葛城襲津彦

葛城襲津彦(曽都毘古・沙至比跪、 生没年不詳、4世紀後半~5世紀前半頃?)は大和葛城地方の古代豪族葛城氏の祖として『記紀』に記されている。

父:武内宿禰
母:葛城国造荒田彦女葛比賣

葦田宿禰
玉田宿禰
磐之媛(仁徳后)
的戸田宿禰(的(いくは)氏祖)
腰裾宿禰(忍坂氏祖)
熊道宿禰(忍海原氏・朝野氏祖)

出来事
気長足姫尊 摂政五年の春三月の癸卯の朔己酉(7日)に初めて襲津彦の記述がある。新羅王の質、微叱旱岐(みしこち)の見張りとして襲津彦を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられ、怒った襲津彦が蹈鞴津(たたらつ)から草羅城(くさわらのさし)を攻撃して捕虜を連れ帰った。
気長足姫尊 摂政六十二年 襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。(『百済記』が伝えるところ、貴国は沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を使って新羅を撃たせようとしたが、沙至比跪は新羅の美女に心を奪われ矛先を加羅に向け、加羅を滅ぼしてしまう。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、天皇は木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪を攻めさせる。沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると自殺した。)
誉田天皇 十四年 百済の弓月君(ゆつきのきみ)が誉田天皇に対し、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないことを告げる。天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令するが、三年なんの音沙汰もなくなった。
誉田天皇 十六年八月、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)に「襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない、加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。
大鷦鷯天皇 四十一年三月 紀角宿禰(きのつのすくね)に無礼をはたらいた百済の王族の酒君(さけのきみ)を、百済王が襲津彦を使って天皇のところへ連行させる

日向襲津彦皇子ひむかのそつひこのみこ
父 景行天皇【書紀 景行天皇四年二月甲子条】
母 日向髪長大田根【書紀 景行天皇四年二月甲子条】
景行天皇の皇子として生まれる。母は日向髪長大田根。
【日本書紀 景行天皇四年二月甲子条】

志貴長吉神社
長江襲津彦(ながえそつひこの)命(みこと) 
長江襲津彦命は、葛城襲津彦命とも称し第八代孝元天皇の孫にあたり武内宿禰の六子として生誕され、第十五代応神天皇・第十六代仁徳天皇にお仕えし三韓征伐の際に海上・道中の安全を守護されました。長江襲津彦命は、もと大和地方を支配した葛城氏の祖先で、この長吉の地に居住し又住吉の墨江の名より長江へと変わり鎮座されました。地名の通り長吉は、長江から変わりました

 奈良県の古瀬にある室大墓とも呼ばれている巨大な前方後円墳・宮山古墳

(全長238m、後円部径105m、後円部高25m、前方部幅110m、前方部高22m)の築造は古墳時代・中期(5世紀前半)で、古瀬地方に数多くある古墳の中ではかなり年代は古くなりますので、豪族・巨勢氏のものではありません。当時の天皇陵墓にも匹敵する全国で第18位の大きさを誇り、葛城襲津彦の墓とも武内宿禰の墓とも云われています。 というもの、武内宿禰は蘇我氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、紀氏、波多氏、江沼氏の祖先で、古墳の築造時期と一致し、また葛城襲津彦が活躍し た時期と重なるためにそう云われているのである。葛城襲津彦は第16代 仁徳天皇の皇后となった磐之媛の父にあたる人物で、神功皇后5年の頃、朝鮮半島の戦で数々の武勲をあげています。 「日本書紀」によれば、葛城襲津彦は新羅から来ていた人質を送っていき、途中でその人質に逃ら れ、そこで新羅に入って戦い、捕虜を連れて帰還すると、これらの捕虜を葛城の桑原・佐味・高宮・忍海辺 りに住まわせたという。 その付近は巨勢山古墳群と呼ばれており、 700基以上に及ぶ全国屈指の群集墳地域です。 ところで、この宮山古墳の頭頂部へいくと、「王の柩」とされる長持形石棺を竪穴式石室に安置されたままの状態で見ることができる。

●馬見古墳群の南群
■ 古墳時代前期末の大型前方後円墳である築山古墳(210m)を中心に、葛城地域では最も早いとされる新山古墳(130m)や、90m近い墳丘を持っていたと推定される別所石塚古墳や75mの狐井塚古墳が展開する。この古墳群からは2kmほど離れた香芝市狐井には、墳丘長140mの古墳時代後期としてはきわめて大規模な狐井城山古墳がある。
●馬見古墳群の北群
■ 古墳時代中期後半の墳丘長約200mの川井大塚山古墳を中心に、ほぼ同時期に築かれた中良塚古墳(88m)、後期初頭の川井城山古墳(110m)などから構成される。この古墳群の東方約2kmには、4世紀後半の島の山古墳(約200m)があり、前方部の粘土槨から大量の腕輪形石製品が出たことで知られる。
●馬見古墳群の中央群
■ 広陵町の三吉を中心に分布し、巣山古墳(220m)と新木山古墳(100m)などから構成される。墳丘長100m以上に限っても7基もの前方後円墳や帆立貝式古墳がみられる。

葛城氏の古墳には巨大な楯埴輪が立っているが、そこに吉備や九州起源の直孤文が描かれている。葛城氏と九州、隼人、久米、安曇らとの関係。葛城氏も貿易と外交の氏族。
■室大墓古墳・葛城襲津彦の墓?(御所市)出土靱形埴輪の直孤文            
「葛城の古墳時代を代表する。宮山古墳とも言われ、縄掛突起のある天井石や形象埴輪片が見られる。割石を小口積みにした竪穴式石室は、長さ5.5m、幅1.9m、高さ1.1m、天井石は六枚使用されている。なお、調査されなかった北側の石室は、新庄町の屋敷山古墳のものと同様の、両端に縄掛突起がつく天井石が一枚ある。石室中央にある組み合わせ式の長持形石棺は、格子亀甲文と呼ばれている矩形の装飾的な削り窪みがあり、華麗で雄大なものである。多くの形象埴輪のうち、最大の靱形埴輪は高さ142.6cm、最大幅95.5cmもある。胴部の上端には、有茎式の柳葉形鉄鏃が表現されていて、写実的であるとともに、左右に大きく広がった鰭(ひれ)と、その表面の装飾は渦巻文や直弧文で構成され、豪華絢爛(けんらん)である。また、葛城襲津彦を当てようとする人もいるが、決め手に欠ける。室大墓古墳の被葬者が誰であるのか明らかでなくても、この古墳の価値が下がるものではなく、古代の葛城を象徴する重要な古墳であるのは間違いない。」

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肥前国
嶺県主の存在は,大和朝廷の勢力圏にあったと思われる。また,「肥前国風土記」「延喜式」「和名抄」などによると,神埼郡は三根が分離しないころは,15郷からなる最大のものであり,筑紫米多国造の勢力基盤であったといわれている。そして三根は県主の勢力圏の上に成立していたといわれている。三根郡司に海部直鳥の名が推定される。米倉二郎氏が「肥前国風土肥(ママ)」の各郡の復原条里数を推定したものによると,三根は530里となっている。これは条里区画が漸進的に開発され,その田数が増加したものであるといわれる。

「和名抄」には三根郡葛城郷が見え,「三代実録」貞観15年(873)9月16日の条に葛木一言主神のことが見え,筑後川に近い天建寺宇土居内に祭祀されていた式外社の1つであることから,当郷は天建寺一帯に比定される。一言主は大和国(奈良県)葛城山の神で,のち葛城神社となった。
葛城神社〈三根町〉  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       
三養基郡三根町大字天建寺字土居内にある神社。旧村社。祭神は葛木一言主命。創建年代不明。貞観15年9月16日に正六位上から従五位下となっている(三代実録)。一言主命は大和国葛上郡葛城山の神であり,当地にいたとされる葛城部によって勧請されたと伝えられる。明治6年村社となる。なお,当社から天建寺一帯が,「和名抄」に記す葛木郷であったといわれている。
葛木郷〈三根町〉  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       
〔古代〕平安期に見える郷名。「和名抄」三根郡五郷の1つ。刊本の訓は「加都良木」,伊勢本の訓は「加津良木」。式外社の葛木一言主神が三根町天建寺に祭祀されていることから,天建寺付近に比定される。また郷名から葛城部の存在が考えられる。「肥前国風土記」によれば,漢部郷に忍海漢人を連れてきて兵器を製造させたと記すが,忍海漢人と葛城氏との深い関連を考えると,忍海漢人と葛城氏が同時に移住してきた可能性が強い。