高倉下、鞍手、鞍橋

神剣を熊野の高倉下が神武天皇に渡す

神倭伊波禮毘古命は、熊野村に着かれた時に、大熊が髮から現れ、姿を消した。 すると、神倭伊波禮毘古命は突然気が遠くなり眠ってしまわれ、兵士たちも皆気を失って倒れてしまった。 此の時、熊野の高倉下が一振りの太刀を携え、天神御子が臥しておられるところに来て、 その太刀を献上した。すると、天神御子はすぐに目覚められて、「長く寝ていたようだ」とおっしゃった。その太刀を受取られると、熊野山の荒神はおのずと切り倒され、気を失っていた兵士たちはすべて元気を取り戻した。

 天神御子が、その太刀を手に入れたいきさつを、高倉下にお尋ねになられた。高倉下は「私が見た夢の中で、天照大神と高木神の二柱神の命(みことのり)により、 建御雷神が召しだされました。「葦原中國が大変騒々しいようだ。 我御子等は順調にことを進めていないようだ。葦原中國はあなたが平定した國であるから、汝建御雷神が天降りなさい」と仰せられました。 建御雷神は「私が天降らずとも、その国を平定した横刀がありますので、その太刀を降ろしましょうこの刀の名は佐士布都神と云う。またの名は甕布都神と云う。 またの名は布都御魂と云う。この刀は石上神宮にある。この太刀を高倉下の倉の屋根から落としましょう」と天照大神にお答えした。 そして、建御雷神は私に「すっきりと目覚めて、あなたがその太刀を取って、天神御子にお持ちしなさい」とおっしゃいました。 夢の教えのとおりに、旦(あした、早朝)に私の倉を見ると、本当に太刀がありましたので、その太刀をお持ちいたしました」と申し上げた。

新宮市誌に
「高倉下命は、又の名天香語山命、又の名手栗彦命、饒速日命の長子なり、饒速日命は天押穂耳命の長子にして、早くより大和に天降りて国津神となり、高倉子命は御親神に従い天降り、親神が大和に鎮座の時、仰を蒙りて熊野に鎮座して天孫種族の長として久しく熊野を統治されたが、神武天皇御東征の際其危難を救う偉功により褒せられて其の待臣となる。」
とある。

1.饒速日命がすでに大和にいて、その子高倉下が布都御魂という剣を運んだことになる。
2.この時、石上神社はまだなく、神剣は誰から、何処で得たものか?

高倉下を祀る神社
熱田神宮境外摂社 高座結御子神社「高倉下命」名古屋市熱田区高蔵町
尾張愛知 七所社「日本武尊、天照大神、豐宇氣大神、草薙御劔、宮簀媛命、乎止與命、高倉下命」名古屋市中村区岩塚町字上小路7

伊賀阿拝 高倉神社「高倉下命 配 倭得玉彦命」上野市西高倉1046
紀伊牟婁 牛鼻神社「高倉下命、國玉日女命 配 大屋嶋子命、譽田別命、軻遇突智命、天兒屋根命」南牟婁郡紀宝町鮒田1509
紀伊牟婁 相野谷神社「伊弉諾尊 配 高倉下命 ほか」南牟婁郡紀宝町大里1672
紀伊牟婁 住吉神社摂社祇園神社「素盞猛命、高倉下命、經津主命、菅原道眞」西牟婁郡大塔村鮎川1512
紀伊牟婁 王子神社 「皇大神、若一王子 配 高倉下命、應神天皇」西牟婁郡すさみ町和深川258
紀伊牟婁 矢倉神社「高倉下命 配 倉稻魂命」西牟婁郡串本町高富429
紀伊牟婁 熊野速玉大社境外摂社神倉神社「高倉下命 配 天照大神」新宮市新宮1
紀伊牟婁 高倉神社「高倉下命」新宮市高田568
紀伊牟婁 地主神社「高倉下大神、穗屋比賣大神」東牟婁郡古座町古田
紀伊牟婁 熊野本宮大社境内別社「高倉下命 ほか」田辺市本宮町本宮1110
紀伊牟婁 高倉神社「高倉下命」東牟婁郡熊野川町日足625
紀伊牟婁 高倉神社(赤城氏神様)「高倉下尊」東牟婁郡熊野川町赤城466
紀伊牟婁 高倉神社「高倉下命」東牟婁郡熊野川町小口381
紀伊名草 竈山神社 右脇殿「高倉下命、可美眞手命、天日方奇日方命、天種子命、天富命、道臣命、大久米命、椎根津彦命、頭八咫烏命」和歌山市和田438
紀伊日高 天寶神社「須佐之男命 配 大己貴命、高倉自命 ほか」日高郡南部川村高野244
大和山辺 石上神宮摂社神田神社「高倉下命」天理市布留町384
大和吉野 竹筒神社 「高倉下命」吉野郡十津川村竹筒210
大和宇陀 椋下神社(倉下神社)「高倉下命」宇陀郡榛原町福地1
丹波氷上 高座神社「高倉下命 配 天火明命 ほか」氷上郡山南町谷川3557

伊予桑村 布都神社「布都主神 配 高倉下神 ほか」東伊予市石延
 
筑前鞍手 剣神社「倉師大明神 cdは伊邪那岐命、伊邪那美命 ほか」直方市下新入字亀岡2565 倉師は高倉下のくらじ 
筑前鞍手 鞍橋神社「?」 鞍手町長谷 
筑前遠賀 高倉神社「大倉主神、莵夫羅姫命」遠賀郡岡垣町大字高倉1113 大倉主神は高倉下のこと 
筑前遠賀 今泉神社「大倉主神、莵夫羅姫命」遠賀郡遠賀町大字別府字宮前32075
筑前遠賀 岡湊神社(高倉神社の下宮)「大倉主命」遠賀郡芦屋町船頭町12-48 

神武天皇の墨坂の戦いに、帰順しない兄倉下、弟倉下がいた

天皇は諸将を集めて、
「兄磯城は、やはり逆らうつもりのようだ。どうしようか」
とおたずねになられた。諸将は、
「兄磯城は悪賢い賊です。まず弟磯城を遣わして教えさとし、あわせて兄倉下と弟倉下を説得しましょう。どうしても帰順しないならば、それから、兵を送って戦っても、遅くはないでしょう」
と奏した。《倉下、これを衢羅餌という》そこで弟磯城を遣わして、利害をもって説得された。しかし、兄磯城らは、なおも愚かな計り事を守って、帰順しなかった。椎根津彦は、戦術をたて、
「今はまず、女軍を遣わして、忍坂(奈良県桜井市忍阪)の道から出ましょう。賊は必ず精兵を向かわせるでしょう。我が軍は精兵を走らせ、直ちに墨坂(奈良県宇陀市榛原町西方の坂)を目指して、菟田川(奈良県宇陀市榛原町の南を流れ、三重県の伊賀地方に向かう川)の水をとって、賊が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間に、その不意をつけば、賊はきっと敗れるでしょう」
と奏した。天皇はその戦術をほめられ、まず、女軍を出陣させた。賊は、大軍が来たと思って、力を尽くして迎え撃った。これまでは、皇軍は攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。しかし兵士たちは、疲労しなかったわけではない。そのため、将兵の心を慰めるために、

楯並めて 伊那瑳の山の 木の間ゆも い行き瞻らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒 今助けに来ね

と歌をお詠よみになられた。はたして男軍が墨坂(奈良県宇陀市榛原町西方の坂)を越え、後方から挟み討ちにして賊を破った。兄磯城らを斬った。

奈良の高倉下命と椋下神社
宇陀市榛原の福地。祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)である。
慶雲2年(705年)八咫烏神社と同時に祀られたという。

高角神社
大和国・宇陀郡鎮座・鍬靫と記される式内小社
御祭神:天香山命(高倉下)
近鉄榛原駅の南8.5km、高倉山頂上(標高440m)に鎮座する神社
宇陀の高倉山は神武天皇が形勢を眺望された聖地です。神武天皇は高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城の軍が充満しているのが見えました。
東吉野村の高見山頂鎮座の高角神社とする説もある。

奈良に高倉下を祀る古社はないのであろうか?

谷川氏は高倉下【たかくらじ】、及び兄倉下【えくらじ】・弟倉下【おとくらじ】とのつながりを示唆する。
兄倉下・弟倉下は神武天皇東征に際して抵抗勢力として登場する大和国南部の豪族である。また紀伊熊野の高倉下は神武天皇に布都御魂剣を献上した人物である。布都御魂は石上神宮に祀られる霊剣であり、物部氏と深く関わるものであることは言うまでもない。
『先代旧事本紀』はこの高倉下を尾張氏の祖である天香語山命【あめのかごやま】の別名とする。天香語山の父は火明命【ほあかり】だが、『先代旧事本紀』は物部氏の祖神饒速日命【にぎはやひ】を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」と呼んで火明命と同神としているので、天香語山(高倉下)は饒速日の子ということになる。このことから、クラジを物部に連なる人物または氏族の名と谷川氏は推測する。

天香山神社
橿原市南浦町出屋敷字西山
祭神 櫛真知神
延喜式神名帳の京中坐神三座に久慈真智命があり大和国十市郡天香山坐櫛真命神と注がついている。この神は深くうらないにかかわり、対島の卜部の神であったとの主張もある。 またこの神の元の名は「大麻等乃知神」としている。
天香山は天香山命、高倉下命を連想させる。なぜ同じ名前なのか?天から下った山、かたや天から下った剣を手に入れた神である。
大和三山の内、この天香久山だけが「天」の冠がついている。天から降ってきたとの伝承があったのであろう。 伊予国風土記や阿波国には、山が天から下るとき、二つに別れて片端が倭の国で天加具山となったとする伝承があった事が記されている。

久慈真智社 『新撰亀相記』に「櫛間智神社Jは「母鹿木神也」とあるので、この神は亀卜に用いる波波迦(主議議ら)の神である。 『延喜式』神名帳の大和国十市郡に「天香山坐 櫛真命神社」がみえ、現在は天香久山北麓の橿原市南浦町に天香久山神社が鎮座している。 この天香久山神社の本殿には久慈真知命と太詔戸命の 2神が和られていたという(猪熊兼繁 1939年)。

熱田の高座結御子神社
熱田神宮の境外摂社になっているが、名神大社格の式内社である。
「熱田神宮記」には、
・高座結御子神社  旗屋村鎮座
式内名神大、祭神日本後紀承和二年預名神熱田大神御児神也トアリ、火明命ノ御子天香山命、一名ヲ高倉下命ト申ス、即尾張国魂神是也、越後国蒲原郡ニモ坐シテ弥彦神ト申ス、コレ皇大神ノ孫神ノ御子ナルカ故ニ弥トハ申スナリ、国内神名帳正二位高座結御子名神、末社四社アリ

創建は不詳。伝承では天武天皇の御世(673年-686年)かとも、熱田神宮本宮と同時期かともいう。
祭神には諸説があります。日本武尊の御子、仲哀天皇とする説や、日本武尊の異母弟、成務天皇とする説などです。戦災で焼失し、現在の社殿は1963年(昭和38年)に再建されたものです。

熱田神宮には、天照大神、素盞嗚命、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を祭神としていて熱田大神はその総称神であるから、饒速日、火明命は表には現れない。
 「火明命ノ御子天香山命、一名ヲ高倉下命ト申ス」とあるのは、高座結御子神社が独自に持っていた社伝であり、上記引用の「熱田大神御児神也トアリ、火明命ノ御子天香山命、一名ヲ高倉下命ト申ス」とは、熱田神宮側の主張とを折衷したものと考えられる。
 つまり、現在の高倉下命の御子が高座結御子神社の祭神であったと考えてよい。
「御子神社」の部分に注目すると、この摂社が「御子」なのですから元社の祭神はその親だと考えれます。 熱田神宮の境外摂社に高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)という神社があります。この神社の祭神は高倉下命(タカクラジ)です
そうすれば、タカクラジの親つまり、ホアカリノミコトが熱田大神ということになります。また、タカクラジがその「御子」から祀られたのだと考えると逆に熱田大神は、アメノムラクモノミコトという事になるでしょう。 もし、後者だとすると、草薙の剣が「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と言われている-つまり草薙の剣は「アメノムラクモノミコトの剣」である-ことと熱田神宮にこの剣があるということが、すんなり理解できます

弥彦神社
弥彦神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

創建年代は不詳。祭神の天香山命は、『古事記』に高倉下という名前で登場する。社伝によれば、越後国開拓の詔を受けて越後国の野積の浜(現 長岡市)に上陸し、地元民に漁労や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたと伝えられる。このため、越後国を造った神として弥彦山に祀られ「伊夜比古神」と呼ばれて崇敬を受けた。このほか、彌彦の大神は自ら神武天皇即位の大典の際、神歌楽(かがらく)を奉奏(ほうそう)したとも伝えられる。ただし、天香山命は尾張国造家の祖神であり越後に祀られているのは不合理で、本来の祭神は北陸の国造家高橋氏の祖神・大彦命ではないかとする説もある。

葛木坐火雷神社
御由緒略記によれば
南葛城郡忍海村笛吹字神山鎮座
祭神 火雷神及笛吹連ノ祖天香久山命ノ二座
配祀神 高皇産霊神、大日孁貴尊、瓊々杵尊、伊古比都幣命
天香山命は別名が石凝姥命で、天照大神が天岩屋戸に籠ったとき、天香久山の天波波迦木と竹を切り取り、笛を作って吹鳴した。また天香山命は金(一般的に鉄或いは銅)を掘り、八咫鏡を鋳造して皇祖に奉った音楽と鉄工業の祖神で、この鏡が伊勢神宮の御神体となった。(尾張氏の祖神であるはずの天香山命が、上記由緒では尾張氏と無関係な笛吹と鏡作部の祖神・石凝姥命の事績において語られている点が注目されます)

天香山と高倉下は、別人ではなかろうか?
祀られている神社のエリアが、異なっている。系譜上も奇妙である。
また、熱田神宮でも境内に御子神が祀られていないのもおかしいので、後年に別宮の主神として高倉下を祀ったのではなかろうか。

彦坐王が活動したのは第10代崇神天皇の時代で、一方、成務天皇は第13代となります。宮簀媛は成務天皇の時代である。
彦坐王率いる遠征部隊が鏡(天香山命)を奉じ尾張に至った時代(4世紀前半)と、後に尾張氏が尾張北部にまで勢力を伸ばし、同地域を支配下に置いた時代(5世紀から6世紀)は異なる。