玉置神社、玉置山縁起

熊野の奥の院

紀伊半島中央の大峰山脈最南端・玉置山。その頂上近く、標高1,000mを超える地に鎮座する玉置神社は、熊野三山の奥の院といわれ、役の行者も空海も修行に立ち寄った聖地。

「神々が降り立った」と伝えられる霊峰玉置山からは、はるか太平洋と熊野の山並みを望み、境内には、樹齢3000年といわれる神代杉をはじめ杉の巨木がそびえ立つ。第十代崇神天皇の時代に王城火防鎮護と悪神退散のため、創建されたと伝えられています。本殿は高山の山中には珍しく豪壮な入母屋造りで、総欅材。

大峯山を根本中堂とした修験道の10番目の行場として、行者の往来も盛んである。

伝承
磐余彦尊は山中に分け入り、高倉下は海縁に伊勢方面に向かい、共に大和を目指したものと思われる。山中を磐余彦尊は八咫烏の先導を受けて進み、玉置神社の聖地となるこの地で兵を休め戦勝を祈願したのであろう。 崇神天皇はこれを記念し、玉城火防鎮護と悪神退散のために、日本の最高神を集め、ここに祭祀したとされる。
伊弉册尊は花窟から勧請し早玉神とした。玉置の名の起源と社伝には説明されている。
石上神宮ではなく、この神社に物部の秘宝の十種神寶があったとする伝承があるそうである。

玉置神社には巻外古文書が残っているという。以下は概要。
http://kamnavi.jp/as/tamaki.htm
1、天安2年(858)天台宗智証大師が、始め那智の滝に篭り後当山にて修法加持し本地仏を祀った。これより以後玉置神社は神仏混淆となった。
1、平安時代、役の小角によって大峯山がひらかれ修験道の本拠となった。修験道は前人未踏の山岳をあらゆる艱苦欠乏に耐えて心身の修業をする事を要諦とするため大峯、釈迦、笠捨等と共に山伏姿の修験僧の往来が増えてきた。 結果、熊野三社権現の奥の院として日ましに繁栄を極めていった。
1、この間皇室の尊崇は極めて厚く、花山院、白河院、後白河院、後鳥羽院、後嵯峨院が参拝を行っている。
1、元禄 4年(1691年)修験道京都安井門跡派に所属。
1、亨保12年(1727年)修験道京都聖護院門跡派に所属。玉置三所権現の聖地として全国にわたり尊崇をあつめた。

玉置山と玉置神社

玉置山は神武天皇東征の途上と伝承されている。 天皇の熊野より大和に入られたコースは諸所に伝えられているが、十津川を経由したとすれば、玉置山に祭祀せられたことが想像せられる。 天皇が天神より十種神宝を授与せられたので、これをその地に祀り地を玉置の峯と名づけたことを伝えている。
[中略]
かかる伝承に因んだものか、玉置神社には神日本磐余彦が配祀されている。 しかしこれは何時頃から祀られたものであろうか。 『玉置山縁起』『玉置山権現縁起』には見えていないが、『玉置山三所権現両部習合之巻』には神武社が記されて金剛界の大日如来を本地としているから、神仏習合の時代には既に祀られていたものと見える。
[中略]

一般には玉置神社は古来十津川郷中の祖神を祀り、また十津川全郷の総鎮守となされ、玉置三所皇大神或は玉置三所大神と崇められている。 この三所は国常立尊・伊弉諾尊・伊弉冊尊の三柱で諸縁起の一致するところで、鎌倉時代末には既に称えられていたものであろう。 『玉置山縁起』には草創由来の中に三柱の神を述べ、右三社は一殿にこれを祀ると記してある。

往古の状を見るに『玉置山縁起』によれば本社の外に、三狐神社・玉石社・若宮・六所宮が祭られている。 三狐神社は倉稲魂神・天御柱神・国御柱神を祭り、ここに風の神を見るは注意すべく稲荷の俗信仰が篤くなると本社に次いで重んぜられた。 玉石社は地主神で大己貴命を祀るが、社殿の無いのが注目される。 白山社には菊理媛命を、若宮には大山祇命を、六所宮には子守・勝手・蔵王・伊勢・春日・住吉の諸神を祀つている。

三狐神社

古くは三狐神みけつかみと呼ばれ、熊野地方の稲荷信仰の要の神社として信仰を集めていたようです
祭神;倉稲魂神・天御柱神・国御柱神
商売繁盛、五穀豊穣、大漁・海上安全、悪魔退散、もののけ(獣付き)祓いに御神徳が有るそうです 近年まで、三柱神社の裏部屋で「もののけ祓い」のために籠り、もののけ退散や悪魔退散を祈願していました
「玉置山権現縁起」には、三狐神は「天狐・地狐・人狐」で熊野新宮の飛鳥(現在の阿須賀)を本拠とし、その本地は極秘の口伝だそうです
縁起には、玉置山に祀られていたとされる「天狐王」像の姿が書き記されているそうです
その姿は、正面は観音、右は天狐面、左は地狐面の三面六臂で、さらに足も六本あり、鳥足であるという異様なものだそうです商売繁盛・五穀豊穣・大漁・海上安全祈願に全国から多くの参拝客が来て賑わいます
玉置山の三柱神社 出雲大社教の社殿
三柱神社の背後に出雲大社教の社殿が建ち、その前を通ると山頂に向かう道があります
山頂に向かう途中に「玉石社」が有ります
所在地;吉野郡十津川村玉置川1(玉置神社境内)

玉石社

境内から山頂に向けて少し上るとある「玉石社」。玉置神社の末社の一つで、三本の大木に囲まれて、神体の丸い石がある。
神武天皇が神武東征のおりこの石の上に神宝を置いて勝利を祈ったと伝えられ、また、この社地は、昔、役の小角並びに空海が拝して、如意宝珠を埋めた所といわれ、丸い玉のような石が置かれてあるところから、玉置の名称が起こったとも伝えられる

山岳仏教、修験道の地

玉置山は山嶽仏教の霊場と讃えられ円珍(智証大師)が那智より来つてこの山を開いたと伝えられている。
[中略]
中古仏教弘まり、両部習合の教説により玉置山にも仏堂が建てられ、その主要なるは大日堂と不動堂とであった。 『玉置山縁起』には両部大日堂が見え、『玉置山権現縁起』には大日堂之事を詳記している。 即ち玉置の大日堂は役行者の草創にして胎金両部の大日如来像を安置し、一体は行者自作、一体は弘法大師の聖造としている。
[中略]
次に『玉置山縁起』によれば不動堂があつて伝教大師作という不動明王を安置し、ここに護摩が修せられた。
[中略]

玉置山は密教の霊場となつた関係からして、玉に因んで如意宝珠埋納の信仰がある。
[中略]
玉置山で如意宝珠を埋めた遺跡としては、玉石神社・大日堂等と説かれている。 玉石神社は前述の如く玉石を神体として社殿なく、地主神にして玉置山の奥院とも云われる霊地で、その名称から云つてもこの辺りが如意宝珠埋納の伝に最もふさわしい。
[中略]
大日堂は役行者が如意宝珠を安置するために奉造したものであるという。 且つ宝珠は大日如来の所変であり、役行者は釈迦如来の垂跡であると説いている。

本地垂迹

本地垂跡の理によつて玉置の両部大日は伊勢内宮・外宮の本地と説かれ、また玉置の諸神にも本地仏が定められ『輿地通志』には諸社と共に本地仏刹を記している。 『玉置山縁起』には本社・三狐神社・若宮・白山社について、明治維新の取調伺書には本社・若宮・六所社・三狐神社について、それぞれ本地仏を記している。
本社 国常立尊(将軍地蔵) 伊弉諾尊(毘沙門天) 伊弉冊尊(千手観音)
若宮社 天照大神(胎蔵界大日) 八幡大神(阿弥陀) 春日明神(文殊)
三狐社 稲倉魂神(十一面観音) 天御柱神(阿弥陀) 国御柱神(薬師)
[中略]
白山権現については『玉置山縁起』には聖観音と云つているが『玉置山権現縁起』には「伊弉諾・伊弉冊尊垂跡熊野同体也」と記し熊野との関連を思わしめ、三狐神については「三狐神本地之事有極秘口伝」と記してその霊験の特殊性を閃めかしている。

玉置山権現縁起

子守三所者 蔵王子守勝手也。
先ツ蔵王権現ハ金輪聖王七代孫子波羅奈国王也。 神ト成リ人ト成リ 衆生利益ノ為 王舎城之砌檀特山ノ脚ニ蔵王三所ト顕レ給フ。[中略] 三所者 過去ノ釈迦七百四十五年利生ヲ示シ 現在ノ千手一千年利生ヲ示シ給フ 当来ノ弥勒七百四十五年利生ヲ示シ給フ 垂跡ノ始ハ神武天皇五十八年戊午歳十二月夜半ナリ雅顕長者之謂ニ依ル。
[中略]
次ニ子守勝手者地蔵菩薩毘沙門天王垂跡也。 或云、子守ハ地蔵菩薩勝手ハ勢至菩薩云々 凡子守三所者法俗女ノ三躰也。 正躰女躰一切衆生ニ於テ悲母一子之慈悲ヲ垂ル 次ノ俗躰法躰 或ハ降伏諸魔之躰ヲ現シ 或ハ衆生ノ成仏之相ヲ示ス。 是則盧遮那仏之同躰済生利物之分身ナル者哉。 垂跡之因縁ヲ尋レバ今ハ昔土佐州ニ一人之女人有リ又伊予国ニ一人之男有リ 夫妻ト成リ年序ヲ経テ所生ノ男子四十八人有リ。 夫ノ男出雲国ニ行。 盛ナル子一人ヲ相具足ス。 日ヲ歴月ヲ経相待モ来ズ。 母ニ相随順スル子四十七人。 其三十九人ハ俗ト成ル。 残ル八人者童子也。 [中略] 母子共ニ相議リ云々 金峯山ト云所在 役行者ト申聖人坐ス 行テ利益ニ預ラント云 則彼所ニ趣ク [中略] 行者ナリト心得テ事ノ由来ヲ申ス。 行者答云我ハ今南山ヨリ葛木ニ行テ閼伽ヲ備フ可シ暫ク相待ツ可シト云々 仍石上ニ立テ相待之程ニ三年之星霜ヲ送後ニ行者来リ給フ。 汝等ノ志深シテ感嘆シ給フ 相具シテ金峯山ニ登リ太郎金精大明神ヲハ地主ト為トシテ修行門ニ留置ク 残四十六人ハ山上ニ登ル。 此山広シ。 修行者ヲシテ守護トテ令 八人之童子ヲハ峯中八所ニ之ヲ置ク。 残三十八人ハ一躰同心ニシテ天下ヲ守護ス可シト云々 母者大峯之中心玉置ト云所ニ居住ス可シ云々 爰ニ夫ノ勝手此由ヲ聞キ尋来レリ。
[中略]
子守ハ母 勝手ハ父 金精大明神ハ太郎 三十八所ハ数子 八大童子八人童形 若宮ハ父ニ相具スル子 以上父母并四十八人子也。
子守御前ハ女躰(持如意宝珠)仍額ニ三弁宝珠ヲ銘ス也。 勝手大明神ハ一鳥居発心門ニ住(左手腰ヲ押シ右手太刀ヲ抜而甲冑ヲ着) 金精大明神ハ(本地大日如来)二鳥居修行門ニ住ス。 (金峯山ノ地主金神ヲ司ドル也。俗形束帯ニ而帯ニ太刀ヲ給フ)
三十八所 衣冠俗形翁老躰女形
三十八所者日本国有勢上七社中七社下七社諸神并大和国所住大神合三十八所ノ神也。本地金剛界三十七尊胎蔵界大日合三十八躰也。
若宮 童子形本地文殊一鳥居ニ住ス。
八大金剛童子 [中略]
第一剣増童子 禅師宿(号持咒擁護閃光童子 阿閦仏垂跡[略])
第二後世童子 多和宿(号諸教行者守護童子 獅子音仏垂跡[略])
第三虚空童子 笙石宿(号無生遍照愛光童子 虚空住仏垂跡[略])
第四剣光童子 篠宿(号持戒護持眼光童子 帝相仏垂跡[略])
第五悪除童子 玉置宿(号障乱諸魔降伏童子 阿弥陀如来垂跡[略])
第六高精童子 神仙宿(号虚空遍普常光童子 栴檀香仏垂跡[略])
第七慈悲童子 水飲宿(号大乗常護普光童子 雲自在王仏垂跡[略])
第八除魔童子 吹越宿(号業障消除自在童子 釈迦如来垂跡[略])
白山権現(是伊弉諾伊弉冊尊垂跡熊野同躰ノ神也[略])
三狐神(所謂天狐地狐人狐也。於新宮者飛鳥ニ住。則漢司符将軍之妻室。三大明神之母也。権現之御氏人千与定子。嫡子雅顕長者。次男長寛長者ハ今飛鳥大行事ナリ其子地平符将軍。其子漢司符将軍。鎮西彦山ニ於テ上津河原大明神ト号ス 新宮ニ於テ牛鼻大明神ト号ス本地毘沙門 其子三大明神者榎本直俊本地不動、宇井基成本地大日、鈴木基行本地毘沙門天王也)
[中略]
天狐王之形躰本地大聖歓喜天吒天三面六臂六足 正面観音右面天狐面左面地狐面 第一左手持弓箭第二左手按腰右手持三鈷第三左手持髑髏指杖右手宝棒持向下 左足踏己男之胸挙二足屈右一足ハ地ヲ踏二足ハ挙之皆鳥之足ノ如シ

廃仏棄釈、社家による管理
http://kusaka-od.blogspot.jp/2012/08/blog-post_2645.html?m=1

十津川郷内には一宇の寺堂も復活することなく現在に至り、祖先祭・葬祭もすべて神職が行っている。それは近世において、郷民の祖神であった玉置山が門跡寺院の強大な権威に席巻され、自分たちの神を自らの手で祭ることさえ出来なかった記憶があまりにも大きな痛みとして生々しく郷民の中に疼いており、それへの嫌悪が消え去ることがなかったからに他ならない。

十津川郷のみに限らず、多くの地域で激しい廃仏毀釈運動が起こった背景には、近世初頭からの寺請制度の弊害というものがあった。庶民は宗門人別帳に登録され、檀那寺に生死を管理される。寺への奉仕やお布施が十分でないと檀那寺のほうから葬儀や法事の執行を遅延されあるいは停止され、挙句の果てには檀家から切り離す離り檀だんということをする。それは宗門人別帳からはずされて無宿者となり、社会で生きていけないということを意味する。

いきおい寺の横暴は目に余るものとなる。そうした寺の権力を傘にきた行為、僧侶の腐敗といったことも庶民の心を仏教から離反させた大きな要因であった。

神官が神葬祭をしたいと願い出ても檀那寺が承知せず、神職を務める社家は長く檀那寺に非常な圧迫を受け、彼らの不満は鬱積していた。こういう状況の中で明治の神仏分離令が出たわけで、特に神職のものがこれまでの反動で強硬な廃仏毀釈へ突き進んだのもいわば当然ことであった。

古来日本人の根底には、自然神を崇拝し、死者は祖霊となって子孫の繁栄を見守るという死生観があり、日本人固有の神祭り習俗があった。しかし仏教の伝来以降、仏教による儀礼が民衆の中に深く浸透し、神仏習合の中に埋没してしまい、神祭りも仏教一色となってしまったことも、人々の本来の姿への回帰を促したと考えられる。