神功皇后

「神功皇后の侵攻に新羅王は降参し、倭に朝貢することを約束した。また新羅王は微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質に差し出して、金・銀・彩色・綾・絹をつけて、神功の軍船に従わせた」
と書紀は記している。

402年に新羅王の子の未斯欣(みしきん)を倭へ人質として出した(新羅本記)、という記録と一致する。

 古文書や古い縁起によるとこの宮地嶽神社の祭神は、「阿部丞相(宮地嶽大明神)、藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)」となっている。
 筑前國續風土記拾遺によると「中殿に阿部亟相、左右は藤高麿、藤助麿。此三神は神功皇后の韓国言伏給ひし時、功有し神也といふ。勝村、勝頼両神は三韓征伐で常に先頭を承はり、勝鬨を挙げられたりと祀る。」とある。

 藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)とは神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の「安倍高丸」「安倍助丸」であるという。
 「塵輪」とは軍術にたけた悪鬼が異国より攻めてきたとき、第14代天皇「仲哀天皇」が安倍高丸、安倍助丸を従えて、神変不測の弓矢をもって退治するという物語である
 塵輪には翼があり、天空を自在に駆けめぐることができたという。羽白熊鷲のこととも。

 津屋崎の北部に「勝浦」がある。ここには「勝部氏」が在したと伝わる。勝部氏は秦氏の一族で宇佐の辛嶋勝氏に繋がる。
 阿部の勝村、勝頼の両神とはこの勝部氏に拘わるという。

 阿部丞相は神功皇后の三韓征伐従い、功があったという。丞相(じょうしょう)とは、古代中国の秦や漢王朝における最高位の官吏。今でいう総理大臣。となると「武内宿禰」のことであろうか。

 神功皇后に従った阿部氏族に、崗県主熊鰐と吾瓮海人烏摩呂がいる。
 崗県主熊鰐は仲哀天皇が筑紫に行幸した際、周芳に迎えた。「崗」とは「遠賀」。遠賀郡に子孫が残り、八幡の豊山八幡神社を奉祭するという。
 吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)は、半島への中継地、阿閉島を本拠とする。熊鰐が仲哀天皇に献上した津屋崎沖の「相島」である。三韓遠征の際、吾瓮海人烏摩呂は志賀島の阿曇氏に先立って、西の海に偵察に派遣される。

神功皇后(14代仲哀天皇皇后)が新羅を征して凱旋し、大嘗会を行なった時、安倍氏の祖先が「吉志舞」を奏したという。この神功皇后との関係と、舞を奏し、内膳として仕えるという従属儀礼の形から、私は阿部氏を海人系だと思うのであるが、この時代の阿倍氏というと、記紀には、崗県主熊鰐と吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)くらいしか登場しない。

また、記紀伝承にはないものの、神楽の「塵輪」や「八幡宮縁起(島根県那賀郡雲城村八幡宮所蔵)」に登場する仲哀天皇の腹心、安倍高(竹)丸と助丸あたりが、この時代に当て嵌まる。この高丸、「塵輪」では英雄なのに、「諏訪大明神絵詞」などには、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ・平安初期の武人。征夷大将軍となり、蝦夷征討に大功があった。正三位大納言に昇る。また、京都の清水寺を建立。本姓・東漢氏(758~811))をてこずらせた悪者として登場している謎の人物だ。時代も全然合わないし、どうも蝦夷の王という観点から、奥州の安倍氏の人だと思われる。

また、「吉志舞」の吉志は吉師(大和朝廷で、外交・記録などを職務とした渡来人に対する敬称。後に姓の一つとなる)で、阿倍氏は吉師部を統率していた伴部と考えられる。吉師氏は、大阪府吹田市に本拠を持つ豪族で、JR京都線の吹田駅の一つ京都よりに「岸部(きしべ)」とう地名が残っている。岸部駅北西の名神高速道路南側に紫金山という丘陵地があり、その麓に座す吉志部神社が奉斎社で、祭神は、天照大神・八幡大神・素戔嗚大神・稲荷大神・春日大神・住吉大神・蛭子大神の七神。いかにも海人系のラインナップだ。

吉志部神社の社家は「岸氏」。社伝には、崇神天皇56年、大和瑞籬(大和の布留の社=石上神社・社家物部氏)より奉遷し、「太神宮」として創建され、淳和天皇の天長元(824)年、「天照御神」と改称され、応仁の乱の兵火で消失したあと、文明元(1469)年再建、慶長15(1610)年に到って岸家次・一和兄弟によって再造営され、明治3年神仏分離後、「吉志部神社」と改称され現在に至っているという。

この地には、一万五千年前の石器が出土した吉志部遺跡があり、神社の東には、1400年前(古墳時代後期)の横穴石室のある古墳も発掘されているところである。大阪中心部の津守氏の住吉区に近い阿倍野からはかなり離れているにもかかわらず、彼らは「安部難波吉師(あべなにわきし)」と呼ばれ、紫金山麓に一大瓦工房を造り、難波宮や平安京の瓦を作り続けた。焼き物というと、吉備氏の伊部焼や、越智氏の河内陶都耳命を思い出す。吹田は淀川水運の要所で、継体天皇ゆかりと思われる「三国」の地名もある。同じ「吉志」の地名が、和布刈神社の北九州市門司区にあるのも興味深い。

記紀は、難波の吉師氏の祖は、仲哀天皇の長男忍熊王(おしくまのみこ)の腹心の部下で、応神&神功の軍に攻められて一緒に入水自殺した、五十狭茅宿禰(いさちのすくね)としている。この人は、天穂日命→天夷鳥命の子孫で、出雲国造(出雲大社社家、祭神:大国主命)・土師連(菅原氏・大江氏)、武蔵国造(氷川神社社家、祭神:素戔嗚尊)と同族だ。しかしながら、この阿倍氏の系図によると、大彦命の子に、波多武日子命(はたたけひこのみこと)という人がいて、この方が難波吉士(なにわきし)三宅人の祖となっている。

阿倍氏と吉師の関係を結ぶのは「難波」の地だ。難波の住吉のすぐ側に、何故に阿倍野の地名があるのか? 古事記は五十狭茅宿禰を「難波の吉師部の祖」とハッキリ書いている。子孫には、三宅吉師の祖となった、三宅入石もいる。五十狭茅宿禰が吉師部の祖で、それを統率したのが阿倍氏なのだろうか? 阿倍氏の部民としてしまうには、出雲国造と同祖の五十狭茅宿禰は名族の出過ぎる。それに、この阿倍氏の波多武日子命の妹、御間城姫命が産んだ11代垂仁天皇の和風謚号は、なんと「活目入彦五十狭茅命」という。当時の皇子は、母方の乳部の名をもらうことが多く、垂仁天皇は「五十狭茅」という名を阿倍氏から貰った可能性が高い。とすると、吉師氏の五十狭茅宿禰と阿倍氏の波多武日子命は同一人物なのだろうか?