七支刀と肖古王

七支刀(ななつさやのたち、しちしとう)は、大王家に仕えた古代の豪族物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市の石上神宮に六叉の鉾(ろくさのほこ)として伝えられてきた鉄剣。全長74.8cm。

『日本書紀』によれば、神功皇后52年九月丙子の条に、百済の肖古王(しょうこおう、生年未詳 – 214年)が日本の使者、千熊長彦に会い、七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。孫の枕流王(ちんりゅうおう、生年不詳 – 385年)も日本書記の中に出てくる。

五十二年秋九月丁卯朔丙子 久氐等從千熊長彥詣之 則獻七枝刀一口 七子鏡一面及種種重寶 仍啟曰 臣國以西有水 源出自谷那鐵山 其邈七日行之不及 當飲是水 便取是山鐵以永奉聖朝 乃謂孫枕流王曰 今我所通東海貴國 是天所啟 是以垂天恩 割海西而賜我 由是國基永固 汝當善脩和好 聚斂土物 奉貢不絕 雖死何恨 自是後 每年相續朝貢焉

神功皇后52年は252年とも計算されが、紀年論[14]では干支二巡分(120年)年代が繰り上げられているとされており、訂正すると372年となって制作年の太和(泰和)四年(369年)と符合する

千熊(ちくま)長彦は(『百済記』では「職麻那那加比跪」と表記)、367年に新羅が百済の貢ぎ物を奪ったため、千熊長彦が新羅を責めたとある。

またその二年後の神功皇后49年(369年) 春3月に、荒田別(あらたわけ)や鹿我別(かがわけ)ら軍勢を派遣して卓淳国に至り、新羅を討った。さらに百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪(ささなこ)らが荒田別らに協力し新羅軍をやぶり、倭・百済連合軍は、比自火本、南加羅、喙国、安羅、多羅、卓淳、加羅などの七カ国を平定し、また比利、布弥支、半古などの四つの村を平定したとある。倭国によるこれらの事蹟に対して百済肖古王が、久氐らを派遣した

その後、頻繁に神功皇后52(372[20])年 秋九月丁卯朔丙子(9月10日)条に、百済の使である久氐(くてい)らが、千熊長彦の引率で来倭し、七枝刀(ななつさやのたち)、七子鏡(ななつこのかがみ)、および種々の重宝を倭国へ奉った。そして『臣(百済)の西に河があり、水源は谷那(こくな)の鉄山(かねのむれ)から出ています。遠く、七日間でも到着できなません。この河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすら聖朝(ひじりのみかど)に奉ります』と言った
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〔表〕

泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作
また

泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作
〔裏〕

先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世
また

先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

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浜田耕策による2005年における研究では、次のとおり発表された

〔表面〕

泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥
<判読>

太和(泰和)四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練った□の七支刀を造った。この刀は出でては百兵を避けることが出来る。まことに恭恭たる侯王が佩びるに宜しい。永年にわたり大吉祥であれ。
〔裏面〕

先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世
<判読>

先世以来、未だこのような(形の、また、それ故にも百兵を避けることの出来る呪力が強い)刀は、百済には無かった。百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝に寄せることとした。それ故に、東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を倭王とも共有しようとこの刀を「造」った。後世にも永くこの刀(とこれに秘められた東晋皇帝の旨)を伝え示されんことを。

泰始四年での解釈
宮崎市定は「泰■四年■月」を「泰始四年五月」として解釈し、次のように読解した[12]。

〔表面〕

泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
<解読>

泰始四年(468年)夏の中月なる5月、夏のうち最も夏なる日の16目、火徳の旺んなる丙午の日の正牛の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。これを以てあらゆる兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。
〔裏面〕

先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世
<解読>

先代以来未だ此(かく、七支刀)のごとき刀はなかった。百済王世子は奇しくも生れながらにして聖徳があった。そこで倭王の為に嘗(はじ)めて造った。後世に伝示せんかな。

高良大社の祭神は高良大名神(玉垂命)と言う。この神が髙良山に鎮座した年が、「高良社大祝旧記抜書」「筑後国高良山仮名縁起」等に明記されている。

「仁徳天皇五十五年」

 ところで七支刀の銘文に次の年月日が記されている。

「泰和四年五月十六日丙午正陽」

 これは東晋の「泰和四年」であり、西暦に換算すると367年である。

 では高良大明神の鎮座(即位)したという「仁徳五十五年」は西暦に換算すると何年になるか。仁徳55年は「皇暦」では1027年。皇暦は神武即位とされる紀元前660年を起点としているから、皇紀1027年は西暦では「1027-660=367」年。七支刀の銘文とピタリと対応している。

 上の事実は「こうやの宮」の主(七支刀を贈られた倭王旨)と髙良大社の祭神(玉垂命)が同一人物であることを主張している。

 さらに、倭王讃が中国の史書に最初に現れるのは『梁書』倭伝であり、
「晋の安帝の時(396年~418年)、倭王賛有り。」
とある。倭王旨は倭王讃の先王と考えられる。