柿本人麻呂

柿本人麻呂は、持統朝(在位:686年 – 697年)と文武朝(在位:697年 – 707年)の宮廷で活躍した。
万葉集第一の歌人である。
 制作年代が明らかな人麻呂の最初の歌は、680年 (天武9)の人麻呂歌集(ひとまろかしゅう)七夕歌の中の一首だといわれている。この前の672年 (天武元)には、大海人皇子と大友皇子が争い、壬申の乱が勃発しています。
 人麻呂が宮廷歌人として登場するのは次の持統天皇の代(在位:686年 – 697年)からです。
万葉集に、人麻呂が詠んだ長歌19首・短歌75首が掲載されている。

讃岐で歌った歌を紹介する。

万葉集巻一に、舒明 (じょめい) 天皇(在位629~641)が伊予の湯宮(道後温泉)へ海路で行幸した帰りに讃岐の安益(あや)郡(綾歌郡)に立ち寄ったとき、軍王(いくさのおおきみ)が山を見て作ったという歌が載っています。

讃岐国安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)せる時、軍王(いくさのおほきみ)の山を見てよみたまへる歌

「霞立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける 別(わ)きも知らず むらきもの 心を痛み 鵺子鳥(ぬえことり) うら泣き居(を)れば 玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大王の 行幸(いでまし)の 山越しの風の 独り居(を)る 吾(あ)が衣手(ころもて)に 朝宵に 還らひぬれば 大夫(ますらを)と 思へる我(あれ)も 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 綱の浦の 海人処女(あまをとめ)らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 吾(あ)が下情(したごころ)」
(5番・軍王(こにきしのおほきみ)の歌)

霞の立つ長い春の日が暮れたのも知らぬほど 心は痛み
トラツグミの泣くように 偲び泣き
われらがオオキミが お出でになる
香川の綾歌から吹いてくる 山越しの風は
一人でいるわが衣の袖に 朝夕吹き還ってくるので
ますらおだと思っている われも
旅にあれば 思いを晴らすすべもなく
綱の浦のアマの娘達が 焼く塩のように
想い焦がれている わが心の内は
         
反し歌
「山越しの 風を時じみ 寝(ぬ)る夜おちず 家なる妹を 懸(か)けて偲(しぬ)ひつ」
(6番・軍王(こにきしのおほきみ)の歌)

絶え間なく 山越しの風が吹くので
夜ごと 寝もやらで
クニの妻が 思い出されて
心にかけて偲んでいる
吹く風が 故郷を偲ばせる

 この歌は「網の浦」に船を寄せたとき長旅のわびしさに妻への思慕を詠ったものですが、「網の浦」は今の宇多津の津の郷の辺り、「山越(やまごし)の風」とある山は津の山、を指したものではないかという説もあります。

 もう一つの歌です。

「中之水門(なかのみなと)」より舟で狭岑(さみ)島に来て、岩の中に横たわる行き倒れの死人を見て詠った次の長歌1首と短歌2首

  玉藻(たまも)よし 讃岐の国は 国柄か 見れども  飽かぬ 神柄(かみがら)か ここだ貴(とうと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)とともに 満(た)り行かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来たる 中之水門(なかのみなと)ゆ 船浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏(かしこ)み 行く船の 梶引き折りて 彼此(おちこち)の 島は多  けど 名ぐはし 狭岑(さねみ)の島の 荒磯面(ありそも)に 廬(いほ)りて見れば 波の音(と)の 繁き浜辺を 敷栲(しきたえ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に より臥(ふ)す君が  家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉鉾(たまほこ)の 道だに知らず おぼほしく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは

  反歌二首  
妻もあらば 摘(つ)みて食(た)げまし 沙弥(さみ)の山 野の上(へ)の宇波疑(うはぎ) 過ぎにけらずや

沖つ波 来よする荒磯(あらいそ)を しきたへの 枕とまきて 寝(な)せる 君かも

 歌の中に出てくる「中之水門(なかのみなと)」とは「那珂の港」をいうとの説もあり、今の丸亀市中津の金蔵川河口付近ではないかと考えられています。また「狭岑島」とは今の沙弥島と考えられています。

継体が即位した楠葉宮(くずはのみや)は現大阪の枚方(ひらかた)で、百済人の本拠地であるだけでなく、百済の21代蓋鹵(ガイロ)王の弟に当たる昆支 (コンキ)がほとんど同じ時期に滞留していた所です。『日本書紀』では百済王子昆支(コンキ)は、軍君(こにきし)とも表記しています。”軍”はクンで 「大きい」を意味します。”軍君”は大きい君であり、”大君”なのです。継体の倭名、男大迹(オオト)は”おおしと”の省略語で、漢字では「大人」です。 つまり、昆支(コンキ)と継体は同一人物だったのです。
『日本書紀』で継体は、58歳(507年)のとき、豪族大伴金村から神宝である鏡と剣を受け取り、まるで全王朝から降参を受けたような形式で即位します。
継体は、おそらく形式的な即位以前から実質的な倭王としての行動をとっていたようです。王都に入れなかったにもかかわらず、王位に就くやいなや親百済政策 をとります。『日本書紀』によれば、倭の領土任那の地、己紋(こもん)・滞沙(たさ)地域を百済国に譲渡しました(継体7年冬11月5日)。これに先立ち 雄略が、高句麗により漢城百済が陥落すると、さも自分の領土であるかのように熊津を百済・文周王に賜ったというのと同じ行為です。これは雄略・継体両天皇 は、熊津とその一帯の領土を、まるで倭国のものであるとみなしているのです