相模、小野神社、橘の君

ホツマツタエより
相模の小野。 
オオヤマズミのマウラは、アスカ川を模してここに新田をなし、橘の木を植えて、代々「橘の君」となる。 
  

神奈川県厚木市小野、小野 (オノ) 神社。 
東京都多摩市一ノ宮、小野 (オノ) 神社。
  

■サガムのオノの場所については絞りきれていない。かなり広い範囲を指す地名のようだ。
「オノ」は、江ノ島の「ヱノ」の訛とも思え、そうすると「サガムヱノシマ=サガムのオノ」とも考えられる。「サガム」を「ヱノシマ・オノ」の枕詞と考えれば、サガム・ヱノシマ・オノはどれも同一の地域を表す地名なのかもしれない。

タチバナモトヒコ・カグモトヒコ
橘モトヒコ。 
橘の君(カグのキミ)。ハナタチバナ姫 (タジマモリの妻) の父。オトタチバナ姫の祖父。 
時すでに中央政権から独立してヱミシと呼ばれていたホツマ国の国造だったと思われる。 
たぶんオオヤマズミのマウラ (橘の君) の後裔。中央とヒタカミの間に在って微妙な立場だったと思われる。 
トコヨ国 (ヒタカミ) に向かったタジマモリは、モトヒコの家に滞在してヒタカミミチノクやシマヅミチヒコらと親交を深める。ハナタチバナ姫を娶ったのもこの時だと思われる。
また「ホツマ知る侍」のタケウチも、遠国の風俗習慣について、橘の館のモトヒコに聞いている。
ヤマトタケのヱミシ征伐のとき、タチバナモトヒコはサカムのオノに城を構えており、ヒタカミ軍の攻撃に備えて、ホツミテシ・サクラネマシ等と共にこの城の守りを固めて、ヤマトタケの軍が到着するのを待っていた。 
東国平定後にミサシ(武蔵国) とサガム(相模国) を賜る。
   
  
『遺し文 御子 見給ひて 橘君がハナタチバナは彼が妻 オシヤマ遣りて呼ばしむる』37文
『父 モトヒコと 上り来る 御子 喜びて モトヒコに 許し衣 賜ひ 喪を務む』37文
『モトヒコ 曰く 国 知るの 道は往にし方 根の国の 大きの祭る 神の御食 十一月の末の 弓張に 神乗り粥は 黒豆と 大麦と小豆と 七菜の米 粥に炊ぎて ウケミタマ 五柱 祭り』38文
『根心を 明かし帰りて 二十七年二月の 十三日 申さく ”ヒタカミは 女男の子 髪を 揚巻に 身を紋取りて 勇み立つ 総てヱミシの 地 肥えて 服わざれば 取るも好し”』38文
『先にタジマが 遺し文 ”国 染まざれば 橘の木を 得んと思えば 橘の モトヒコが家に 年 経りて 馴染みて巡る ヒタカミと シマツの君に 会い知りて やや得て橘を 引かぬ間に 君 神となる 散々悔み 今 若宮に 奉る 君 僕が モトヒコに 結ぶしづくの 源を 思して ホツマ 領ろし召せ”』39文
『ここに皇 タケウチと 語り合わせて ホツマ国 橘モトヒコを 己になして タチハナ姫と ホツミテシ サクラネマシを 先に遣り』39文
『軍 下れば ヒタカミが 招く モトヒコ 頷かず 相模の小野に 城 構え テシとマシ等と 守 固む』39文
『ここにモトヒコ 諸に告れ ”服ろはざれば 殺す故 大御宝が 恵り 請う” ’事始’ とて 十二月八日 橘籠 立てて 標とす』39文
『相模の館に 入りませば 野に片鐙 トラガシハ 拾い考え 鐙 挿し 今 奉る 珠飾り』39文
『褒めて賜わる 村の名も タマカワアフミ ミサシ国 相模の国と モトヒコに 名付け賜わる 国つ守』39文

相模の小野の城。
ヤマトタケのヱミシ征伐のとき、オオヤマズミ・マウラの子孫と思われるタチバナモトヒコは相模の小野に城を構えており、ヱミシの軍の攻撃に備えて、ホツミテシ・サクラネマシ等と共に城の守りを固めて、ヤマトタケの軍が到着するのを待っていたが、敵は城に火をつける。
ヤマトタケはヤグラノ岳(矢倉岳)に登ってサガムのオノ城を遠望し、火の手が上がるのを見て、先ずキビタケヒコの軍を南方の大磯に向けて出発させ、次にオオトモタケヒの軍を大山の北側に巡って裏より入城させ、南北に別れて敵を挟み撃ちに追いつめ戦う。ヤマトタケは白橿の太刀をハラミ山の御神体として『火水の祓い』を宣り、タツタの神を召喚してコノシロ池のタツに城の火を消火させる。

城の場所はホツマの記述から、大山と大磯の間と推察される。「あふり山(雨降山)」という別名を持つ、大山の阿夫利神社 (雨乞いで有名) が相模の小野の城跡なのかもしれない。
神奈川県伊勢原市大山、阿夫利 (アフリ) 神社。
『軍 下れば ヒタカミが 招く モトヒコ 頷かず 相模の小野に 城 構え テシとマシ等と 守 固む』39文
『相模の小野の 城攻めを 固く守れば 仇族 四方に焚木を 積み上げて 七十日 日照りに 火攻めなす』39文
『ヤマトタケ 矢倉の岳に 登り見て キビタケヒコを 大磯へ オオトモタケヒ 大山の 北に回りて 城に入れ 南北に分ちて』39文
『ヤマトタケ 髪 梳き清め 白橿の 太刀をハラミの 御柱と 祈る火水の 清祓 タツタの神の 現れて 熟聳池の 竜の雨 降り 火を消せば 宮軍 勇みて仇を 半ば討つ』39文
『碓氷の坂に ヤマトタケ 別れし姫を 思ひつつ 東南を望みて 思ひ遣り 形見の歌見 取り出だし 見て ”実々し 相模の小野に 燃ゆる日の 火中に立ちて 訪ひし君はも” これ 三度 吾妻 あわやと 嘆きます 東の元や』39文

忍山。忍山宿禰。 
=ホツミテシか。穂積氏の祖。ムメ大宮の祝人の穂積のオシ大人の後裔だと思われる。 
夫のタジマモリを失ったハナタチバナ姫を娶る。オトタチバナ姫の養父。タジマモリに容姿が似ていたと言う。
ヤマトタケの東征に先駆け、オトタチバナ姫 (タジマモリの娘) とサクラネマシ (桜根左近) と共にサガムのオノの城に遣わされる。

神奈川県中郡二宮町山西、川勾 (カワワ) 神社。
千葉県茂原市本納、橘樹 (タチバナ) 神社。
香川県善通寺市大麻町上ノ村山、大麻 (オオサ) 神社。
  

★『旧事』相模国造穂積忍山宿禰。日本武尊の妻、弟橘媛の父。 
★饒速日命-宇麻志麻治命-彦湯支命-意富禰命-出石心大臣命-鬱色雄命-大水口宿禰-建忍山宿禰命-大木別垂根命-【穂積】真津-阿米-十能寸-鎌子-押山。
★弟橘姫の兄の名前は穂積忍山彦根と言う名前で、香川県善通寺市大麻町の大麻神社は、その一族が代々祭主をしているそうです。
★穂積忍山宿禰は相模の国の西側の磯長の国の領主になった。磯長の国は小田原市国府津町から中郡大磯町にかけての海岸地域。
■タジマモリを失ったハナタチバナ姫を娶ったときに、モトヒコの臣として下されたのではないだろうか。また元々ホツマ国に縁の深い人物だったのかもしれない。