アジスキタカヒコネの謎

なぜか? 出雲では、あまり見当たりません。
『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記するとされている。

別名『迦毛大御神(かものおおみかみ)』ともされ、大和では葛城(奈良県御所市)の高鴨神社に祀られ、ここは全国の賀茂神社の総本社ともされており、むしろ、大和の葛城がこの神の本来の地ではなかったのではないかという説もあります。

出雲國風土記の記述が興味深い

「仁多郡、三津郷 郡家の西南二十五里。大神大穴持命の御子、阿遅須岐高日子命、御須髪(みひげ)八握に生ふるまで、昼夜哭き坐して、辞通はざりき。」


「この時、御祖の命、御子を船に乗せて、八十島を率巡りて、宇良加志給へども、猶哭くこと止まずありき。大神、夢に願ぎ給ひしく、「御子の哭く由を告らせ」と夢に願ぎ坐ししかば、則夜の夢に御子辞通ふと見坐しき。」

大国主でなく大神大穴持命の子供ですね。出雲では、悲しいことがあったようです。

『古事記』では、オオクニヌシと宗像の女神であるタギリヒメの間に生まれた神で、同じ父母神からはシタテルヒメが生まれています。

出雲に遣わされながら高天原に反逆を企てたアメノワカヒコの葬儀にあたって

『アヂスキタカヒコネはアメノワカヒコとそっくりであったため、アメノワカヒコの父のアマツクニタマが、アメノワカヒコが生きていたものと勘違いして抱きついてきた。アヂスキタカヒコネは穢(けがら)わしい死人と一緒にするなと怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。』という。

『出雲国風土記』では

『大人になっても言葉を話すことができず泣き叫んでいるばかりでした。そこでオオクニヌシがアジスキタカヒコネを船に乗せて池に放したところ、そこに白鳥が飛んできて、このときアジスキタカヒコネが声をあげて叫んだことから、言葉をしゃべれるようになった

出雲では、あまり高貴な神のようには書かれていません。

      大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいる。
      出雲風土記では、天御梶日女(あめのみかじひめ)との間に雨の神である多伎都比古(たきつひこ)をもうけたとしている。
      多紀理姫は、日本書紀第三の一書では市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名。
      宗像大社では、「田心姫神」として沖津宮に祀られている。

大和に祀られた理由:原田氏の説は、ヤタガラス説

原田氏の説で解く所、「味耜高日子根神」は、自ら、出雲の特使としての立場で、 日向と連携しつつ、大和へ入ろうとした「イワレヒコ」(神武)を補佐し(ヤタガラスになったという)最終的には大和への追随という形で、原初大和の建国に、深く携 わったとされています。

アジスキタカヒコネの剣
天照大神が須佐之男とウケヒをされた折り、その口に 「十握剣」をくわえて、噛み砕きます。さらに、天孫降臨の折り、建御雷之男神(建
甕鎚神)が、「十握剣」を地面に突き立てて、国譲りを迫ります。また、味耜高日子 根命は、天若日子のモガリにやって来て、死人である天若日子に間違えられた事に腹 を立てて、モガリの屋敷を切り倒します。これに使われたのは「十握剣」です。

味耜高日子根が持つ「十握剣」は「記」に依れば、別名「神戸(渡)(かむと)剣」 ともいわれています。出雲には「神門」(かむと)という郷があり、ここは古くから 鉄製品の産地として重要な場所でもありました。これらからも関連性を見出す事も出 来るでしょう。また、神門郷は出雲國風土記の記す「高岸」のある場所でもあります。

出雲大社のアジスキタカヒコネ
本殿瑞垣内に
神魂御子神社(筑紫社、つくしのやしろ) – 式内社(同社坐神魂御子神社)。大国主の妻で宗像三女神の一人、多紀理毘賣命を祀る。
荒垣外摂末社に
阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ) – 式内社。子の阿遲須伎高日子根命を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)
大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ) – 式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)
大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ) – 式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)

阿須伎神社という名前の神社に祀られています。

古事記』では、妹の下照姫(シタテルヒメ)が、兄を表現するのに、

「見たまえや、ひとびと。かの天上にて、機(はた)織る乙女の、うなじに懸(か)けし珠(たま)かざり。その緒に貫いた珠かざりの、穴玉うつくしく照るように、谷二つかけわたして、照りはえる神のすがたは、これぞわが兄の神。」(石川淳 訳)

と、立派な神でした。
この神の妻神は、『出雲国風土記』では、「天御梶日女(アメノメカジヒメ)」とされ『天御梶日女(アメノメカジヒメ)との間に多伎都比古(タキツヒコ)をもうけた。』とされています。

出雲国造の祖となったアメノホヒは、アメノワカヒコの前に、国譲りの交渉に派遣されていますが、この神もオオクニヌシに心服し(媚びて)、3年経っても高天原に何の報告もしなかったとされています。出雲は、それほど魅力的な国だったからではないでしょうか。

御子神の多伎都比古命を祀る神社
多伎神社(たきじんじゃ)は、愛媛県今治市古谷に鎮座する神社である。式内社(名神大)で、旧社格は県社。「瀧の宮(多伎宮)」とも呼ばれ、伊予国内神名帳には「正一位 多伎不断大願大菩薩」とある。
祭神は多伎都比売命・多伎都比古命・須佐之男命である。
社殿は頓田川の支流・多伎川の畔にあり、周囲には30基余りの古墳が群集する(県指定史跡「多伎神社古墳群」)。
多伎川を遡った山頂近くに川上巌(かわかみのいわお)と呼ばれる磐座があり、奥の院とされる。雨乞いに霊験があると伝えられ、もとはこの磐座信仰に始まると考えられる。

神奈備山、出雲市多久谷町の大船山の多久神社

「神奈樋山。郡役所の東北六里百六十歩。高さ百二十丈五尺、周り二十一歩。峯の西に石神がある。高さ一丈。周り一丈。道の傍に小さい石神が百余りある。古老が伝えて言うことには、阿遅須枳高日子命(あぢすきたかひこのみこと)の后の天御梶日女命(あめのみかぢひめのみこと)が、多宮(たく)の村までいらっしゃって、多伎都比古命(たきつひこのみこと)をお産みになった。そのときお腹の中のこどもに教えておっしゃったことには、「おまえのお母様が今まさに生もうとお思いになるが、ここがちょうどよい。」とおっしゃった。いわゆる石神は、これこそ多伎都比古命の御依代だ。日照りのときに雨乞いをすると、必ず雨を降らせてくれるのだ。」
・『出雲国風土記』 萩原千鶴現代語訳 講談社学術文庫p176〜177
これは『出雲国風土記』楯縫郡条にある神奈樋山の記事である。この山は出雲市多久谷町の大船山に比定されており、その麓に鎮座している式内社の多久神社では、多伎都比古命と天御梶日女命が祀られている。

天甕津日女命 あめのみかつひめのみこと
別名
天𤭖津日女命、天御梶日女命、阿麻乃弥加都比女
……
『出雲国風土記』出雲郡の伊農郷に坐す赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の妃・天甕津日女命。 国内をご巡行になった時に、伊農郷にお着きになっておっしゃったことには、「ああわが夫よ、伊農よ」とおっしゃった」とある。
また『出雲国風土記』楯縫郡に、阿遅須枳高日子根の后、天御梶日女の命が、多具の村においでになって、 多伎都比古の命をお産みになった。その時、胎児の御子に教えて仰せられたことには、 「おまえの御父上のように元気に泣きなさい。生きてゆこうと思うならば、ここがちょうどいい」とおっしゃった。とある。

伊努神社 島根県出雲市西林木町376
多久神社 島根県出雲市多久町274
久多美神社 島根県松江市東忌部町3000-17-2
忌部神社 島根県松江市東忌部町957
花長上神社 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲名礼1211-1

多伎都比古命 を祀る神社
田寸神社 徳島県三好郡東みよし町加茂字山根
多伎神社 愛媛県今治市古谷乙47
多久神社 島根県出雲市多久町274
石部神社 兵庫県豊岡市出石町下谷62