阿蘇四社、健軍神社、甲佐神社、郡浦神社

阿蘇四社
健軍神社(けんぐんじんじゃ、元たけみや)は、熊本県熊本市東区にある神社である。阿蘇神社(阿蘇市)、甲佐神社(こうさじんじゃ、甲佐町)、郡浦神社(こうのうらじんじゃ、宇城市)と共に阿蘇四社である。

国造
松津(杵肆?)国造 仁徳朝 金連 物部連の祖の伊香色雄命の孫 佐賀県鳥栖市、三養基郡基山町?(肥前国基肄郡?)
末羅国造 成務朝 矢田稲吉命 穂積臣と同祖・大水口足尼の孫 佐賀県唐津市、伊万里市、東松浦郡ほか(肥前国松浦郡)
筑志米多国造 成務朝 都紀女加命 息長公と同祖・稚沼毛二俣命の孫 佐賀県三養基郡(肥前国三根郡米多郷)
葛津立(葛津直)国造 成務朝 若彦命 紀直と同祖・大名茅彦命の子 鹿島市、嬉野市、藤津郡太良町(肥前国藤津郡)
肥後
火国造 崇神朝 遅男江命 大分国造と同祖・志貴多奈彦命の子 熊本県、佐賀県、長崎県(肥前国・肥後国)
阿蘇国造 崇神朝 速瓶玉命 火国造と同祖・神八井耳命の孫 熊本県阿蘇市、阿蘇郡(肥後国阿蘇郡阿蘇郷)
葦分国造 景行朝 三井根子命 吉備津彦命の子 熊本県水俣市、葦北郡(肥前国葦北郡葦北郷)
天草国造 成務朝 建嶋松命 神魂命の十三世孫

健軍神社
熊本市内で最古の神社と言われている。社伝によれば欽明天皇19年(558年)に阿蘇神社の大宮司が同神社を勧請して創祀し、異賊征伐の為に社号を「健軍」と称したといい、後に阿蘇四社の一として阿蘇神社の別宮とされた。
初め「健軍宮(たけみやぐう)」や健軍村竹宮(たけみや)と呼ばれ、または十二社大明神とも称せられて、健軍荘(たけみやしょう)の産土神社であった。
祭神:健磐龍命、天御中主神、仲津彦神、仲津姫神、神渟名川耳命(綏靖天皇)、阿蘇津姫命、草部吉見神、速甕玉命、彦御子命、比咩御子命、新彦命、若比咩命、若比古命、新比売命、弥比咩命等を祀るが(天御中主神、仲津彦神、仲津姫神の3柱以外は全て阿蘇神社祭神)、もともとは境内にある国造社の神、火(肥)国造 の祖である健緒組(たけおくみ。健緒純にも作る)と見る説もある。健緒組は『肥前国風土記』や『肥後国風土記』逸文によれば景行天皇の時代に肥(火)君(ひのきみ)の姓を賜ったといい、『国造本紀』によれば崇神天皇朝に火国造に定められたという。
阿蘇十二神とは
(健磐龍命、阿蘇津姫命、神渟名川耳命、国造速瓶玉命、草部吉見神、比咩御子命、彦御子命、若比咩命、新彦命、新比咩命、若彦命、濔比咩命)
境内社
雨宮神社 – 雨宮大神
美和神社 – 大物主大神、三穂津姫命、事代主命、猿田彦大神
国造神社 – 速瓶玉命
日吉神社 – 大山咋命、若山咋命
天社神社 – 道君首名
矢城神社 – 矢城山の山神、稲荷大明神、青龍龍神

崇神天皇の世、益城に土蜘蛛(有力豪族)が背いたので、天皇が健緒組(たけをぐみ)に命じて討たせた。その後健緒組に火の君の姓を賜った。健緒組(タケオクミ、健緒純)は余り聞きなれない神様ですが、多氏の始祖ではないかと考えられている武恵賀前命、また阿蘇国造や科野国造の祖である健磐龍命(健五百武命と同一?)などの神々と「兄弟」だとされ、神八井耳命の子孫・敷桁彦命(シキタナヒコ、志貴多奈彦)の子供に位置付けられている神様で、熊本市では健軍神社の祭神として祀られています。火(肥)の国、阿蘇を代表する実力者(の象徴)であったことは確かなようです。

「肥(火)の国」については、景行帝が襲武媛(そのたけひめ)との間にもうけた「豊戸別皇子」という名の人物を「火国別」に封じたとあります(景行紀四年二月条)。この記事は、

崇神帝が勅して、肥君らが祖、健緒組を遣りて、伐たしめたまいき。  健緒組の勲をあげて、姓名を賜いて火君健緒純という。

と云う「肥前国風土記」の記述とは明らかに食い違いを見せていますし「先代旧事本紀」の『神八井耳命の子孫で健磐龍の子・速瓶玉命が初代阿蘇国造となった』(国造本紀)内容とも一致しません。いずれの伝承が事実に近いのか判断に苦しむところです。

天孫本紀が『ニギハヤヒ九世孫、物部竺志連公、奄智蘰連らの祖』と伝え、この物部十市根命の孫に位置付けられている竺志連の異母妹・五十琴姫が景行帝の妃となって輿入れしている。

崇神帝が勅して、肥君らが祖、健緒組を遣りて、伐たしめたまいき。健緒組の勲をあげて、姓名を賜いて火君健緒純という。

景行帝が襲武媛(そのたけひめ)との間にもうけた「豊戸別皇子」という名の人物を「火国別」に封じたとあります(景行紀四年二月条)。
豊門別命[三嶋水間君、奄智首、壮子首、粟首、筑紫火別君の祖]。息前彦人大兄水城命[奄智白幣造の祖]

伝承によると、欽明天皇19年(558)、阿蘇大明神を尊敬していた肥後の国司・藤原法昌は毎月、古府中(飽田国府)より健軍の杉馬場を経て、阿蘇に到り、阿蘇宮参詣を行っていた。ある年の冬、参詣の時、大雪が降り、身の縮むような厳しい寒さで進退窮まり、暫くこの地の椎の木の下で雪の晴れるのを待った。
国司は、心底、ここに阿蘇大明神を勧請(かんじょう、神霊を移して祀る)し、老弱の者の阿蘇宮参詣の労苦を救いたいと思った。ちょうどその時、一株の杉の下に3歳ばかりの童子(どうし、わらべ)が突然姿を現し、国司に向かって『汝 阿蘇大神を尊信し、二心なく厳寒積雪を厭わず、此処に来たり。その上、衆人遠途の労を憐み、大神を此処に勧請せんと願う。神明何ぞ感応せざらんや。宜しく此処に勧請すべし。阿蘇宮は皇城鎮座ため東に向かって建つ。因って当社は夷賊新羅鎮座のために西向きに社を建て、健軍(たけみや)と号すべし。』と託宣(たくせん)し、いつの間にか姿を消した。国司は多いに驚き、朝廷に奏上して一社を創建して健軍宮(たけみや)とし、神領を寄付した。(肥後国誌より)

甲佐神社(こうさじんじゃ)
熊本県上益城郡甲佐町に鎮座する神社である。肥後国二宮。肥後南方の守護神。もともと鏑崎宮(かぶらざきぐう)と称したが、神功皇后凱旋ののち、甲冑を納められたので甲佐宮と改めたと言われる。甲佐三宮大明神とも称するのは、一殿に甲佐、二殿に阿蘇、三殿に郡浦の三神を祀るためである。
祭神:健磐龍命(タケイワタツノミコト)の御子、八井耳玉命(ヤイミミタマノミコト、甲佐明神)を主祭神とし、健磐龍命、蒲池比咩命(カマチヒメノミコト)、神倭磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)、媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)を配祀する。

なお、八井耳玉命(ヤイミミタマノミコト、甲佐明神)は、阿蘇神社の主祭神健磐龍命の子で速瓶玉命の異母弟であると神系図では位置づけられているが、他に神武天皇の第二皇子神八井耳命の異母弟説、神八井耳玉命が阿蘇家の祖惟人命説、など様々な説がある。

阿蘇神社の主神である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が朝鮮半島に渡り、帰ってくるときに対馬の女性を連れ帰りました。この2人のあいだに生まれた子が八井耳玉命(やいみみたまのみこと)=甲佐明神で、7歳のときに甲佐へ封じられたとされています。
こうして、甲佐地方は甲佐明神によって治められるようになり、現在も甲佐神社には、この甲佐明神と仁寿元年(851年)にまつられた健磐龍命ら阿蘇の神々がまつられています。
古くは「高佐」とも書き、神功皇后が甲冑を献納したことから「甲佐」と改めたとする伝承がある。鮎の名産地。

『魏志』倭人伝に見える対馬の大官は卑狗と称し、壱岐の官卑狗とされている。この卑狗は日子と解するのが通説である。この日子(卑狗)の後裔とみられる対馬の古族(対馬県直)は当然日神を祭ったはずで、「先代旧事本紀」天神本紀には、津島県直の祖を天目神(ひのみたま)を記している。この天目神は阿麻[氏+一]留神社の祭神で、中正には照日権現と称したが、天道縁起の一書に、天童の母を照日の女と伝えているのは、その母も日神の子であることを語っている。また天神多久頭玉命神社および多久頭神社があり、山上にカナグラと称する壇があるのは、この神が天上から降臨する霊であることを示している。対馬に天日の地名があったと司馬遼太郎さんが書いている。

郡浦神社(こうのうらじんじゃ、こおのうらじんじゃ)
熊本県宇城市三角町郡浦にある神社である。肥後国三宮と伝える
祭神:蒲智比咩命(カマチヒメノミコト)、健磐龍命(タケイワタツノミコト、阿蘇神社主祭神)、速瓶玉命(ハヤミカタマノミコト、国造神社主祭神)、神武天皇(ジンムテンノウ)の四柱。
蒲智比咩命は、国造神社の主祭神速瓶玉命の妃神。海神の女神、雨宮媛命(あまみやひめのみこと)(諸説有)。

郡浦神社は祭神の体系から八百数十年前 に阿蘇神社の摂社となり、肥後の三の宮として当時は宇土半島の殆どを社領としていたそうです。蒲智比咩神社の祭神、蒲智比咩は阿蘇の国造神社の速瓶玉(はやみかたま)命に嫁いでいる。阿蘇に敗れたようです。
蒲智比咩神社と製鉄
三角町郡浦にかつて蒲智比咩神社という社があった。
この蒲智比咩とは島原の普賢神社祭神の娘でイザナギ、イザナミの神の孫娘にあたる女神である。
三大実録に蒲智比咩神社に関するこんな記録がある。蒲智比咩神社の川の上流にも官迫(かんざこ)という製鉄があった。すなわち当時、製鉄用の鉄が川に流れてそれが酸化して川を赤く染めたのであろう

『八七八年(元慶二年)蒲智比咩神社の前の川が真赤に染まり、周辺の草木は全て枯れてしまった。驚いた都の人々がこれは肥後国に異変がおこる前触れだと都の神祇官に申し立てをしたところ、「疾病が流行、もしくは外から敵が攻めてくる」という占いがでた。そこで十二月、神祇官が宗像神社へお祓いの使いの使いをだした』

  


熊本の味噌天神(御祖天神)

味噌天神は奈良時代の713年(和銅6年)、元明天皇の御世に建立されました。
肥後の初代国司の道君首名のとき、悪疫が流行して多数の死者が続出し、人々は悩み苦しみました。そこで国司道君首名は、疫病平癒祈願のために、現在地に神薬の神として「御祖みそ天神」を祭祀されましたら、
まもなく疫病はおさまったと伝えられてい
ます。
「天子宮の火祭り」
熊本県玉名郡天水町小天に小天 少彦名神社というのがありここで道君首名公の威徳をしのび、毎年10月15日の夕方から火祭りが行われているという。
道君首名公が713年の9月初代国司として筑後に赴任早々に疱瘡(天然痘)の流行により死屍累々となった筑後の地にほど近い熊本県玉名の小天(おあま)で少彦名神を祭祀することによりこの伝染する疱瘡を平癒させた経緯が小天の天子宮に今なお伝えられ
「綿々と祈願の火祭り神事が1300年の永きに渡り欠かすことなくこの地の氏子に継続しているという。
参考:http://www1.bbiq.jp/sukunahikona/sukuna/sukuna.htm

孝元天皇の皇子で長男の大彦と末子の開化天皇の間に少名日子名建猪心命(すくなひこなたけいごころのみこと、少彦男心命) がいる。
原田常治著の上代日本正史の雀部臣系図には
その名が少彦名許士尊となっている。
まさに大彦命と少彦名神が兄弟であるような記載とも感じられる。大彦命の後胤の佐々貴山君も沙沙貴神社で少彦名神を氏神として祭祀している。

太良嶽神社
藤津郡太良町多良8378
祭神
瓊瓊杵尊、五十猛命、素盞嗚尊、大山祇神、豐玉姫命
摂社 慈母神「木花咲耶姫命」、太良嶽神社上宮
由緒
昭和四十六年、川上神社「豐玉姫命」、荒穂神社「瓊瓊杵尊」、太良嶽神社「瓊瓊杵尊、五十猛命、素盞嗚尊、大山祇神」の三社を合祀した。
この地域の荒穂神社は基山の荒穂神社からの勧請であろうから、祭神は五十猛命であって瓊瓊杵尊は後世に置き換わったものと考える。 『筑前国続風土記』にも、元社と思われる基山の荒穂明神について、「五十猛神なるべし、瓊瓊杵尊とは俗の付会せる説なるべしといへり。」と記されている。合祀の際、多良嶽頂上の太良嶽神社を上宮として残した。神社庁平成祭礼データによると、現在上宮の祭神に五十猛命の名がなく、素盞嗚尊とされる。『佐賀県神社誌』によれば、和銅年間以前の鎮座としている頂上の多良嶽神社の祭神を大山祇神とするも、一説には五十猛命と記している。
多良岳は標高1,076mの経ヶ岳を主峰とする山系の内の標高983mの秀麗な山容の山である。
地名の通りタタラ製鉄が行われていた地域であり、水銀の丹生神社も藤津郡には多い。

肥前古跡縁起』から(角川歴史地名辞典からの孫引き)
太郎嶽大権現は天竺摩訶陀国の大王の神霊也。本地千手観音、弥陀、釈迦三身一体の垂迹にして和銅年中(708~)の草創也。 南より西に当たり四つの山有り。四面の民と云、是は四面大菩薩常に影向し給ふ霊地也。 其頭に弁財天、其下に仏ノ辻と云所有。此処は大権現来朝の御時降臨有りけれども殺生の浦近くにて不浄の穢風を忌給ひ此の太郎嶽の上宮に上らせ給ひぬ。

温泉神社 日本山(ひのもとやま)の伝承 雲仙市小浜(おばま)
温泉は、雲仙のことであろう。なぜか、長崎には式内社がないのも謎である。
高来地域の温泉神社の総本宮であろう。神社由緒記には、鎮座地は小浜町字龍馬場庚五五二番地の二となっており、祭神は豊日別命と記されている。豊国即ち、豊前国(福岡県と大分県の一部)及び豊後国(大分県)のことを豊日別という。

由緒記には、

「温泉嶽、一名高来峰。太古日本山と称す。日之神の旧都たるを以て也。山嶺五峰あり。九州国魂五神の神体なり。
豊日岳 豊前豊後の国魂にして今普賢山と称し豊日別命を奉斎す。
速日岳 肥前肥後の国魂にして今国見岳と称し速日別命を奉斎す。
建日岳 大隅薩摩の国魂にして今妙見岳と称し建日別命を奉斎す。
白日岳 筑前筑後の国魂にして今稲荷山と称し白日別命を奉斎す。
奇日岳・豊久士比泥岳 日向の国魂にして今中岳と称し豊久士比泥別命を奉斎す。」
ここに書かれた五神は、雲仙温泉神社を総本宮として、島原半島に鎮座されている温泉神社の祭神である

普賢山、国見岳、妙見岳、稲荷山、中岳に祀られていた神は、雲仙温泉神社から分祀されたもので、現在は普賢神社(仮拝殿)と妙見神社の二社のみ残っていて、他の三社は、いつ、どうなったのかもわからないけれども、雲仙普賢岳は、有史以前にも噴火したといわれていることから、火山鎮護と噴火による災害を最小限に食い止めることができるよう祈願するために、これらの神社が建立されたと由緒記は伝えている。
四面については、「四面上宮」で、中央に大日如来を、四面に阿しゅく如来、宝生如来、阿弥陀如来、釈迦如来を配する。その四面にあたるところ、千々石、諫早、有家、山田に温泉神社を配した。より広い四面は筑紫、豊国、肥前、日向に当たり、筑紫島(九州)の鎮護の神として祀った。普賢岳の普賢神社、妙見岳の妙見神社は温泉神社の摂社である。
明治まで満明寺(真言宗)が別当寺で、大宝元年(701)行基が一切経の滝で修行し、四面大菩薩を勧請して開基と伝える。盛時には1千坊を擁した。
島原市加津佐 温泉神社
長崎県南島原市加津佐町東宮丿町
白日別命 (しらひわけのみこと)豊日別命(とよひわけのみこと)建日別命(たけひわけのみこと)建日向日豊久士比泥別命
(たけひむかひとよくじひねわけのみこと)速日別命(はやひわけのみこと)

筑紫国魂神社(つくしくにたまじんじゃ)、四面宮(しめんぐう)と称し、地元では今でも、お四面様(おしめんさま)、お四面さん(おしめんさん)と言われ親しまれています社伝によると、大宝元年(西暦701年)島原半島 雲仙の地に祀(まつ)られたと言われています。
鎌倉時代、弘安4年(1281年)福岡県博多に蒙古襲来の時、身一つに面四つの勇士が現れ、敵をあっという間に倒しました。名を尋ねると肥前の国温泉山の者だ。と言い残し立ち去りました。後に、温泉神社の神だとわかり、人助けの神、武道の神として九州の大名が年1度参拝するようになったそうですです。

一見、わかりにくい神名の羅列のようだが白日別命はスサノオあるいはイタケルで 豊日別命はニギハヤヒと考えられている。 そして建日別命、速日別命も命名法からみれば 出雲系の神々らしい。建日向日豊久士比泥別命だけがひとり日向系らしい名前だ。
筑前國御笠郡式内筑紫神社の祭神
名神大社である筑紫神社の祭神は「五十猛命、白日別神 配 玉依姫命、坂上田村麿」である。この白日別神は五十猛命の別名であるとされ*2、往古九州を筑紫と言う称は白日別命の神号より起り筑紫(筑前筑後)の国魂であるとされる。

古事記の島々の生成説話に、伊耶那岐命、伊耶那美命の国生み譚では、淡路島、四国、隠岐の島の次に九州島を生んだとある。面四つあるとし、筑紫を白日別、豊の国を豐日別、肥の国を建日向日豊土比泥別、熊曾の国を建日別と言うとある。 筑紫の国魂であるとされる由縁である。

奇妙といえば「お四面さん」と呼ばれる神社がもうひとつあるのだ。島原半島から西北方向にある 諫早市宇都町の諫早神社である。
祭神が同じかとみればそうではなく大己貴と少彦名命なのだ。

温泉神社の神紋は四つ目で本殿は入母屋造りで、 諫早神社の神紋は上り藤で本殿は神明造りとなっている。 微妙に違っているのだ。
温泉神社の神々を普通にそのまま勧請して分祀したわけではないようだ。

四面神社
佐賀市嘉瀬町中原2044(平成23年11月5日)
この神社は嘉瀬小学校の北約700mに鎮座しています。
207号線北に参道入口が有り、鍋島二代藩主・光茂公と鍋島藩5名の家老が寄進された一の肥前鳥居が建立されています。ここから参道が北に400m程続き、寛永11年(1634年)鍋島初代藩主勝茂公寄進の二の肥前鳥居を潜り、神橋を渡ると神社に行き着きます。藩主寄進の二基の鳥居や参道の長さ等からも、藩政時代のこの社への崇敬の深さが偲ばれます。
神社正面左には四面神社の神門、右には佐田神社の鳥居が建立されています。境内に入ると参道正面に、文政4年生まれの狛犬が護る唐破風付き入母屋造りの拝殿、三間社流造の本殿が建立されています。境内右には佐田神社の拝殿・本殿が 建立され、境内周囲には石祠・石仏等が祀られています。
御祭神:諌早神、温泉神、支々岐神、千々岩神
境内社:佐田神社、金神、稲荷社他
由緒:諌早神、温泉神、支々岐神、千々岩神の四柱の神を主神とし、天照皇大神他三十社の分霊が合祀されている。
四面神社は明治6年10月村社に列せられた。

琴平岳(334m 長崎県大村市)
「大村湾は琴の海ともいい回りに琴平神社が多い」
案内板に次のように説明してある。昔この山は麻生山と呼ばれていた。
説明板によれば、寛政9年(1797)四国出身の河野氏の一族、一瀬喜惣次が、金比羅権現を勧請し祀った。
大村藩の城主、大村氏は藤原純友を祖とするとも伝える。純友は10世紀瀬戸内海の「海賊」として、勢力は九州にも及んだ。

肥前国

(三代実録)巻第四、清和天皇貞観二年八月巳丑、進肥前國従四位下田島神階加従四位上、授従五位上荒穂天神正五位下、従五位下予等比咩天神、久治國神、天山神、志々伎神、温泉神、並従五位上、正六位上金立神従五位下。

(歴代鎮西要略)第四十二代文武天皇 大宝元年辛丑。肥前州高來郡温泉神垂迹。分身末社四所坐。曰山田神、有江神、千々石神、伊佐早神也。社家伝曰、謂温泉山曰日本山。亦有故也。玄古天神降臨当山峰。所以曰爾。云云。

(深溝世紀)巻之九 元禄六年 四月二十一日温泉山四面神祠改造成、公(松平忠房)遣伊藤永運、吉田丹波、入江織部、(共祠官)行遷宮儀叉使板倉房勝、酒井政般(共家老)以書命一乗院主曰、肥前國四面大明神、名曰速日別命、為本州鎮守、故雖有他方奉祠者、以高來郡温泉山為一洲名山、自上古安此神、血祀綿然不絶、其為宗祠亡論耳、然近世被占浮屠氏、破壊祠宇、以換堂閣、置佛器、而損神明之威徳矣、今茲癸酉改造神祠、祀典復旧、乃祈謂大明神、奉納幣帛、而令盡收所置佛器、自今以往奉祭祀、宜典酒魚、雖然寺僧禁葷酒、猶依旧法矣、但要神境清浄、鰐口花瓶、亦不許置祠頭也、右主公使吾輩伝命、寺僧奉承、永世母墜焉。(後略)

雲仙 日本山の4姫の伝説

温泉山四面大菩薩に関する伝説
昔高麗国に二人の王様が居って、一人は善い王様で一人は悪い王様である。善い王様の名は善大王、悪い王様の名は漢龍王と言った。然るに善大王の女に荷葉后といって絶世の美人があった。此の荷葉后が悪王である漢龍王に嫁して夫婦となり、終に懐妊した。而して不思議にも四十日目に四人の子供を生んだ。そこで漢龍王は不審に堪へず、四十五日目に往って見ると四人の姫君が生れてゐる。驚きの余り荷葉后に其の事を問ふた。后が答ふるには、我は密嚴の教主周遍法界の体性である。群類済度の為め四佛が尊客を現はしたのである、と言い法海の定印を結んで広大な光明を放った。其の時四人の姫君が四方から出て来て、各光明を放った。其れから彼の悪王たる漢龍王は深く慈悲心を起し善根を修め功徳を積んだと云ふことである。
然るに彼の四人の姫君が我が朝、人皇第三代安寧天皇の御代に、高麗国から本朝指して飛んで来て温泉山の一宮の所に住んでゐた。そして七日経ってから阿蘇大明神に遇ったところ、阿蘇大明神が言はれるには、此所から二里ばかりの所に高山がある。此の山は本朝地神第二代天忍穂耳尊並に第三代瓊々杵尊御降誕の地で、此の山を日本山といふ、四王女は宜しく長く此所に住せられよと云々と、是れが即ち温泉山であると言ふのである。
伽藍開基記などには、此の山が高麗国から飛んで来た様に古老が言ひ伝へてゐると書いてある。
此の伝説は主として温泉山縁起に拠るものであるが、所謂法界の神話とでも云ふべきもので、筆者の如き俗人には難解の問題である。只高麗国と温泉山とを関連づけた処に就いて考ふるに、温泉山の旧名は高来山である「高来」と「高麗」とは字音相通ずるを以て、佛者が技巧を凝らして生じた伝説ではあるまいか。

葦北、八代

忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は第19代允恭天皇の皇后であり、木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)・第20代安康天皇・第21代雄略天皇の母。父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)。母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)。意富富杼王(継体天皇の曾祖父)の同母妹。

日本書紀允恭紀に、允恭天皇2年春2月14日(413年3月31日)立后され、名代部として刑部が設定されたとある。このとき設定された名代部の一つが火葦北国(ひのあしきたのくに。熊本県八代・葦北地方)であるとする説がある。当地から阿蘇ピンク石という石材が産出しており、河内平野の古墳の石棺にこの石材が用いられていることから、何らかの関係があるとする見方もある。

允恭天皇42年12月14日(454年1月28日)、安康天皇の即位と同日に皇太后となった。

葦北国造(肥)
景行天皇の時代、吉備津彦命の子である三井根子命を国造に定めたことに始まるとされる。国造本紀には葦分と名が記され、また記紀では火葦北国造とも表されているので、火国造の支流とも見られている。
三井根子命後、日奉(ひまつり)部・日奉直・日奉宿禰等を賜姓される。三井根子命の子・刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)は大伴金村によって朝鮮に使わされた国造で、その子・日羅は日本では刑部靱負の職(軍隊の長)、百済では達率(高官の1つ)となり、武人・賢人として知られる。葦北郡津奈木町にある将軍神社は日羅(将軍)を祀っており、逸話も多い。宇土半島にある鴨籠古墳の被葬者は、その棺の大きさから葦北国造の息子と考えられている