讃岐国造、鷲住王、海部氏、神櫛王

讃岐富士の麓に、鷲住王が住んでいました。高位栄達を好まず鄙賎と交はり、力業を楽しみに暮らしたそうです。

履中6年2月紀には,鮒魚磯別王の女太姫郎姫・高鶴野幌を嬢としたとあるが,r記』には みえない.2妃の兄鷲住王は住吉邑にいたとあるので,鯉魚別王は実在したとしても,中央居住の王族であったと考えられる.

平中6年2月紀に鷲住王を 讃岐国造の祖としている

景行天皇─ー神櫛別命(神櫛王)──千摩大別礼命─〔讃岐国造〕須売保礼命─ー鮒魚磯別王──鷲住王──田虫別乃君──吉美別乃君──油良主乃乃君

和気氏、植田氏/十河氏、寒川氏、三谷氏などが後継氏族

妃五十河媛、生神櫛皇子、稲背入彦皇子、其兄神櫛皇子、是讃岐国造之祖也、相伝フ

雄略18年8月紀の讃岐田虫別は伊勢朝日郎討伐説話の中で雄略の近侍者の1人として現われる。

讃岐の王族、鷲住王は海部を統括した。
海部を統括した凡直氏と讃岐公の祖である。

履中天皇
妃:太姫郎姫【ふとひめのいらつめ】
父:鮒魚磯別王
(兄)鷲住王・(姉妹)高鶴郎姫
履中六年..高鶴郎姫とともに後宮に入る(2月1日)
*姉妹の高鶴郎姫とともに後宮に入る。兄の鷲住王が遥か遠く遊び行き、久しく会っていないのを歎いた。天皇は鷲住王の怪力を聞いて召し出そうとしたが、再度召しても来ず、諦めたという。

履仲紀に「六年二月癸丑朔、喚鮒魚磯列王之女、太姫郎姫、高鶴郎姫、納於后宮、並為嬪、於是二嬪恒欺之曰、悲哉吾兄王何處去耶、天皇聞其欺而問之曰、汝何欺息也、對曰、妾兄鷲住王、為人強力軽捷、由是獨馳越八尋屋、而遊行既経多日不得面言、故欺耳、天皇悦其強力、以喚之不参来、亦重使而召猶不参来、恒居住吉邑、自是以後廃不求、是讃岐国造、阿波国脚咋別、凡二族之始祖也」と見える伝説上の人物であるが、香川県の讃岐富士の麓の坂本町に、面白い伝承がある。

神櫛皇子・神櫛別命・五十香彦命(いかひこのみこと)とも。第12代景行天皇の第17皇子。『書紀』によれば、母は五十河媛(いかわひめ)で、同母弟に稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)がいたとするが、『古事記』では、母を針間之伊那毘能大郎女(播磨稲日大郎姫)とし、兄に櫛角別王・大碓命・小碓命(日本武尊)・倭根子命がいたとする。

神櫛王は
讃岐国造(讃岐公)・紀伊国の酒部阿比古(さかべのあびこ)・宇陀酒部・酒部公の祖

景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えて、記紀で記述が異なる。

高木神社,香川県丸亀市土居町2-,(主神)鷲住王
大山神社,徳島県海部郡宍喰町塩深字尾鼻,(主神)鷲住王命

城山の西方約2km西坂元の国持地区に居館を構えた。西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠「みひ」の傍らに鷲住王についての石碑が建っている。坂元村史に「楠見の城山あり、戦国時代高木隼人の居城で高木屋敷は国持にあり、鷲住王の後裔高木隼人の住居跡と認められる」とある。

輝く星の氏子われ-坂本神社由緒-

輝く星の氏子われ-坂本神社由緒- 秋風そよぐ夕まぐれ、飯野の山は神さびて、星のまたたく宵なりき。 国持の里 鵜殿の越し、五の坪・倉前・馬倒し古き地名は今もなおここなしここに残れども、世の盛衰はいちじるしく。高木屋敷はいずこにや、梅の香りはなけれども、星の輝く丘なりき。
南海治乱記によれば、鷲住王は履中の帝の皇后の兄なり。父を喪魚磯別王と云う人なり、腕力あり軽捷にして遠く遊び、帝しばしば召せとも応ぜず。摂津・住吉また阿波内喰にあり。一男野根命を生む後、讃岐富熊郷に居住し、多くの少年之に従う。
薨して飯山西麓に葬る。里人祠を建て、之を奉す。飯山大権現また力山大明神とも称す。その後、康保元年、菅公修造を加え軍神となす。祈れば必ず勇力を賜ると。初めに王に男あり。高木尊と云い、讃岐国造に任ず云々と日本書紀にもあり。
鷲住王もその跡も、遠い遙かの昔より、今に輝く天の星。小さいながら私らも、これにつながり生きる星。飯野の山を仰ぐ時、輝く星の氏子われ、氏子のわれらここに輝く。(昭和六十年六月吉日)

高木屋敷はいずこにや、梅の香りはなけれども、星の輝く丘なりき。
南海治乱記によれば、鷲住王は履中の帝の皇后の兄なり。父を喪魚磯別王と云う人なり、腕力あり軽捷にして遠く遊び、帝しばしば召せとも応ぜず。摂津・住吉また阿波内喰にあり。一男野根命を生む後、讃岐富熊郷に居住し、多くの少年之に従う。
薨して飯山西麓に葬る。里人祠を建て、之を奉す。飯山大権現また力山大明神とも称す。その後、康保元年、菅公修造を加え軍神となす。祈れば必ず勇力を賜ると。初めに王に男あり。高木尊と云い、讃岐国造に任ず云々と日本書紀にもあり。
鷲住王もその跡も、遠い遙かの昔より、今に輝く天の星。小さいながら私らも、これにつながり生きる星。飯野の山を仰ぐ時、輝く星の氏子われ、氏子のわれらここに輝く。(昭和六十年六月吉日)

香川県丸亀市飯山町西坂元
現在の祭神 鷲住王命
本地 観音菩薩
「讃岐国名勝図会」巻之十

飯山大明神

西坂本村にあり。 社人秋山氏。
祭礼九月十日。 同村産土神。
土人、鵜度越神社といへり
祭神鷲住王。
本地堂 観世音
末社 荒神、境内にあり。この余四座、所々にあり

社記に曰く、当社は履中天皇御宇、鯽魚賎別親王の御子鷲住王、大勇力にて相撲を好みたまひ、あるとき宮中を忍び出でて摂州住吉に住居したまふ。 その妹君天皇の后となりたまひ、御対面ありたきによりて天皇召させられれけば、直ちに阿州肉喰の里に遁れたまひ、鄙賎と交はり、力業を楽しみ高位に登る事を好みたまはず。 阿州にて一子を残したまひ、今同国の野根氏これなり。 その後当国那珂郡に来り、勇力の人を集め、力業を楽しみたまひ、ここにても一子を生ず。 家の辺に喬木多かりしゆゑ、よりてその子孫高木を氏とす。 鷲住王没後この地に葬り、社を建てて飯山明神と崇め奉る。 その神をいのれば勇力を得るといへり。 高木右馬助およびその甥高松弘憲寺宥遍上人、皆この神の末葉にてその勇力世の知る所なり。 康保元年、菅原氏の人修造して軍神とす。 その後村民に託宣ありて、我は観音の化身なり、必ず境内に観音を安置し本地となすべしとありしかば、堂を建てて祀れり。

大鳥羽衣浜神社
祭神:両道入姫皇女
説  明:境内看板を転載します。       「謹みて惟みるに創祀せられしは、文武天皇の御代にして、慶雲三年鎮座、延喜式内の古社であります。        古くより井戸の守大明神と申し上げ、尊崇せられてまいりました。        住  所:大阪府高石市羽衣5-2-6   電話番号:072-261-2157   ひとこと:社務所でお話を伺うと、この神社は堺市にある大鳥大社の摂社にあたる
御祭神、両道入姫皇女は、大和武尊の后で、仲哀天皇を生んでお られます。        古事記では、「布多遅の伊理毘売」と表記され、垂仁天皇の女とされてます。        生んだのは、帯中津日子お一方とされています。 ちなみに、同じく倭建命の妻に、「布多遅比売」という名が見え、この姫は、近江安国造の祖・意富多牟和気の女。御子は稲依別王一方。        日本書紀によれば、日本武尊は、両道入姫皇女を妃とし、稲依別王・足仲彦        天皇・布忍入姫命・稚武王を生まれた。        としていますので、古事記にある、「布多遅の伊理毘売」と「布多遅比売」        は、同一人物なのかもしれません。       ヤマトタケル命は、天皇となっていませんから、両道入姫皇女がよほど有力        だったのでしょうか。

【由良・清水神社】
清水神社 祭神 神櫛明命
由緒
景行天皇五十四年(784)の創祀と言う。古くは好井社・由良明神・正一位清水大明神と奉称せらる。『全讃史』によれば、「景行天皇の皇子神櫛王封を山田郡に受け屋島の下に止り給ふ。千摩命・能摩命(須米保禮命)・森葉摩命・大別命・古美大人を経て油良大人封を山田郡油良に移す油良氏の祖なり。」とあれば、油良氏の奉斎する所なるべし。『別当自性院記録』によれば、「大同三年(808)正月勅伊豫親王定荘厳寺之三綱及び二伯三師神祇職於好井社焉自性院為上綱・・・・文章博士阿刀氏制冊税及び諸律也其某者神田の里(亀田村也)・・・今之實有之千石千貫之例也千爰荘厳寺初営也」とあり。
往古より國中二ヶ所の祈雨臺にして、勅ありて正一位好井の額を賜へりと傳へられ、『自性院記録』には此の額嵯峨天皇の勅額にして弘法大師の眞跡なりとあり。
社内に嵯峨天皇勅封御撫物金筒一個、醍醐天皇封御撫物金筒一個といふ重寳として保存せり。承和八年(841)大草の際刺史高公輔僧眞雅に乞ひて雨を當社祈りしことの「古記」あり。
當社往古より大甕を存す。此の甕神櫛王が酒を醸し給ひし器と称し、古くは十二口ありしが後三口となり今二口を存し地中に蔵す。

當社は往古より著明の神社にして、『官社考證追録』に「由良神社 上田井村にあり。清瀧宮神名帳、千手堂神名帳等に見え、又延享神社記實暦神社帳等には正一位清水大明神と記せり」と載せられたり。

櫛梨神社

社伝では、讃留霊王について、神櫛王のこととしています。
本居宣長は神櫛王を大碓命ではないかと指摘しています。

輿台産霊は、掛川の事任八幡のコトノマチ姫の夫です。輿台産霊を祖とする場合、母系ではコトノマチ姫が祖となり、忌部氏が祖にもなり、讃岐忌部の祖手置帆負命の末裔が奉祭したのも納得。
コトノマチ姫の父は、天手力男で、阿波式社略考では
豊玉彦のこととしています。阿禮神社の祭神に繋がりました。

「讃岐」の天川神社
由緒には
天川御嶽山に座す神輿台産霊命は、云々。
景行天皇の皇子神櫛王三世の孫須賣保禮命國造となり此の神を祭る。
時に手置帆負命の裔をして長尾郷に来らしめ大峡小峡の木を伐りて御殿を造らしめ又神祭の物を奉らしむ云々。 とあります。