鉄の氏族

鎌倉時代には、近江源氏とも呼ばれる佐々木氏一族は中国山地の製鉄にも深く関わって、美濃の関の刀鍛冶用に近江商人の流通ルートを使って鉄供給を行ったと、岐阜県関市の資料に出ている。

南宮大社の宝物の特徴は、刀剣類が多いことである。その数は数十振にのぼる。また、数が多いだけでなく、文化財として価値が高い逸品が奉納されている。これは南宮大社が金属の神様であること、その昔、西美濃が刀鍛冶の中心だったこと、などによると考えられる。
 中でも刀剣の「三条」、「康光」と古代の「鉾(無銘)」の三点は、国指定の重要文化財で、戦前は国宝だった。
初代兼元は室町時代の人。二世兼元は不破郡赤坂(現在の大垣市赤坂町)に住み、刀匠として名をあげ、後に孫六と称した。後年、子孫は関に移った。「兼元」は通称「関孫六」と呼ばれる。

 美濃紙と同じように関・美濃の主要産業であった刀産業もまた近江と強い関連を持っていたと考えられる。美濃紙と違って、刀は武器でありその原料である鉄は、大名など権力の介入があったと考えられる。関に刀鍛冶がやってきたと考えられる室町時代初期の近江守護は、佐々木氏一族であった。この佐々木氏こそ、美濃(関)への鉄供給の鍵を握っていると考えられる。
 1359年の文献で、当時の佐々木氏が息子に関の南に接する「鋳物屋(いもじや)・倉知(くらち)・小屋名(おやな)」と呼ばれる知を譲ったと書かれている。これらの地は総称して関三郷と呼ばれている。このことから佐々木氏の関三郷への進出は、室町時代初期と考えられる。また、これ以外にも佐々木氏の美濃領地は多くあった。その一部は長良川支流など河川の要所であった。とくに吉田と大路は、牧田川と揖斐川の合流する付近であり、近江と美濃を結ぶ流通路であった。吉田と大路は、直江志津鍛冶の拠点「直江」と鋳物の産地である「金屋」を南北より挟んでいた。また、大矢田は、美濃紙の生産地であった。このことが、近江商人の美濃紙独占につながったと考える。

大彦命は阿倍臣、膳臣、筑紫国造、越国造、伊賀臣、そして狭々城(ササキ)山君の始祖になったという。のちに近江の土着した狭々城氏は、奈良時代には蒲生郡・神前郡の大領となり、平安時代には蒲生郡大領佐々貴山君気比が外従五位下に昇っている。近江のササキ氏は『和名抄』の蒲生郡篠笥郷を本貫とし、『神名帖』にみえる佐々貴神社を氏神として祭っていた。このように、古族ササキ氏は近江国の一角に相当な勢力を築いていたことは疑いのないところである。

佐々木氏が鉄の供給源である山陰地方を持っていたことと日本海流通の一端を掌握していたこといえる。また、々木氏は、鎌倉時代に石見、長門、淡路、備前、土佐、伊予、越後などの守護もしていた。このうち出雲、隠岐と同じく鎌倉時代末期まで掌握していた中に備前がある。その後の室町時代備前の中心地を支配していた黒田氏も佐々木氏の出であったとされている。佐々木氏は鎌倉時代に、すでに刀の生産地をも持っていたのである。

 「沙沙貴神社」は古代の「沙沙貴山君」が崇敬した「延喜式」式内社である。
 近江国の蒲生野にあり、古くから沙沙貴郷あるいは佐々木庄と称されたこの地は、宇多源氏佐々木発祥地であり近江守護である佐々木一族、沙沙貴郷33村を始めとする人々の信仰を集めた。
境内の随所に佐佐木氏(佐佐木源氏)の四ツ目結い(七ツ割四ツ目)の定紋が見られ全国の宇多源氏・佐佐木源氏(京極家、黒田家、三井家、佐佐木家など二百二十余姓)ゆかりの人たちが信仰する神社である。

佐々木秀義は、源為義の養子となり、保元・平治の乱には源義朝に属して活躍した。また、源頼朝に属して活躍したことから、幕府創設後、佐々木氏一族は近江、長門、石見、淡路、阿波、土佐、越後、伊予、備前、出雲、隠岐の守護に任じられ、佐々木氏は日本中に広まっていった。秀義の嫡男は定綱で、その子信綱は所領を四子に分割、長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となった。四男氏信は、大原庄、高島郡田中郷を除く江北の愛智・犬上・坂田・伊香・浅井・高島の六郡を相続し、京都の館が京極高辻にあったことから京極氏と呼ばれるようになった。さらに、一族からは朽木・加治・馬淵・隠岐・山中・塩谷・野木・尼子・黒田・山崎の諸氏が分出し、おおいに繁衍した。いまも、佐々木氏は近江の狭狭貴神社を氏神として敬い固い絆を有しているという

美濃にも鉄は産出される。その代表が、赤坂千手院鍛冶の住家である赤坂(現・大垣市)にある金生山である。古代よりこの山から赤鉄鉱が産出され、遺跡からも古代の刀剣などが発見されている。その埋蔵量は、数万トン(当時)といわれている

関を日本一の刀鍛冶の町にするほどの鉄産地はどこだったのか。当時、巨大な産出量を誇っていたのは、中国や山陰地方である。この地方の鉄は、良質であり産出量も多い。その証拠として十二世紀まで鉄を年貢として収めていた荘園は全て中国地方の荘園のみであった。また、備前が中国地方の鉄を背景に関と並ぶ刀生産地だったことが、巨大な鉄産地だったことがわかる。このことから当時、関の刀鍛冶を支えた鉄産地は、山陰地方であると考える。

『古今集』には次の一種が載っている。
●真金ふく 吉備の中山 帯にせる 細谷川の おとのさやけさ (1082)
「真金ふく」は吉備にかかる枕詞であるが、和歌に詠われるほど、吉備は古くから鉄の産地として知られていた。実際、鉄はは吉備の特産だった。飛鳥時代から奈良時代にかけての都城遺跡から出土した木簡がそのことを証明している。当時、鉄と鍬(くわ)を都に納めていた国は、美作・備前・備中・備後の4カ国だけである。

風化した花崗岩が多い中国山地は、砂鉄が豊富であり、その砂鉄から鉄を採取する技術は「たたら製鉄」という。この技術も吉備地方は全国の先進地であり、出雲とならんで鉄の一大産地だった。我が国の鉄の生産がいつ頃から始まったのかは、まだ明確ではない。

昭和28年(1953)に行われた棚原町の月の輪古墳の発掘調査で、墳頂から鉄滓(てつさい)が発見され、遅くとも5世紀の中頃にはすでにこの地方で製鉄が行われていたことが明らかになった。

備後の小丸遺跡は、弥生時代後期後半(3世紀)の製鉄遺跡ではないかと言われている。だが、まだ定説下していない。弥生時代にすでに鋳鉄技術は列島に伝わっている。鉄鉱石ではなく砂鉄を原料とした製鉄が弥生時代に始まっていてもおかしくない。発掘が進めば、吉備地方の製鉄の開始時期は5世紀以前にさかのぼる可能性はあるだろう。

吉備の製鉄は6世紀後半以降は箱形炉による生産がさかんになり、上記のように「まがね吹く吉備」とよばれるようになる。箱形炉とは長辺側に台状の高まりをもち、短辺側に溝をともなう炉のことで、長辺側に鞴(ふいご)が置かれ、高みから原料・燃料を投入して溝の排滓する方法が用いられた。この場合、製鉄炉の原料には鉄鉱石が用いられ、朝鮮半島から導入された新しい技術だったと考えられている。こうした製鉄炉の遺構が各地で発見されている。有名なものに総社市で発見された千引きかなくろ谷遺跡がある。

盛綱流佐々木氏では、承久の乱で北陸道の副将となった信実の子孫加地氏が、越後国加地荘を本拠として越後守護職を世襲した北条得宗家を支援するとともに、備前守護職を世襲しました。盛綱流佐々木氏は北越地方で大きく発展し越後・出羽地方の一大勢力になるとともに、備前守護職を基盤にして備前国児島を中心に瀬戸内海でも一大勢力にもなったのです。
 備前守護は信実の次男実秀(大友二郎・加地二郎左兵衛尉・左衛門尉)、孫実綱(加地太郎左衛門尉)によって継承されました。実綱の子息長綱(加地源太左衛門尉・筑前守)は、嘉元の乱(1305)で重傷を負ったのでしょう、北条宗方は5月4日に滅亡したが、その直後の13日に没しています。嘉元の乱では、六角氏を除く佐々木一族が北条得宗側として活躍し、多くの犠牲者を出しました。
 そののち時綱(太郎左衛門尉)・時秀(二郎左衛門尉・備前守)が守護を継承。鎌倉末期に備前守護として見える加地二郎左衛門尉(『光明寺残篇』)は、時秀のことでしょう。この時秀の母は、六波羅評定衆狩野周防守為成(甲斐三郎左衛門尉)の娘です(沙々貴神社所蔵佐々木氏系図)。狩野氏は、為佐(肥後守・大宰少弐・評定衆・引付衆)が宮騒動で評定衆を辞したという経歴をもっており、その孫為成は幕府中枢からはずれて六波羅評定衆に列していました。佐々木加地氏は西国の備前守護家として、六波羅評定衆と姻戚関係を結んでいたことが分かります。
 備前国の有力武士児島・和田・飽浦・田井氏らは、この備前守護家佐々木加地氏の庶流です。和田範長や児島高徳(小島備後三郎)、飽浦信胤(佐々木三郎左衛門尉)、田井信高(佐々木田井新左衛門尉)もその一族です。