武卵王、宮道氏、宮道天神社、宮道神社

日本書紀によれば、
日本武尊は、妃の吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ。吉備武彦の娘)との間に、二人の王子を生んだ。武卵王と十城別王である。

武卵王は、讃岐の国造になり、綾の大領の祖。

古事記には
また吉備臣建日子の妹、大吉備建比売を娶して生みましし御子、建貝児王とある。

武卵王(たけかいこのみこ、武殻王・建貝児王・讃留霊王)
– 讃岐綾君・宮道君の祖。
古事記では
– 讃岐綾君、伊勢之別、登袁別(とおのわけ)、麻佐首(まさのおびと)、宮道之別等の祖

十城別王(とおきわけのみこ)
– 伊予別君の祖。

この御子は、神功皇后の三韓征伐に遠征し、凱旋後に十城別王は平戸に残り、配下の武将の七郎氏広と共に朝鮮半島への警備に当たりこの地で没した。そして十城別王は平戸島南端の宮ノ浦・志々伎神社に、祀られている。

宮道氏と三河の宮道別
別の氏族ではなく、同族である。
三河の宮道氏は日本武尊系である。
穂国に、封地を得て移り住んだ日本武尊の軍事王族の宮道氏であろう。
宮道天神社が、武卵王を祀り、一族は穂県主の宮道氏となっている。

宮道別王(参河宝飫郡 宮道氏之祖也)は武卵王の子である
その子、宮道宿弥速麻呂(三河国宝飫郡縣主)が県主となっている。

御津町の歴史も古く、8代天皇の孝元天皇(西暦前200年)が当国の行幸の時に、御船を此の津に寄せられたことから、当地を御津湊とされたことが惣国風土記に記されています。その時、天皇は既に此の地にあらせられる神社に対し、御津神社の名を賜ったとされています。

孝元天皇の宮跡にあたる牟佐坐神社(奈良県橿原市見瀬町)の禰宜も宮道氏である。同族か?

別の称号
4世紀前後にヤマト皇族から分かれ、地方に領地を得た者のおよびその一族にワケが使われた。しかし5世紀前半允恭天皇の氏姓制度改革により臣連制が作り出されると、ワケはキミやオミのカバネに変更され、それ以来は使われなくなった。

ワケは初め皇族の子孫、とりわけ軍事的指導者(王族将軍)で、地方に領地を得た者の称号として用いられた。その中心時代は4世紀前半の垂仁天皇から景行天皇およびヤマトタケルが日本を支配した時期である。垂仁天皇の子孫7人、景行天皇およびヤマトタケルの子孫31人のワケを始祖とする氏族が存在した。景行紀に「70余子皆国郡に封ず。--王は、 悉く国々の国造、また和気及び稲置、県主に別け賜ひき」とあり、皇子の中には国造や県主と並んで地方領主となりワケのカバネを称した者もあるが、ほかの多くの皇子は国造などから領地の一部を得ただけで、その後家系が途絶えたてものと考えられる。

宮道天神社
豊川市赤坂町宮路1120番地
宮路山の麓の音羽町には日本武尊の東征のとき、その皇子の建貝児王(たてがいこのおおきみ:第3子)をこの地に封ぜられたといいます。
これが宮道別(みやじわけ)の祖であり、その子宮道宿禰速麿は「穂」の県主になり、その子孫が建貝児王を祭ったのが宮路山の山頂と麓にある宮道天神社の起源です。
宮路山の名が歴史に出てくるのは、大宝2年(702年)持統上皇が三河に巡行し、その最中に大宝律令が公布され、穂の国は三川(西三河)と統合され、三河の国となりました。
壬申の乱(672年)の時、持統上皇の子、草壁皇子が宮路山山頂近くで守備にあたり、皇子は宮道天神社の祭神となっています。

能褒野神社
県主神社の祭神は建見児王でした。建見児王は伊勢之別の祖。
御由緒
日本武尊能褒野で薨去される。景行天皇深くこれを嘆かれ、太子の礼を以て葬られた 。
中世以降戦乱が相ついで尊の御陵墓も荒廃して定かでなくなり、加佐登塚、吉備塚等 諸説が続出したが、明治12年、前方後円の古制により16のばい塚をもつ女ケ坂を 以て尊の御陵であると確認され、守部を常置して祭られることになった。
明治16年、神宮祭主久邇宮朝彦親王より、能褒野神社と社号の選定ありて、翌17年3月10日、御陵の傍に創立の許可あり、社殿境内の新設に着手した。明治28年 、その業ようやく終り、時の神宮祭主、賀陽宮邦憲王殿下より御霊代を納めまつらん との御沙汰を蒙り、伊藤宮司及び惣代2名が殿下に親謁し、御手づから御神体を頂いて帰り、御鎮座祭を行った。
明治38年、日露の役終わり、陛下神宮へ御親拝の日、勅使を御墓へ差遣され、同勅使は神社へも参拝、玉串を奉納された。また、能褒野神社創立に関する詳細を陛下に復奏するとの御言葉が、神職伊藤忠孝にあった。
明治41年、弟橘姫命(元小天宮祭神)建見児王(県主神社祭神)を配祀し、式内社那久志里神社、同志婆加支神社、村社八島神社、田守神社外、四十余社を合祀して村社となった。
大正13年、能褒野保勝会組織、同14年6月県社に昇格し、10月祝祭を行った。こ の時秩父宮、高松宮、伏見宮、閑院宮、朝香宮、東久邇宮、北白河宮、竹田宮等、各宮家より「御鏡餅料」を給い、知事以下200余名の参列を得て、厳粛な祭儀が行われ た。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

山科神社 山科一宮
山科区西野山岩ヶ谷町
 
 社伝によれば、寛平9年(897)、宇多天皇の勅命によって創祀されたと伝えています。たびたびの兵火によって旧記を失い、由緒沿革については明らかではありません。当地の豪族宮道氏の祖神であり、山科一宮、総氏神として崇敬されました。
 祭神は日本武尊とその御子稚武王(わかたけのみこと)で、旧西野山村の産土神であります。昔は社領も山城・丹波にあり、社殿の規模も大きく名神大社に相応しいものでありましたが、その後衰微して現在に至っています。
 むかしは山科一の宮といわれ、また西岩屋大明神とも呼ばれていましたが、明治維新後、現在の社名に改めました。延喜式内の山科神社にあてる説がありますが、未だ公認されていません。

宮道神社

京都市山科区勧修寺仁王堂町(勧修寺の南隣)
稚武王。 ヤマトタケとフタヂイリ姫の第4子
由緒碑
当社は、宇治郡を本拠とした氏族宮道氏の祖神日本武尊、その子稚武王を祭神として、寛平十年(八九八年)に創祀された。宮道大明神・二所大明神とも称されている。
平安時代初期、宇治郡司宮道弥益は、醍醐天皇の生母藤原胤子の祖父で、その邸を寺としたのが勧修寺であると伝える。
後世、宮道弥益・列子をはじめ、藤原高藤(胤子父)・定方・胤子等勧修寺ゆかりの人々を合祀、近辺にその遺跡も有り、醍醐天皇をめぐる人々の華やかな物語や、古代山科発展の歴史を今に伝える古社である。
高藤の後裔は、勧修寺流藤原氏として朝廷で枢要な地位を占め、また宮道氏は、武家・寺家蜷川氏としてともに繁栄、活躍した。
本殿は明治二十三年に再建されたものであるが、この度、この由緒ある神社が後世永く栄えん事を願い、本殿覆屋・拝殿の修復と境内の整備を行ったものである。 (平成十二年五月吉日 宮道神社崇敬会)

合祀されている平安前期の公家、藤原高藤(ふじわらのたかふじ)や宮道列子(みやじのたまこ)は今昔物語の「たまのこし」物語の主役に登場します。この由縁から宮道神社は縁結びの御利益がいただけるようです。
(注:藤原高藤(承和5年(838)~昌泰3年(900))、宮道列子(生年不詳~延喜7年(907))
宮道神社境内の三條右大臣と勧修寺住職の歌碑
宮道列子没後1100年と、紫式部の母方の祖母が宮道氏の出身であることから、源氏物語千年紀を記念して宮道神社崇敬会が平成19年10月に建立したもの。

藤原定方
 藤原定方は、平安時代前期の公家で藤原冬嗣の孫の藤原高藤と山科・宇治方面を支配していた豪族宮道弥益の娘である宮道列子との間に生まれた二男です。
やがて藤原定方の妹の胤子が宇多天皇の女御となり後の醍醐天皇を生む。

今で言う「玉の輿」のおかげで、宮道家は皇室や藤原氏の庇護のもと栄え、藤原胤子亡き後は、醍醐天皇は母の胤子の遺志により昌泰3年(900)、生家の宮道邸を建て替え伽藍を創建して勧修寺とした、と伝えられています。

 藤原定方は醍醐天皇の叔父(醍醐天皇の生母である藤原胤子の兄弟)という関係にあり、邸宅が三条坊門小路の北面にあったため、三条右大臣と呼ばれ、さらに歌人としても知られています。また、勧修寺を建立したことから、子孫は「勧修寺流」と呼ばれています。
祖父の宮道弥益と両親、兄弟たちとともに宮道神社に祀られています。

なお、紫式部とその夫・藤原宣孝はともに藤原定方の曾孫にあたり、紫式部が仕えた一条天皇中宮彰子も定方の子孫だそうです。

土佐の宮地氏
土佐国宮地氏の祖は宮道氏にして大和武尊の御子宮道別王より出で、参河国寶飫郡宮道郷より土佐に遷れるが如しとの記あり。

土佐の宮地氏

宮地系図の鈔録
潮江東の宮地家系図による、此系図にて櫻馬場の宮地(故掌典宮地嚴夫)家、種崎浦の宮地(故宮地直親)家、比島神明宮の宮地(鹿持門宮地益躬、十市琴平宮の宮地益井)家、潮江の東宮地家(明治神宮神官の宮地美数)家、潮江の西宮地家、潮江前川の宮地家、潮江出身の宮地茂秋家、春林舘の医師宮地(故重幸)家、大高坂宮地家、神原村の宮地家、大津村の宮地家等の本枝を左に鈔録す) 家紋は山形に三ツ引、又、八ツ山形に三ツ引などと伝ふるも、元来宮道氏…(藤原姓)なり。家伝に其先は京師に出づ、山科二社の後裔と云ふ。

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讃岐の武卵王

大和武尊の子武殻王(タケカイコオウ)は、讃王さんあるいは讃留霊王呼ばれ、悪魚退治の後、讃岐に留まり讃岐綾君の祖となったとされ城山神社に祀られている讃岐国造の始祖「神櫛別命」の甥ということになる

記紀の景行天皇51年の条に、『妃吉備武彦之女吉備穴戸媛生武皷王与十別城王其兄卵王是讃岐綾君の始祖也』と書かれています。本居宣長はこの武鼓王を殻の誤写として、古事記伝にその伝説をしるしています。また殻も卵も「カイコ」とよみ、この武鼓王(武殻王、建貝児王など)は香川県讃岐地方に讃留霊王伝説として数々の古文書に記されています。

 武殻王は、鵜足郡井上郷玉井村(現在の綾歌郡飯山町下法軍寺)の讃留霊王神社に讃留王大明神として祀られており、神社の裏手にある前方後円墳は武殻王を葬ったものと云われている。
そのすぐ近くには、法勲寺と呼ばれた白鳳寺院の廃寺跡もある。
 
結局、この伝説は、讃岐国阿野郡の大領「綾(あや)氏」の祖先伝説であり、神社や古墳はその祖先を祀ったものであり、白鳳寺院はその氏寺である。

讃岐の綾君
延喜式によると、主計の調の項目で、讃岐国は遠江、伊勢に次いで第3位の絹織物を中央に収めている。綾氏は綾織物で知られている。
むかし、綾郡があった。

讃留霊王神社
御祭神:建貝児王(たけかいこおう)
所在地:香川県綾歌郡飯山町下法軍寺

讃王神社
楠見池の北東、授産施設ふじみ園の東側にある。
主祭神 讃留霊王神社と同じ

垂水神社

景行天皇57年6月20日 武貝兒王の創立する。太留水社、また、垂水社と言われ、五社大明神と奉称されました。
景行天皇23年、武貝兒王国造となり、大魚を退治して那珂(郡家町)に政を行う。旱害に心を砕いていたところ、垂水村に大きい松林があり、中に3本の大木・枝葉茂っており、枝々の葉より水を滴らしているのをご覧になりました。
「ここに闇罔象闇尾神を坐しまさむ」と社を建て、三女神及び闇罔象闇神(罔象女神・みつはのめのかみ)を合せ祭り、たる水の社と名づけ祈られました。
これより五風十雨豊年打続け、その後代々の帝は旱の年に、大和山城津の国の水徳の神を祈雨の社としましたが、讃岐たる水の社の水徳をお聞きになられましたが、海を隔ているので、津の国須磨の西まで勅使をたてられ、そこより遙に、たる水の社を祈りました。
その後、その所へ社を建て摂津国多留水村垂水神社とて八十五座のうちとなられました。稱徳天皇の御代、郡村の名を二字と定められ、垂水村と名づけられた。

讃留霊王の悪魚退治伝説
『綾南町誌』

昔、むかし、讃岐の国が大変乱れていたとき、瀬戸内海に大きな悪魚が出て、人々を苦しめていた。
時の十二代景行天皇は、武殻(たけかいこ)王に命じて、悪魚を征伐させた(悪魚は海賊だろうといわれている)。武殻王とは、景行天皇の皇子で、九州の熊襲を征伐した日本武尊の王子である。
おん年一五歳であった武殻王は、大変苦心して悪魚を征伐した。その功績によって讃岐の国を治めることになり、城山(きやま)あたりに居を構えた。下屋敷が北原(今の猿王)あたりにあったといわれている。
讃岐にとどまる武殻王を、人々は讃留霊王(さるれおう)と申しあげ尊敬してきた。九五年ごろの話である。
北条池のほとり、清浄な地にある塚を昔からサルオウサンと呼んでおり、讃留霊王の墓であるとされている。この塚のそばの地面を踏むと、トントンと音がするともいわれている。塚の下に石室があるのだろうと考えられる。
塚の東の方には多数の陪塚があったという。明治初年、各種の玉類、埴輪、人形等が多数出土している。
讃留霊王は一二五歳まで生きていたとか。讃留霊王の子孫が陶に分封されて、もっぱら土地の開発、池塘(ちとう)の築造など、農業の振興に力をいれた。

牟佐坐神社
祭神 高皇産霊命,孝元天皇
由緒沿革 日本書紀天武天皇紀は安康天皇の御代 牟佐村(現見瀬町)村主 青の経営であった。
当時の祭神は生雷神(即ち雷公)であり 江戸初期まで榊原(境原)天神と称されていた。 享保の頃に菅原道真公を祭神としたが明治に至り 古道再び明らかにと天津神である高皇産霊命を 奉祀して今日に至る。
境内は孝元天皇の即位された宮地と伝えられている。孝元天王軽境原宮跡

室町初期の文安三年(1446)、当社禰宣の宮道君述が『五郡神社記』を現しており、これによれば、当社の創始は安康天皇の頃で、牟佐村主青の経営する所で、祭神は生雷神(雷公)としている。

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