総国=麻国、阿波と安房、忌部氏

『古語拾遺』によれば

よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)(ふさのくに)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐(しもつふさ)」と呼び、これが(しもふさ)(しもうさ)に転じたという。

上総国と下総国の場合、元々東海道は海つ道(海路)であり、房総半島の南部の上総国の方が畿内により近い位置関係にあったのがその由来とされる

下総国
大化の改新以前には印波、千葉、下海上の国造が置かれていた。律令制国家建設にともなって東海道に属する一国となり、葛飾、千葉、印旛、匝瑳、相馬、猿島、結城、岡田、海上、香取、埴生の11郡をもって下総国とした(のち豊田郡が加わる)。国府は市川市国府台付近に置かれ国級は大国に位置づけられた。

上総国
律令制以前は、須恵、馬来田、上海上、伊甚、武社、菊麻、阿波、長狭の8つの国造が置かれていた。律令制において、市原郡、海上郡、畔蒜郡、望陀郡、周淮郡、埴生郡、長柄郡、山辺郡、武射郡、天羽郡、夷灊郡、平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の15の郡(評)をもって令制国としての上総国が成立し、東海道に属する一国となった。

忌部氏は朝廷の神祭りを担当していました。

忌部氏の指導者だった天富命(アメノトミノミコト)は宮中に神殿を建て、木棉や麻などの織物や鏡・玉などの祭りの道具も自分たちで作ることになりました。
玉は出雲の国で作り、布は四国の阿波の国で作りました。
その後、天富命は、布を織るための植物を栽培するのに。良い土地を求めて布津主命他、四国の忌部氏を率いて海路を東に向かい、房総半島の最南端にある布良海岸阿由戸の浜と駒が瀬(駒ヶ崎神社)の2カ所に上陸しました。
そして、阿波の国で栽培していた穀物や麻を植えてみると良く育ち、布良(ぬのよし後にめら)と名前を付けました。

そこで房総半島を『総の国』と名付けたのです。
古代には麻のことを総と言っていたことに由来しています。
後に総の国は二つに分かれ、都に近い(海上を利用し)半島南部を上総の国、北部を下総の国と名付けました。
また、阿波の忌部氏が移住した本拠地を故郷にちなんで「安房」と名付け、先祖の天太玉命(アメノフトダマノミコト)を布良の男(雄)神山に祀り、女(雌)神山に天比理刀咩命(アメノヒリトメノミコト)を祀りました。

古代の東海道

古代東海道の駅路のルートは、「延喜式」(康保4年(967年)施行)に記載された駅名を辿って考証が行われることが普通だが、「延喜式」以前にルート変更されたケースも多いようだ。下総国のルートもその例で、当初は相模国(現・神奈川県)から東京湾を船で渡って一旦上総国に上陸してから、下総国を縦断(北上)して常陸国に向ったらしい。
当初のルートは、本路として上総国(大倉駅)〜鳥取駅〜山方駅〜荒海駅〜(香取海を渡り)常陸国(榎浦駅)があり、上総国(大倉駅)〜河曲駅〜浮嶋駅〜井上駅という下総国府に向う支路Aと、山方駅〜真敷駅〜香取神宮〜常陸国(板来駅)という支路Bがあったと考えられている。ただし、現在も、この本路の具体的なルート、駅の所在地は確定できていない。通説では、鳥取駅が佐倉市内、山方駅が印旛郡栄町内、荒海駅が成田市内(「荒海」という遺称地がある。)とされ、また、支路Bの真敷駅は成田市(旧・香取郡大栄町)南敷付近とされている。なお、支路Bは香取神宮及び鹿嶋神宮への参拝路だったと思われる。全体としては、現・千葉市中心部から成田市方面に向うので、現・国道51号線か、これに沿うようなルートだったのだろう。
それが、宝亀2年(771年)には武蔵国が東山道から東海道へ編入されたことにより、支路Aが本路となる。

房総の諸駅について、「延書式」に列挙された駅馬(カッ方コの数字は常備の馬数)は、次の通りであった。 安房国二駅=白浜(5)・川上(5) 上総国四駅=大前(5) 下総国五駅=井上(10)  於賦(10) ・藤瀦 ・浮島 (5)・嶋穴(5)・天羽(5) (5)・河曲(5)・茜津(10) また、伝馬は次の通りで、安房国には設置されない。 上総国四駅=海上(5) 下総国三駅=葛餅(10) ・望陀(5)・周准(5)・天羽(5) ・千葉(5)・相馬(5)  かつての東海道の本道、神護景雲二年(七六八)以前の律令制成立 当初から、相模国府から三浦半島を経て走水海を船で 渡り、天羽駅から北上して上総国府に至り、常陸国府で終わる経路をと っていた。

大化二年(六四六)の兵部省式駅逓志稿に記された上総国府以南の駅 路をみると、嶋穴(市原市島野)、大前(袖ヶ浦市中郷辺か)、藤瀦(君津市 郡か)、天羽(富津市不入斗辺か)を経て安房国に入り、白浜(鋸南町吉浜か)、 川上(富山町川上)を通って安房国府に至っている。 富山町が所属した平群郡の古代史を考えるうえで、最も注目すべき事 項は、安房国唯一の平群軍団の所在、及び行政をになった平群郡家と、 駅伝制に基づく川上駅に関する三大項目である。  この官道と川上駅こそは、安房国府と中央政府を直結する行政上の重 要な中継点として、重視する必要がある。すなわち、中央政府からは安 房国府に対する監督機関として、巡察使・観察使・按察使・検税使・勘 解由使などが往来したが、飲食・宿泊や駅馬をその都度利用したことが 考えられる。 一方、安房国府からは、毎年定期的に四度使が太政官への報告など のため国使として京に派遣されたのである。