破却されるまで富岡城はその偉様を誇っていました。富岡城跡からの眺望もすばらしく、巴崎を望む風景は、「新くまもと百景」にも選ばれています。百間塘は、寛永15年(1638)山崎甲斐守が、城修築に際し城濠と巴汀を隔てて城門に直通する大道を構えたもので、長さ96間、高さ4間半、幅4間。当時の富岡城の威容が偲ばれます。

山崎片家(家治の祖父)

織田家臣時代

信長に仕えて以後、近江衆として元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参加した。

元亀4年(1573年)4月、信長に従い京都の上京焼き討ちと二条城包囲に参加した。天正元年(1573年)7月、信長に従って将軍・足利義昭の槇島城を攻めた。同年の浅井氏攻めにも参加した。天正9年(1581年)9月の伊賀攻めでは信楽口からの侵入を務めた。天正10年(1582年)4月、武田征伐から凱旋する信長を在所の山崎で茶屋を設けて饗応する。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起きた際は、安土の自邸を焼き払い、居城の山崎城へ籠もった。しかし明智光秀の圧力を受けて降伏。一時は佐和山城の占拠などに協力したが、光秀が羽柴秀吉によって討たれると、すぐに秀吉に降って所領を安堵され、同年冬に山崎より摂津三田城主2万3000石に移封された。天正11年(1583年)8月1日には近江愛智郡内で1万4000石の知行を安堵されている。

清洲会議後、しばらくは織田信雄の家臣となっていたが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで信雄と秀吉が対立するようになると、再び秀吉に属して750の兵を率い、信雄方の城を攻めている。

この後、従五位下志摩守に叙任され、以後は秀吉家臣として天正15年(1587年)の九州征伐に参加し、秀吉本陣の脇備として1000人を動員し、3月1日に大坂城を発っている。九州征伐の終了時には、石田三成・長束正家・小西行長らとともに、荒廃した博多の復興を担当する奉行として任命されている。天正16年(1588年)4月、聚楽第行幸の際には関白諸大夫として秀吉の牛車に供奉した。天正18年(1590年)の小田原征伐にも1000騎を率いて従軍する。

天正19年(1591年)3月28日に伏見の自邸で死去 享年45。

山崎家盛(家治の父)

因幡国若桜藩初代藩主。山崎片家の長男

天正19年(1591年)、父・片家が死去したために跡を継ぎ、摂津国三田城23000石の城主となる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成の挙兵を下野国小山にいた徳川家康に伝える一方、大垣城に拠っていた三成と面会し西軍に与することを約束した。家盛は、西軍として細川幽斎が守る丹後国田辺城攻め(田辺城の戦い)に加わるが、積極的に攻め入ることなく、ほとんど膠着状態のまま帰結した。戦後、家盛は西軍に与した罪により改易されそうになるが、義兄の池田輝政の尽力や三成の挙兵の報告をした功があるとして許され、慶長6年(1601年)に因幡若桜3万石に加増転封となった。

慶長19年(1614年)に死去した。享年48。

島原市本光寺蔵「混一彊理歴代国都地図」の内容と地図学史的意義 

  • 大絵図の中の九州全図
  • 「九州全図」は「日本大絵図」の九州部分を写して領分の区別を示し、付紙にそれぞれの領主名を列記したものである。肥後天草の富岡城主に「山崎甲斐守」が記されており、甲斐守は山崎家治のことである。家治は島原の乱直後の大名異動によって備中の成羽より富岡に転封したもので、同人の富岡城主としての在任は寛永十五年(1638)から廃藩の同十八年(1641)までのわずか三年間であることから、本図の作成時期はこの三年間に限定できる。すると、問題の「日本大絵図」は少なくともこの「九州全図」の作成された最下限の寛永十八年以前にすでに存在していたことが裏付けられるので、「日本大絵図」が慶長日本総図である可能性は高まることにもなろう。ただ、このような九州全体を一枚に描いた地域図が寛永十五から十八年に、どのような目的で作成されたのかは定かでない。

佐々木氏の系譜、六角、京極