高松 漆原屋敷

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4 thoughts on “高松 漆原屋敷

  1. 大庄屋の屋敷

     漆原邸は江戸時代から近代まで続いた三谷町通谷の大庄屋で、一族の総本家を意味する「大本家」と言われた旧家です。漆喰(しっくい)の壁の長屋門、広大な敷地を囲む塀と堀。今もひっそりと、かつ確かな存在感をもってたたずむ風格のある建物です。

  2. 細川ー漆原

    元々は高松市香川町(空港が有ります)にある箭造城(ヤハギジョウ)にいた細川氏の武将、漆原氏が天正年間に浪人して、再び庄屋として復活した際に新たに築いた屋敷です。

  3. 細川ー漆原

     正平17年(1362)、細川頼之(よりゆき)は、井原荘(香南町)に岡城を構えた。
    その城の鬼門の鎮守として立善寺が重んじられたといわれる。当時、細川頼之は足利幕府2代将軍義詮(よしあき)、続いて3代将軍義満の執事を務め、権勢(けんぜい)を振るうが、諸将の反感をかい、康暦(こうれき)元年(1379)追放の憂目にあい、領国讃岐に帰国した。
     讃岐に帰った頼之は、伊予の河野道直(こうのみちなお、南朝方)を攻め、大勝利を収めた。帰国した頼之は、地元の冠纓神社、大野石清水八幡神社、川東八幡神社に社領を寄進して戦勝のお礼をした。次いで、立善寺において17日間法要を営み、戦死者の霊を弔った。(讃州細川記)
    10年余の異国での雌伏の後、康応(こうおう)元年(1389)の足利義満の安芸の宮島参拝に百余隻の船で従った。将軍の要望に従って上洛し、将軍を補佐して大活躍したが、明徳3年(1392)に病死した。
     頼之逝去の報は早馬で岡城に達し、立善寺ではねんごろな法要が営まれた。その時、頼之の遺髪と長刀を埋めて墓を建立した。それが今も本堂の裏手に残る五輪の石塔であると伝えられている。
     宣前まで寺の財政は、豪農漆原家(三谷通谷)によって支えられていたという。漆原家は細川氏の家来漆原勘左衛門勝重(うるしはらかんざえもんかつしげ)の子孫である。勝重は矢作りの専門家で居城も箭造(やはぎ)城と呼ばれた。箭造城は漆原(旧川東小学校の北あたり)にあった。

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