秩父国造、武蔵国造

高橋氏文によると、
無邪志国造上祖 大多毛比(えたもひ)
知知夫国造上祖 天上腹・天下腹

一方、「氷川神社」社伝には「成務天皇のとき、夭邪志国造である兄多毛比命が出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神とした。」とある

用明天皇2年(587)に大連物部守屋は蘇我馬子らに討たれて物部大連家は衰退してしまう。ところが聖徳太子の舎人として活躍し仏教に理解のあった物部連兄麻呂という人物が633年に武蔵国造に任じられたといわれている。そして、埼玉古墳群をつくった豪族はこの物部連兄麻呂と関係があったとされている。物部氏やその系統にある阿倍氏らと地方豪族である武蔵の物部連氏(物部連兄麻呂)がつながっていたといえる。現に武蔵国造職は丈部直(阿倍氏)や物部連などが務め、8世紀の律令時代の国造は氷川神社を奉斎していた足立郡の丈部直(はせつかべのあたえ)氏(のちの武蔵氏)の手に帰していった
のちの「武蔵国造」である丈部直(はせつかべのあたえ)氏は「武蔵国」を再編成した際の新興勢力(阿倍氏・物部氏系統)であり、新たに「氷川神社」を奉じたと考えられる。
丈部氏は神護景雲元年(767)には一族7名が武蔵宿禰の姓を朝廷から与えられると共に丈部不破麻呂が武蔵国造に任命され、氷川神社の祭祀権を認められている

氷川神社は荒川・多摩川流域に多く、埼玉県を中心に東京都・神奈川県の一部にわたり、現在でも200社以上がこの地域に分布している。その中心が大宮(現さいたま市)高鼻に鎮座する、武蔵国一の宮「氷川神社」である

一之宮とは、中世に全国的に確立した、国内における神格の格付けで、国内第一の鎮守という意味です。
南北朝時代に成立した『神道集』の記載にも『一宮は小野大明神』という記載が見られ、一宮=小野神社であることが確認できます。
武蔵国内には
一之宮小野神社(当社:多摩市)を筆頭に、二之宮小河神社(現・二宮神社:あきる野市)、
三之宮氷川神社(さいたま市)、
四之宮秩父神社(秩父市)、
五之宮金鑚(かなさな)神社(児玉郡神川村)、
六之宮杉山神社(横浜市緑区西八朔)が編成されていたことが分かります。

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武蔵総社・六所宮(現・大国魂神社)の境内には、この6つの神社が祀られています。総社は、国内の神霊を一箇所に集めた神社で武蔵国の場合は、国府内にありました。六所宮の例大祭(くらやみ祭)では、境内に祀られている一之宮から六之宮の神輿が出御し、かつて6つの神社が六所宮に集結したようすを残していると思われます。
一之宮から六之宮の位置は武蔵七党など武士団の分布に深くかかわっていると言われています。小野神社は横山党・西党、小河神社は西党、氷川神社は野与党・足立氏、秩父神社は丹党・猪俣党、金鑚神社は児玉党、杉山神社は横山党など、それぞれの武士団の影響下にあったと推測されます。

古代の武蔵

「武蔵国」になる前
5世紀から6世紀にかけての古墳時代の武蔵国国造勢力圏を考えてみる。
武蔵国となる以前は、
「夭邪志」「胸刺(む(な)さし)」「知々夫(ちちぶ)」の各々の国造(くにのみやっこ)の支配下にあった。
このうち「夭邪志」「胸刺」国造は出雲臣系氏族で、それぞれ兄多毛比命(エタモヒ命)とその子である(イサチノアタイ)を祖とするため、両氏の縁はかなり深かったと思われる。
一方で、「知々夫」国造は大伴氏の始祖である高御産巣日命(タカミムスヒ命)の子である八意思兼命(ヤツゴコロオモイカネ命)の十世の孫である知知夫彦命(チチブヒコ命)を始祖とするから、前二氏とははっきりと違う系統であることがわかる。
「夭邪志」「胸刺」両国の国造が古墳時代以来の有力豪族であったと考えられるなら、まずは北武蔵領域の埼玉古墳群を中心とした一帯を考えることができる。そして「夭邪志」「胸刺」は始祖が親子関係にあるため「夭邪志」がより有力な豪族であったと考えられる。
そうすると「夭邪志」国造は埼玉古墳群とその周辺の大古墳を築いた豪族と関係すると考えられる。
そして縁戚にある「胸刺」国造の領域は、容易には推測できない。

桓武平氏の良文流が秩父に入るはるか以前、百年はど前から、武蔵国に乱立し た土豪たちは血縁的な党派を結成して、後に武蔵七党と呼ばれる集団となった。 そして秩父には丹党と呼ばれる丹治氏の一族があった。

その「丹治系図《によると、先祖は「宣化天皇の後裔、武蔵守多治比広足五代 の孫、武信《とあり、例によって偽系図とされている。その根拠とされるもの が、紀国に丹生神社を祭る「丹生祝氏系図《系図に、丹生祝氏から別れた秩父 丹治氏の系図が載せられていることによる。

高橋氏文
宮内省内膳司に仕えた高橋氏が安曇氏と勢力争いしたときに、古来の伝承を朝廷に奏上した789年(延暦8年)の家記が原本と考えられる。しかし完本は伝わっておらず、逸文が『本朝月令』、『政事要略』、『年中行事秘抄』その他に見えるのみである。
伴信友が1842年(天保13年)に自序の『高橋氏文考註』にまとめた。これに関する791年(延暦11年)の太政官符が存在する。

大彦、膳臣、高橋氏
『日本書紀』では「磐鹿六雁(磐鹿六鴈)」、他文献では「磐鹿六獦命」「伊波我牟都加利命」とも表記される。
第8代孝元天皇皇子の大彦命の孫で、比古伊那許志別命(大稲腰命)の子とされる。膳臣(かしわでのおみ、膳氏)及びその派生氏族の高橋氏の祖である。

高橋氏文には、景行天皇が皇后とともに後の安房国へ旅行した際、食事の相伴係として无邪志国造の上祖大多毛比(エタモヒと読むがオホタモヒと読む説もある)と知々夫国造の上祖天上腹、天下腹等を呼んだ、とある

氷川神社と兄多毛比命
氷川神社と小野神社は新旧の武蔵国一の宮で、いずれも兄多毛比命との所縁を
説いている。
 特に、小野神社の説明では小野神社の祭神は天下春命と瀬織津比売命でこの説明では或いは兄多毛比命は知々夫国造と同族か。しかし、小野神社の祭神は本来瀬織津比売命一座という説もある。小野とは小野郷からの神社名と言うが、小野とか瀬織津比売命とか何か滋賀県に関係があるように思われる。古代豪族小野氏は滋賀県の出身(近江国滋賀郡小野村)と言うし、瀬織津比咩命は滋賀県の神社に祀られることが多い。例として、佐久奈度神社(さくなどじんじゃ)名神大社、天智天皇8年中臣朝臣金連が創建、河桁御河辺神社など。小野郷も小野神社も大化の改新後小野氏が近江から武蔵へ導入したものではないか。何せほかの多摩地域の式内社は出雲系の神を祀る神社が多いのに(例として、阿伎留神社、阿豆佐味天神社、穴澤天神社、布多天神社)、小野神社ばかりが特殊な神々を祀っている。
案ずるに、やはり武蔵国には今の東京都府中市界隈に出雲系の国造と埼玉県行田市界隈に土着の大彦を祖とする国造がいたのではないか。
二人の国造がどのくらい並立していたのかは分からないが、棲み分けとしては。出雲系の国造が多摩川以北の多摩地域から児玉郡までを結んだ地域ではなかったか。児玉(こたま)郡は、かたま郡の訛りで彼方(遠方)の多摩という意味では。これに対し大彦系の国造は埼玉郡、足立郡及び今の東京23区あたりが地盤ではなかったか。安閑天皇の御代武蔵国造笠原直使主が屯倉として横淳(武蔵国横見、今、比企郡吉見町)、橘花(武蔵国橘樹、今、川崎市住吉)、多氷(氷は末の誤りとし、武蔵国多摩郡)、倉樔(樔は樹の誤りとし、武蔵国久良(岐)郡、今、横浜市)の地を朝廷に奉ったというのも、横淳は別としてみんな今の多摩川以南の地であろう。多氷は今の多摩市あたりかと思う。また、横淳も横見ではなくどこか今の多摩川以南にある神奈川県の地ではないか。要するに、武蔵国と言っても今の神奈川県は統治の範囲外だったのではないか。この時、まだ出雲系の国造がいたかどうかは不明である

「小野神社」     
(武蔵一の宮・式内小社論社・郷社・多摩市一之宮鎮座)

御祭神
天乃下春命(アメノシタバル命・ニギハヤヒ尊に供奉した神・オモイカネ神の御子(アメノシタバル命が秩父国造の祖ともいう)ともいう)
瀬織津比売大神(セオリツヒメ大神)
イサナギ尊・スサノヲ尊・オオナムジ大神・ニニギ尊・ヒコホホデミ尊・ウカノミタマ命

 小野神社の創始は安寧天皇十八年二月(約2000年前)、または八世紀中頃と言われているが、いずれにせよ定かではない。光孝天皇元慶八年(884)には正五位上に神階が進められた記録があり、延喜の制では式内小社として名を連ねている。
 もともと多摩郡の小野牧は陽成上皇の御料牧であったが、承平元年(931)に敕旨牧に編入されている。この牧を経営し、別当に任じられた小野氏が奉斎してきたのが小野神社であった。中世には武蔵国衙に近在する神社の筆頭として、また府中の大国魂神社(武蔵総社六所宮)所祭神座の第一席に「一の宮 小野大神」と記載されることから「武蔵一の宮」とされている。
 多摩市(南多摩郡)の小野神社小野神社は神域3800平方メートル、大正十五年の失火後の再建という。

「小野神社」     
(式内小社論社・郷社・府中市住吉町鎮座)
御祭神
天乃下春命(アメノシタバル命)
瀬織津比売大神(セオリツヒメ大神)
 創立年代は不明。
 小野神社に祀られている祭神のアメノシタバル命はニギハヤヒ命が河内国に降臨した際に供奉した神という。兄武日命が初めて、この県の国造となったときに祖神として多摩郡に勧進し祭守したと伝えられている。

小野神社 府中市住吉町
人皇三代安寧天皇ノ御代、御鎮座。祭ル所天下春命大神也・・・出雲臣祖二井諸忍野神狭命ノ十世兄武日命、始テ此懸ノ国造ト成玉フ時、御祖神タル故、此地ニ勧請鎮守トナシ給フ(式内社小野神社由緒、正和二年(1313)秋七月神主澤井佐衞門助藤原直久)

「二宮神社」     
(武蔵二の宮・郷社・別称「小河神社」・あきる野市二宮鎮座)

御祭神
国常立尊(クニノトコタチ尊・神世七代の神)

 二宮神社は明治期までは、小河大明神・二宮大明神と称していた。府中の大国魂神社(武蔵総社六所宮・大國魂神社)所祭神座の第二席に「二宮 小河大神」と記載されることから「武蔵二の宮」とされている。
 創建年代はあきらかではないが朱雀天皇の御代に、藤原秀郷が天慶年間(938-947)の平将門討伐のために関東出陣した際に当地で戦勝祈願を行い、社殿を造営したとされている。その後も、建久年間(後鳥羽天皇の代)に源頼朝の寄進、天正元年(正親町天皇の代)に北条氏政も寄進。また北条氏照(氏政の弟・武蔵滝山城主)は当社を祈願所とし篤く崇敬したとされる。
 明治三年に社号を二宮神社と改称し、郷社に列せられている。現在の社殿は江戸期の建立

 厚木市小野の式内社小野神社は、末社に阿羅波婆枳社がある。『新編相模国風土記稿』には「祭神は天下春命で、阿羅波婆枳、春日の二座を相殿とす」とあるという。近江雅和『隠された古代』では、阿羅波婆枳神は主祭神であったものを、天下春命を主神の座に置いて、中央の圧力をかわしたものと思われるとする。小野神社は寒川神社と西北45度線をつくる。ただ、小野神社はもともとは現在地の西南400mほどの「神の山」といわれる小山に祀られていたといい、現在その頂上には秋葉神社の小祠があるという。

知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ・ちちぶこくぞう)
武蔵国西部を支配した国造。秩父国造とも。
祖先
八意思兼命。高皇産霊尊の子。思慮深い神。天児屋根命と同一神説がある。
『国造本紀』には崇神朝に10世孫の知々夫命が知々夫国造に任じられたとある。
氏族 大伴部氏か。姓は直。
後裔
天上腹・天下腹・・・・景行朝の人。大伴部氏の祖?磐鹿六狩命に従って天皇に料理を献上した。
大伴部赤男・・・・奈良時代の武蔵国入間の豪族。外従五位下。知々夫国造の末裔か?

時代が降ると「入間郡」に「高麗郡」が新設され渡来系氏族が入植し「高麗神社」祭祀圏(大宝3年(716)に高麗神社創建・現在約50社ある)ともいうべきものが出来上がる。p

ヤマトタケルと関東東北を平らげた後、随行していたタケヒが武蔵の国造となり、その子どもが武蔵国造を継ぎ、他の1人が上総菊間を監督し、他の2人は西国へ、となったように読めます。なお、国造本紀には、房総の、阿波国造、大伴直大瀧、と云うのもあり、これも大伴武日の子孫かと考えられます。
武日
垂仁紀25年2月紀には、「武日」は大伴連の遠祖とあります。
景行40年7月紀では、大伴武日連をヤマトタケルの東征に随行させます。
同10月紀では、靫部(ゆけいのとものお)を大伴の遠祖である武日に賜った、とあります。
つまり、ヤマトタケルと関東東北を平らげた後、随行していたタケヒが武蔵の国造となり、その子どもが武蔵国造を継ぎ、他の1人が上総菊間を監督し、他の2人は西国へ、となったように読めます。なお、国造本紀には、房総の、阿波国造、大伴直大瀧、と云うのもあり、これも大伴武日の子孫かと考えられます。