三河、穂国造、宮道氏

一宮 砥鹿神社(里宮)
 

祭神 大己貴命
 

当神社は、太古より本宮山に お祀りされていたが、今から約 千三百年前の大宝年間、現在地 にお遷しした。爾来、三河國一 宮として、或いは、東海地方の 総鎮守として、広く朝野の崇敬 を寄せられてきた。
本宮山砥鹿神社 (奥宮)
 砥鹿神社は大己貴命(大国さま)を祀る旧国幣小社で東海地方の総鎮守の神として各方面から篤い崇敬をいただいています。昔は本宮山にお祀りされていましたが、御神託により今から約千三百年程以前の文武天皇大宝年中に現地にお迎え申し上げてより、里宮本社と本宮山奥宮の二社となり、三河国一宮として広く尊崇せられ、交通安全、家運隆昌、厄難消除の御神徳が皆様に仰がれています。 

 摂社二宮社は事代主命(えびす様)をお祀りし「三河えびす社」とも申し上げています。
又、三宮社は建御名方命(諏訪様)をお祀りし、共に御本社の御子神で崇められています。
 三河湾に面した美しい姿の本宮山(海抜七八九メートル)は、千年近い大木の杉檜が林立した神山で、頂上附近の自然林は神域として保護。
 

頂上には三河国一宮砥鹿神社の奥宮が鎮座し、霊験あらたかな大己貴命(大国様)をお祀りしています。

 奥宮の摂社 八柱神社
祭神
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 天忍穂耳命(あめのおしほみみ)
天穂日命(あめのほひのみこと) 
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
活津彦根命(いくつひこねのみこと)
熊野櫲日命(くまのくすひのみこと) 

 祭神の異説
『三河國一宮砥鹿神社誌』では「保食神」「大木食神」「火産霊神」「朝廷別王」がある。

 『式内社調査報告』ではそのいずれも憶測の範囲、古來より一貫して大己貴命へと帰すべきであるとしている。
 大己貴命とは大国主命のことであるが、更に大国主命の名を敷衍すれば土地の神、土地の開拓神を表した普通名詞の表現であるから、『式内社調査報告』はそれでいいとの意味であろう。
 当地に住み着いて神祀りの権限を握った氏族の祖神ということであれば、穂の国の國造とされる朝廷別王は有力な神といえる。

朝廷別王」を祭神とする神社は三河宝飯(小坂井町)の多美河津神社、「朝廷別王命」を祭神とする神社は三河宝飯(形原町)の形原神社、それぞれ一社づつの様である。

『日本の神々10』
「社伝によると、当社の世襲神主家草鹿砥氏は穂別命の後裔であるという。この一族は穂別命と同族の日下部連の後裔と考えられており、当社は穂国造が奉祭したものと推定されている。」 としている。 

草鹿砥氏は三川の穂別の祖である穂別命(=朝廷別王)の後裔。草鹿砥氏は日下部氏で日下部氏は草壁皇子の養育氏族

9代・開化天皇―彦坐王―丹波道主命―朝廷別王(三川穂別の祖)

開化天皇―彦坐王―狭穂彦王(日下部連の祖)

朝廷別王を祭神とする神社
三河宝飯(小坂井町)の多美河津神社
三河宝飯(形原町)の形原神社

姫神
 「海部氏勘注系図」の九世孫「意富那比命」の妹に「日女命」があり、亦の名は「倭トト日百襲姫命」「千々速日女命」「日神」「神大市姫命」であるという。
 また、十一世孫「子登與命」の妹に「日女命」があり、亦の名は「小豊姫命」「豊秋津姫命」「宮ズ姫命」「日神荒魂命」「玉依姫命」とある。
 このことから、九世孫の「日女命」が卑弥呼であり、十一世孫の「日女命」がトヨであると結論付けている。
 十一世孫の小登與命は、尾張氏の族長であり、その妹の「日女命」は亦の名「宮ズ姫命」である。つまり熱田神宮付近を拠点としていた人々ではないか。
 熱田神宮の大宮司は、東三河の豊津付近に居住地をもっていたといい、その近くにアマテラス伝承がある。 

宮道天神社:愛知県宝飯郡音羽町大字赤坂字宮路

参考:http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/yama/miya.htm 

御祭神 建貝児王命(日本武尊第三皇子 宮路別族の祖)、大山咋神、草壁皇子命(天武・持統天皇御長子) 

當社は天武天皇御宇白鳳年間草壁皇子此地に住居ましまし事より御代々赤坂の地を頓し給ふ皇子現宮路山上に一小祠を遣し給ひしが村民これを保護長保の頃前記三神を合祀して永久に全村の産土神と崇敬し奉るに至れり該地は大宝2年10月持統上皇御巡幸の際此の山を頓宮に充てさせ給ひ霜葉を叡覧し給ひし御遺跡あるを以て宮路山と稱し社號を宮道天神社と敬ひ奉る而して御鎭座の地たるや宮路山中の殊嶽にして往昔草壁皇子御住居せし地なるを以て其字名を嶽ヶ城と稱す仍て中古より嶽明神とぞ通稱し來りしを明治13年に其の社號を復旧して宮道天神となし大正14年10月9日郷社に昇格す。
宮道天神社の伝承によれば、日本武尊東征の際、建貝児王をこの地に封ぜられたそうです。この建貝児王が宮道別の祖であり、その子の宮道宿禰速麿は穂国の県主(国造の下位の地方長官)となられ、その子孫は引き続き当地に在住し、ある時、その祖である建貝児王を祀ったのが宮道天神社だというのです。
。『先代旧事本紀』の「天皇本紀」では、宮道君の祖は、第二皇子・稚武王とし、第三皇子は武卵王で、讃岐綾君等の祖としています。 

豊津神社
所在地 豊津町釜ノ口75
祭礼日 10月第3日曜日
祭  神 素盞鳴命 宇賀神

拝 殿  豊川右岸の沖積地にある豊津地区の中央部でやや北よりに豊津神社があります。

 明治27年に日下部村の日下部神社へ、中島村の石宮神社を合祀して豊津神社と称しました。翌明治28年に井之嶋村の素盞鳴神社を併合して豊津神社に統一しました。三社を合併したので祭神は3柱となるはずですが、日下部神社の元和9年(1623)の棟札を見ると「奉造天王為宇治子御立願也」とあるので旧天王宮であったことがわかります。
天王宮は明治以降は祭神を素盞鳴命としてたようであり、井之嶋村の素盞鳴神社の祭神と同一神とゆうことになる。だから、日下部と井之嶋の祭神は同一神であるので、豊津神社の祭神は2柱となっている。

田の豊津の垂水神社
大阪府吹田市垂水町1-24-6
阪急千里線豊津駅 北西10分
祭神
豐城入彦命 配祀 大己貴命、少彦名命
由緒
千里山を背に何面して鎮座、かっては摂津一の薬水と称えられた清らかな泉からの滝があった。
 当社は泉を祀る水神として古来より祀られてきたものであろう。神社の境内地の山には、弥生時代の集落遺跡が発掘されている。竪穴住居4棟が調査され、2棟には中央に炉が設けられていた。また高床式住居跡、焼土抗、多数の弥生式土器や石鏃、鉄鏃、石槍などが出ている。古社の中の古社と思われる。
 『延喜式』では摂津国豊島郡の名神大社となり、祈雨祭に預かる八十五社の一座、また住吉、丹生川上、貴船、賀茂などの各社とともに朝廷からもたびたび祈雨祈願の要請を受けている。また、八十島祭にも住吉神、大依羅神、海神、住道神とともに垂水神として幣帛をさずけられている。
祭神の豐城入彦命は崇神天皇の皇子であり、その子孫である阿利真公がこの地におり、旱魃に見舞われた際、孝徳天皇の豊崎宮に高樋を通して垂水の水を送ったので、その功を賞して垂水公の姓を賜ったという。
 

垂水を詠んだ万葉歌

 命を幸(さき)くあらむと石走る垂水の水を結びて飲みつ
石激(いはばし)る垂水の上のさ蕨の萌え出(づ)る春になりにけるかも(志貴皇子)

 石(いは)走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらく吾(あ)が心から 

 参河國碧海郡 和志取神社
御祭神
天日鷲命 合祀 伊弉諾命
愛知県安城市にある。宇頭駅の北1Kmの柿崎に鎮座。当社の東2Kmほどに矢作川が南北に流れている
社殿の瓦には、梶の紋が付けられていた。祭神・天日鷲命を祀る、阿波の忌部氏の神社の神紋と同じ紋だ。
麻の葉の紋である。
和志取神社社記
五十狭城入彦皇子は気入彦命とも申し景行天皇の皇子で勅命によりこの地方の逆臣大 王主等を捕らえ、これより国内治まり庶民大いに安堵するという。
御墓は当町字和志山にあり前方後円墳で前後三十五間、面積七百七十六坪、周辺に六 基の円墳即ち倍塚がある。明治29年11月28日御陵墓伝説地と指定。その後更に 調査の結果、昭和16年4月18日御陵墓と御勅定、同年5月26日勅使御参行報告 祭が行われた。
本神社は和名抄にゆえん鷲取郷の総社で延喜式国内115座の筆頭たる旧官社で文政 13年神祇伯より正一位の神階を授けられ正一位本郷大明神の額を下賜された。古来 上手の尊崇厚く累代の領主より毎年祭典費を献進があり祈年新嘗祭には幣帛を奉り宝 作無窮、稔穀豊饒を祈る例であった。

継体天皇即位元年設立

式内社 

参河國寶飫郡 菟足神社 

御祭神 菟上足尼命
愛知県豊川市(旧小坂井町)にある。小坂井駅の東200mほど。一号線の側に鎮座。
神紋は「兎」。賽銭箱などに金の兎が付いていた。拝殿の中には、奉納された大きな兎が鎮座。
祭神は、雄略天皇の頃、穂国造であった菟上足尼命で、葛城襲津彦の四世孫。
社伝によると、当初、平井の柏木浜に祀られていたが、天武天皇白鳳15年4月11日、現在地へ遷座した。現在地には昔、八幡神を祀っており、その相殿となったという説もある。

猿投山とサナゲの語義
社蔵縁起書に「景行天皇53年天皇が伊勢国へ行幸、常に猿を愛し王座に侍せしむ。 猿の不祥あり。天皇憎みて伊勢の海に投げ給ふ。其の猿、鷲取山に入る。日本武尊東 征の時、壮士三河国より来たりて従う。平定の後、尊に曰く、先に慈恩を蒙れる猿な り。勅恩に報ずる為、扈従し奉ると言い終って鷲取山に入る。猿投山の称、是より起 こる」とある。標高629米。山中に天然記念物「菊石」がある。又、団九郎岩屋、 御船石、蛙岩、屏風岩、御鞍石等の伝説豊かな巨岩もある。 

猿投神社摂社
広沢天神社[ひろさてんじんしゃ]
廣澤神社[ヒロサハ] 少名彦神 愛知県豊田市猿投町小黒見
灰宝神社[はいほう]
灰寶神社[ハイホ] 波邇安比咲命

形原神社[かたはら]
埴安大神、朝廷別王命、譽田別命、
豐受姫大神、天兒屋根神
愛知県蒲郡市形原町八ヶ峯39

略記
往古摂政藤原千方公大和より勧請三十四代 。 舒明天皇十一巳亥(皇紀一二九九年西暦六三四年)神礼加列圭田五十五束を奉らる。  形原郷の総氏神で荘園時代に栄えた神である 。
三河国内神明帳 形原明神帳 、三河国官社私考 春日大明神 。明治四年五月 郷社 、大正十二年八月十七日 県社 

 菟足神社
祭神菟上足尼命は犬頭神社の社伝では「丹波国から来た穂国造の葛城上足尼」とされます。

菟足神社略記によれば菟上足尼命は籰繰神社、犬頭神社を創建し養蚕、機織りを奨励、犬頭糸や赤引きの糸を有名にした功績から、大神として仰がれるようなったとされます

今昔物語集 参河国始犬頭糸語
面白い説話があります。内容は幾つかのバリエーションがある要すれば、   

三河国の郡司の妻が養蚕を営んでいたが、飼い犬が蚕を食べ、鼻の穴から絹糸を出した。その犬が死んだので神として祀ったのが犬頭神社である。犬を埋めた桑の 木には数多くの蚕がつき、上質な糸が採れたので国司が朝廷に献上、犬頭糸と呼ばれた。犬の頭を葬ったところに社を創建したのが犬頭神社で、犬の尾は大崎町に葬り、足は足山田に葬ったと伝えられている。

犬頭神社
社記によれば、犬頭神社は犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)と関係があり、犬上氏を犬頭と書いたとされます。
犬上氏は日本武尊の子・稲依別王 ( いなよりわけのみこ )の後裔とされ、犬上御田鍬は最後の遣隋使および最初の遣唐使を務めています。そこで、稲依別王に関して調べてみると犬に関連した伝説が伝わっていました。

日本武尊の御子
次に、稲依別王は、犬上君、建部君等の祖先である。

次に、建貝児王は、讃岐の綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別等の祖先である。

讃岐の武殻王
南海の悪魚を退治したといわれる讃留霊王の古墳がある。
讃留霊王は大和武尊の子武殻王(タケカイコオウ)のことである。
悪魚退治の後、讃岐に留まり讃岐綾君の祖となったとされ、城山神社に祀られている讃岐国造の始祖「神櫛別命」の甥ということになる

讃留霊王, 建貝児王・日本武尊5子
讃留霊王伝説,
香川県丸亀市飯山町下法軍寺字西尾, 讃留霊王神社

景行天皇の頃、香川県沿岸部(大槌島と小槌島の間)に悪魚が出没し、大変領民を困らせてい ていたため、天皇はヤマトタケル(日本武尊)の息子タケカイコオウ(武殻王)を遣わし退 治させることにした。
王は88人の軍勢を率い、船に乗り込み悪魚と対峙したが、船もろとも飲み込まれてしまう。 だが王はじめ兵士たちが悪魚の腹の中で火を焚き、武器を振り回したため、悪魚も遂に堪えかね皆 を吐き出し息絶えた。このとき悪魚の腹部が流れ着いた所を福江(ふくえ)、尻尾が流れ着いた所 を江尻(えじり)と呼ぶようになった。
しかし王を含め兵士たちはみな悪魚の毒にあてられ気絶していた。その時どこからともなく児童 がやって来て、持参してきた水を与えられると、みるみる回復していった。この児童は横潮明神の 使いで、水を汲んできた泉は八十場の霊泉と呼ばれた。
王はそのまま讃岐国に留まり、サルレオウ(讃留霊王)と呼ばれ讃岐の地を統治した。

書紀には時期は違うが神櫛王、武殻王ともに讃岐に遣わされ、国造と綾氏の祖であるとの記事がある。