物部氏、穂積忍山宿禰、築紫物部、高倉下

物部氏の本宗家、弟橘姫を出した一族
穂積の臣等の祖先、内色許男 (ウツシコオ) 命の妹の内色許売
讃岐の大麻神社
境内には、「弟橘媛命を祀る」と書かれた境内社・白玖祖霊社がある。
白玖氏は、代々当社の神主を勤める家系で、その祖、穂積忍山彦根は、景行天皇の御代、その皇子・神櫛皇子命の勅により、当社を祭祀したという。

氏姓 穂積朝臣
始祖 饒速日命
氏祖 穂積真津 鬱色雄命(内色許男命)?
種別 神別(天神)
本貫 大倭国山辺郡穂積邑

天香語山命亦名天降御名手栗彦命亦名高倉下命是命者饒速日命天道日女爲妃天上誕生ノ御子ナリ。 宇麻志遅命ノ御兄ノ神ナリ。大禰命ハ天香語山命ノ弟宇麻志遅命ノ第三ノ孫ナリ。其弟出雲醜大臣命ノ子大木食命アリシハ何レモ物部氏ノ御祖ナリ。大田々根命亦天児屋根命ト唱へ奉ルハ誤ナヲシナラン。大禰命亦大木食命ハ天香語山命ノ御孫ナリ。

古事記・日本書紀にも記される古代氏族で、大倭国の有力な中央豪族。姓(かばね)は始め穂積臣、後に穂積朝臣。天津神・饒速日命が祖先と伝えられる神別氏族で、嫡流は後に藤白鈴木氏を称した。代表家紋は抱き稲。

饒速日命-宇麻志麻治命-彦湯支命-意富禰命-出石心大臣命-鬱色雄命-大 水口宿禰-建忍山宿禰命-大木別垂根 …

物部氏、采女氏の本宗家とされ、熊野国造家とは先祖を同じくする同族とされる。

饒速日命の10世孫・大木別垂根命の子で、古墳時代の人物である穂積真津が、熊野神に稲束を積んで奉納したことから穂積姓を賜ったという伝承を持ち、姓は臣であった。ただし同じ饒速日命の後裔である鬱色雄命(内色許男命)を祖とする、別の伝承もある。飛鳥時代の天武13年(684年)、八色の姓制定に伴い穂積朝臣姓を賜った。発祥は大倭国山辺郡穂積邑とする。後に本拠を紀伊国熊野に移した。

穂積は物部と同族で、カムニギハヤヒに発するといわれるが、この「ホツミ」はおそらく「火祇(ホツミ)」で、火を司る部族であった。本貫の地は、大和・山辺郡の穂積邑だが、同じく大和・十市郡の保津邑も古くは穂積と呼ばれたので、その地が本拠だとする説もある。
 さて、この穂積という地名は、西は摂津・島下ノ郡の穂積ノ郷(のち春日村のうち)、播磨・賀茂ノ郡の穂積ノ郷、東は、伊勢・朝明郡の穂積神社(川島明神。『延喜式』〈神名帳〉記載)、美濃・本巣ノ郡の穂積ノ郷、尾張・丹羽ノ郡の穂積ノ郷から、上野・佐波郡剛志村保泉の積穂明神にまで至る範囲に小規模に分布している。
 それらの穂積とは違って地名こそあとに残してはいないが、紀伊の穂積氏は、穂積一族のなかではもっとも勢力を得た氏族のひとつである。この穂積氏は、宇井・榎本・鈴木といういわゆる《熊野三党》(熊野神社のいわば氏子総代)のひとつである鈴木氏を分岐させたほか、鵜殿・熊野などの諸氏をも派生させたといわれるのである。
「鈴木」は、一説によれば、「高倉下ノ命の後裔の羽鷲という者がはじめて鈴木の姓を称した」というが、『鈴木氏系譜』によれば、カムニギハヤヒの後裔である紀伊の穂積氏から出ている。紀伊方言では「稲の穂を積んだもの」(穂積)を「スズキ」というので、〈火祇→穂積→穂積→鈴木〉というように変化して、穂積姓から鈴木姓が派生したものと思われる。

帛(ぬさ)まつり 奈良より出でて 水蓼(みづたで) 穂積(ほづみ)に至り
鳥網(となみ)張る 坂手を過ぎ 石走(いはばし)る 神奈備山に
朝宮に 仕へ奉りて 吉野へと 入ります見れば 古へ思ほゆ

初代・穂積真津の祖父にあたる建忍山宿禰命は、穂積忍山宿禰とも呼ばれ、放橘姫(ハナタチバナヒメ)を妻とし、娘の弟橘姫は日本武尊の妃となった。

神奈川県中郡二宮町山西、川勾 (カワワ) 神社。

『旧事』相模国造穂積忍山宿禰。日本武尊の妻、弟橘媛の父。 
饒速日命-宇麻志麻治命-彦湯支命-意富禰命-出石心大臣命-鬱色雄命-大水口宿禰-建忍山宿禰命-大木別垂根命-【穂積】真津-阿米-十能寸-鎌子-押山。

養老四年(720) に撰上されたた『日本書紀』は公文書

一年半ほど後の事です。 養老六年(722) 正月二十日、正五位上の穂積朝臣老は、天皇を名指しで非難し た罪により、斬刑に処せられることになった。
しかし皇太子の首皇子の助言で 死一等減じて佐渡島に流された、と『続日本紀』にあります。
八虐の罪の内に挙げられる不敬罪を犯し、斬刑に処せられるのを知らなかっ たわけでもあるまい穂積朝臣老の、天皇批判の原因は何だったのか。正五位上 といえば一国の国造に匹敵する位階ですから、老は穂積氏の氏の長であったは ずです。

『古事記』によると、穂積氏は日本武尊の后の弟橘姫をはじめ、成務天皇妃 の弟財郎女の二人の妃を出しています。ところが『日本書紀』は弟財郎女の名 を載せず、弟橘姫にいたっては他に類例のない妾と記している。さらには、穂 積氏の氏人の記事において、不名誉な話ばかり三件までも載せられています。
これでは穂積朝臣老は氏の長として、その立場上、名誉を主張し、これを守る ことが義務でもあったと黛弘道は分析しています。

多氏系図と勘中系図を並べると
初代 神武天皇  天村雲命
二代 神八井耳命 倭宿禰命
三代 武宇都彦命 笠水彦命
四代 武速前命  笠津彦命
五代 武恵賀前  建田勢命
六代 武諸木命  建諸隅命
古族多氏の子孫は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣など、全国にわたり国造になっている。

本宗家は?

建諸隅命:たけもろすみのみこと
……
邇芸速日命七世の裔孫で、建田背命の子。孝霊天皇の時、大臣となって輔弼の任務に尽くした。
諸見己姫を娶って倭得玉彦を生んだ。

武諸隅命 を祀る神社

矢田神社
矢田八幡神社
彌彦神社 境内 乙子神社
伊富岐神社 境内社

丹後國熊野郡 矢田神社
御祭神 建田背命
配祀 和田津見命 武諸隅命
「海部直の祖たる建田背命及其御子武諸隅命、和田津見命を斎き祀れるも深き由緒の存ずる所」とある。

九州の物部

筑紫弦田(つるた)物部 宮若市鶴田
二田(にいた)物部 鞍手郡小竹町新多 
芹田(せりた)物部 宮若市芹田 
鳥見(とみ)物部 北九州市小倉北区富野
横田(よこた)物部 飯塚市横田
嶋戸(しまと)物部 遠賀郡遠賀町島門
赤間(あかま)物部 宗像市赤間
大豆(おほまめ)物部 嘉穂郡桂川町豆田 
肩野(かたの)物部 北九州市小倉北区片野 
相槻(あひつき)物部 朝倉市秋月
筑紫聞(きく)物部 北九州市小倉南区企救 
筑紫贄田(にへた)物部 鞍手郡鞍手町新北
田尻(たじり)物部 田川郡糸田町泌(たぎり)

筑前鞍手 剣神社「倉師大明神 伊邪那岐命、伊邪那美命 ほか」直方市下新入字亀岡2565 倉師は高倉下のくらじ 
筑前鞍手 鞍橋神社「?」 鞍手町長谷 白鳥
筑前遠賀 高倉神社「大倉主神、莵夫羅姫命」遠賀郡岡垣町大字高倉1113 
筑前遠賀 今泉神社「大倉主神、莵夫羅姫命」遠賀郡遠賀町大字別府字宮前
筑前遠賀 岡湊神社(高倉神社の下宮)「大倉主命」遠賀郡芦屋町船頭町12-48 
豊前企救 八坂神社「須佐之男命、櫛名田姫命、天之菩卑命 配 大倉主命 ほか」北九州市門司区大字今津字丸山378

大麻神社
所在地:善通寺市大麻町上ノ村山(祭神 天太玉命)丸亀京極家編纂の「西讃府誌」に「相伝ふ弟橘姫(おとたちばなひめ)は讃岐人穂積氏忍山宿弥(おしやますくね)の娘なり」という記述があり、弟橘媛の父忍山宿弥は大麻神社の神官を務めたとされる。

弟橘姫の兄の名前は穂積忍山彦根と言う名前で、香川県善通寺市大麻町の大麻神社は、その一族が代々祭主をしている。

穂積忍山宿禰は相模の国の西側の磯長の国の領主になった。磯長の国は小田原市国府津町から中郡大磯町にかけての海岸地域。

壬申の乱

 飛鳥で兵をあげた大伴吹負は飛鳥古京の役人を味方にし,秦造熊(はたのみやっこくま)に「高市皇子がたくさんの軍勢を率いてきた」と叫ばせながら飛鳥寺西にあったとされる朝廷軍の陣営に向かわせた。これを聞いた兵たちは,散り散りになった。そこへ数十騎の兵で攻めた。
 また,小墾田の武器庫(雷丘付近)にいた朝廷側の役人(穂積臣百足)を呼び寄せて殺し,武器を手に入れた。こうして飛鳥古京を占領した。この様子を野上の大海人皇子に知らせると,皇子は大いに喜び大伴吹負を将軍に任じた。

直系

饒速日命(天津神)
宇麻志麻治命(物部氏、熊野国造と共通祖神)
彦湯支命
意富禰命
出石心大臣命
大矢口宿禰
大綜杵(兄弟に鬱色雄命、大峰大尼命)
伊香色雄命
大水口宿禰(兄弟に物部連大新河、物部連十市根)
建忍山宿禰命(妻は放橘姫)
大木別垂根命
穂積真津(穂積臣初代)
穂積阿米
穂積十能寸
穂積鎌子
穂積押山
穂積磐弓
穂積祖足
穂積古閉(兄に穂積咋、穂積人足)
穂積男麻呂
穂積濃美麻呂
穂積忍麻呂
穂積息嗣
穂積財麻呂
穂積永成
穂積豊庭
穂積国興
鈴木基行(藤白鈴木氏初代)

穂積臣押山  日本書紀
哆唎国守(みこともち)の穂積臣押山
                                

継体6年の夏、4月6日に穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣しました。その時、筑紫国の馬40頭を贈りました。

冬12月に百済は日本に使いを送って朝貢してきました。別に上表文を書いて、任那国の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県(こおり)を譲渡するように請願しました。

哆唎国守(みこともち)の穂積臣押山が
「この四県は百済に近く、日本からは遠く隔てています。哆唎と百済は近くて朝夕通い易く、鶏や犬がどちらの国のものか分からないほどです。今、哆唎を百済に与えて合併させるのは手堅い政策で、最良のものでしょう。しかし、たとえ百済と合併させても(他国からの侵略に対して)まだ危ういといえますが、それでも百済と切り離して置いたなら、数年も守りきれないでしょう。」と奏上しました。

大伴の大連金村も詳しくこの事情を知っていて同じ内容を奏上しました。 

そこで物部の大連・麁鹿火(あらかひ)を勅命を伝える使者としました。物部の大連・麁鹿火は難波の客館に出立して、百済の使者に勅命を伝えようとしましたが、その妻が強くいさめて、

「そもそも住吉大神が初めて海の向こうの金銀の国、高句麗、百済、新羅、任那などを、胎中天皇と言われる誉田天皇に授けられました。だから大后の息長足(おきながたらし)姫の尊(神功皇后)が大臣の武内宿禰と国ごとに官家(みやけ)を初めて置いて、海外の属国として長年経っているのです。そのように由緒あるものです。
もしそれを裂いて他の国に与えたなら本来の区域と違ってしまいます。永く世のそしりを受けて人々から非難されるでしょう。」
と言いました。

大連(おおむらじ)は「そなたが言うのも道理だが、勅命があった以上は、反対すれば天皇の命令に逆らう事になる。」と言いました。妻は強く諫めていいました。
「病気だと言ってあなたが伝えなければいいのです。」

大連は妻の言葉に従いました。そのため、改めて使者が選ばれて、勅文に下賜の物を付けて、百済の上表文に応じて任那の四県を与えました。
勾大兄(まがりのおおえ)皇子はこの件に関して全く知らず、あとで勅命があった事を知りました。驚いて悔いて変更する命令を下しました。

「誉田天皇の御代から官家(みやけ)を置いていた国を軽々しく隣国が乞うがままにたやすく与えられようか。」と。すぐに日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わして改めて百済の客人に伝えました。

百済の使者は言いました。
「父の天皇が便宜を図られて既に勅命を与えられたのです。子である皇子がどうして父帝の勅命を変えて、みだりに改めて言われるのですか。きっとこれは虚言でしょう。もしそれが真実ならば大きな頭の杖を持って打つのと小さな頭の杖を持って打つのとどっちが痛いでしょうか。(もちろん天皇の勅命が重く、皇子の命令は軽い。)」と言って帰国しました。

のちに「大伴の大連と哆唎国守の穂積臣押山は百済のワイロを貰ったのだ」という噂する者がいました。

出雲色大臣

 「天孫本紀」で出雲色大臣の妻とされるのが「倭志紀彦の妹、真鳥姫」であるが、この妻の名は、大売布命の妻とされる「倭志紀彦の女、真鳥姫」 に重複する事情もある。そうすると、後に大売布の子孫から志紀県主が出ることから、出雲色大臣の妻の名には疑問が生じることになる。
 これら諸事情から、大木食命とは大水口宿祢の子で建忍山宿祢の弟にあげられる大木足尼命(「足尼=垂根」)に当たるとみられる。そうすると、三河国造の初代・千波夜命は世代的に大木足尼命の子におかれ、ちょうど出雲色大臣(=大祢命)の五世孫になる(-①出石心-②内色男-③大水口-④大木-⑤千波夜)。これは、「国造本紀」の記事のとおりであり、『集成』に掲載した「油子乃命~古利乃別命」の中間三代は、『諸系譜』記載の原典に拠ったものであるが、母親の名前や系譜(二名までが後世風)から疑っていた事情にある。

 出雲醜大臣命
「醜男」は勇者の義であり、兄弟ともされる大祢命と同人かという問題があることを先にあげた。
 この者は、『姓氏録』では二個所(右京神別・若桜部造、河内神別・勇山連)に見えて、いずれも饒速日命の三世孫と記される。父は彦湯支命で、母は出雲色多利姫(一に出雲臣の祖・髪長姫)とされる。懿徳天皇の時に、「食国(おすくに)の政を申す大夫」となり、ついで大臣となって石上大神を奉斎したが、「大臣」の号はこのときに始まったという。倭の志紀彦の妹・真鳥姫を娶って、大木食命(三河国造祖)、六見宿祢(小治田連等祖)、三見宿祢(漆部連等祖)の三児を生んだ。以上が「天孫本紀」の記事であるが、「国造本紀」には三野後国造及び参河(三河)国造の祖と見える。
 物部氏族から出た東海道の国造で、三河国造だけが出雲色大臣の後とされ、大売布命の後裔にはなっていない。その設置が景行天皇の東国巡狩とは 無関係ということである。『集成』の三河国造の系譜では、三河国造が三野後国造と同じく、出雲色大臣の後という所伝も記されており、この辺をどう考えたら よいものか。
 ここまで考えてきて、出雲色大臣とは、実は兄弟とされる大祢命と同人だと考えるようになった。「大祢」は大尼(大峯大尼命に見られ、「大尼」オオネで官職と「天孫本紀」に記される。また、建胆心大祢命もいる)と同じであって、官職の名からきた通称名であり、出雲色大臣の「大臣」にも通じ、かつ出雲色大臣のほうは母の出自からきた通称とみられる。古代の人名では、異名同人の判別がきわめて重要であるが、ここにもまたその問題が出てきたわけである。
 出雲色大臣の後という三野後国造は、上掲のように大祢命の後に配置換えされたし、若桜部造は、『姓氏録』右京神別に出雲色男命の後と記されるものの、一方、和泉神別の若桜部造では止智尼(十市根)大連の後として、鈴木真年編「物部大連系譜」でも大祢命の後におかれるから、これとは合致する(『集成』の物部氏系図参照)。「伊福部家譜」では、端的に彦湯支命の子に出雲色雄命、その子に内色雄命と続けて、大祢命の名をあげない事情にある。この辺にも、同家譜の記事の重要性が知られる。
 そして、三河国造の遠祖の大木食命は、「天孫本紀」では出雲色大臣の子とされるが、一般に穂積氏建忍山宿祢の子におかれる大木別垂根と同人の 疑いが濃くなる。真年編の上記系図には、建忍山宿祢の弟の位置に大木足尼命も記載される。ここで、「天孫本紀」系譜をみると、大木食命は大水口宿祢・大矢 口宿祢兄弟と同じく第四世孫に並んでいるから、これらは同じ世代でなくとも近い世代であった可能性ある。出雲色大臣の子の三見宿祢の後とされる漆部連は、 本来は久米氏族の出で吉備中県国造同族とみられ、美作で繁衍し大和の宇陀郡にも居たから、出雲色大臣の後という系譜にまず疑問がつく。

鈴鹿の穂積氏

鈴鹿川上流を支配していた穂積氏はヤマトタケルの妻、弟橘媛の父ですが、弟橘媛の生んだ稚武彦王は天皇にはなれず、垂仁天皇の皇女であったタケルの先妻の両道入姫命が生んだ足仲彦が仲哀天皇になるわけですが、古代は母系家族ですから女系の家格は重要であり、曽我氏の後押しだったとは言へ曾孫が天皇になった大鹿氏が如何に力が有ったのかが知られます。
 この大鹿氏はタケルの父、景行天皇の頃に中央と関係を結び、雄略天皇の頃には三重の采女を出して、安閑天皇の頃には屯倉の管理者になり、壬申の乱でも大海人皇子を助けますが、『続日本紀』でも天平勝宝元年(749)に、聖武天皇が工事中の東大寺行幸の折に伊勢大鹿首が褒美を賜ったとあり、中央政府と深い結びつきを長きに渡って保ちます。

成務天皇の子

景行天皇51年8月4日に立太子、成務天皇元年正月に即位。3年に武内宿禰を大臣とした。5年9月、諸国に令して、行政区画として国 郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備を図った。ここにおいて、人民は安住し、天下太平であったという。これらは『古事記』にも大同小異で、「建内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき」とあり、『先代旧事本紀』の「国造本紀」に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えていることも注目される。48年3月1日に甥の足仲彦尊(後の仲哀天皇)を皇太子に立て、60年6月に崩御、107歳。『古事記』に95歳という。 

・大矢口宿禰
①父;出石心大臣命(異説あり) 母;新河小楯姫?
②妃;坂戸田良都姫 子供;欝色雄命、欝色謎命(8孝元后、9開化、大彦命の母)大綜杵命など 別名:大矢口根大臣
③孝霊朝に宿禰を称し大神を斎き祀る。
④榎井部祖:姓氏録和泉国神別
 
・大綜杵
①父;大矢口宿禰命 母;坂戸田良都姫?    
②「オホヘソキのみこと」妃;高屋阿波良姫 子供;伊香色雄命、伊香色謎命*(8孝元妃、9開化后、10崇神母)
③孝元朝 大禰となり開化朝大臣となり大神を斎祀。
 
・伊香色雄
①父;大綜杵命 母;高屋阿波良姫?
②「イカガシコオのみこと」
子供;物部大新河命、物部十市根命  大水口宿禰(異説あり)・建胆心禰・多弁宿禰
建新川・大咩布・気津別・武牟口など
妻:山代県主祖長溝女直木姫・笠姫・玉手姫・倭志紀彦女真鳥姫
③この頃「欠史8代」ではあるが物部氏系の皇后、妃が多数出て、天皇の外戚関係が出来ていたらしい。(この時期のみである)
④崇神7年紀:崇神朝の人物、物部連祖。
⑤天孫本紀:開化・崇神朝大臣。石上大神を祭って氏神とした。
 
大水口宿禰
①父:伊香色雄(姓氏録)(異説:天孫本紀:出石心命)(異説:鬱色雄) 
母:新河小楯姫?
②子供:忍山垂根     別名:千翁命?熊野地方伝承:饒速日命5世孫
③天孫本紀:穂積臣・采女臣等の祖。7孝霊朝に宿禰となる。
④崇神紀:穂積臣遠祖。崇神朝に活躍した人物。(崇神7年・垂仁25年の記事)
夢を見て天皇に上奏した。(大田田根子関連)
 
忍山垂根
①父:大水口宿禰   母:不明
②別名:建忍山垂禰・忍山宿禰 子供:大木別垂根・弟橘媛(日本武尊妃)・弟財郎女(成務妃)
③伊勢国在住説あり。
④景行40年記事:弟橘媛の記事。
⑤古事記成務朝:天皇が穂積臣等の祖建忍山垂根女弟財郎女を娶り和訶奴気を生んだ。

弟橘媛
①父:忍山垂根 母:不明
②夫:大和武尊 子供:稚武彦王
③日本書紀景行40年紀・古事記・常陸国風土記:有名な伝説が残されている。

さらに成務と仲哀の御名をそれぞれ実体のないワカタラシヒコ、タラシナカツヒコ(=中継ぎの天皇)と命名した上、成務と武内宿禰とを同日生まれとし、仲哀と日本武尊とは通常ありえない身長十尺(『書紀』撰上の頃の唐尺であれば約3㍍、周尺としても約2㍍)とすることによりそれぞれ両者を結んでいたのであった。

日本武尊と竹内宿禰の系統が活躍したのに、応神天皇以降 精彩がない。
成務天皇は 『日本書記』で見る限り 歴代天皇中 唯一 皇后 皇子を残しておらず その都さえも記されていない天皇である。

成務朝:天皇が穂積臣等の祖建忍山垂根女弟財郎女を娶り和訶奴気を生んだ。

岐多志太神社
田原歴史遺産
延喜式内社 旧城下郡 大木
岐多志太神社
祭神 天香語山命 天児屋根命 二柱
岐多志奴神社は村屋座彌富都比売神社の北北西約400mの大宇伊与戸と大宇大木の間にあり、楠、欅、大樹の鎮守の森に西面して、大正8年の石鳥居か建ち、境内に南面して、拝殿と二柱の本殿がある。本殿は、石基壇上に、二殿並び建ち、板葺、銅板で覆う春日造で、本殿の前に、神明造の石烏居か建つ。
この神社の祭神天香語山命の名は、石凝姥命とも呼ひ、天児屋根命と共に、鏡作座天照御魂神社と同じ、石疑姥命・天児屋根命を祀屯る。この地域の祖の物部大木連一族に、鏡作連の祖、鍛冶師連があり、「岐多志太」は「鍛冶帥田の萬菓仮名文宇の表記か。大木に「カヂヤカイト」「カンヂチャウ」の小字名かあり、これらに関わる地名か。又、天香語山命は天ノ岩戸神話で天照大御神を岩戸から出すのに歌舞音曲を用いた事から、芸能の神とされ、この大木に「フエノキ∫ツツミウチ」ヒョシダ」の小字名があり、雅楽に関連する地であったのではないだろうか
大正10年 「岐多志太神社由緒」奈良女子高等師範学校教授 水木要太郎 編
平成8年9月28日 「岐多志太神社拝殿造営記念」大字大木自治会・岐多志太神社 守屋広尚文書 より
この神社の旧社名は、太根命であったが、明治7年(1874)の神仏分離令の時、式内社岐多志太神社となった。岐多志太神社は崇神天皇7年の鎮座と伝えられている。(明治12年 大和国式下郡神社明細帳)
拝殿は、大正10年(1921)に三間半×二間と従来の二倍以上の規模に改築された。平成20年度 No.7 田観3 田原本町観光協会
社頭掲示板

岐多志太神社

當神社ハ古來ヨリ岐多志太神社ニシテ通称社號ハ神地ノ字ヲ以テ大根神ト云へリ。天香語山命亦名天降御名手栗彦命亦名高倉下命是命者饒速日命天道日女爲妃天上誕生ノ御子ナリ。 宇麻志遅命ノ御兄ノ神ナリ。大禰命ハ天香語山命ノ弟宇麻志遅命ノ第三ノ孫ナリ。其弟出雲醜大臣命ノ子大木食命アリシハ何レモ物部氏ノ御祖ナリ。大田々根命亦天児屋根命ト唱へ奉ルハ誤ナヲシナラン。大禰命亦大木食命ハ天香語山命ノ御孫ナリ。社地の字大根神亦元村名大木ト云へリ由縁アリ。然ルニ崇神天皇ノ御宇、大神神社大物主神ヲ祭ル神主大田々根命云々物部ノ八十手ノ所作祭ル神ヲ物ヲシテ祭ル八十萬群神天社國社ト云ニアルニ依リシハ吾ナリ。式内岐多志太神社ノ祭神ハ天香語山命・大禰命ナヲ。或ハ大木食命歟、其社爲、旧拠今社ノ神地及隣地字ヲ以テス。社地ノ西へ引続田地ノ字神縄ト云、其西字佃田、其西字志戸鶴、其南字柏子田、其東字鼓打、其東子笛吹ト云フアリ。
柏子田ノ南字曾根田ト云、各々皆田地壱丁宛之字ノアルハ社頭ニ由緒ノ深キ二社ノ旧証ト考証仕候也
「神社明細帳」(明治二十四年調製)

伊多神社(かがみつくりいた)
奈良県磯城郡田原本町保津150
田原本駅(近鉄) 北西 1km
祭神 石凝姥命
摂社 宇間志麻遅神社「宇間志麻遅命」
由緒 大和国城下郡の式内社。
 この地に居住した鏡の鋳造を業とした鏡作部の氏神である。鏡作部は倭鍛冶の祖としての天津麻羅の物部氏に関係がある。特に保津は穂積であり、物部氏の一族である。 カガミのカガは物部の伊香我色男や天香具山のカガ・カグと同様に銅、もしくは溶けた銅が凝り固まるコリも同じである。

鏡作坐天照御魂神社
磯城郡田原本町八尾816

祭神
中央 天照国照日子火明命(旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命とする)
右  鏡作伊多神・石凝姥命
左  鏡作麻気神・大糠戸命(石凝姥命の父命)
摂社 鏡作坐若宮神社「天八百日命」
由緒
 この地に居住した鏡の鋳造を業とした鏡作部の氏神である。記紀によると、崇神6年、皇居内の天照大御神を畏れ多いとして笠縫の地に遷座せしめたとある。八咫鏡を皇居から出したと言う事である。その代わりの神鏡を鋳造した際の試鋳の像鏡を御祭神とした。

本物は現在の皇居の内待所に祀られているのであろう。 この神社の御神体は確かに三角縁神獣鏡であるが、これは土が付いており、古墳から掘り出されたものと思われる。同笵鏡が愛知県犬山市白山平の愛知県最古の東の山古墳から出土しており、この地は、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊の12世建稲種命の子尻綱根命を祖とする尾張氏の系譜につながる丹羽県主の支配地である。

 中央の祭神は天照御魂神であり、天照国照日子火明命とされる。尾張氏の遠祖である。
さらに右座の石凝姥命は伊多神と言われる。穴師神社の御神体にもこの神社の鏡を祀った伝承があり、金属生産にからむ古代のせめぎ合いがうかがわれる。

 隣接する唐古・鍵遺跡からは石製の銅鐸鋳型の破片やフイゴなどが出土している。銅鐸作成の技術者が住んでいたが、これらの技術者は銅鐸の需要がなくなって後には銅鏡の製作に従事したものと思われる。 大和への外部勢力の侵入の物語は神武、崇神、応神天皇などが代表的であるが、銅鐸から銅鏡へ、また倭鍛冶から韓鍛冶への技術や製品の推移に対応して行っている。

 唐古遺跡からは、河内、吉備、北摂、近江、伊勢湾などの土器が出土している。弥生時代から連綿と途切れる事がない遺物が出ている。
『平成祭礼データ』から 

 上代人が己ガ魂の宿るものとして最も崇啓尊重した鏡類を製作鋳造することを業としていた鏡作部がこの地一帯にわたって住居し御鏡(天照国照彦火明神)並びに遠祖(石凝姥命)を氏神として奉祀したのが当神社であって古来鏡鋳造鋳物元祖の神として尊崇信仰されている
 第十代崇神天皇のころ三種の神器の一なる八咫鏡を皇居におまつりすることは畏れ多いとして別の所におまつり致し(伊勢神宮の起源)更に別の御鏡をおつくりになった。その神鏡を八咫鏡をおつくりになった石凝姥命の子孫鏡作師がこの地に於いて崇神天皇六年九月三日に鋳造した。それを内侍所の神鏡と称するがその鋳造に当たって斌鋳せられた像鏡は之を天照国照彦火明命と称えておまつりした。これが当社の起源である。 中座は天照国照彦火明命であり右座は鏡作の遠祖石凝姥命,左座は天糠戸命を祀り申し上げている。
 以上

岡湊神社

祭神
大倉主命 菟夫羅媛命(ツブラひめ) 素戔嗚命(スサノオ)
天照皇大神 神武天皇
仲哀天皇2年9月に、熊襲国を討つ事を決意した仲哀天皇は山口県の穴門に遷宮しました。(穴門豊浦宮)そして神功皇后もここに来るように呼び出します。
その時、この岡湊神社の近くに住む県主(あがたぬし)の熊鰐(わに)は、天皇の行幸を聞いて、あらかじめ五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を土から抜き取って、根の付いたまま九尋の船の舳先に立てて、上の枝には白銅鏡を掛け、中の枝には十握剣を掛け、下の枝には八坂瓊(やさかに)を掛けて、周防のサバの浦に迎えに行きました。そして魚や塩の産地を献上しました。

熊鰐の案内で天皇は外海から岡浦に入って来ますが、船が進まなくなりました。その原因が大倉主とツブラヒメの神の御心だと分かり、舵取りの倭の国の莵田の伊賀彦に祭らせると船が進みました。

一方、神功皇后は別の船で洞海湾から入って行き、後にこの岡の津で天皇と合流しました。

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高倉神社
旧遠賀郡21ヶ村の総社

社伝によると仲哀天皇、神功皇后が船で筑紫に入ろうとするが、山鹿岬より船が進まなくなり、 岡の県主熊鰐に聞くと、この浦の先の二神に挨拶をしないからです。と言われ、 天皇は大倉主命・莵夫羅媛命の二神に挨拶をした。すると船は進むようになったということです。 この二神は水神で神功皇后渡海の折も、神助があったので、皇后摂政二年(西暦202年)五月午の日に勅を下して、 ここに社を建て祭りをされた。と伝えられています。これが高倉神社の創建の話であり、神社では今も午の日を祭日にしています。

筑紫物部

 香春は銅山をもって知られている。『三代実録』 に「元慶二年、詔令採規矩郡銅」とある。この銅は香春の銅山のことである。規矩は企救郡のことであるが、さらに古くは聞と記した。さきにも述べたように、「雄略紀」に、物部目連、筑紫聞物部大斧手をひきいて、伊勢の朝日郎を斬るとある。これは天物部二十五部人の一つの筑紫の「聞物部」と関連があると考えられる。こうしてみるとき、久留米の高良神社と香春とをむすぶ物部一族のつながりが明らかになる。高良も香春の名前も、もともとはおなじ語であったと思われる。
 このほか、物部五部造の一人である「大庭造」は、福岡県朝倉郡朝倉町の大庭に緑由をもち、またおなじく「勇蘇造」は、福岡県糸島郡二丈町の大字深江字磯崎に関連づけて考えられている。
 これら物部氏に経由のある氏族や神社がすべて磐井の乱の後に北九州地方に根を下ろしたとみるのは信じがたいことであって、それ以前の物部氏の勢力が、磐井の乱の後に拡大したと考えるべきであろう。

宗像神社文安元年(一四四四)の縁起には「三処大菩薩最初御影向地の事、室貴六嶽に御著有り、神輿村に著き給ふ、この村において、はじめて天神威を輝かせらる」とある。室貴は今の室木のことである。また永禄九年(一五六六)の棟書に「宗像郡室木村第二宮云々、室木は初め宗像郡の内なり」とある。これによっても、室木がはじめは宗像郡に属していたことが分かり、六ケ岳と宗像女神の縁由がおしはかられる。
この室木の里長に長田彦という者がいた。小狭田彦とも書く。「六ケ岳神社記」によると、筑紫国造の田道命の子孫の長田彦が、大神の神勅をこうむり、崎戸山上に神籬を建てたとある。その子孫はながく神官をつとめたといわれる。その長田彦(小狭田彦)について「香月文書」には、本名を常盤津彦命といい、ニギハヤヒの子の天照日尊の十五世の末裔としている。天照日尊と宗像の中津宮の市杵島姫命との間に生まれた御子神のあとといわれている。直方市大字下新入字亀丘の剣神社の祭神の倉師大明神を祀るのは、田道命の裔孫の長田彦と社伝にある。室木の六ケ岳神社は六ケ岳の西に位置し、下新入の剣神社は六ケ岳の東側に位置している。ところで「香月文書」をみると、ニギハヤヒを祖とする小狭田彦の系譜に可美日子とか忍坂埴生とか埴安とか椎日下とか、物部氏の系譜にあらわれる人名を思わせるものがあちこちにあらわれてくる。香月氏は木屋瀬の北にいた中世の豪族である。したがって、その文書をそのまま信ずるわけにはいかないにしても、古い伝承を反映している点もあると考えられる。とくに椎日下の名は物部氏が河内の日下に蟠踞していたことを示唆するものとして注目に値する。また「香月文書」には、小狭田彦の四代の孫の天賀那川王は新北ならびに室木の神官に任ぜられたが、別に香月家の本家を継ぎ、香月の君となったものがいる。その養嗣子の倭男人は磐井の乱のとき、物部鹿鹿火をたすけてたたかい、磐井町子の北磐津をとらえて奴僕にした、とある。

『鞍手町誌』は新北物部が倭男人の輩下として参戦したと述べている。新北物部は「贅田物部」のことである。鞍手町新延の大塚古墳、または剣神社境内の鎧塚古墳、おなじく鞍手町八尋の鋸冠塚古墳などは贅田物部に関連があると推定されている。こうしてみれば贅田物部は六世紀後半まで勢威をふるっていた。そして六ケ岳の神を祀っていたことになる。ここで思い起こすのは、「神代紀」に筑紫水沼君などが宗像の三女神を祀っていると記されていることである。水間(水沼)君は、物部阿遅古連の末裔である。物部氏と宗像氏の関係が六ケ岳の降臨伝承をとおして確認できる。この六ケ岳の南麓、犬鳴川に沿うあたりの鞍手郡宮田町大字磯光字儀長に天照神社が鎮座する。祭神は天照国照彦天火明櫛玉餞遠日尊、すなわちニギハヤヒの命である。ニギハヤヒを祀る天照御魂神社がこの鞍手郡の六ケ岳のふもとに鎮座していたことを現地で知ったのは、大きなおどろきであった。社伝によると、垂仁帝の十六年、鞍手郡宮田村の笠木山(現在宮田町の笠置山、四二五メートル) にニギハヤヒの神が降臨したという。垂仁帝の七十七年の春には笠木山の嶺に神殿を造った。稲の初穂をふもとの谷に掛けてニギハヤヒの神に奉ったので、その谷を穂掛谷という。十九代の允恭天皇のとき、神社が野火にかかった。また高山に老幼の人びとがのぽることが困難なので、笠木山頂の宮をふもとの穂掛谷に移した。そのとき、数千の石をあつめて、その上に社殿をたてたので、のちにその場所を千石原という

菟名手を豊国直に

 景行紀によると、景行天皇は十二年九月に周防国佐波にいて、九州に賊が多くいることを警戒し、三名の部下に偵察させた。多臣の先祖の武諸木、国前臣の先祖の菟名手、物部君の祖の夏花である。この三名はいずれも九州の土豪と見られる。多氏の同族に大分君があり、また物部氏は豊前の企救郡と関係がふかい。景行帝は豊前国の長峡県にいって、行宮を建て、そこを京と呼んだ。「和名抄」の豊前国京都郡で、今の行橋市あたりである。ところで、国前臣の先祖と記されている菟名手が景行帝の命で形勢を探るために、豊前国の仲津郡の中臣村にいったときに、白い鳥に出会った。白い鳥は餅になり、さらに芋となった。菟名手が朝廷にそれを奏上したところ、天皇はよろこび、菟名手に豊国直のカバネを賜ったと「豊後国風土記」にある。仲津郡の中臣村は「和名抄」の仲津郡仲津郷で、福岡県行橋市草場や福富など今川の流域とされている。豊前国の国府もみやこ町国作にあった。国作は豊国直もしくは豊国造の住んだところとされる。そこの国作神社について「地名辞書」は「古事記」に見える豊日別、あるいは豊国直菟名手を祀ったのであろうと推測している。国作神社は廃絶して地名だけが残っている。
 今日、豊日別宮は行橋市草場に鎮座する。宇佐神宮の放生会では、香春町の採銅所にある清祀殿で鋳造した宝鏡は、まず豊日別宮に納め、それから国作に仮宮する。そこから国府の総社八幡宮の氏子たちが供をする。そのあと、祓川でみそぎをする、という順路をたどって宇佐本宮にむかう。
 こうして見ると豊国直菟名手は行橋市とみやこ町にまたがる地域を中心に治めていたことは確実である。

筑紫国造 鞍橋君

鞍橋君は大和朝廷が百済と同盟して新羅とたたかったとき奮戦したのであるが、その戦闘には竹斯物部莫奇委沙奇なども加わっている。竹斯は筑紫であるから、おそらく筑紫物部は遠賀川の流域に播踞していたと思われる。前にみたように直方市下新入の剣神社は筑紫国造の田道命が筑紫物部をひきいて祀った神社で、倉師大明神と呼ばれたというから、筑紫国造として勢威を張っていた鞍橋君もまたそれと関係があったのであろう。『鞍手郡誌』には「現に郷内に鞍橋君を祀りし黒治社の廃址あり」と述べている。『旧事本紀』 の「国造本紀」によると田道命は阿倍氏と同族で大彦命の五世の孫となっており、物部氏とは深い緑由をもっている。また剣神社のある鞍手町新北はさきに述べたように贅田物部の居住地である。『聖徳太子伝』には「物部守屋の次男片野目の連の四男辰狐の連を筑前鞍手に流す」とある。物部守屋は用明天皇二年(五八七) に蘇我馬子にほろぽされた。この『聖徳太子伝』は文保二年(一三一八) の著作で、内容は信じがたいといわれるが、物部一族を鞍手郡に流したというのは、鞍手郡が物部一族の根拠地であったからであろう。こうしてみれば、倉師、闇路、黒治、鞍橋と書いて、すべてクラジと読ませているのは、物部氏につながりがある名前とみなければならぬ。ここにおいて想起するのは、「神武紀」に高倉下、または兄倉下・弟倉下の名前が登場することである

仲哀天皇 大倉主

「仲哀紀」には、神功皇后が山鹿から岡の浦に海をわたった が、船がすすまなくなったと述べてある。山鹿は『和名抄』にいう筑前国遠賀郡山鹿郷で、いまも遠賀川口の東に遠見の鼻があるが、そこを山鹿岬と呼んだ。岡 の浦は「神武紀」にいう岡の水門であり、福岡県遠賀郡芦屋町付近を指す。神功皇后の船のすすまなくなった原因を聞くと、岡県主の先祖の熊鰐(わに)という 者が進み出て、岡の浦に、大倉主、菟夫羅(つぶら)媛という男女二神がいますが、その神の怒りに触れたのであろうと答えた、そこで皇后は別の船に乗りかえ て洞海(くきのうみ)から入ったという。

 大倉主の大は美称であり、主はその支配者である。倉は山穴または谷を意味する。岫または洞は洞穴とか、山の 峰とか、両がわが崖になっている陸路をさす。『出雲国風土記』に記されている「加賀の潜戸」の潜も同様である。現在でも茨城県北部から福島県や宮城県にか けて、峰や峠をクキと呼んでいる。『筑前国風土記逸文』に次の文章が記されている。

「塢舸(をか)の県。県の東の側近く、大江の口あり。名を塢舸の水門と日ふ。大船を容るるに堪へたり。彼より島・鳥旗(とはた)の澳(うみのくま)に通ふ。名を岫門(くきど)と曰ふ。小船を容るるに堪へたり」

 ここにいう大江は遠賀川の川口で、古くは入りこんで洞海湾に通じており、大船を入れることができるくらい広 かった。そこから若松、戸畑(ともに北九州市)の方にぬける海峡を岫門(くきど)と呼んだ。『日本書紀』に洞海(くきのうみ)と記してあるのをこの『筑前 国風土記逸文』には岫門といっている。要するに洞も岫もおなじ意味に使用されている。この洞または岫と、倉とは同じ意であると、岩波古典大系本の『日本書 紀』の補註は述べている。したがって倉主というのは洞の主のことだという。つまり大倉主を洞海の主とするのである。

筑紫の物部
筑後に目を向けるなら、その一の宮である高良大社もまた物部氏の深く関係し、同地の赤星神社は筑紫弦田物部の祖・天津赤星を祭祀し、また同地の伊勢天照御祖神社の祭神が天照国照彦天火明尊(饒速日命)であることを保証している。このように九州は天照大神の影なぞついぞ見ぬ、饒速日命信仰圏以外でないのである。それは物部一族が、「筑後国の三潴・山門・御井・竹野・生葉の各郡を中心として、筑前国では嘉麻・鞍手両郡・西には肥前国の三根・松浦・壱岐へとひろがり、東は豊後国まで分布する」(『日本の神々1』)という奥野正男の言に重なる。それは四国をへて近畿に及び、大和国にある鏡作坐天照御魂神社、他田(おさだ)坐天照御魂神社、新屋坐天照御魂神社、それに山城国葛野郡木島坐天照御魂神社の祭神もまた、奥野正男は饒速日命を祀るという古い伝承に行き着いている。

 物部氏が出雲の神裔であることは『先代旧事本紀』に明らかで、天孫降臨事件は、出雲の日神である饒速日命の支配地域外の筑紫に、高皇産霊命一族による月読信仰が入り、筑後で合体したことを語るものである。

そして時経ってこの月神信仰に代わり、その傍系の一族が大和朝廷に至る支配を確立するにつれ、再び日神信仰が立ち上がったとき、かつての饒速日命信仰を剽窃しつつ、天照大神が立ち上がったのである。神宮司庁は天照大神を祭祀する神社を天照神社と呼ぶことなく、神明神社としていることによっても明らかで、それは現在、全国に一万五千社近く分布するという。