香取神宮、鹿島神宮、経津主神

香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市香取にある神社。式内社(名神大社)、下総国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

香取神社(かとりじんじゃ)という名前の神社は、「香取」を社名に持ち経津主神を祭神とする神社。

関東地方を中心として全国に約400社あり、千葉県香取市の香取神宮を総本社とする。多くは香取神宮から勧請して創建され、神宮と同じ経津主神を祀っている。

フツヌシと香取の関係については、『日本書紀』一書に「斎主神云々、此神今在于東国檝取之地也」とあり、「檝取(楫取、かとり) = 香取」に祀られることが記されている。また『古語拾遺』(大同2年(807年)成立)で「経津主神云々、今下総国香取神是也」、『延喜式』(延長5年(927年)完成)所収の「春日祭祝詞」でも「香取坐伊波比主命」と記されている。

フツヌシとは、経津主神
『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。 別名、斎主神(イワイヌシ)、伊波比主神(イワイヌシ)。『出雲国風土記』では布都怒志命として登場する。』・・・とされている神です。現在は、「香取神宮」で主祭神として祀られていますが、その他に、「春日大社」では経津主神が建御雷神らとともに祀られています。

『日本書紀』の神産みの第六の一書によれば、この神は、・・・『伊弉諾尊が軻遇突智(カグツチ)を斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖である』・・・とされています。 第七の一書では、・・・『軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたことにより岩裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が生んだのが経津主神である』・・・とされています。

『出雲国造神賀詞』では、・・・『天の夷鳥の命に布都怒志の命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神等を撥ひ平け』・・・という形で登場しています。

経津主神が物部氏の最も主要な奉斎の神であったことは明らかであり、太田亮博士は物部氏の氏神と表現します。物部氏が氏神とした石上神宮の祭神はフツヌシ神です。経津主神の最も重要な神社である香取神社の奉斎者も、香取連という物部氏族ないし物部同族でした。『肥前国風土記』の三根郡にも「物部経津主神」という表現が見えます。

布都神社[ふつ]

布都主神 配 武甕槌神、天照皇大神、武布都蛇麁正剱、倭武命、高倉下神、神倭磐余彦神」九州を発祥の地とする物部氏は豊後の直入郡から大分を経て、伊予宇和郷から四国の北岸をぬって讃岐から畿内に入ったとされる。愛媛県東予市石延字大ヶ市119

スサノオの父?

 「石上神宮略記には、(石上神宮の)祭神(主神)は布都魂大神と書いてある。延喜式神名帳に石上坐布都魂神社一座とあるので、布都魂大神が主神となっているのであろう。…布都魂とは剣霊で、布都魂の剣とは、スサノオノミコトがヤマタノオロチを切った十握剣である。…
原田常治氏は、著書古代日本正史に、出雲では人名を母国語(モンゴル)の名で呼ぶのが一般的であったとして、フツ(布都)―フツシ(スサノオノミコト)―フル(饒速日尊)と続く三代の系図を載せている。」


祭祀氏族

古くは香取連(かとりのむらじ、香取氏)一族であったといわれる。「香取大宮司系図」によれば、フツヌシ(経津主)の子の苗益命(なえますのみこと、天苗加命)がその始祖で、敏達天皇年間(572年?-585年?)に子孫の豊佐登が「香取連」を称し、文武天皇年間(697年-707年)から香取社を奉斎し始めたという。

このように香取氏はフツヌシの神裔を称する一族であったが、その後同系図によれば、大中臣氏から大中臣清暢が香取連五百島の養子に入って香取大宮司を、清暢の子の秋雄が香取大禰宜を担ったという(ただし人名・時期の信頼性は低い)。以後、平安時代末期までは大宮司・大禰宜とも大中臣氏が独占した。

香取宮司家を代々世襲しているのが香取氏であるが、元は経津主の神裔を称していたが五百島の時に中臣家から養子を迎え入れ、以後香取氏を改め中臣朝臣の氏姓となる。つまり経津主(物部)系香取氏から中臣氏へと宮司家が交代し、鹿島神宮と合わせて中臣氏の支配権が確立していったと思われる。

鹿島新宮社 境内摂社
  • 祭神:武甕槌大神   天隠山命
匝瑳神社 境内摂社
  • 祭神:磐筒男神、磐筒女神
側高神社 境外摂社
  • 鎮座地:香取市大倉
  • 祭神:不詳

「そばたかじんじゃ」。境外摂社で、旧郷社。古来「第一摂社」と称される関係の深い神社であり、本宮同様に神武天皇18年の創建と伝える。祭神は古来神秘とされており、今なお明らかではない。当社には、香取神の命で側高神が陸奥神から馬を奪って馬牧をなしたという伝承が残り、蝦夷征討との関係性や香取神宮の役割が指摘される。

側高神社の御祭神は、千葉県神社名鑑では「側高大神」、香取郡誌では「高皇産霊尊・神皇産霊尊・天日鷲命・経津主命他」とし、また各地に分祀された側高神社の御祭神は「側高神」・「高皇産霊尊」・「彦火火出見命」・「高木神」・「日本武尊」と諸説あるが、実は御祭神は古来より秘匿されており明らかになっていない。
側高神社の有名な伝承に、「香取の神の命により陸奥より馬2000匹を捕えて戻ったところ陸奥の神が追いかけてきた。そこで側高の神は潮干珠で潮を引かせ、馬を下総の地に渡らせた。馬を渡し終えると今度は潮満珠で潮を満たし、陸奥の神が追い付けないようにした。」と言う。


鹿島神宮

鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市宮中にある神社。式内社(名神大社)、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

主祭神はタケミカヅチ(武甕槌/建御雷)神。天孫降臨に先立つ葦原中国平定においては、アメノトリフネ(天鳥船神:古事記)またはフツヌシ(経津主神:日本書紀)とともに活躍したという。その後、神武東征に際してタケミカヅチはイワレビコ(神武天皇)に神剣(フツノミタマ)を授けた。

『古事記』『日本書紀』には鹿島神宮に関する言及はないため、タケミカヅチと鹿島との関係は明らかでない。

一方、『常陸国風土記』では鹿島神宮の祭神を「香島の天の大神(かしまのあめのおおかみ)」と記し、この神は天孫の統治以前に天から下ったとし、記紀の説話に似た伝承を記す。しかしながら、同記にもこの神がタケミカヅチであるとの言及はない。

神宮の祭神がタケミカヅチであると記した文献の初見は、『古語拾遺』(807年成立)における「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」という記述である。ただし、『延喜式』(927年成立)の「春日祭祝詞」においても「鹿島坐健御賀豆智命」と見えるが、この「春日祭祝詞」は春日大社の創建といわれる神護景雲2年(768年)まで遡るという説がある。以上に基づき、8世紀からの蝦夷平定が進むにつれて地方神であった「香島神」に中央神話の軍神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする説があるほか、中央の国譲り神話自体も常陸に下った「香島神」が中臣氏によって割り込まれて作られたという説がある。

鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれる。

鹿島・香取両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威の背景には、両神宮が軍神として信仰されたことにある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に「香取海(かとりのうみ)」という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点である。

  • 鹿島香取使(かしまかとりづかい)
    両神宮には、毎年朝廷から勅使として鹿島使(かしまづかい)と香取使(かとりづかい)、または略して鹿島香取使の派遣があった。伊勢・近畿を除く地方の神社において、定期的な勅使派遣は両神宮のほかは宇佐神宮(6年に1度)にしかなく、毎年の派遣があった鹿島・香取両神宮は極めて異例であった。

  

鹿島には藤原氏前身の中臣氏に関する伝承が多く残るが、藤原氏祖の藤原鎌足もまた常陸との関係が深く、『常陸国風土記』によると常陸国内には鎌足(藤原内大臣)の封戸が設けられていた。また『大鏡』(平安時代後期)を初見として鎌足の常陸国出生説もあり、神宮境外末社の津東西社跡近くに立つ鎌足神社(鹿嶋市指定史跡、位置)はその出生地と伝えられる。藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に勧請されて祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられた。

中臣氏は6世紀後半から7世紀初頭に祭祀制度の再編を行なっており、これに伴って東国に中臣部や卜部といった部民を定め、一地方神であった鹿島社の祭祀を掌握したと見られている。

中世に武家の世に入ってからも両神宮は武神を祀る神社として武家から信仰された。武術方面から信仰は強く、道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多い。

『常陸国風土記』

「香島の天の大神」が高天原より香島の宮に降臨したとしている。また、この「香島の天の大神」は天の大神の社(現・鹿島神宮)、坂戸の社(現・摂社坂戸神社)、沼尾の社(現・摂社沼尾神社)の3社の総称であるともする。その後第10代崇神天皇の代には、大中臣神聞勝命(おおなかとみかむききかつ)が大坂山で鹿島神から神託を受け、天皇は武器・馬具等を献じたという。さらに第12代景行天皇の代には、中臣臣狭山命が天の大神の神託により舟3隻を奉献したといい、これが御船祭(式年大祭)の起源であるとされる。


大戸神社

香取神宮の摂社(江戸時代までは第一末社)であり大戸を大生と捉え、印波の多氏の流れとする。鹿島の大生神社のような直接香取神宮鎮座との関わりを思わせる伝承は無い。香取市大戸字宮本に遷座されており、御祭神は「天手力雄命」(あまのたぢからおのみこと)である。社伝によると、12代景行天皇40年、日本武尊が東征の時、蝦夷征討祈願のため現在の香取市大戸の地に勧請し、幾度かの遷宮(同地区内)の後、36代孝徳天皇白雉元年(650年)現在の地に宮柱造営されたと伝わる。江戸時代までは香取神宮の第一末社(明治時代摂社)であり、応保2年(1162年)の大禰宜譲状に「末社大戸神主」等と記録のあることから香取神宮の付属社でありました。


麻賀多神社 印旛国造の斎く神

由緒

古事記・日本書紀には、日本の国造りの神で、五穀の神様であり、産業を司る神として記されています。(古事記では和久産巣日神と記されています) また、この神社の社紋は麻の葉。

伊勢神宮の内宮(天照大神)の姉神で、外宮(豊受大神)は子神と記されており、香取神宮の御祭神(経津主命フツヌシノミコト)と鹿島神宮の御祭神(武甕槌命タケミカヅチノミコト)は弟神であります。(?)

今から千七百年余前、印旛国造(当時の大和朝廷の地方長官)であった伊都許利命(イツコリノミコト)が、現在の地に麻賀多神社大神として崇め、以降近隣の麻賀多十八社の本宮として地元の鎮守様として広く皆様から崇敬されています。

本社(台方社)の北方1kmのところに奥宮(船形社)があり、伊津許利命の噴墓があります。また当社の西方1kmの印旛沼湖畔の鳥居河岸というところには大伴家持が寄進したという大鳥居(一の鳥居)が建っています


鳥見神社、宗像神社、麻賀多神社

香取神社と側高神社は下総国内に広く分布しているが、明らかに鳥見・宗像・麻賀多神社の分布圏とは重ならない。側高神社は印旛郡東部に集中するが中部東部には分布が無く、地図上には示されていないが印波郡を越えて東の松戸市や埼玉県吉川市に分布している。香取神社は香取海沿岸とそれに注ぐ河川沿いに見られるがやはり鳥見・宗像・麻賀多神社の分布域とは重ならない。この香取神社も印旛郡を東に越えて広く分布している。

印西市の宗像神社の伝承

宗像神社は大和国春日神社に鎮祭する鹿島香取平岡の神に府座と言うも、鹿島香取は神名式の大社にして実に神代の鎮座なり。この姫神の本社は筑前国なれども鹿島香取の神に府座せる故に、当地に鎮際祭せられたり。と言うのもこの印西の土地たる印旛沼の西方に位置して沼の東方を左とし南方面とし西方を右として半島をなしたり。この神を鎮祭するに最も適した土地なるが宮所をこの地に相(招)したりと見えて、東南西に位置して沼水を展望する村落に皆この神を祀られたり。この神に仕える神家は皆、香取を姓として社伝にも古代先祖は香取から来れりと云う。今は寒郷の村落なれども古代は名神大社の香取に府座する実にやんごとなき郷分社に座しける。

応神天皇十二年詔により印旛の地に印旛国造伊都許利命を置く。先ず印東を鎮め公津の地に居す。公津は神津なり。命印西の渡りまず平賀地を開く。平賀は開くの意にして印西の地これより開かんとの旨にて村名となる。この地は四面湖水に望み北端の一角僅かに山田村に接す。年々水難を蒙ること夥しく南端に水神水波女神を祭り土民を安堵せしめる。命治水の功を績みここに宗像神社を鎮める。これ命の功績と共に後世に伝え平賀の二宮と言う所以なり。この地が発するや麻・穀を植え耕作の進歩を計る。ここに麻を数多く作る人を生ずる。命また居家を定め応神天皇を祭り大伯父、神八井耳神を以って鎮祭の禮を行う。今日残る笠井一族は神八井耳神の後裔で、世俗に平賀山田に地は粟または氾海と称す。これ阿波忌部に因みのあるによる。

経津主神と香取氏の系図(『続群書類従』等に所収

経津主尊-苗益命-若経津主命-武経津主命-忌経津主命伊豆豊益命-斎事主命-神武勝命……」と続けます。

「フツヌシ」「伊豆」を名にもつ者(「斎事主」も「斎主」でフツヌシのこと)がいる。

物部か安房忌部か?

若経津主命こそ、その表記のとおり経津主神の若(息子)で、これが饒速日命かその近い一族にあたるか?ワカフツヌシノ命は『出雲国風土記』秋鹿郡大野郷及び出雲郡美談郷の条に見え、同書の出雲郡の神社のなかにあげる県社がワカフツヌシ神社と見えます。「伊豆」については、陸奥国牡鹿郡の式内社に香取伊豆乃御子神社があり、現在宮城県石巻市折浜にある伊豆神社に比定されています。

 一方、「天孫本紀」には物部一族として香取連をあげない。老尾神社の「老尾」がいまの鎮座地・匝瑳市生尾に通じ、祭神を朝彦命あるいは阿佐比古命(いずれにせよ、麻比古で、安房忌部の祖・大麻比古に当たるか)とすることから、原義は「生ひ麻(おひを)」とみられ、匝嵯も「狭布佐(さふさ。細い麻の義)」とみられます。しかも、老尾神社の祭神が朝彦命または苗加(なへます)命というと『下総国旧事考』に見えます。「苗加命」とは香取連の系図に見える「苗益命」に当たります。香取連は安房忌部と同系であってその奉斎神は、本来の由布津主命(上記香取連系図の「忌経津主命」あるいは「□経津主命」に当たるか)が後になって入ってきた同族の物部の祖神経津主神と緊密に融合した可能性がある(この辺は、現存資料からは判断が難しい問題ですね。大麻比古の父は少彦名神なのだが、少彦名神の兄の経津主神が父と伝えられたことでもある)


香取神宮 
武甕槌について『古事記』と『先代旧事本紀』に興味深い系図が載っている。『先代旧事本紀』に素戔烏尊―大己貴神―都味歯八重事代主神―天日方奇方命―健飯勝命―健甕尻命亦名健甕槌命という系図が記されており、『古事記』にも意富多多泥古の祖先として大物主神―櫛御方命―飯肩巣見命―建甕槌命とある。 
経津主・武甕槌両神は天太玉命の孫又は曾孫とする説もあるらしい 

天隠山命は高倉下命とも言われ、神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て、後御子天五田根命と共に紀伊国より讃岐に渡らせられ山河を以って国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた