葛城氏、蘇我氏

剣根命。
高皇産霊尊の5世孫または天押立命の4世孫という。神武天皇2年に初めて葛城国造とされた。初代倭国造とされる椎根津彦命とともに国造の最も古い例とされる。

少彦名命が、アマテラス直系の神武帝の「東征」に際して、自ら「八咫烏(ヤタガラス)」となって進軍を援けた「功」により、彼の子孫剣根は「葛城国造」の地位を得ました(この氏族が冠している『葛城』の名称は、その地域を支配下に置いたと云う。

子孫
葛城荒田彦 …… 古墳時代の伝説上の人。国造。娘の葛比売は神別葛城氏の葛城襲津彦の母。
葛城磐村 …… 古墳時代の人。娘の広子は用明天皇の嬪となった。

【大和、難波エリアを統一した葛城氏】
古事記では仁徳帝の崩御後、伊邪本和気命(履中帝)と墨江中津王の兄弟による後継者争いの様子が描かれている。
激しい戦闘の結果、伊邪本和気命が宮を葛城氏の本拠地の大和に遷して、
伊波禮若桜宮で大王位に就く

稲目と葛城山田直 瑞子

欽明十七年秋七月条は次のように記しています。
六日に、蘇我大臣稲目宿禰らを備前の児島郡に遣わして、屯倉を置かしむ。葛城山田直瑞子をもって田令にする

蘇我氏が都から遠く離れた吉備の国に設けた朝廷の直轄地を「全権」委任するほどの信頼を得ていた瑞子である。

「高魂命(高皇産霊神)」から「伊久魂命(アマテラス)--天押立命(神櫛玉命)--陶津耳命--玉依彦命--剱根命」などの神々を経て第十九代に相当するのが瑞子だと云う

「陶津耳命」には『和泉国大鳥郡、陶荒田神社』の註文があって、この神様には「都留支日子命(ツルギヒコ)」という名前の兄弟があり、その神様が『出雲国島根郡、山口里』を本拠地としていたと注記されています。現在でも大阪堺に陶荒田神社、島根松江に布自伎彌神社が在って前者が高魂命、剣根命を、後者が都留支日子命を祭神としています

「陶津耳命(スエツミミ)」とは神話に登場し薬神、酒神として良く知られる少彦名命の別名

剣根は娘・加奈知比咩命、孫娘・葛城避比売命をそれぞれ尾張氏の当主である天忍男命と天戸目命に嫁がせ、神武に積極的に貢献した高倉下(亦の名、天香語山命)を先祖に持つ尾張との閨閥作りに努め、ヤマトでの影響力の拡大を目指したと考えられます

葛城の「鸇姫(ワシヒメ)」は開化帝の妃となって建豊波豆羅和気王を生み、もう一人が「建諸隅命(タケモロスミ)」の妻になったと系譜は伝えています。建豊波豆羅和気王という王子は系譜上「依羅阿比古(ヨサミアビコ)の祖とされる人物であり、建(武)諸隅命は先代旧事本紀が矢田部造の祖で崇神六十年の秋『武日照命が天より将ち来たれる神宝が出雲大神の宮に納められているらしいが、見てみたい』との帝の希望を叶えるため、出雲への使者となった武人です。

葛比売とソツヒコ
「武内宿禰大臣」の妻となって「葛城襲津比古」を生んだとされる「葛比売(カズヒメ)」

竹内宿禰は孝元帝の息子・彦太忍信命の子あるいは孫に当たり、鸇姫が後宮に入ったとされる開化帝と彦太忍信命は「兄弟」。

少彦名命を源とした天孫氏族である葛城国造家に、大王妃および葛城襲津彦の妻の「実家」だったとする根強い伝承があった。

蘇我馬子 葛城は蘇我氏の本拠
推古三十二年冬十月、時の推古帝に対し、
葛城縣は、元、臣が本居なり。故、その縣によりて姓名をなせり。これを以て、願わくは、常にその縣を得て、臣が封縣とせんと願う。
皇極元年に蘇我蝦夷が「己が祖廟を葛城の高宮に立て」た

ソツヒコの
子のうち、娘の磐之媛命(石之日売命)は仁徳天皇(第15代)皇后となり、履中天皇(第16代)・反正天皇(第17代)・允恭天皇(第18代)を産んでいる。

武内宿禰─石川─満智─韓子─高麗─稲目─馬子─蝦夷─入鹿

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宗我石川宿禰
系譜に関して『日本書紀』に記載はない。『古事記』孝元天皇段では、建内宿禰(武内宿禰)の子7男2女のうちの第三子として記載されている。

天平宝字6年(762年)の石川年足墓誌では、「武内宿禰の子宗我石川宿禰命」と見える。

『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、石川宿禰は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・木菟宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国したという。

『古事記』では事績に関する記載はない。
また『日本三代実録』元慶元年(877年)12月27日条では、石川朝臣木村の奏言のうちとして、宗我石川は河内国石川(現・大阪府富田林市の東半と南河内郡一帯)の別業に生まれ、これにより「石川」を名とし、さらに宗我(現・奈良県橿原市曽我町)の大家を賜り居としたので「宗我宿禰」が賜姓されたという。

印鑰神社
 武内宿禰の第3子である蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)は筑紫の凶徒を鎮める為に下向し終わりはこの地にて薨じたとか言われる。
後鳥羽天皇の建久九年(1198年)肥後の国球磨の地頭職-相良三郎名頼が弟の八郎為頼に八代の北三里「鏡ヶ池」の近くに神社を造営させ蘇我石川宿禰の分霊を祭神として鎮座して以来宿禰の徳を仰ぐ人々の崇神の所になったと伝えられている。
 奈良時代肥後国八代郡に郡司があり律令制度の下八代地方の祖米が集められ郡倉に収納されていた。役所には朝廷から渡された印と鑰(かぎ)があり平常は別殿に納められ大切に祀られていた。印鑰神社の〔印鑰〕とはその〔印〕と〔鑰〕のことである。
 後に郡倉が廃止されその跡(市指定史跡八代郡倉跡)に建久9年当神社が造営され「印鑰」が神社の名称にもなった。印にゃく神社の御祭神を石川宿禰としたのは宿禰が朝廷の内蔵-大蔵の管理者であったことに由来するものと考えられる。
 いんにゃく神社春季大祭の鮒取り神事(八代市指定無形民俗文化財)は石川宿禰が凶徒平定の為この地に来られた時悪天候で海が荒れ魚が捕れず地元の若者が「鏡ヶ池」に飛び込み鮒を献上し石川宿禰をもてなしたと言う故事にならい毎年4月7日褌一つの若者が池に飛び込み手づかみに鮒を捕り御神前に供え見物人にも投げ上げる行事は今日も賑わいを伝え継いでいる。

つまり、百済系(藤原氏、天智天皇系)と新羅系(蘇我氏)との対立の芽は、 神功皇后(出雲系)の三韓征伐の時の仲哀天皇(北九州系)との対立(仲哀天皇の暗殺)から始まるのである。

奈良橿原市曽我
曽我の地名は8代孝元天皇の曾孫に当たる武内宿禰(タケウチノスクネ)の第三子・石川宿禰が“蘇我(そが)“の姓を頂いてこの地に住み着いたのが由来とされます。曽我町の西北にある宗我坐宗我都比古神社(ソガニマスソガツヒコジンジャ)は蘇我石川宿禰夫妻を祀る神社で、石川宿禰より第5世の蘇我馬子(~626年)の頃、推古天皇の御世に創建されたと伝えられています。時は飛鳥時代でその頃の曽我集落はこの神社近く或いはもう少し北側(北曽我と言う条理地図名あり)が中心だと考えられます。

曽我は蘇我氏発祥の地であり、蘇我氏宗家は乙巳の変(645年)での入鹿の死によって滅亡しましたが、宗我坐宗我都比古神社の宗我座講中各家やその縁戚は蘇我氏の子孫で、今に至っています。

宗我坐宗我都比古神社
奈良県橿原市曽我町1196 (曾我川の右岸・真菅駅のそば)

御祭神 主祭神 曾我都比古神 曾我都比売神
末社祭神 素盞鳴命 八坂神社
事代主命 戎神社
大国主命 
保食神 八太夫稲荷神社
由 緒
式内宗我坐宗我都比古神社は大同元年(八〇六)大和国内に神封三戸を寄せられ(新妙格勅符妙)、天安三年(八五九)一月二七日に従五位下より従五位上に昇叙、同六年六月十六日には正五位下となった。(三代実録)。当社の創祀について、「五群神社記」には推古天皇の時に蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀ったとある。社伝によると、持統天皇が蘇我氏一門滅亡をあわれんで、蘇我倉山田石川麻呂の次男徳永内供に紀氏を継がしめ、内供の子永末に祖神奉崇のため土地を賜い、社務と耕作を行わしたのに始まるという。祭神二座は「五郡神社記」が武内宿禰・石川宿禰とし、元禄(一六八八-一七〇四)頃の社記が彦太忍信命・石河宿禰とするが、おそらく土着神の男神・女神を祀ったものと考えられている。     -境内の案内板より-