備忘録, 四国 高松 漆原屋敷 TokyoBlog 2013-08-14 4 Comments 4 thoughts on “高松 漆原屋敷” 大庄屋の屋敷 2013-08-25 at 13:27 漆原邸は江戸時代から近代まで続いた三谷町通谷の大庄屋で、一族の総本家を意味する「大本家」と言われた旧家です。漆喰(しっくい)の壁の長屋門、広大な敷地を囲む塀と堀。今もひっそりと、かつ確かな存在感をもってたたずむ風格のある建物です。 ログインして返信する 細川ー漆原 2014-03-17 at 11:36 元々は高松市香川町(空港が有ります)にある箭造城(ヤハギジョウ)にいた細川氏の武将、漆原氏が天正年間に浪人して、再び庄屋として復活した際に新たに築いた屋敷です。 ログインして返信する 細川ー漆原 2014-03-17 at 11:38 正平17年(1362)、細川頼之(よりゆき)は、井原荘(香南町)に岡城を構えた。 その城の鬼門の鎮守として立善寺が重んじられたといわれる。当時、細川頼之は足利幕府2代将軍義詮(よしあき)、続いて3代将軍義満の執事を務め、権勢(けんぜい)を振るうが、諸将の反感をかい、康暦(こうれき)元年(1379)追放の憂目にあい、領国讃岐に帰国した。 讃岐に帰った頼之は、伊予の河野道直(こうのみちなお、南朝方)を攻め、大勝利を収めた。帰国した頼之は、地元の冠纓神社、大野石清水八幡神社、川東八幡神社に社領を寄進して戦勝のお礼をした。次いで、立善寺において17日間法要を営み、戦死者の霊を弔った。(讃州細川記) 10年余の異国での雌伏の後、康応(こうおう)元年(1389)の足利義満の安芸の宮島参拝に百余隻の船で従った。将軍の要望に従って上洛し、将軍を補佐して大活躍したが、明徳3年(1392)に病死した。 頼之逝去の報は早馬で岡城に達し、立善寺ではねんごろな法要が営まれた。その時、頼之の遺髪と長刀を埋めて墓を建立した。それが今も本堂の裏手に残る五輪の石塔であると伝えられている。 宣前まで寺の財政は、豪農漆原家(三谷通谷)によって支えられていたという。漆原家は細川氏の家来漆原勘左衛門勝重(うるしはらかんざえもんかつしげ)の子孫である。勝重は矢作りの専門家で居城も箭造(やはぎ)城と呼ばれた。箭造城は漆原(旧川東小学校の北あたり)にあった。 ログインして返信する 漆原 2016-10-30 at 10:56 俺の先祖や ログインして返信する コメントを残す コメントをキャンセルコメントを投稿するにはログインしてください。
大庄屋の屋敷 2013-08-25 at 13:27 漆原邸は江戸時代から近代まで続いた三谷町通谷の大庄屋で、一族の総本家を意味する「大本家」と言われた旧家です。漆喰(しっくい)の壁の長屋門、広大な敷地を囲む塀と堀。今もひっそりと、かつ確かな存在感をもってたたずむ風格のある建物です。 ログインして返信する
細川ー漆原 2014-03-17 at 11:36 元々は高松市香川町(空港が有ります)にある箭造城(ヤハギジョウ)にいた細川氏の武将、漆原氏が天正年間に浪人して、再び庄屋として復活した際に新たに築いた屋敷です。 ログインして返信する
細川ー漆原 2014-03-17 at 11:38 正平17年(1362)、細川頼之(よりゆき)は、井原荘(香南町)に岡城を構えた。 その城の鬼門の鎮守として立善寺が重んじられたといわれる。当時、細川頼之は足利幕府2代将軍義詮(よしあき)、続いて3代将軍義満の執事を務め、権勢(けんぜい)を振るうが、諸将の反感をかい、康暦(こうれき)元年(1379)追放の憂目にあい、領国讃岐に帰国した。 讃岐に帰った頼之は、伊予の河野道直(こうのみちなお、南朝方)を攻め、大勝利を収めた。帰国した頼之は、地元の冠纓神社、大野石清水八幡神社、川東八幡神社に社領を寄進して戦勝のお礼をした。次いで、立善寺において17日間法要を営み、戦死者の霊を弔った。(讃州細川記) 10年余の異国での雌伏の後、康応(こうおう)元年(1389)の足利義満の安芸の宮島参拝に百余隻の船で従った。将軍の要望に従って上洛し、将軍を補佐して大活躍したが、明徳3年(1392)に病死した。 頼之逝去の報は早馬で岡城に達し、立善寺ではねんごろな法要が営まれた。その時、頼之の遺髪と長刀を埋めて墓を建立した。それが今も本堂の裏手に残る五輪の石塔であると伝えられている。 宣前まで寺の財政は、豪農漆原家(三谷通谷)によって支えられていたという。漆原家は細川氏の家来漆原勘左衛門勝重(うるしはらかんざえもんかつしげ)の子孫である。勝重は矢作りの専門家で居城も箭造(やはぎ)城と呼ばれた。箭造城は漆原(旧川東小学校の北あたり)にあった。 ログインして返信する
漆原邸は江戸時代から近代まで続いた三谷町通谷の大庄屋で、一族の総本家を意味する「大本家」と言われた旧家です。漆喰(しっくい)の壁の長屋門、広大な敷地を囲む塀と堀。今もひっそりと、かつ確かな存在感をもってたたずむ風格のある建物です。
元々は高松市香川町(空港が有ります)にある箭造城(ヤハギジョウ)にいた細川氏の武将、漆原氏が天正年間に浪人して、再び庄屋として復活した際に新たに築いた屋敷です。
正平17年(1362)、細川頼之(よりゆき)は、井原荘(香南町)に岡城を構えた。
その城の鬼門の鎮守として立善寺が重んじられたといわれる。当時、細川頼之は足利幕府2代将軍義詮(よしあき)、続いて3代将軍義満の執事を務め、権勢(けんぜい)を振るうが、諸将の反感をかい、康暦(こうれき)元年(1379)追放の憂目にあい、領国讃岐に帰国した。
讃岐に帰った頼之は、伊予の河野道直(こうのみちなお、南朝方)を攻め、大勝利を収めた。帰国した頼之は、地元の冠纓神社、大野石清水八幡神社、川東八幡神社に社領を寄進して戦勝のお礼をした。次いで、立善寺において17日間法要を営み、戦死者の霊を弔った。(讃州細川記)
10年余の異国での雌伏の後、康応(こうおう)元年(1389)の足利義満の安芸の宮島参拝に百余隻の船で従った。将軍の要望に従って上洛し、将軍を補佐して大活躍したが、明徳3年(1392)に病死した。
頼之逝去の報は早馬で岡城に達し、立善寺ではねんごろな法要が営まれた。その時、頼之の遺髪と長刀を埋めて墓を建立した。それが今も本堂の裏手に残る五輪の石塔であると伝えられている。
宣前まで寺の財政は、豪農漆原家(三谷通谷)によって支えられていたという。漆原家は細川氏の家来漆原勘左衛門勝重(うるしはらかんざえもんかつしげ)の子孫である。勝重は矢作りの専門家で居城も箭造(やはぎ)城と呼ばれた。箭造城は漆原(旧川東小学校の北あたり)にあった。
俺の先祖や