讃岐の南北朝時代

鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月、後醍醐天皇は親政を開始しました。これを建武の新政といい、天皇は朝廷による政治を復権しようとしました。しかし、武士層を中心とする勢力の不満を招き、源氏の嫡流を汲む足利尊氏が離反して政権は瓦解しました。尊氏は新しい天皇を立てて京都に幕府を開き、一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ、ここに二つの朝廷が並び立つ状態が生まれました。吉野方を南朝、京都方を北朝といい、この両朝はそれぞれ各地の武士によびかけ、以後約60年間も全国にわたる争乱の時代が続きました。

九鬼氏は代々南朝へ仕えていて、後醍醐天皇の信任も厚かったという。戦国時代には九鬼氏第3分家の九鬼嘉隆が織田信長へ仕え大名家にまで出世したように九鬼氏は常に南朝側に属する。

南朝方の備前佐々木氏、讃岐細川定禅
 1335年(建武2年)11月、足利尊氏が建武政権に対して反旗を翻した時、備前国(現在の岡山県)児島には佐々木信胤(のぶたね)がおりました。佐々木氏は近江源氏の流れで、先祖の佐々木盛綱が源平合戦における藤戸の先渡の功によって備前国児島を賜り、そこに住む子孫が地名から飽浦(あくら)と名乗っていました。尊氏が反旗を翻した時、信胤は尊氏側につき、讃岐の細川定禅と共に京都攻めにも加わっています。

1336年、足利尊氏は、北朝の光明天皇を擁立して征夷大将軍の宣下を受け、室町幕府を開きます。しかし、室町時代の初期、幕府権力はまだ弱体で、南朝側も強い勢力を持っており、幕府内部でも守護大名達が抗争を繰り広げ ていました

尊氏は同年に正式に征夷大将軍に就任。南朝では北畠親房が伊勢から関東に下り、常陸を中心とした現地の水軍勢力を味方にして勢力拡大と奥州における南朝拠点再建を図る。こうした中で1339年後醍醐が崩御、子の義良親王が皇位を継ぐ(後村上天皇)。関東における親房は北関東・奥州白河の結城氏と結んで勢力を広げようとするが結城氏は応じず自身も苦戦を強いられる。この際に味方の士気を高めると共に南朝の正統性を地方豪族たちに訴えようと執筆したのが「神皇正統記」であった。親房はこれに加え、現地の豪族たちに官位の仲介をするなどして味方に付けようと努力するが空しく1343年関東における拠点を失ってやがて吉野に帰還している
この頃、南朝は奥州の北畠顕信、信濃周辺の宗良親王、四国の花園宮、九州の懐良親王・菊池氏など皇子や貴族を派遣して各地に勢力を扶植しようとするものの足利方が圧倒的優位を保っていた

佐々木氏、熊野水軍、淡路の水軍と連携
1340年(暦応3年)、信胤は、児島から兵を挙げ、お妻の局を連れて小豆島に渡り、星ヶ城山の山頂に城を築き全島を支配しました。小豆島へ拠ったのは、東は熊野水軍や淡路の沼島水軍と手をにぎり、西は忽那島に迎えられていた征西将軍懐良親王らと提携しながら、北朝方の海上交通を断つことにありました

南朝方の淡路島の水軍

観応二(一三五一)年、すでに阿南には足利義詮の臣安宅備後守頼藤(淡路由良城主)。

 南北朝時代、興国三年(一三四二)、新田(脇屋)義助は、懐良(かねよし)親王が忽那島(くつなじま)から九州転進後の伊予の南朝方を固めるべく、伊予下向を命じられ、吉野から熊野-高野山-千里の浜-田辺へと至り、船揃いし、熊野水軍の兵船三百余艘に護衛され「淡路ノ武島(沼島)へ送」られた。「此ニハ安間志知・小笠原ノ一族共、元来宮方ニテ城ヲ構テ居タリシカバ、様々ノ酒肴・引出物ヲ尽シテ、三百余艘ノ舟ヲ汰ヘ、備前ノ小嶋ヘ送リ奉ル」と『太平記』は述べている。
 備前児島には、佐々木薩摩守信胤、沼島の一族と見られる梶原三郎(景久-前田家本)が南朝方として断然他を圧していた。佐々木氏は藤戸合戦で功を上げた盛綱以来の基礎であった。佐々木・梶原らに継送され、伊予今治に定着した。
 無事到着したのもつかの間、脇屋義助は十日余りで急病により逝去した。北朝の細川頼春はこの機を逃がすまじく南朝方の土肥氏を攻めた。南朝方は沼島や小豆島からの援軍を待ったが、結局は敗北した。
 「沼島神宮寺縁起」に、永享八年(一四三六)、梶原越前守俊景が沼島八幡宮社殿を造営したことを記している。俊景は、同年、阿万本庄八幡宮にも寄捨したことが知られている。この事実を示す阿万八幡宮の経函銘には、
   沼島住人梶原越前守平俊景
と記されている。天文二年(一五三二)には梶原景節が、天正八年(一五八○)には梶原秀景が大檀那となって沼島八幡宮を再建している。梶原氏が阿万水軍・沼島水軍であり、その総帥であることを物語っている。
 沼島水軍が早くから南朝方であったことは、観応三年(一三五○)六月、足利義詮が、安宅(あたぎ)氏に、
   淡路国沼島以下海賊退治事
を命じていることでも明らかである。脇屋義助の伊予下向の頃、四国の成敗権を付与されていた細川師氏は、阿波から淡路に上陸、南朝方を打ち破り、その報謝のために、宇原経得兵衛入道跡の田畑を賀集八幡宮に寄進した。それでも沼島を拠点とする南朝方の挑戦は止まず、安宅氏に沼島海賊討伐を命じたのである。
 伊予の河野氏とも連携した。河野通直は細川氏の進攻に対応するため、九州で壊良親王に帰順、小倉で活動していたが、四国復帰工作のため正平二十二年(一三六七)、沼島へ上向した。小笠原水軍の一族は永年南朝方に忠誠を尽くす立場を保っていた。ただし、残念ながら沼島水軍はわずか四十余日前に細川氏の壊柔策に乗り、永年の功を捨て、北朝に帰順してしまった。南朝の柱石楠木正儀(まさのり)も同様であった。正儀は和平工作を進めてきたが交渉は失敗し、南朝内部の対幕府強硬派から非難され、幕府に帰順した。

南北朝期,竹原荘内本郷および牛牧荘の両地頭職に補任された安宅氏は,紀伊国牟婁郡安宅【あたぎ】荘を本貫とする熊野水軍の頭領で,観応元年6月,足利義詮の命を請けて淡路国の海賊の討伐を行い,その功によって,幕府から前記両所の地頭職を宛行われている(安宅文書/徴古雑抄2)安宅氏はのち南朝方に帰順したらしく,正平14年8月,後村上天皇から安宅備後守頼藤に阿波国南方攻略を命じた綸旨が下っており(同前),同17年12月には南朝方の源某(足利氏か)から天竜寺領,補陀寺領を除いた「阿波国以南方之闕所並本所領」が勲功の賞として宛行われており(同前),この地域に勢力を扶植したと推定されるが,詳細は不明である。

懐良親王を助けた村上水軍
 鎌倉時代から室町時代にかけて60年程続いた南北朝の時代に、南朝の後醍醐天皇の懐良親王を助けた村上義弘が頭角を現し、村上水軍の基盤を確立したと伝えられています。その後、村上水軍は来島村上家・能島村上家(大島)・因島村上家の三家に別れて夫々の歴史をたどりますが、村上水軍が最大に勢力を拡大した頃は、西は山口の上関、東は香川の塩飽諸島とほぼ瀬戸内海全域を制海していた。
村上義弘は、愛媛県新居浜市沖の新居大島の生まれであると同島では伝えられており、水軍活動初期のものと思われる。
今でも、高龍寺では村上水軍の菩提寺として、義弘公の位牌とお墓をお奉りし、国より賜わった義弘公正五位の証書保管しています。

これら三つの村上家の起源は、もともとは一つの家であったという。最も有力とされるのが、『尊卑分脈』に記された、河内源氏の庶流信濃村上氏を起源とする説である。平安時代に活躍した村上為国の弟・定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の永暦元年(1160)に越智大島に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。

越智大島を始め伊予各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗(信濃村上氏の祖)に命じて多くの神社・仏閣を建立させたという伝承が残っており、もともと伊予は信濃村上氏と縁のある土地であったとされる。

文献史料上、最も古い記録は1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)のもので、能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていたという。南北朝時代には、因島、弓削島などを中心に瀬戸内海の制海権を握っており、海上に関を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行っていた。

南朝方の伊予 河野氏
源平合戦においては河野通信が河内源氏の流れを汲む源頼朝に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。鎌倉時代になり承久の乱のとき、反幕府側の後鳥羽上皇に味方したために一時的に衰退したが、元寇のときに勇将・河野通有が活躍してその武名を馳せ(河野の後築地・”うしろついじ”として有名である)、河野氏の最盛期を築き上げた。
南北朝時代には、四国へ進出し伊予へ侵攻した細川氏と争う。河野通盛は足利尊氏に従い伊予守護職を手にしたが、河野通朝は細川頼之の侵攻を受け世田山城で討ち死にした。子の通堯は九州に逃れ、南朝勢力であった懐良親王に従い伊予奪還を伺う。
幕府管領となった細川頼之が1379年の康暦の政変で失脚すると、通堯は南朝から幕府に帰服し、斯波義将から伊予守護職に任じられ頼之追討令を受けて細川方と戦うが、頼之の奇襲に遭い戦死した。その後頼之が幕府に赦免されると、1386年には3代将軍足利義満の仲介で河野氏は細川氏と和睦する。

1347年(貞和3年)、淡路・阿波・讃岐・備前4か国の大軍を率いた北朝側の淡路守護細川師氏により攻撃をうける。小豆島は、総崩れし落城。

小豆島は、江戸時代は天領、宝永年間に高松松平に帰属。
 南北朝時代の貞和三年(1347)、それまで南朝方として小豆島を領有していた備前国児島の佐々木信胤が、北朝方である讃岐国守護の細川氏に攻められて降伏し、小豆島が細川領となったことが事の起こりのようである。しかし、細川領となってからも、やはり備前国小豆島と呼ばれていたらしい。豊臣時代や江戸時代前半は天領となったので、その所属は必ずしも明確ではなく、特に、江戸時代中期には備前国倉敷代官所の所管になっていた。宝永五年(1708)頃、幕府はこの天領を一時的に高松藩の預かりにする。小豆島が明らかに讃岐国小豆島と称されるようになったのは、この時のようである

瀬戸内の海には、東半分に小豆島・直島諸島があり、西半分には塩飽諸島がある。この西半分の塩飽諸島の方は大部分が香川県である。しかし古代、ここは中世を通じて、芸予の海の村上水軍と並び称せられた塩飽水軍の根拠地で、政治的独立性が極めて強く、江戸時代には何藩にも属しない自治制度が行われていたほどである。しかし、平安時代末期には近衛家領の荘園として「讃岐国塩飽荘」と見えるので、少なくとも、この頃はすでに、讃岐国に属していたようである

1347年吉野の南朝方は親房の指導の下で楠木正行(正成の子)を主力として再度活動を開始し足利方に脅威を与えるが、翌年初頭に四条畷で師直の大軍が正行を討ち取る事で南朝の攻勢は潰える。この際に師直は勢いに乗って吉野に攻め入っており、南朝は更に奥地の賀名生に逃れ自力で攻勢に出る力を失った。こうして足利方の安定的優位が確立したかに見えたが、この戦功で師直派が力を持った事が両派閥の対立を一気に表面化させる(観応の擾乱)。直義が尊氏に要求して師直を罷免すると、今度は1349年師直がクーデターを起こして返り咲き直義やその一党を失脚させた。これに対して1350年直義は養子・直冬(実父は尊氏)に九州で勢力拡大させると共に自身は南朝と結んで師直・尊氏と戦いこれを破る。1351年直義は尊氏と和平し師直らを殺害して復権に成功した。しかし両派閥の対立は修復不能であり、今度は尊氏と直義が衝突するに至る。今度は尊氏が南朝に降伏して名分を確保し、関東に逃れた直義を1352年に滅ぼした。
こうして一時的ながら朝廷は南朝のみに統一され(正平の一統)、三種の神器も南朝に接収された。更に勢いづいた南朝は京都を軍事占領し北朝の上皇・天皇ら主要皇族を捕らえ北朝を崩壊させている。義詮は間もなく京を奪回し北朝を再建したものの、皇位を証明する三種の神器も即位を正統化する「治天の君」(天皇家の家長)も欠いており以後の北朝は正統性に疑問が残る事となる

観応元年(一三五○)六月、足利義詮は、熊野水軍安宅氏に、
   淡路国沼島以下海賊退治、

倭寇は、すでに尊氏と直義が対立抗争した観応の擾乱(一三五○~一三五二)頃より活発化し、貞治五年(一三六六)には高麗は幕府に倭寇禁止を要求してきた。
賊船ノ異国ヲ犯奪事ハ、皆四国九州ノ海賊共ガスル所ナレバ、帝都ヨリ厳刑ヲ加フル拠ナシトテ、返牒ヲバ送ラレズ

1358年尊氏が病没し義詮が第二代将軍として幕府指導者の地位を継承。この時期、九州では懐良親王を擁立する菊池武光が勢いを増しており、1359年筑後川の戦いで少弐氏を破ったのをきっかけに、大宰府を制圧し1362年には九州全土を手中にしていた。

1358年(延文3年)4月30日尊氏が没し、足利義詮(よしあきら)が二代将軍の座につくと、細川清氏(きようじ)がその執事に就任します。清氏は、足利一門である細川一族筆頭の家柄の出。

 しかし、その急速な勢力拡大と強引な性格から、清氏は幕府内の諸将と対立し、1361年(康安元年)、恨みを抱いていた佐々木道誉(どうよ)に讒言(ざんげん)され、義詮から謀反の疑いをかけられてしまいます。佐々木道誉は近江源氏の出で、丸亀京極家の祖先です。当時、婆娑羅(ばさら)大名と呼ばれていた人物。

 義詮に京を追われた清氏は分国若狭へ逃れますが、国人たちに背かれ、北朝方から南朝方に走ります。その後、清氏は、かつて父・細川和氏(かずうじ)の分国であった阿波へ渡り勢力を回復しようとします。しかし阿波はすでに細川頼之(よりゆき)の勢力が及んでいたため讃岐に移り、まず三木郡白山の麓に陣を置き、次いで今の坂出市林田の地にある白峯雄山の高屋に城を構えて兵を募ります。そして、西長尾城(現在の満濃町長炭)に籠もる南朝方の中院源少将と連携を図ります。

 一方、義詮は、清氏追討の令を細川頼之に対して発します。清氏と頼之は同じ細川一族で、従兄弟どうし。

このとき頼之は中国管領として備中の国に渡り、山陽道一帯の南朝方の反乱を鎮圧しているところでした。頼之は急いで宇多津に戻り、現在の丸亀と宇多津の間にある青ノ山に陣を張って備前の兵の応援を求めます。しかし、佐々木信胤が小豆島の星ヶ城を拠点として瀬戸内海の海上権を押さえていたため、備前からの増兵は困難な状況でした。

白峰合戦

 頼之と清氏は宇多津と高屋で睨み合いを続けますが、形勢は頼之に不利でした。そこで頼之はまず母の禅尼を清氏のところに遣り和議の交渉を行います。頼之の母は清氏の義理の叔母に当たる。頼之は日を延ばしてその間に兵力を増強します。

 兵の増強を図った後、頼之は家臣の新開真行と謀り陽動作戦に出ます。まず、真行が一部の兵を率いて西長尾城へ向かい、中院源少将を夜討ちするようにみせかけます。清氏はこれに驚き、高屋城の兵の大部分を西長尾城の救援に向かわせてしまいます。頼之はこの虚をついて兵が少なくなっていた高屋城を急襲します。清氏も自ら城を飛び出し戦いますが、あえなく味方の36人とともに討ち死にしてしまいます。頼之と真行の作戦は、清氏の自信と蛮勇を知ったうえでの策略だったといわれています。この戦を白峯合戦といい、「太平記」でも描かれています。1362年(正平17年/貞治元年)の出来事です。

一方で足利幕府は有力者間の内紛に悩まされ九州に手が出せない状態が続く。義詮は有力者の統制に苦しみ、仁木義長や細川清氏・斯波高経らの反逆に悩まされるが佐々木導誉・赤松則祐らの協力も得てこれを克服。細川頼之の活躍により旧直義派の大内弘世・山名時氏とも(彼らの既得権益を認めた上で)和平が成立し、足利幕府は安定へと向かう。この時期には南朝とも何度か和平交渉がもたれており、1367年南朝和平派の楠木正儀との間で和平成立寸前まで至るものの直前に破談。
義詮の後を継いだ第三代将軍・義満の時代になると幕府の優勢は確立しており、細川頼之の補佐もあり将軍権力の確立や幕府機構の整備が進められ義満は専制君主への方向性を志向するようになる。一方で南朝では内部分裂に直面していた。後村上天皇崩御後に即位した長慶天皇は主戦派であり、和平派の楠木正儀は幕府への降伏を余儀なくされている。また、九州においても1372年今川了俊が九州探題として派遣されて以降、南朝方は次第に劣勢に追いやられていった。そして軍事的崩壊に直面する南朝では、再び和平派が力を持ち後亀山天皇の下で和平交渉がなされる。幕府にとっても三種の神器を回収し北朝や幕府の正統性を確保する為にも南朝の平和的吸収は必要な課題であった。かくして1392年持明院統と大覚寺統の交互即位などを条件として両朝は合体し、後亀山(南朝)から後小松(北朝)に三種の神器が譲渡された。しかしこれは実質的な南朝の降伏であり、合体時の約束は守られず以降は専ら北朝系統によって皇位は継承されていく。また、この内乱で朝廷の政治的権限は失われ幕府による専制体制が樹立される。

義満の時代に両朝合体による政治的統一と一応の政治的安定を実現するが、完全に有力者を押さえ込めたわけではなく彼の死後には再び有力者への対応に苦慮する事となる。そして15世紀前半には将軍が有力豪族に暗殺される事態となり、それを契機に将軍の権威は低下し1467年より11年持続した応仁の乱によってその無力化することとなる。

伊予の河野氏は、讃岐から侵攻する細川氏と対抗、当主通直は一時九州へ逃れ、征西将軍宮懐良親王に帰順したが、やかて忽那・菊池氏らと協力して反撃の活動を開始した。
 天平二十二年(一三六七)、その一環として沼島へ上向したとある。翌年、足利方の仁木義尹が宇和・喜多両郡に侵入したので、在地の武将らは通直の帰国を要望した。通直は今岡・村上らの警固、戒能・二神・久枝らの出迎えを受け、協力して伊予から仁木や細川の勢力を追放した。
這(ここに)、通直、仁木義尹・細川頼之ト、正平二十三年ヨリ至ニ天授 年中一、数年国ヲ争、屡(しばしば)、及二合戦一
 このような対細川・北朝との軍事行動に、これらの背後をおびやかす位置で、南朝水軍として活躍する沼島梶原水軍との提携が有効であった。河野氏は、細川頼之が幕政の中枢から失脚すると再び北朝に帰参してしまっている。

塩飽水軍

織田信長は天正5年(1577年)に堺へと入港する塩飽船に対し他国船は航路を譲る事を命じ、豊臣秀吉は天正14年(1588年)の九州征伐に際して兵を運ぶ船を出させ、天正18年(1590年)には船方650人を御用船方(ごようふなかた)とし、本島、広島、与島、櫃石島、手島、高見島、牛島の塩飽七島1250石を与える。徳川家康も関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)9月28日に、大坂城西の丸で秀吉と同様に船方に塩飽七島を安堵し、塩飽諸島は自治領として江戸時代を過ごす事となる。

■この時代は商業の発達により貨幣経済が本格化、それに伴い庶民の社会的実力が向上して文化的な役割も大きくなりました。茶の湯、立花、俳諧、能・狂言など一般に日本文化として連想されるものの起源が 、この時期に見られると言えます。

■大内弘世/一説では百済王家の末裔とされる。大陸との貿易により利益を上げている。南北朝の間を渡り歩き、観応の擾乱では直義方として活動。その手腕で勢力を拡大。最終的には義詮に形式的な降伏をするが自分の勢力圏を追認させている。保守派に相当する直義方の有力者であるが、本人は革新的な時代の子である。

播磨の赤松氏

赤松氏の拠点とした播磨は、比較的京に近く播磨平野を擁して農業生産高も高い。更に瀬戸内における海上交通の要地でもあり、西国でも重要性の高い地域の一つであった。
さて赤松氏は「村上天皇第七皇子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫」と称していた事が知られる。中央の高官が播磨に配流される際には佐用郡に居住するのが通例とされていたが、季房も佐用郡で現地豪族の娘と契り、その子が現地で土着していったというのである。因みに、この時代には現地の豪族が貴種と娘を娶わせて自らの血統を高めようとするのは珍しくなかった。季房の曾孫である宇野則景が北条義時の時代に佐用荘地頭となり、その子孫で則範の末子である家範が初めて赤松氏を名乗ったようである。則村、即ち円心は家範からみて四代目の子孫に相当する。
こうして見ると、赤松氏が村上源氏の末裔と言うのは少なくとも楠木氏が橘諸兄の末裔と言うよりは信憑性がありそうである。しかし、だとしてもその一族は14世紀には播磨の一土豪に過ぎなかった。祖先の信憑性は高くとも、この時点での社会的位置は楠木氏と大差なかったといってよい。そして赤松氏はこの一族の嫡流ですら決してなく分家の一つに過ぎなかったのである。そこから名を挙げて播磨一国の守護、更に全国有数の実力者の地位まで上り詰めた円心やその子・則祐の力量は並々ならぬものであると言えよう。

九鬼氏

其家博へいふ先祖を中納言藤原隆家七世の孫内大臣信清といふ信清六世の孫を左中将信行といふ信行五世孫佐倉中将隆信
南朝に奉仕し伊勢佐倉に住す貞和年中家臣平賀蔵人謀叛し仁本義長の為に敗軍し逃れて当村に匿る其孫荊部少輔隆房の長男を宮内大輔隆長と云ふ次男を小次郎隆良といふ隆良志摩国英虞郡波切村に城を築き志摩七島を領す、これより家分れて二となる隆長五世の孫を左馬允光隆といふ織田氏に属す其、弟右馬允嘉隆永禄年中鳥羽城主大井監物を襲ひて城を奪ひ三萬五千石を領す織田家豊臣家に属し武名天下に顕はる光隆の子を主水佐恒隆と云ふ其子茂兵衛昌隆伊直政に仕ふ後、故ありて仕を辞して紀州に帰る其子を作右衛門義隆といふ南龍公命して地士とす子孫代々当浦に住す家に後村上帝綸旨并に宝器等ありしに寛永年中悉焼失す先祖分捕の彌陀佛古写大般若経焼遺りを傅へたり村中に城跡あり城地今猶其家の持なり(紀伊続風土記)

南北朝の顛末

南北朝の対立は、1392年、南朝側が勾玉を京都の北朝に譲って南北朝が統一されて終わった……ことになっている。
今上天皇もその曽祖父の明治天皇も、江戸時代のすべての天皇もみな北朝の血筋であって、南朝側の血ははいっていない。
1443年、南朝の残党が京都の御所に乱入して勾玉を奪う事件が起きている。で(その勾玉は、いったん断絶した有力大名、赤松満祐の宗家の遺臣が1458年に奪回して北朝に返したことになっているが、赤松主従には宗家再興のために手柄を捏造したい動機があったので)北朝系の天皇が保持する勾玉は1443年以降はにせものの可能性がある。
(篠田正浩・明石散人『日本史鑑定 天皇と日本文化』徳間文庫04年刊 p.30)。

明治時代の国定歴史教科書には南北朝時代の2系統の系図(皇統)が対等に併記されていた。
ところが1908年(明治41年)、熊沢寛道の父大然(ひろしか)が南朝の正統性を訴える上申書を明治天皇宛に出し、1910年に起きた「大逆事件」の公判で同年、天皇への反逆(暗殺未遂)容疑に問われた社会主義者の幸徳秋水が「現天皇の祖先(北朝)だって、南朝の後亀山天皇に反逆して皇位を奪ったではないか」と発言して裁判官を絶句させると、国会で上記の国定教科書の記述が議論の的になり、南北朝正閏(せいじゅん)論争が沸騰した。そして、1911年(明治44年)、当時の政府は、天皇の勅裁を得て、南北朝時代の北朝系の5人の天皇(反逆者?)の在位を取り消して教科書を書き替えさせ、「南朝正統論」を確定してしまう(保阪前掲書 p.p37-38)。