遊牧国家、突厥

秦は、北京のすぐ北までを支配

秦は黄河から長江流域までの中原を統一して初めて中国と呼べる統一国家を築いたが北は万里の長城、現在の北京のすぐ北側までで、現在の内モンゴルを含むモンゴル高原や満州には支配が及んでいなかった。
この始皇帝がBC210年に死去し、項羽と劉邦の中国を2分しての争いが続いて混乱していた頃、北方の陰山山脈にいた匈奴部族が東方と西方の他遊牧民族を征服し、モンゴル高原を始めて統一した。遊牧騎馬民族の連合体は、東は満州、北はバイカル湖、西はアルタイ山脈まで支配し、戦士30万人を率いたと言われている。

 中国人に蛮族と恐れられていた北方遊牧騎馬民族は昔から、乳製品や家畜を中国の穀物や絹や綿類との交換交易を行っていたのだが、その交換がうまく行かなくなると、略奪の限りを尽くしたため蛮族と恐れられていたものである。中国が統一され、また万里の長城が築かれ始めたため、中国農民を略奪出来なくなった匈奴が他遊牧部族を征服して統一したというのが実態のようである。

87年、北匈奴が、鮮卑というモンゴル高原東端の大興安嶺山脈に住んでいた遊牧騎馬民族に侵略され西に追われ、また約20万人の匈奴が後漢に亡命した。その後、鮮卑は漠北を支配し、残っていた匈奴は鮮卑と自称するようになった。

西に追われた北匈奴は黒海にまで至った。4世紀に黒海北岸を制圧した遊牧騎馬民族フン族というのはこの北匈奴の後裔の一部だと考えられている。このフン族についてはギリシャやローマの歴史書に短足、背は低く小太り、黒くて小さな落ち窪んだ目、平らな鼻と記されていることから明らかにモンゴロイドの特徴を備えていた。

220年、後漢王朝が滅亡。魏、呉、蜀の3国に分裂し、「三国志」の舞台となる。三国とも人口が極端に減っていて長期戦を続ける力がなかったため、この分裂状況は60年間も続いた。

 人手不足を補うために三国はそれぞれの周辺で異民族狩りを熱心に行い、北方の魏王、曹操は漠南西部の南匈奴を支配下にして山西省の高原に移住させて私兵とした。また漠南東部に住んでいた鮮卑と同族の鳥丸という遊牧騎馬民族を征服し直属の騎兵隊とした。

これら遊牧騎馬民族傭兵のおかげで魏は蜀を併合。

 304年、この内戦の間に南匈奴の劉淵が独立を宣言し漢 (前趙) を建てた。これを五胡十六国時代という。五胡とは匈奴、鮮卑、羯、氐、羌の五種類の遊牧民のことで、中国内に移住させられていた5遊牧民族が16の王国を建てたものである。中国中原は全く遊牧民の天下となり、生き残った漢人は現在の武漢と、南京を中心とする長江流域に集まり亡命政権、南朝を作った。

439年、鮮卑の拓跋氏族が建てた北魏が華北を統一し、135年続いた五胡十六国時代が終わった。

 494年、華北 (中国北部) を統一した太武帝の曾孫、孝文帝が首都を平城 (大同) から洛陽に移した。孝文帝は遷都と同時に遊牧民の服装を禁じ、朝廷では遊牧民の部族後を話すことも禁じて漢人の服装と漢語の使用を強制した。

 後世になって中国人は、この例を出して「野蛮な遊牧民が中国に入ると高度な中国文明に圧倒されて、中国人に同化したがる良い例」と喧伝するが、当時華北には殆ど中国人、すなわち漢人が残っておらず荒れていた。

543年、北魏は東魏と西魏に分裂。
西魏で実権を握った宇文泰は鮮卑人と、鮮卑に下った漢人の軍人を再編成し漢人には鮮卑姓を与えた。漢姓と鮮卑姓は簡潔に書くときは漢名、正式は鮮卑名を使った。鮮卑人と漢人の連合体が陜西省と甘肅省にでき、この連合体が宇文泰の息子が皇帝となった北周、これを乗っ取った隋、その後の唐の政権の基盤となった。

589年、北朝の隋は南朝の陳を滅ぼして天下を統一。この新統一国家、隋と唐は古い秦、漢の中国とは異なり主流は北アジアから入ってきて中国人となった遊牧民であった。

突厥 (トルコ)
 鮮卑が漠南と華北で活躍している間に鮮卑から分離した柔然という部族が漠北の新たな部族連合の中心となっていた。5世紀には大興安嶺から天山山脈までを支配していたが期間は短かった。
 552年、西方から進入してきた突厥という遊牧騎馬民族が柔然に代わって漠北の支配者となった。

オスマン帝国時代にはトルコ人は遊牧民という意味で、地方に住む田舎者という蔑称であったという。

 宮廷の支配層は自分達をオスマン人と言い、自分達の言葉をオスマン語と呼んでいた。しかし建国したてのトルコ共和国には団結が必要で、ケマルは自分達をトルコ民族であると主張し、建国は突厥建国の552年であると決めた。つまり、突厥がトルコ共和国の祖で、モンゴル高原と中央アジアからアナトリアに移住したと主張した。
現在もトルコ人は突厥が先祖で、突厥の墳墓遺跡が多数残っているモンゴル帝国の首都ハラホリン(カラコルム)近郊が民族発祥の地と思い定めている。

546年、柔然から独立し西魏と同盟、柔然最後の王を自殺させ突厥帝国を建国。初代王イルリグ・カガンの息子ムカンは一代で東は満州の遼河から北はバイカル湖、西はカスピ海に至るまでを征服し大帝国となった。

 しかし支配領域が急速に広がったことと、兄弟が東西を分割統治していたこともあって、583年に東西に分裂した。西突厥に攻撃された東突厥は同盟国、隋を頼り南に逃がれた。

 北周に取って代わっていた隋の文帝はこれを受け入れて東突厥との同盟を続けた。

617年、隋の皇帝が南方巡幸の間に太原駐屯軍の司令官、李淵が挙兵し、東突厥に使者を送りその臣下となることを条件に騎兵の援助を求めた。隋を滅ぼして唐を建国して高祖となった後も、李淵は東突厥に対し臣と称して貢物を贈り続けざるをえなかった。東突厥は万里の長城の内外で遊牧していた。

 630年、唐の第二代太宗は即位直後に10万余の大軍で東突厥を攻めてカガン (王) を捕らえて連れ帰った。これが突厥第一帝国の滅亡である。

 北アジアの遊牧騎馬民族は唐の太宗を自分たちのカガンに選んだ。元々、唐の皇帝は鮮卑の出身であるから、彼ら遊牧民にとっては自分達と同じ遊牧騎馬民族のカガンであった。

682年、東突厥は再び団結して唐から独立し、突厥第二帝国と呼ばれる。

この時代に始めて遊牧騎馬民族独自の文字が誕生する。古代トルコ語をルーン文字と呼ばれるアルファベットで書き表したもので、その石の碑文がオルホン河畔で多数見つかっている。その碑文中、唐の皇帝をタガブチ・カガンと呼んでいるが、タガブチは北魏の皇帝の姓、「拓跋(たくばつ)」をなまって発音したしたもので、つまり遊牧騎馬民にとって唐は漢人の国ではなく鮮卑の国であった。

突厥の誕生

6世紀になると鉄勒が、東はモンゴル高原北部から西はカスピ海北岸あたりにまで広がる。
 鉄勒の一族である阿史那氏は、柔然に従属し、金山(アルタイ山脈)のあたりで鉄鍛冶を特技としていた。
 この阿史那氏から土門が出て、鉄勒と柔然を共に撃破。

552年には伊利(イリ)可汗と号して独立。

なお現在のトルコ共和国も552年を民族としての建国の年としている(ターキー=テュルク)

高句麗と同盟

突厥の始祖神話によると、突厥はもともと匈奴の別種とされるが、隣国に滅ぼされ、10歳ほどの子供1人が生き残り、1匹のメス狼に育てられる。

 少年は成長するとそのメス狼と交わり、10人の男の子が生まれたという、いわゆる狼祖説話になっている。

 突厥は木杆(ムカン)可汗のときに高句麗と同盟し、のちに中国を統一するに対抗。

 高句麗は鮮卑と同じツングース系の夫余族が建てた国だが、鮮卑の拓跋部である隋の皇帝とは、言わば同族嫌悪の関係にあったと思われる。

 572年、木杆が死去すると、弟の佗鉢(たはつ)可汗が即位。
 581年、沙鉢略(さはつりゃく)可汗が即位。これ以後の可汗は隋に臣属し、隋から冊立される。
 583年、木杆の子・阿波(アバ)が沙鉢略と対立、イステミの娘婿である達頭(タルドウ)のもとに身を寄せる。阿波は母親の身分が低いという理由で父のあとを継げず、一家を皆殺しにされ、583年、西突厥の達頭のもとに身を寄せた。

 中国史料はこの年を突厥の東西分裂としている。

599年東突厥で都藍可汗と突利可汗が敵対関係になったので、達頭可汗は都藍可汗と手を組んで突利可汗を攻撃し、その兄弟子姪を殺した。都藍可汗が自らの麾下に殺されると、達頭可汗は歩迦可汗と号して、啓民可汗となった突利可汗と対立した。啓民可汗と組んでいた隋は、太平公の史万歳や晋王の楊広を派遣してこれを撃たせ、歩迦可汗を敗走させた。歩迦可汗は弟の子の俟利伐を遣わして、磧地に沿って侵攻させ、啓民可汗を攻撃したが、隋軍によって敗退した。

601年、歩迦可汗はふたたび大挙するが、隋軍により敗退し、吐谷渾に奔走した。

 突厥帝国の大可汗は、地位相続の明確な規定がなかったためか、583年にディザブロスの子が独立して可汗を称し、西突厥をたて、ここに帝国は東西に分裂した。東突厥はモンゴル高原、西突厥はトルキスタンから西を支配した。そのころ中国では(581年建国)が中国統一(589年)に成功、さらに内紛の続く東突厥を臣従させた。しかし、隋末の反乱が起こると東突厥は李淵を援助し、唐の建国(618年)を実現させた。

 東西分裂後、東西の両突厥はそれぞれしばらく国力を維持したが、唐の支配を確立した太宗(李世民)の630年、唐は突厥と同じトルコ系民族である鉄勒(トルコ系民族の総称でもある)と結んで東突厥を攻撃して服属させた。このとき鉄勒諸部族は太宗に「天可汗」の称号を贈ったが、これは世界皇帝を意味しており、唐の支配権が遊牧世界まで及んだこととなる。唐はこの地域に対して羈縻政策で臨んだ。また西突厥の支配するトルキスタン地方にも唐の勢力が及んで657年に西突厥は滅亡した。

司馬達等と達頭汗

聖徳太子のもう一人有力な家臣として司馬達等がいます。
司馬達等(しばだっと)は、6世紀頃に朝鮮半島から渡来した人物で、一説には梁の人とも言われます。
鞍部村主(くらつくりのすぐり)司馬達等とも記され、その子には鞍作多須奈(くらつくりたすな)、その孫に飛鳥寺の丈六仏(飛鳥大仏)や法隆寺金堂の釈迦三尊像の作者として有名な仏師・鞍作止利(くらつくりとり)がいます。
当時の中国王朝は隋で、隋は581年の建国以来、高句麗と東突厥の連合軍による攻撃に苦しめられ続けていて、とりわけ東突厥の木杆の子・阿波(アバ)の存在に手を焼いていました。
隋は、西突厥可汗・達頭に突厥のシンボルである狼の旗を贈り、西突厥を味方に付けようとしました。
ところが、肝腎の東突厥の阿波は、母系社会の騎馬民族では本妻の子以外はなかなかチャンスに恵まれず、母親の身分が低いという理由で父のあとを継げず、一家を皆殺しにされ、583年、西突厥の達頭のもとに身を寄せるという事件が起きた。
あわてたのは隋である。
阿波と達頭が手を結べば、西突厥はあまりにも強くなりすぎてしまう。
隋は仕方なく東突厥の阿波と西突厥の達頭との分断作戦を採り、遂に阿波の捕獲に成功したが、なぜか阿波は585年に無傷で釈放され、阿波と達頭は爾来中国史上から姿を消してしまいます。
司馬達等はちょうどその頃に日本にやってきます。
一方、阿波が突然すがたを消した585年の日本では、聖徳太子の父・用命天皇が即位した年でもあり、用命天皇の妹である炊屋姫(かしきやひめ‐後の推古天皇)を犯そうとした穴穂部皇子(あなほべのみこ)を物部守屋が天皇に立てようとした事件が起き、また、物部守屋が蘇我馬子の寺を焼いた年でもあります。
日本書紀では、物部守屋は唐突に現われたと述べられるだけで、物部尾輿の子であるとは述べられていません。

須弥山も、一般に仏教の概念とされ、いま上野に来ている阿修羅もその近くに住んでいたという。
しかし、須弥山をサンスクリットでは「スメール」と発音し、シュメールとの類似が指摘されている。
シュメール神話に登場する最高神が「アンシャル」(=アシュラ?)という。

推古天皇の20年(612年)、天皇が路子工(みちのこのたくみ)という渡来人に、御所の庭に須弥山と呉橋を築かせたという記事がある。

なお、突厥は630年に唐に大敗して滅び、682年に再興されるが、744年に再び滅亡する。   

鉄勒と金山(アルタイ)

当時の中国人は、突厥以外のトルコ人を総称し「鉄勒(てつろく)」と呼んでいた。同じトルコ系であっても、王家と被支配諸部族を区別していた。「鉄勒」と呼ばれたトルコ系部族の中には、アルタイ山脈を拠点にした鉄鍛冶を特技とする部族がいた「鉄」という文字は鉄勒に由来している。

アルタイ山脈は中国・カザフスタン・ロシア・モンゴルの国境にまたがる約 2000km にわたる山脈である。「アルタイ」の語源はトルコ・モンゴル語の「金(アルトゥン)」に由来している。中国では今でもアルタイを「金山」と呼んでいる。

アルタイ山脈に標高 7435mの「托木爾(トムール)峰」が含まれる。「トムール」とはウイグル語で「鉄山」の意味である。「金山」と呼ばれるアルタイ山脈は、金、鉄をはじめとする鉱物資源が豊富なことで知られている。

突厥の首長であった「阿史那(あしな)氏」は、首長であると同時に呪術師でもあった。当時、金銀より貴重であった鉄の兜を用意させ、それをかぶり巫術を行った。突厥はモンゴル系「柔然(じゅうぜん)」の支配下にあり、トルコ系「突厥」の役割は鉄工であった。

柔然に仕える鉄工の突厥が反旗を翻し、柔然に代わって6世紀半ばから約 200 年間、途中、東西の分裂や唐による被支配時代を経験し、一大遊牧国家を形成し維持できたのは、「鉄の技術力」によるものである。『鉄の力』を握るものが世界を制した。鉄を自由に扱える技術を持つということは、現在の核兵器を持つことと同義である。「製鉄技術」は、世界を制することができる秘伝中の秘伝であった。

氏の故郷、弓月国

佐伯好郎氏(早稲田大学)は、秦氏の故郷・弓月国(クンユエ)は中央アジア天山山脈

の北に位置しカザフスタンのバルハシ湖の南、イリ川付近にあったと報告している。

昔、この地はクルジア(Kuldja・弓月城)と呼ばれていた。現在でもシンチャンウイグル

自治区の中に、クルジアと呼ばれる町がある。