月神、月読神

壱岐の月読神


月読神社
 御祭神 中 月夜見尊 左 月弓尊 右 月読尊
 御鎮座地 壱岐郡那賀国分東触
 境内地 六百四十九坪
 御神徳 諸行繁盛 すべての願い事がかなう
 鎮座年数 西暦四八七年月読神社に天月神命を祭り
高御祖神社には天月神命の祖高産霊尊を祭るとあり
 御鎮座の由来 延喜式に壱岐郡 月読神社「名神大」とあり
 月読尊の御事については、古事記の上巻に、伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の御親神が、天照大御神をお生みになられ、次に月読尊をお 生みになられたと表されてあります。
また、日本書紀には、「すでに大八州国(日本)及び山川草木を生む ことが出来た、何ぞ天下(あめのした)の主君(きみたるもの)を生ま ざらむ」といわれて、是に天照大御神をお生みになられ、次に月読尊を お生みになられたと記されたあり。
また一書には日に並ぶともあります。即ち天照大御神及び月弓尊を並 に是、質性明麗し。故、天地に照し臨ましむ。
天照大御神のご神徳は「その光華明彩(ひかりうるわしいこと)六合 に照り徹るほどでございます」と太陽にたとえて表されておりますので、 月読尊の御威徳は、それに次ぐものとして、月になぞらえておたたえし たものと拝されます。
太陽、月、大地、自然と共に神は存在されておられると言う事 (アニミズム)を壱岐の祖先は熟知され月が万物(すべて)に利益を与 えるごとく邪心(よこしまなこころ)が無く玄徳(最も奥深い徳)を極 められていたようです。
壱岐の県主の先祖「忍見宿祢(おしみのすくね)」が西暦四八七年 月読神社を分霊して壱岐から京都に祭りに行かれた。
忍見宿祢により、神道が中央に根ずく事になったとされております。 つまり、壱岐島が神道の発祥の地といわれております。
京都、洛西、松尾大社の横の月読神社はあり。伊勢神宮の内宮に月読宮、 また外宮に月夜見神社があります。壱岐島の月読神社が全国の月読社の 「元宮」とされております。

-境内入口案内より-


『神社明細帖』に「月読神社、但式内無氏子。勧請年月不詳。社地一反八畝十四歩半」、 『壱岐国神社田畑帳』に「月読神社、廿四座之内、畑方三舛蒔村中より小祭り有り」と記されている。
延喜式巻十に「月読神社名神大」とあり、また『三代実録』二巻にも貞観元年(八五九)正月二十七日「壱岐島従 五位下海神、住吉神、兵主神、月読神、並従五位上」とあり、月読神社が従五位上に叙せられているのを見るこ とが出来る。『神社帳』も「当社ハ嵯峨天皇之草創而所載延喜式に壱岐国二十四座之内壱岐郡国分村月読神社名神大」 としている。
しかしながら、『特撰神名牒』は「今按延宝の調また明細帳、長崎県式内社記ともに国分村にありとす、神社 考に国分邑深渕の岸の上山端に山の神と称するあり、この深渕を訛りてふかつきと云り、其渕今埋りて猶水の溜 れる渕の跡あり、きよつきとも云ふ。延宝の時きよつきの名に因て月讀神社と定む、然れとも延宝以前社なか りしほどなれば式社にはあるべからずと見え、式社沿革考に式社累考に箱崎邑と記せしや正しからむ其は内殿の 棟札に『箱崎八幡宮壱岐国壱岐郡月読宮釣瓶荘潮安郷奉造内殿一宇大宰大弐兼筑後守藤原景資』右の傍に『正慶元年』左の傍に『壬申 八月五日』大宮司云云伊岐末茂云云とある文による時は月読神社は箱崎村宗社八幡宮と御同殿にます神ならん、 箱崎邑釘丘郷天月の里に天月神社あり是其古社なるべしと云る證ありて聞ゆれば箱崎邑と定めて可ならん」と記している。

-『芦辺町町史』-