伊勢神宮、外宮、豊受姫、伊雑宮

豊受姫とは

調神社
「天照大神 配 豐宇氣姫命、素盞嗚尊」
という三種類の記述があった。

延喜式神名帳には「天照大神 配 豐宇氣姫命、素盞嗚尊」と
主祭神、配神という各神の関係が明かされていたことに留意しておく。

豊受姫は、素戔嗚の子供。大歳神(別称は饒速日)も素戔嗚の子供。

『古事記』
伊邪那岐、伊邪那美の国生み神生みの最後にその名が出ている。

「この大山津見神(おおやまつみのかみ)、野椎神(ぬつちのかみ)の二柱の神、
山野によりて持ち別けて、生める神の名は、天之狭土神(あめのさづちのかみ)、
次に國之狭土神(くにのさづちのかみ)、次に天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)、
次に國之狭霧神(くにのさぎりのかみ)、次に天之闇戸神(あめのくらどのかみ)、
次に國之闇戸神(くにのくらどのかみ)、次に大戸惑子神(おほとまとひこのかみ).
次に大戸惑女神(おほとまとひめのかみ)、
天之狭士神より大戸惑女神まで併せて八神

次に生める神の名は、鳥之石楠舟神(とりのいはくすぶねのかみ)、
亦の名は天鳥舟(あめ
のとりふね)と謂ふ。
次に大宜都比賣神(おおげつひめのかみ)を生みき。
次に火之夜藝速男神(ひのやぎはやを)を生みき。
亦の名は火之 火玄 毘古神(ひのかがびこ)と謂ひ、
亦の名は火之迦具土(ひのかぐつち)神と謂ふ。
この子を生みしによりて.みほと焚(や)かえて病み臥(こや)せり。
たぐりに生(な)れる神の名は、金山毘古神(かやまびこのかみ)、
次に金山毘賣神(かやまびめのかみ)。
次に屎(くそ)に成れる神の名は.波邇夜須毘古神(はにやすひこのかみ)、
次に波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)。
次に尿(ゆまり)に成れる神の名は、彌都波能賣神(みつはのめのかみ)、
次に和久産巣日神(わくむすびのかみ)。
この神の子は豊宇気毘賣神(とようけびめのかみ)と謂う。

故(かれ)、伊邪那美神(いざなみのかみ)は、火の神を生みしによりて、
遂に神避(かむさ)りましき。天鳥舟より豊宇氣毘賣神まで、併せて八神」

伊邪那岐、伊邪那美は、力を合わせての國生みの事業から
神生みに進み合計三十五神生んで、伊邪那美の方は火の神を生んだ火傷(やけど)がもとで死ぬのだが、豊宇気毘賣神はその一大事業の最後に生まれた末っ子になっている。

『日本書紀』の国生み、神生みのあたりには豊宇気毘賣神の名は見えない。

広辞苑をみると、豊宇気毘売は伊奘諾尊の孫、和久産巣日(わくむすび)神の子で伊勢神宮の外宮(げくう)、豊受大神宮の祭神で五穀を司ると記されている。

外宮、豊受大神宮とは三重県伊勢市山田原にあり、内宮の皇大神宮とともに
皇室の宗廟、伊勢神宮と総称される。

「丹後国風土記」逸文、
丹後国は、往昔、天火明神等の降臨地である。昔、豊受大神が伊去奈子嶽に天降るとき、天道日女命が大神に五穀や桑蚕の種を求めた。豊受大神は、この嶽に真奈井を堀って水を注ぎ、田畑を作り種を植えた。豊受大神は、「あなにえし、田庭たには」といって高天原に登った。ゆえに田庭という。

天香語山の降臨伝承は豊受大神をめぐる伝承ということができる。それに対して、彦火明命の降臨伝承は出雲神族をめぐる伝承といえる。伊去奈子嶽の天降りは、大己貴神が多岐津姫命またの名神屋多底姫を娶り生んだ天道日女命、またの名屋乎止女命、またの名高光日女命を娶って天香語山を生んだことが記された後に行われており、凡海嶋への天降りは、火明命が佐手依姫命またの名市杵嶋姫命またの名息津嶋姫命またの名日子郎女神を娶って穂屋姫命を生み、天香語山が穂屋姫命を娶って天村雲命を生んだ後に行われている。天道日女命は大己貴の娘であり、佐手依姫命すなわち市杵嶋姫命であるが、吉田大洋『竜神よ我に来たれ!』では市杵嶋姫は宗像三女神のなかでも一人出雲神族系の竜神とされている。この彦火明命の天降り伝承は、彦火明命と出雲神族の関係を示すとともに、伊去奈子嶽が天道日女命、凡海の息津嶋が佐手依姫命と結びつく場所だったということを意味してるのではないだろうか。「豊受大神當國の伊去奈子嶽に降り坐しし時天道日女命等大神に五穀及桑蚕等の種を請ふ」と當國風土記に在り、というのも豊受大神が天降りした時にはすでに天道日女命が伊去奈子嶽にいたということであろう。天道日女命が伊去奈子嶽の最も古い神ということであり、伊去奈子嶽も凡海嶋ももともとは出雲神族と関係する場所だったわけである。

『止由気(とゆけ)宮儀式帳』

雄略朝、内宮の皇祖神が倭姫命の夢に現れて、食物を得ることができないと訴えたので、飢えないように、丹波国の与謝郡の比治の真奈井から伊勢の地に食物を司る神、豊受大神を勧請したものという。

近江雅和著、彩流社『記紀解体』によれば
「豊受大神の亦の名は天御中主神・国常立尊で、その顕現の神を宇迦御魂(倉稲魂=稲荷大明神)と申し、天御中主神は宇宙根源の大元霊神である」とある。

豊宇気毘売は宇迦御魂(倉稲魂すなわち稲荷大明神)となる。
『古事記』の神生みの場面で見た豊宇気毘賣神の名は『日本書紀』には倉稲魂命という名前で掲載されていたのである。

それは一般にはお稲荷さんと呼ばれる神様である。倉稲魂神(うかのみたまの神)という五穀の神様で、別名、豊宇気姫命(とようけびめのみこと)豊宇気毘売神とも書く。または御食津神(みけつかみ)とも呼ばれてこのときは食物の神様となる。

狐が神使い、眷属とされるわけは、狐のことを「けつね」といい、
「食」を「け」と読んで食べ物の事を指すので、三狐神(みけつかみ)と語呂が同じであることと水田の稲の敵、蟹類や貝類を食べてくれるので、水田の守護者とされ、食物神、倉稲魂の使いとされた。

倉稲魂を祭神とする神社
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廣瀬坐和加宇加賣神社(名神大。月次新甞。)
廣瀬神社「若宇加能賣神 配 櫛玉命、穗雷命」主神若宇加能売命は、別名を、豊宇気比売大神(伊勢外宮)宇加之御魂神(稲荷神社広瀬大忌神とも呼ばれ、総て同神である。龍田風神(龍田大社)と深いご縁がある。
奈良県北葛城郡河合町川合

広瀬杜 河合村にある。
祭神一座 和賀宇加売命
摂社   大宮殿 級長津彦命〔小折社一座・火神社一座〕
天武天皇四年(六七五)、大山中曾禰連韓犬を遣わし大忌神を広瀬川の曲に祀らせた。この神は伊弉諾・伊弉冊二神が風神(竜田)を生み、飢えんとした時生れた神で、倉稲魂命というのがこれである(水神であり、竜田と同体)。神位、祭礼も竜田と同じ。
(『国花記』による)
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伊勢神宮の内宮と外宮には、それぞれ別宮として風の神を祀る社がある。
内宮の方は「風日祈(かざひのみ)宮、外宮のほうは「風の宮」、
祭神はどちらも「級長津彦(しなつひこ)命・級長戸辺(しなとべ)命」である。

天御中主神や国常立尊というのは宇宙の創成神のことだ。
天空の中心にある北極星の神か。星神か?

豊受大神を祀る伊勢外宮(げくう)の神主、度会(わたらい)氏
伊勢神道、外宮神道、度会神道、社家神道

内宮外宮、両宮の由緒を述べた神道五部書、『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』『豊受皇太神御鎮座本紀』『造伊勢二所太神宮宝基本記』『倭姫命世記』、を中心とし、儒仏二教を摂取して、鎌倉時代末に発展した。

その五部書は古人に仮託して外宮の地位を内宮の上におく意図の下に偽作したとされ、外宮の祭神、豊受大神、豊宇気毘売を宇宙の創成神、国常立尊、天御中主尊とする考えは付会の説と決めつけられ、吉見幸和(一六七三~一七六一)の『五部書説弁』などによって批判された。
伊勢神道は、基盤にした五部書に偽書という烙印を捺された

外宮の祭神、止由気大神を天御中主命、国常立尊、大元尊神とする思想は、
室町時代には吉田兼倶(かねとも)に受け継がれて、吉田神道(唯一神道)と名付けられた。

崇神天皇と倭姫
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調(つき)神社。地元では「つきのみやさま」。
浦和駅の南西約五百米、旧中仙道東側に鎮座。
旧県社で御祭神は天照皇大神、豊宇気姫命、素戔鳴尊の三柱を祀る。
『調宮縁起』によれば、第十代崇神天皇の勅命により創建。(約1,800年前)
調とは『租・庸・調』の調で、伊勢神宮へ納める貢(調)物の初穂を納めた
倉庫群の中に鎮座していたと伝わる。(鳥居無きはその為と伝わる)
(さきたま文庫)
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調神社「天照大神 配 豐宇氣姫命、素盞嗚尊」
開化天皇乙酉三月(一、七〇〇年前)所祭奉幣の社として創健。
埼玉県浦和市岸町3丁目
(延喜式神名帳)。

境内の由緒
開化9天皇乙酉3月創建と伝わる、崇神10の勅命により神宮斎主・倭姫命が参向。この清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御蔵を建てられ武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定められる。
倭姫命の御伝により調物斉清のため搬入する妨げとなる為、鳥居・門を取払われたる事が起因となり現今に到る。

経緯
まず、第九代開化天皇が乙酉三月にこの神社を創建した。そして、次の天皇、第十代崇神が勅命を発して、伊勢神宮の斎主・倭姫命を差し向けて、伊勢神宮への武総野(関東地域)の初穂米、調の集納倉庫、運搬所にした。

崇神天皇一族は大和を侵略征服して五十の瓊(たま)に殖(ふ)えた者なのである。息子の十一代垂仁天皇の名前は活目(いくめ)入彦でこれもまた入り彦である。娘たちは入姫と名付けられた。それでかれらの王朝はイリ(渡来系)王朝と呼ばれる。
『書紀』の記述によれば、崇神五年に国内に疫病が蔓延して人民の大半が亡くなった。その上、六年には百姓が逃げたり背いたりしてまったく治まらなくなった。それでそれから崇神は神鎮めと神頼みのために百十六社という途方もない数の神社を創建することになる。それが神を崇める天皇、崇神天皇という名の由来である。

それまで宮廷では、天照大神と倭大国魂神を一緒に祭っていたがその二柱の神の折り合いが悪いのでうまくゆかないと考えて、豊鍬入(とよすきいり)姫命に命じて、まず天照大神を現在の奈良県桜井市大神神社境内の檜原あたりの笠縫邑(かさぬいむら)に奉らせた。このとき、磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を立て、緋色のひもろぎ、古代の赤米を供えた。

しかし、もう一方の神、倭大国魂の方はそう簡単にはゆかなかった。
渟名城入(ぬなきいり)姫命に託して祭らせたが髪が抜け落ちて体が痩せさらばえてとても祭ることができない状態になった。豊鍬入(とよすきいり)姫命も渟名城入(ぬなきいり)姫命も名前に入り姫を使っている。
そこで崇神七年の二月に天皇が神浅茅原(かむあさじはら)に行幸して神意を問うと神明倭迹迹日百襲姫(かみやまとととびももそひめ)に大物主が憑いた。
自分は倭の大物主で敬して祭れば平和になると約束した。
ところがその通りにしても一向に改善の兆しがなかった。
それで天皇は斎戒沐浴して祈った。
するとその夜の夢に大物主が現れて「わが子、太田田根子(おおたたねこ)に祭らせよ、そうすれば治まって海外の国も伏する」と申された。

そして八月に倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかむあさじはらまくはしひめ)と穂積臣の遠祖大水口宿禰(とほおやおおみくちのすくね)と伊勢麻績君(いせのおみのきみ)の三人が同じ夢を見た。

「太田田根子に大物主を祭らせ、市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大国魂神を祭らせれば天下太平となる」とのことであった。
それで天皇は喜んで確信して太田田根子を茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)に探し出した。天皇自ら諸侯を率いて神浅茅原に赴いて「おまえはだれの子か」と太田田根子に問うた。

「父は大物主大神、母は活玉依媛(いくたまよりひめ)、陶津耳(すえつみみ)の女(むすめ)、あるいは奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ)の女なり」
と返答した。

そこで、太田田根子に御諸山で大三輪の大神(大物主)を祭らせ、長尾市(ながおち)には現在の奈良県天理市新泉町星山の大和神社(おおやまとじんじゃ)
祭神「日本大國魂大神、八千戈大神、御年大神」に倭大国魂神を祭らせた。

しかし、一方の天照大神の方は笠縫邑にはじまって最終的に伊勢に落ちつくまでに二十カ所も転々とすることになった。笠縫邑で鎮まっていたわけではなかった。

すなわち、『日本書紀』によると、垂仁天皇二十五年三月十日、垂仁天皇の皇女、倭姫命は、天照大神の神威が強すぎて、大和の国内で祀ることができなくなったため、豊鋤入姫命により大和の笠縫邑に祀られていた御神鏡(八咫鏡)を奉じ、祭祀にふさわしい場所を探す巡幸の旅に出た。

倭姫はまず宇陀の篠幡に行き、引き返して近江に入り、美濃を巡つて伊勢国に至つた。そこで五十鈴川の川上に斎宮(いつきのみや)を建てたのが磯宮といって伊勢内宮である。 『日本書紀』

異説、度会説
外宮禰宜職、度会(わたらい)氏の「神道五部書」の一つである『倭姫命世記』では、初めの六カ所、倭・笠縫巴、丹波・吉佐官、倭・伊豆加志本宮、紀伊・奈久佐浜宮、古備・各方浜宮、倭・弥和乃御室嶺上宮までは、豊鋤入姫命が奉斎していたのだが御室嶺上宮に二年率斎したときに、倭姫と交代し、以後、垂仁二十六年十月に伊勢の五十鈴川上に遷座するまで、倭姫が「御杖代」として担当したことになっている。
崇神が天照大神を大和の笠縫邑に遷してからなんと八十六年間、二十ヵ所にわたって転々とし、最終的には猿田彦の導きにより伊勢に落ち着いたという。

異説、皇大神宮儀式帳
また、『皇大神宮儀式帳』には、天照大神は倭の三輪山山頂にある「高官(たかのみや)」、”日向御子神”を祀る小さな祠、「美和之御諸の宮」に遷されたのち、宇太・伊賀・淡悔・美濃を経て伊勢に入ったとされている。
こちらの説では豊鋤入姫命が三輪の笠縫邑から移動を始めて六ヶ所目に三輪山山頂の高宮で二年間奉祭していてそれから倭姫に鏡とともに祭司を移管したというのだ。
天照大神という神は三輪にゆかりの神である。

官の方の歴史書『日本書紀』には、大和の外にというが、異説では大和で祀る場所を探している。
大和の外に出したかったのであろう。アマテラスの高天原とスサノオの海原は一応わかるがツキヨミの統治すべき「夜之食國」とは。

岩波文庫の古事記には「夜おさめる国、即ち夜の国。食すは治める意」という

伊雑宮
内宮と外宮が出来る前、土地の神伊佐波登美(いざわとみ)命造った

神道五部書の一つ、『倭姫命世記』に、「倭姫命が伊勢で、天照大神の朝夕の御贄(みにえ)(供物)所を求め歩いていたとき、土地の神、伊佐波登美(いざわとみ)命が倭姫一行を迎えて「嶋(志摩)国伊雑の方上」に神宮を造り奉った」と記されている。

祭神はというと、伊勢国を開いた神、天日別命の子、玉柱屋姫命として、
中世、近世の頃には、地主神、伊射波登美(いざわとみ)命と玉柱屋姫命を祀る宮としてきた。それが『延喜式』や『皇太神宮儀式帳』では「天照皇大神を遥拝する宮」とされて、明治維新後には、祭神は、「天照坐皇大御神御魂」と定められた。現代に近づくにつれて、だんだん進級してきたたような気配である。

伊勢周辺では源平から戦国時代にかけてたびたび戦乱があり、伊雑宮は志摩の九鬼水軍に社領地を奪われた。衰亡を畏れた伊雑宮の神人たちは所領回復のために明暦四年(一六五八)、再建願いを出した。

その上申状の主旨は、伊雑宮こそが日本最初の宮で、のちに内宮ができ、次いで外宮が鎮座したので、内宮、外宮は伊雑宮の分家であるという「伊勢三宮説」であった。

日月星神の説

『伊雑宮旧記』『五十宮伝来秘記見聞集』などによれば、
伊勢三宮それぞれが日月星を祭る宮で、
伊雑宮こそが礒宮(いそのみや)で天照大神を祀る日神の宮、
外宮は月讀(ツキヨミ)を祀る月神の宮、
そして肝心の内宮はというと瓊々杵(ニニギ)を祀る星神の宮

ということである。

十別宮のひとつである伊雑宮のことであったが、伊勢内宮としても、皇祖、天照大神鎮座社の地位を奪われかねない事態の発生を 看過してはいられなくなった。元号は変わっても同じ年の万治元年(一六五八)、内宮はその上申書に添えられた証拠の神書を偽作と訴えて反撃に出た。 そして結局、朝廷によって、伊雑宮は内宮の別宮で、祭神は伊射波登美命と裁定された。その結果として、寛文二年(一六六二)、幕府は伊雑宮を内宮別宮の一つとして再建することにした。伊雑宮の神人たちにとってそれは承伏できないことであった。
四代将軍、家綱に直訴したところ、寛文三年(一六六三)、神官四十七人の神人が偽書提出によって、伊勢・志摩からの追放処分の憂き目にあった。

麻賀多神社由緒
その昔日本武尊東征の折 この地方の五穀の実りが悪いのを知 り 里人を集め大木の虚に鏡を掛け その根本に七つの玉を埋めて 伊勢神宮に祈願いたしましたところ その後は豊年がつゞきまし た 又三世紀の頃 印旛国造伊都許利命は この御鏡を霊代とし て祀られる 稚日霊命の霊示をうけ 玉を堀り御霊代として  稚産霊命(伊勢外宮の親神)を祀り 麻賀真の大神と崇め 八代 神津の両郷を神領として奉斎しました その後推古天皇十六年( 608年)新に宮居をこの地に建て 麻賀多の大宮となづけました。

稚産霊命は豊受大神の親神という。

御祭神 和久産巣日神(稚産霊命)
(伊勢外宮豊受大神の親神)
(伊勢内宮天照大神 妹神)
(香取神宮経津主大神 弟神)
神代のその昔、日本の国が豊葦原の瑞穂の国と稱された時代が ありました。当時の神でいわば 我が国の初めのころの神とも云へましょう天照大神の妹神になります 産業を司どる神として生まれました。此の地方 は二千年の昔から麻の産地で麻縣とも云われた時代がありました。当時 麻は織物類の原料として貴重なものでありました。朝廷の身に着ける衣は この土地から献上されていたとのことです。其のため神様の御紋は特別に 麻の葉になったと云うことであります。昭和の今日でも初着には麻の葉 の「がら」又婚礼・棟上・地鎮祭等お祝ひにはかならず麻を用いるのは此の 神様の象徴で二千年の昔から現在まで、づっと続いて居ります今から 一千七百年余前(応神天皇)のころ伊都許利命が印旛の国造(地方長官)に任命 され、この地方の開発につくされました時に夢の中で洞木の下の地中に 玉(勾玉)あり掘り出して和久産巣日の神を祭れとのお告があり勾玉を 掘り出して御鏡と共に霊代として併せて祭り麻賀多の大神として崇め 奉りましたこのお社は国幣社で勅使の往来があり印旛湖畔に建つ 大鳥居(一の鳥居)は約一仟二百年前(桓武天皇)のころ勅使大伴家持の寄進に よるものとされて居ります。この地方には古くから人が住み周囲が海であった ことから昔この地方を神津(神のミナト)といわれておりました。現在の 本殿(大宮殿)は元禄九年の再建にて神楽と共に市文化財になって居ります。

別称:和久産巣日神
火の神迦具土が埴山姫と結婚して生まれた神で、娘が豊受大神。神格:五穀の神、養蚕の神神社:愛宕神社、竹駒神社、堂山王子神社、王子稲荷神社、稲生(イナリ)神社
稚産霊神は、穀物の成育と深く関わる神さまである。名前の「ムスビ」とは、神産巣日神や高御産巣日神などの名前にも見られるように、神による万物生成の力、子孫繁栄を約束する生殖力、植物を生育させる力、作物を実らせる力といった神秘的な働きを意味する。だから、穀物に関係する稚産霊神という神名が表しているのは、若々しい五穀の種が夏に立派に成育し、秋になって豊かに実るという姿である。
神話には、神の体から五穀や蚕、牛馬などが発生する(保食神や大宜都比売神など)という話があるが、稚産霊神の自らの体から五穀を発生させるタイプの神である。「日本書紀」の一書によれば、伊邪那美命に致命傷の大火傷を負わせて生まれた火の神迦具土神が、その後、土の神埴山姫神を妻として生まれたのが稚産霊神であるという。禊祓の項では迦具土神は生まれてすぐに命を落とすが、これは古事記と日本書紀の記述の違いによるものである。両書は編者が正反対の立場をとっているためにこのような食い違いが少なくない。ゆえにどちらが正しいなどと判断はできぬし、むしろどちらも正しいものとしてその場その場で読み手が立場を変えていった方がより楽しめると思う。話がそれたが、さらに、その稚産霊神の頭頂に蚕と桑、臍の中に五穀が発生したとある。またもや余談になるが、この記述を読んで、臍の胡麻という言葉はこのころからあったのではないかと推測してみた。
稚産霊神が祭神として祀られる有名な神社に京都の愛宕神社がある。この神社の若宮には迦具土神が祀られていて、そのため古くから火防せの神として庶民の信仰を集めている。しかし、そもそもこの愛宕山に祀られた神は、丹波国(京都府)を守護する地主神(愛宕山の神)であったといわれる。地主神というのは、土地の開拓の神であり、その原初的な姿は山の神である。そうしたことからいえば、愛宕神社の本宮に祀られている稚産霊神は山の神から発展した農耕神ということになる。

倉稲魂神うかのみたま、
-古事記 五穀起源の次、須佐之男命の「大蛇退治」のところに登場する。
須佐之男命は出雲国へ降りて、櫛名田比賈を隠所に起こして生まれる子、 八島士奴美神、 また大山津見神の娘、名は「神大市比賈」を娶って生める子は大年神、次に宇迦之御魂神である。
大国主神はまだ誕生せず。

日本書紀 神代上 第五段 ある書(第六)
日本書紀では「倉稲魂尊」
伊奘諾尊イザナキと伊奘冉尊はまず風の神を生む。ついで餓えたときに生んだ子、倉稲魂神うかのみたまのみこと。これから海神、山神、土神、万物を生む。 伊奘冉尊 火神「か邁突智かぐつち」を産むとき、焼かれて亡くなる。

伊奘諾尊は十拳剣でその子、火神「か邁突智かぐつちを三段に切る。剣の刃から垂れた智は天安河辺にある五百箇磐石となる。これが経津主神の祖。剣のつみはから垂れた血は 「甕速日神みかのはやひのかみ」 ついで「ひのはやひのかみ」 この「甕速日神みかのはやひのかみ」は、武甕槌神たけみかづちのかみの祖

スサノオの子供たち

第一子  八島野尊(やすまぬのみこと)→ 古事記では、ヤシマツヌミ。
第二子  五十猛(いたけるのみこと)
第三子  大屋津姫 (おおやつひめ)
第四子  抓津姫 (つまつひめ)
第五子  大歳(おおどし) 別名:ニギハヤヒ尊
第六子  宇迦御魂(うがのみたま) 別名:倉稲魂尊(くらいねのみこと)
第七子  大屋彦尊(おおやひこのみこと)
第八子  須世理姫(すせりひめ)

延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、なかでも、記紀編纂以前の創建で古い神社の祭神を調べてみると、

●他田坐天照御魂神社(奈良県桜井市)祭神・天照国照彦火明命。
●鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡)祭神・天照国照日子火明命。
●木島坐天照御魂神社(京都市右京区)祭神・火明命。
●新屋坐御魂神社(大阪市茨木市)祭神・天照国照天彦火明大神。
というように、その祭神をすべて火明命、天火明大神としている。しかも、神社名は天照御魂神社である。

これらから、火明命は天照御魂神と称されていたことがわかる。

●粒坐天照神社(兵庫県龍野市)祭神・天照国照彦火明命。
●伊勢天照御祖神社(福岡県久留米市)祭神・天照国照彦天火明命。
●天照神社(福岡県鞍手市)祭神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
●阿麻氏留神社(対馬下県郡)祭神・天照魂命などがある。
「伊勢天照御祖神社」の祭神・天照国照彦天火明命こそ、伊勢神宮の天照大神であるとの説がある。
全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としている。

京都府宮津市に元伊勢籠神社がある。
同社の説明によると、主祭神は彦火明命、亦名天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られている。

同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられる。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命である云々。」とある。

女神天照大神は、もともと日向・筑紫(九州)の神で、九州には記紀が編纂される以前には「大日霊女貴尊」で祀られた神社は数カ所ありますが、九州以東では全く実在しません。

観世流の謡曲「三輪」

そのキリ(謡いの最後)の一節に、「思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一體分身乃御事、今更何と磐座や・・」とある。この一節は、「三輪」のなかでも小謡と云って聞かせどころである。
作者は世阿弥(1363~1443)で、室町前期の能役者。

石上神宮では、布留御魂大神(ニギハヤヒ)、布都御魂大神(スサノオの父)、布都斯御魂大神(スサノオ)、ほか四神が祀られ、11月22日に鎮魂祭が行われるという。この日は初代日本の統一者・二ギハヤヒの命日でもある。

鎮魂祭(ちんこんさい、みたましずめのまつり)とは、宮中で新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式である。宮中三殿に近い綾綺殿にて行われる。一般的ではないものの、宮中と同日に行われている石上神宮や、彌彦神社や物部神社など、各地の神社でも行われる例もある(うち彌彦神社は年二回)。天皇に対して行う場合には「みたましずめ」「みたまふり」と言う。鎮魂祭はかつては旧暦11月の2度目の寅の日に行われていた(太陽暦導入後は11月22日)。この日は太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期であり、太陽神アマテラスの子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われた儀式と考えられる。